太平記 現代語訳 34-7 興良親王、吉野朝廷において反乱を起こす

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)には、一人のホープ(期待される人)が存在した。それは、故・護良親王(もりよししんのう)の遺児・将軍の宮・興良親王(おきよししんのう)である。

親王の母は、北畠親房(きたばたけちかふさ)の妹である。

吉野朝閣僚A なんせ、あの宮さまは、ご幼少の頃からほんまに、文武両道に秀でておられましたわなぁ。

吉野朝閣僚B まさに、お父様譲りですわ。

吉野朝閣僚C まぁ、見てなはれ、興良親王殿下は必ずや、わが朝廷の勢力挽回に、大きな力を発揮されまっせ。

吉野朝閣僚D 再び、日本全土は、わが朝廷のもとに統一・・・。

吉野朝閣僚E そないなったら、先帝陛下(注1)も、どれほどお喜びになられることでしょう。

吉野朝閣僚A 先帝陛下のご遺志、なんとしてでも、実現せんとなぁ!

吉野朝閣僚B それを実現できるだけのご器量、殿下、お持ちでっせぇ。

このような期待の下に、後村上天皇(ごむらかみてんのう)即位の後、直ちに天皇からの宣下(せんげ)があり、この皇子に征夷大将軍の位が授けられたのであった。

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(訳者注1)後醍醐先帝。「後醍醐先帝の遺志」については、21-4 参照。
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去る吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)、赤松則祐(あかまつのりすけ)が、吉野朝側に寝返ってきた(単なる策謀に過ぎなかったが)。その時、吉野朝廷は、興良親王を大将として、則祐の上につけた。

しかし、則祐は、たちまち心変りして、再び足利幕府側についてしまった。

その結果、親王は、心ならずも京都へ送られ、囚人扱いのような処遇を受ける事になった。

ところがその後、但馬(たじま:兵庫県北部)国の吉野朝側勢力の者らが、興良親王を救出し、高山寺(こうさんじ:兵庫県・丹波市)に入れて守った。

本庄平太(ほんじょうへいた)と本庄平三(へいぞう)は、親王を頭と仰いで挙兵し、但馬・丹波(たんば:兵庫県北東部+京都府中部)の両国を制圧、一帯の勢力を、残らず支配下に置く事に成功した。

興良親王 さぁ、次は、播磨(はりま:兵庫県西南部)やなぁ!

興良親王は、直ちに軍勢を率いて山陽道(さんようどう)へ進み、赤松則祐の軍勢3,000余騎と、甲山(かぶとやま:兵庫県・西宮市)山麓で衝突した。

まさに戦たけなわ、という時に、親王が一騎当千と頼りにしていた本庄兄弟が、共に数箇所の傷を追い、二人同時に討たれてしまった。

興良親王側は、たちまち総崩れになってしまい、親王は、かろうじて河内(かわち:大阪府南東部)へ逃れた。

その後も、方々の吉野朝側勢力から、「興良親王様を、大将に仰ぎたてまつりたいので、こちらへ派遣してください」との要望が、多く寄せられたのだが、「陛下のおわす本拠地において、万一の事があった際には、この親王殿下に全軍を統括してもらわんと」ということで、どこへ派遣される事も無かった。その武略の才を高く評価され、吉野の奥に、大事にとっておかれたのである。

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吉野朝廷の閣議において、興良親王は、主張した。

興良親王 皆も承知のように、こないだの紀伊国(きいこく:和歌山県)での戦は、惨敗に終わってしもぉた。大将の四条隆俊(しじょうたかとし)は、かろうじて、阿瀬川(あぜがわ:和歌山県・有田郡・有田川町)に逃れた。

吉野朝閣僚一同 ・・・。

興良親王 和田正武(わだまさたけ)と楠正儀(くすのきまさのり)も、津々山(つづやま:大阪府。富田林市)に布陣の敵軍に攻めたてられて、消耗が相当激しぃなってきとる。

吉野朝閣僚一同 ・・・。

興良親王 今のうちに手ぇ打っとかんと、もう後が無い! 陛下、私に、それ相応の兵力を下さい、自ら前線に出向いて、戦いますから。

吉野朝閣僚一同 ウーン・・・。

後村上天皇 ウーン・・・。

興良親王 今のうちに、なんとかせんと!

親王の度重なる主張に、天皇も閣僚も心動かされ、ついに、親王は前線に送り出される事となった。

朝廷は、赤松氏範(あかまつうじのり)(3、4年前に、兄弟仲たがいの為、吉野朝側へ寝返ってきていた)に吉野18郷の武士たちを添え、彼らを、親王の配下に設定した。

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人間の心というものは、まったくもって、はかり知れないものである。

いったい、いかなる心理状態でもって、このような事になったのか、軍勢を手中に収めた親王は、とんでもない事を考えはじめた。

興良親王 (内心)・・・今上天皇(きんじょうてんのう)を亡き者にする・・・そないしたら、足利幕府にとっては、まことに大なる功績や・・・吉野18郷一帯の領主権くらいは、恩賞にくれるやろ、きっとな。

親王は、密使を足利義詮(しかがよしあきら)のもとに送り、様々にしめしあわせた後、4月25日、ついに蜂起した。

配下の軍勢200余騎と野伏(のぶせり)3,000人を率いて、賀名生(あのお:奈良県・五條市)の奥の銀峯山(かねがたけ:奈良県・五條市)という山に登り、叛旗を翻した。そして、先の皇居であった賀名生の黒木の御所(くろきのごしょ:注2)をはじめ、周辺の山中に隠れ住む諸卿の宿所を、残らず焼き払ってしまった。

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(訳者注2)26-5 参照。
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しばらくは、事の真相を知る人は少なかったから

吉野朝メンバーF 興良親王殿下、いったい、どないしはったん?

吉野朝メンバーG 黒木の御所を焼いてしまわはったとかいうん、あれ、ほんまかぁ?

吉野朝メンバーH いったい、なに考えてはんのやろ。

吉野朝メンバーI いやいや、あれはきっとな、殿下のご作戦やて。

吉野朝メンバーJ 我が方の本拠地を焼いて、敵をだまくらかそうっちゅう事なんやろう、中国元(げん)王朝の伯顔(はくがん)将軍のようにな。

吉野朝メンバーK あるいは、もしかしたら、楚(そ)の項羽(こうう)の事跡にならわれたんかもなぁ。自ら陣屋を焼いて、再びこの陣へは戻って来んと誓った、あれやで、あれ。

みんな様々に推量をめぐらしてはみるものの、興良親王が敵側に回ってしまったとは、誰一人として知るよしもない。

しかし、吉野朝廷から派遣された担当者の精力的な調査の結果、ついに真相が明らかになった。

閣僚メンバーC えらいこってすわ! 興良親王、敵に内通しはりましたで! 銀峯山に上って気勢を上げとられます。はよ、なんとかせんと!

閣僚メンバーD なにーぃ!

閣僚メンバーA 信じられへん・・・あの宮様が・・・。

閣僚メンバー一同 なんでやねん!

翌日さっそく、二条師基(にじょうもろもと)を大将に、和泉(いずみ:大阪府南部)、大和(やまと:奈良県)、宇陀郡(うだぐん:奈良県)、宇智郡(うちぐん:奈良県)の勢力1,000余騎をさしむけた。

二条軍の到来を見た、吉野18郷の武士らは、

吉野18郷の武士たち一同 (内心)謀反起こしよった親王の下なんかに、ついてられっかいやぁ!

彼らは、陣営から四散逃亡(しさんとうぼう)、かくして、興良親王の手持ち兵力は、わずか50騎だけになってしまった。

赤松氏範 (内心)オチメになってしもうた殿下を、見捨てて逃げたりしたら、武士の道に反するわなぁ・・・しゃぁない、ここは討死にするしかない!

意を決した赤松主従26騎は、四方に馳せ向かい、火花を散らして戦い続ける。

二条軍側も、そうそう簡単には親王に近づけない。

3日3晩戦い続けた末に、赤松氏範は、数箇所の負傷を負ってしまい、

赤松氏範 もうあかん、ギブアップやぁ!

かくして、興良親王は、奈良(なら:奈良県・奈良市)方面へ落ち、赤松氏範は播磨へ逃亡、兄の赤松則祐に降伏して、命をつないだ。

それにしても、まったく不可思議としかいいようのない、思いもかけない興良親王の謀反であった。

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故・足利尊氏(あしかがたかうじ)卿が朝廷に叛旗を翻し、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)が吉野において崩御(ほうぎょ)されてより今日に至るまで、天下大いに乱れること、既に27年。

今や、公家に仕えている人たちは、ことごとく生活に困窮し、道路に袖を広げる物乞いになりはててしまっている。

一方、足利幕府に奉公する族(やから)は皆、国郡(こくぐん)に肘(ひじ)を張って、ハブリをきかせている。

このような「武高公低」の社会構造が形成されてきた、その流れの発端は、いったい何であったのか? 端的に言ってしまえば、それは、「尊氏卿が、故・護良親王を殺し奉った」事にある。(注3)

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(訳者注3)原文には、次のように記述してある。

 「抑(そもそも)故尊氏卿朝敵と成て、先帝外都にて崩御なり、天下大に乱て今に廿七年、公家被官人悉(ことごとく)道路に袖をひろげ、武家奉公の族(やから)は、皆国郡に臂(ひじ)を張る事は何故ぞや。只尊氏卿、故兵部卿親王を殺し奉し故也。」

太平記のこの箇所の記述は、これまでの記述と、以下の点で矛盾している。

(1)13-5 での太平記の記述は、「足利直義が護良親王殺害を命じた」というストーリーだけが記述されていて、それへの尊氏の関与については、何のコメントもない。

(2)14-2 での太平記の記述は、「足利尊氏は、「護良親王殺害に関して、自分には責任はない」との主張を行い」というストーリーになっている。
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興良親王はこの護良親王の遺児なのであるからして、もしも天がそれを許したならば必ずや、日本全国66か国ことごとく、「このお方こそまさしく、天下の征夷大将軍」として、親王に帰服したことであろう。

そうなっておれば、故・後醍醐先帝も、草葉の陰でどんなにお喜びになられたことであろうか。その忠孝のお志に対しては、天神地祇(てんじんぢぎ)も必ずや、感応(かんのう)のおんまなざしを添えられたに違いない。

かくして、子々孫々に至るまで繁盛(はんじょう)し、天下の武将としての務めを、立派に果たされる事になっていたたであろうに・・・。

このような、無思慮なる謀反を起こして、先帝陛下や皇族方の御遺骸の上に、血をそそぎかけるような結果となってしまった。

亡父・護良親王殿下もいかほど、落胆しておられることであろうか、その草葉の陰はきっと、涙の露に濡れしきっている事であろう。

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ここで、古代中国のある逸話を、一つ紹介しておきたい。

時は後漢(こうかん)王朝時代、一人の貧しい人がいた。

通りいっぺんの「貧しい」などというものではない・・・朝ご飯を作る煙も完全に絶えてしまい、柴の庵(いおり)をしばし訪ねてくる者も一人としていない。ただただ絶え忍びながら、生と死との境目の上に、かろうじて我が身をつないでいた。

男 いかん・・・もう、いかん・・・ここにいたのでは、生計の道が立たぬわい・・・このままでは、餓死するしかない・・・。

いたしかたなく、彼は、曹娥(そうが)という一人娘を伴って、他の地へ落ちていった。

洪河(こうが)という名の川を渡ろうとしたが、あいにく、水かさが増し、橋も無く、舟も無い。

男 あぁ・・・目指す目的の地は、遥かかなたじゃ。泊まれるような里からも、遥か遠くまできてしもぉた。あぁ、いかにせん・・いかにせん。

男 かというて・・・いつまでもここに止まっておっても、せんなきこと・・・。

男 よし、わが娘を背負い、歩いて川を渡るべし!

まずは、川の深い場所と浅い箇所を調べてみようと思い、曹娥を岸の上に残し、彼は、一人で川に入っていった。

おそるおそる、彼は、浅瀬に歩を進めていく・・・と、その時、

男 あぁーっ! うあぁーーー!

彼の眼前に突如、水中から巨大な毒蛇が浮上した。

男 あーっ! あーっ!

曹娥 お父さま! お父さま!

巨大毒蛇 バクン!

毒蛇は男をくわえたまま、深淵の底へ潜ってしまった。

これを見て曹娥は、

曹娥 (手を上げ、地に倒れ)あぁ、お父さま、お父さま!

曹娥 (手を上げ、地に倒れ)どうしよう、どうしよう・・・誰か、誰か、助けて! 助けてぇ!(涙)

しかし、彼女を助けてくれる人は、一人もいなかった。

曹娥 もしかしたら、川下の方に、浮き上がっておられるやも・・・とにかく、探して見よう!

彼女は、水際に添って川下へ歩いてみた。しかし、どこにも、父が浮き上がっている気配は見えない。

曹娥 もしかして、岩の間に、流れかかっておられるかも・・・。

岸に上がって川を見渡してみたが、散り浮かぶ木の葉の他には、岩にせきとめられている物は、何も無かった。

それから一日が経過、また一日が経過・・・

日を暮し、夜を明かし、父と離別してたった一人で、空しく元の地へ帰っていく気にもなれない。

7日7夜、彼女は、川の上にひれ伏し、天に叫び、地に慟哭(どうこく)した。

曹娥 天の神よ、地の神よ、願わくば、願わくば、わが父をさらいし、にっくきあの毒蛇めを、罰したまわんことを。

曹娥 天の神よ、地の神よ、願わくば、願わくば、たとえ命空しき姿なりとも、わが父を今一度、我に見せしめたまえ。

曹娥 梵天(ぼんてん)よ、帝釈天(たいしゃくてん)よ、堅牢地神(けんろうじじん)よ、願わくば、願わくば!

肝胆(かんたん)を砕いて、彼女は祈り続けた。

曹娥 (内心)この願いが叶わぬのであれば、父上と共に、川底へ身を沈めるまで!

彼女の祈りはみごと、蒼天(そうてん)にまで届いた。

洪河の水が突如、鮮血に染まり、波の上に、異様な物体が浮揚した。

それは、かの巨大毒蛇の死体であった。河の神に罰せられたのであろうか、その死体はズタズタに切り裂かれており、その中に、父の遺骸があった。

曹娥は、父のお骨を拾い、泣く泣く、故郷へ帰っていった。

彼の地の人々は、この父と娘を憐れみ、そこに塚を築いて、記念の石碑を建てた。それは今も残っていて、その石碑に刻まれた碑文を読んだ旅人は感涙にくれ、詩人は感動のあまり、詩を詠んだのである。まことに哀れな、親孝行の物語ではないか。

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さらにもう一つ、逸話を。

発鳩山(はっきゅうさん:山西省)に、精衛(せいえい)という人がいた。

ある時、精衛は他国へ旅に出たが、その帰途、海上で暴風に遭遇して船は転覆、海中に沈んで死んでしまった。

故郷には、幼い息子が一人、父の帰りを待っていた。

父が海に沈んでしまった事を聞き、その子は海岸に行って、夜となく昼となく、泣き悲しんでいたが、なおも父を慕う思いに耐えかねて、ついに蒼海(そうかい)の底に身を投げて死んでしまった。

その子の魂魄(こんぱく)は、なおもそこに留まり、ついに一羽の鳥と化した。

その鳥は、波の上を飛び渡りながら、「精衛、精衛」と、鳴く。

その鳴き声を聞いた人は皆、涙した。

鳥に姿を変えてからも、父の命を奪った海に対する怨念は尽きる事が無い・・・ある日、この鳥の心中に、とてつもない大望が生じた。

その時から、鳥は毎日3度、草の葉や木の枝をくわえてやってきては、海中にそれを沈める、という動作を繰り返し始めた。

鳥 (内心)我、このにっくき大海を埋めて、平地になさん!

大海の底にはシンク(sink)があって、そこから絶えず海水が漏れ出ているというが、それでも、水が無くなる事など決してないのである。古代中国の湯王の時代には、8年間に7度もの干魃(かんばつ)があったというが、それでも、大海からは一滴の水も減ずる事が無かったのである。

たとえいかなる神通力をもってしても、大海を埋めてしまう事など、できようはずがあろうか。

しかしながら、父の仇を取らんが為に、一枝一葉(いっしいちよう)を口に含んでは海中にこれを沈めるというこの鳥の志、まことに、涙無くしては語れない。

故に、ある詩人は、これを讃嘆して、次のような詩を読んでいる。

 その鳥の姿を見て
 世間の人は 笑うんだろうな
 海を埋めつくすだって?
 そんな努力 いくらしてみたところで
 結果は ゼロさ

 その鳥の姿を見て
 私は 笑わない
 私はむしろ 憐みをおぼえる
 ああ その志
 広大なること 無限大

(原文)
 人笑其功少
 我怜其志多

世間の声K さてさて、みなさん、どない思わはりますか? この二つの話をお聞きになって。

世間の声L 精衛はんのお子はん、ほんまに、親孝行の心あついお子はんどすわなぁ・・・(涙)

世間の声M ちっぽけな鳥の体でもって、あの大海を埋めてしまおうってんだから・・・ほんとスゲェよなぁ。

世間の声N 曹娥はんかて、立派なもんどすえ。幼い女児でありながら、お父はんの事を悲しんで、天に祈らはったんですやろ? ほいでもって、お父はんのカタキの毒蛇を殺す事ができた、いうねんからなぁ・・・ほんに、リッパなもんどすえぇ。

世間の声O それにひきかえ、この興良親王殿下はなぁ・・・。

世間の声P 人間の身に生れながら、鳥獣にさえも、その志、劣っとるがね。

世間の声Q 男子としての生を受けながら、その振舞い、女子よりも劣ってんじゃぁねぇのぉ。(注4)

世間の声R なっさけねえわなぁ、謀反だなんて・・・護良親王殿下の血ぃ引いてるんじゃったら、もうちょっと、まともな行動せんとねぇ。

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(訳者注4)ここは原文では、「人として鳥獣にだにも不及、男子にして女子にも如ず、何をか異也とせんやと、此宮の御謀叛を欺き申さぬ人はなし。」となっている。「男子にして女子にも如ず」の記述は、現代の男女平等の観点からは、極めて問題のあるものであるが、原文にこのようにあるので、仕方なく、上記のように現代語に翻訳した。
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