太平記 現代語訳 30-8 吉野朝、光厳上皇らを拉致・幽閉

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利義詮(あしかがよしあきら)が京都から撤退した結果、吉野朝(よしのちょう)側は、念願の首都奪回を果たした。しかしながら、後村上天皇(ごむらかみてんのう)の京都への帰還は、しばらく先延ばしとなり、北畠親房(きたばたけちかふさ)と顕能(あきよし)父子だけが、京都に入った。

北畠父子は、京都の政務全般を取りしきり、その他の公卿たちは依然として、八幡にいる後村上天皇の下に伺候(しこう)していた。

吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)うるう2月23日、中院具忠(なかのいんともただ)を勅使として、御所にあった京都朝廷保有の三種神器(さんしゅのじんぎ)が、吉野朝廷へ引き渡された。

「この三種神器は、故・後醍醐先帝(ごだいごせんてい)陛下が、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)から京都へご帰還の折に、京都朝廷に差し出されたものであるが、実はニセモノである(注1)」との事ゆえに、ヤサカノマガタマは廃棄処分となり、アメノムラクモノツルギとヤタノカガミは、天皇の身の回りの世話役担当の貴族がもらい受けた末に、六衛府(ろくえふ)用の太刀と、装束姿を正すために用いる鏡になってしまった。

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(訳者注1)17-10 参照。
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世間の声A いくらなんでもなぁ、あれはないでぇ、あれはぁ。

世間の声B ほんまやでぇ。いくらニセの三種神器や、いうたかてなぁ。

世間の声C あのっさぁ、あの三種神器使ってっさぁ、天皇即位式、過去にもう何回かやってしまってんだよねーえ。えぇっと、いったい何回だっけぇ?

世間の声D 3回どす。3回も、使うてしもたはるんどすえ。

世間の声E それだけじゃ、なかとぉ。毎朝の天皇陛下の、伊勢神宮の方角ばぁ向いての参拝にも、ずぅっと使うてきてしもとるばい。

世間の声F ほれほれ、天皇即位式の後のな、清署堂(せいしょどう)でのお神楽(かぐら)にも、使いなさったけぇのぉ。

世間の声G もうかれこれ、20余年は使ぉてしもとるだが・・・いくらニセモノ言うたかてなぁ、もうすでに、神霊がその中に宿ってみえるがね。

世間の声H あまりにも、オソレっちゅうモンを知らなさすぎますわなぁ。そないにタイソウなモンを、凡俗の器物になんかにしたら、あきまへんがなぁ。

世間の声I これから先、世の中ヘンな事になっていきゃしないかしらねぇ・・・そんな事にならなきゃ、いいんだけど・・・。

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うるう2月27日(注2)、北畠顕能は、500余騎の武士を引き連れて、京都朝廷の皇族方のおられる持明院殿(じみょういんでん)へ赴いた。

付近の辻々や門の全てをかためてしまった武士たちの姿に、殿中は大騒ぎである。

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(訳者注2)太平記作者の誤りらしい。史実では「うるう2月21日」。
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京都朝・皇太后 えらいこっちゃがな! 武士どもが、よぉけ来よったがな!

京都朝・皇后 いったい、ナニしに来たんでしょうか・・・。

京都朝・皇太后 上皇陛下や今上(きんじょう)陛下の、お命を取りに・・・。

京都朝・皇后 まさか! そんな事まで、せぇへんでしょう! しませんよねぇ?!

京都朝・皇太后 ああ、ほんまにもう、なんちゅう世の中になってしもぉたんやろか・・・。(涙)

京都朝・皇后 どないしょ、どないしょ・・・。(涙)

二人はただただ、心迷い、伏し沈むばかり。内侍(ないし)、上童(うえわらわ)、高級女官、女官たちは前後不覚、逃げふためいて、あちらこちらへ、さ迷うばかりである。

そんな騒ぎをも全く意に介さず、北畠顕能は、穏かに西の小門から殿中に入り、四条隆蔭(しじょうたかかげ)を介して、奏上した。

四条隆蔭 北畠殿はこう申しております、「世の中がもう少し落ち着くまでの間、皇居を、南の方にお移しせよ、との、主上のおぼしめしでございます。」

光厳上皇(こうごんじょうこう) ・・・。

光厳上皇、光明上皇(こうみょうじょうこう)はじめ、崇光天皇(すうこうてんのう)、皇太子は、呆然自失、何も言葉が出てこない。出るのはただ涙ばかり、うすぎぬの袂を絞らんばかりに。

しばしの後、

光明上皇 天下が争乱に転じた後、ほんのわずかな期間、私は帝位についた。そやけど、それがいったい、何ほどのもんやったと言うんか・・・。

光明上皇 自分の意志でもって、天皇に即位したわけではない。そやから、政治に関して、私は全く無力やった・・・ただの一事たりとも、自分の思い通りになったためし、なかったわいな。

光明上皇 今やまさに、天皇位の光は、完全に消滅してしもぉた・・・この都・・・都はもう、真っ暗闇の世界になってしもぉたわ。

光明上皇 もう、権力には、何の執着も無い、兄弟いっしょに隠居出家して、あの花山法皇(かざんほうおう)様のような人生を送ろうやないかいな・・・よぉ兄弟で、そないな事、言うてたわ。そやけどな、それも叶(かな)わんままに、ついに今日まで来てしもぉたんや・・・このツライ気持ち、吉野の陛下にはきっと、理解していただけるんやないやろかなぁ。

光明上皇 今まさに、天運は一転し、吉野の陛下が、再び光を得られる日が来た・・・陛下に忠節を尽くしてきたもんらが残らず、その望みを達成できる日が来たんや。そやからな、吉野の陛下におかれては、なにとぞ、私に対してご赦免をたまわりたく、願う次第や。

光明上皇 もし、ご赦免いただけたら、すぐにでも出家して、辺鄙(へんぴ)なとこ(所)でひっそり暮して行こうと思う。

光明上皇 なぁ、隆蔭、私のこの願い、先方に伝えてくれへんかなぁ。

四条隆蔭 ハハッ・・・。

光明上皇の言葉を伝えられた北畠顕能は、

北畠顕能 (首を横に振り)私は、既に主上からの勅命を受けて、ここへやってきてるんです。上皇陛下が何とおおせられましても、もう、どうしようもありませんな。

四条隆蔭 (ガックリ)・・・。

顕能は、牛車2両を殿中に呼び寄せた。

北畠顕能 さぁ、そろそろ・・・もうだいぶ、時間が経ってしまいましたからな。

こうなっては、京都朝廷側には、何らなすすべも無い。光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、皇太子がまず、一両の牛車に乗り、南門から出た。

普段でさえも霞める花の木の間の月、是や限りの涙に、さらに朧(おぼろ)に見える。

皇太后と皇后は、御簾(みす)の中、几帳(きちょう)の陰に、伏し沈むばかり。こちらの廊下、あちらの室内と、女たちのすすり泣きの声が、方々から漏れてくる。

暁の月下、牛車は、東洞院通(ひがしのとういんどおり)を一路南下していく。

都の木々のその梢の先までも徐々に判別できる程に、あたりは次第に明るんできた。東山にあるどこかの寺院の鐘の音が、明けゆく雲の中に横たわる。

車はやがて、東寺(とうじ:南区)へ到着。

公卿ら多数がお伴していったが、ここから先の随行を北畠顕能に禁じられ、三条実音(さんじょうさねとし)と宮廷医療チームリーダーの篤直(あつなお)だけを伴っての旅となった。(注3)

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(訳者注3)下記の文献によれば、史実においては、吉野朝廷は京都朝廷に対して、太平記のこの箇所に記述されているような、「軍隊を送り込んで皇族方を拉致」というような暴力的な事を行ってはいないようである。

 [地獄を二度も見た天皇 光厳院 飯倉晴武 著 吉川弘文館]
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皇族方が、、普段は目にされる事も無いようなムクツケキ武士たちに囲まれて進むうちに、鳥羽(とば:伏見区)に到着。夜は早ばやと、明けはてた。

ここから乗り物を変更、牛車から粗末な輿(こし)に乗り換えた。そして数日後、光厳上皇らは、吉野の奥・賀名生(あのお)に到着(注4)。

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(訳者注4)これも太平記作者の誤り。史実では、まず、京都-->東条(河内)、その3か月後に、賀名生へ。
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周辺住民たちが「わが陛下」と仰ぎ奉っている吉野朝の帝・後村上天皇の皇居でさえも、その柱は丸太を削っただけ、その外部は竹縁と垣根だけの、とても高貴の人々が住むような館ではない。

ましてや、今回の「客人」は、「敵方」の人、その居所はいわば、「流刑の配所」である。

年を経て崩壊寸前状態の庵室(あんしつ)、軒の下は杉の板張り。夜ともなると寂寥感(せきりょうかん)がいや増して、眠るに眠れない。訪れてくる者は、夜の雨が降る音ばかり、涙に袖が濡れるばかりの毎日である。

 樹木の梢を鳴らす 寒風の中
 月は庭内の 松に懸る
 暮れ行く夕べの中に 猿群の鳴き声
 ああ 風が洞庭湖(とうていこ)から 雲を送ってくる

(原文)
 衆籟暁寒して月庭前の松に懸り
 群猿暮に叫で風洞庭の雲を送る

光厳上皇 賀名生というとこは、ものすごい山の中やと、聞いてたけど・・・。

光明上皇 「そらぁ住みにくいとこでっせぇ」て、みな言うてましたよねぇ。

崇光天皇 いざ実際に住んでみたら、もうそら、「住みにくい」なんちゅう、なまやさしいもんやないですよぉ・・・。

このような会話を交わす度に、虜囚(りょしゅう)となった人々の目には、涙が溢れてきてしまうのであった。

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梶井門跡(かじいもんぜき)・尊胤法親王(そんいんほっしんのう)は、この時、天台座主(てんだいざす)の地位にあったが(注5)、この人もまた囚われの身となり、金剛山(こんごうさん:大阪府と奈良県の境)の山麓に幽閉の日々を送っていた。

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(訳者注5)これも、太平記作者の誤りであるようだ。
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この法親王は、光厳上皇の弟であり、慈覚大師(じかくだいし)の法統を継承し、三回も延着寺のトップ、すなわち天台座主になった人である。よって、法親王は富貴並び無く、そこに集う門徒の数は、極めて多かった。

法親王は、獅子舞と田楽をとりわけ愛好し、毎日毎夜、その方面のタレントたちに舞い歌わせ、さらには、抹茶ブランド判別会(注6)に、連歌の会にと、朝に夕に、遊興に大忙し。ゆえに、世間の人々の謗(そし)り、延暦寺からの訴えの止む間が無かった。

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(訳者注6)原文では、「茶飲み」。
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「我、人生の楽しみを謳歌(おうか)して止まず」の観があった所に、突如やってきた運命の暗転。今は、かつてとはうってかわっての、流刑配所のごとき住い、山は深く、人里からは遠く、鳥の声でさえも幽(かす)か、力仕事を担当する僧侶一人の他は、法親王の身の周りには、誰一人としていない。

隙間だらけの柴で造られた庵(いおり)の中、袖を枕に、苔を筵(むしろ)に、露は枕に結べども、都に帰る夢は無し、傷心の中にただただ送る日々・・・。

しかし、仏道を求める心というものは、まったく思いもかけない縁から、湧き起こるものである。

尊胤法親王 (内心)自分は、ここでこのまま朽ち果てて行くしかないのか・・・よし、ならば、人生の全ての執着を、今ここで、断ち切ってしまおうやないか・・・天台座主の位か・・・そんなもん、もうどうでもえぇ! 命終えるまでひたすら、仏の道を求めて行くぞ!

まことに、哀れなる事である。

尊胤法親王 (内心)今のこの情勢が、そのまま続いて行って、吉野朝廷の長期政権になったとしたら? そないなったら、出家して仏道を貫いて行こうという私のこの願いは、かなえられる事、間違いなしやろう。

尊胤法親王 (内心)逆に、もしも再び、足利幕府が勢力を盛り返して、吉野朝側の敗退となったとしたら? そないなったら、もしかしたら・・・もしかしたら・・・私は、殺されてしまうかもしれへん。

尊胤法親王 (仏前で合掌)(内心)み仏よ、どうか、私のこの仏道修行の願い、どうか、お聞き届け下さいますように・・・政界の状態が今のまま続き、世の中が安定していきますように・・・。

覚悟が定まった今、我が祈りのかつてない深まりを感じる、尊胤法親王であった。

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