太平記 現代語訳 39-4 芳賀禅可、足利幕府・鎌倉府に対して、叛旗を翻す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このように、これまで足利幕府に敵対してきた人々が続々と降参してきて、貞治(じょうじ)への年号改元の後より、京都と中国地方は静穏になった。

しかし、関東地方においては、再び、思いもよらない仲間割れが起こり、民衆の生活は、またまた危機に瀕した。

その、事の起こりはといえば:

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3、4年前に、足利兄弟(尊氏と直義)が仲違いして戦に及んだ際(注1)、上杉憲顕(うえすぎのりあき)は、直義(ただよし)サイド陣営に属して戦ったが、まずは、上野国(こうづけこく:群馬県)板鼻(いたばな:群馬県・安中市)の戦で宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)に敗北し、さらに、薩タ峠(さったとうげ:静岡県庵原郡)の戦においても、味方側が敗北。

憲顕はからくも、信濃国(しなのこく:長野県)へ逃がれ(注2)、吉野朝側に転じて、捲土重来(けんどじゅうらい)の機会を待っていた。

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(訳者注1)尊氏と直義の不和は、京都朝年号・観応1年(1350)の事であるから、貞治1年(1362)から12年も前の事である。

(訳者注2)上杉憲顕のこの動向については、30-4 を参照。
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このような不義なる行いをした憲顕であったが、足利幕府・鎌倉府長官・足利基氏(あしかがもとうじ)の彼に対する思いは、複雑であった。

足利基氏 (内心)幼少の頃から、自分は、あの憲顕に抱き育てられてきたんだもんなぁ・・・できることなら、彼を救ってやりたいなぁ。鎌倉へ呼び寄せたら、やってきてくれるだろうか?(注3)

足利基氏 (内心)ただ、来い、というだけじゃぁ、疑ってやってはこないだろうなぁ・・・何か、安心させるような事をしてやらなきゃ・・・。

というわけで、基氏は、越後(えちご:新潟県)の守護職を憲顕に与えた上で、彼を鎌倉へ呼び寄せた。

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(訳者注3)足利基氏と、その兄・足利義詮の生誕の年、そして、彼らの父・足利尊氏の将軍位就任の年は、以下のような順になっている。

 1330年 足利義詮、生誕
 1333年 足利尊氏、打倒・鎌倉幕府に決起
     鎌倉幕府、滅亡
 1338年 足利尊氏、征夷大将軍に就任
 1340年 足利基氏、生誕
 1349年 足利基氏、鎌倉公方として、鎌倉へ

義詮と基氏、二人共に、尊氏と登子の子であるが、足の方は、[鎌倉幕府中の有力御家人の子]として生まれ、弟の方は、[征夷大将軍の子]として生まれている。
それほどまでに、尊氏の運命の変転はすさまじかったのだ。

このような生まれなのだから、その後の成り行きによっては、基氏が征夷大将軍に就任、というような事にも、もしかしたら、なっていたかもしれない。

しかし、人間の運命というものは、まさに予期しがたい。

思いもかけない、足利兄弟間の争いの結果、鎌倉にいた義詮が京都へ(27-7 参照)、そして、それと入れ替わりに、基氏は鎌倉へ、ということになり、それ以降、基氏は、関東地方の最高権力者の座につくことになったのである。この時、基氏は、まだ十歳にも満たない年齢である。

上杉憲顕は1306年の生まれなので、基氏よりも30数歳、年上である。

憲顕は、鎌倉府の執事として、義詮をささえてきたが、義詮の上洛、基氏の鎌倉公方就任によって、基氏にも仕えることとなった。義詮と基氏にとっては、幼少の頃に自分をしっかりとささえてくれた、まさに、「執事のジイ(爺)」みたいな存在であったかのかもしれない。

上杉憲顕の子孫は、[山内上杉家]と呼ばれ、以降、関東管領の職に就任するようになった。

戦国大名・[長尾景虎]が、現在、[上杉謙信]の名で呼ばれているのは、景虎が、[山内上杉家]の家督と関東管領の職を、上杉憲政から譲られたことによる。
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この処置を聞いて、現・越後国守護・芳賀禅可(はがぜんか)は、びっくり仰天。

芳賀禅可 いったいなんで、越後が上杉のものに? えぇっ?! いったいどうなってんだぁ!

芳賀禅可 上杉なんてぇのは、降参不忠のやからじゃねぇかよぉ。そんなヤツに肩入れなすって、特別功労賞としてゲットした越後を、なんで、おれから取り上げるんだよぉ!

というわけで、越後において、上杉と芳賀との戦が始まった。

数ヶ月にわたる戦の末に、芳賀はついに敗北、越後は上杉の手中に帰し、芳賀の一族若党の多数が、敗北の中に命を落としていった。

禅可の怒りは、頂点に達した。

芳賀禅可 あぁ、もうこうなったら、どんな事でもいい、何か起こって、世の中とことん、ムチャクチャになってしまえや! 世の中、ひっくり返ってしまえやぁ!

芳賀禅可 上杉のヤロウと、なんとしてでも、もう一戦ヤラカさん事にゃぁ、おれの腹のムシ、おさまんねぇ!

芳賀家メンバーA 殿、ミミヨリ情報ですよ! 上杉やっちまうチャンスですぜぃ!

芳賀禅可 おう、なんでぇ、なんでぃ!

芳賀家メンバーA 上杉のヤロウ、基氏様の執事に就任とかで、近日中に、越後から鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ移動とか。

芳賀禅可 よぉし、鎌倉への道中で、やっちまえぃ!

禅可は、上野(こうずけ)の板鼻(いたはな:群馬県・安中市)に陣を構えて、上杉憲顕を待ち構えた。(注4)

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(訳者注4)越後(新潟県)から鎌倉(神奈川県)へ向かう途中、上野(群馬県)を通過することになる。
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ところが、憲顕が上野へ入る前に、この情報をキャッチした足利基氏は、

足利基氏 いったいなんで、芳賀は自分勝手に、こんなムチャな事するんだ! 何か思う所があるんなら、追って、訴訟を起こすべきである、いきなり戦とは、けしからん!

足利基氏 こういうふとどき者は、さっさと退治してしまうのが良い!

基氏は、自ら大軍を率い、宇都宮(うつのみや:栃木県・宇都宮市)へ寄せた。

この情報をキャッチした禅可は、

芳賀禅可 そうかい、そうかい、じゃぁ、上杉より先に、鎌倉殿と戦うまでの事よぉ。

芳賀禅可は、宇都宮から動かず、長男・芳賀高貞(たかさだ:注5)、次男・芳賀高家(たかいえ)に800余騎をそえ、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)へ送った。

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(訳者注5)34-6に登場。そこでは、「高貞」と表記されている。
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彼らは、関東平野の道80里をたった一夜で駆け抜け、6月17日午前6時、苦林野(にがはやしの:埼玉県・入間郡・毛呂山町)に到着した。

小山に登って、足利基氏側の陣営を見渡してみれば、東方には、白旗一揆(しらはたいっき)武士団5,000余騎が、甲冑の光を輝かし、明け残る夜空の星のごとくに陣を張っている。西方には、平一揆(へいいっき)武士団3,000余騎が、武器を立て並べる勢いすさまじく、陰森(いんしん)たる冬枯れの林のごとしである。

その中央に布陣しているのが、足利基氏の軍勢であろうか、二引両(ふたつびきりょう:注6))の旗1本、朝日に映じて飛揚するその下に、左にも右にもビッシリと、騎射突進の兵3,000余騎がひかえている。

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(訳者注6)足利家の家紋である。
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山の上から見下ろせば、足利基氏率いる鎌倉府サイドの陣営は、数100里にも連なっている・・・まさに、関東8か国の軍勢、ただ今馳せ参ぜし、と見え、その数は雲霞(うんか)のごとし、雲鳥(うんちょう)の陣(注7)堅くして、兵はみなみな、気鋭に満ちる。

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(訳者注7)鳥が散じ、雲が合するように、変化きわまりない陣形。
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いかなる孫子(そんし)・呉子(ごし)の兵法をもってしても、1,000騎にも満たない小兵力の芳賀軍では、とても、攻めかかっていけそうにない。

芳賀高貞は、馬にまたがり、母衣(ほろ)を引きのばしながら、いわく、

芳賀高貞 (大声)平一揆と白旗一揆の連中らには、前からいろいろと手を打ってあるからなぁ、形勢次第で、敵になる者もいれば、味方につく者もありってカンジだろうよ。

芳賀高貞 (大声)でぇ、残るは中央の軍勢、後方に相当引いた形で布陣してるあのレンチュウだ。あいつらは皆、たった今この戦場に馳せ参じてきたってヤツラだ。あんなの、たとえ何100万騎集まったところで、なぁんの役にも立ちゃぁしねぇんだからぁ・・・ちっとも、こわかねぇやなぁ。

芳賀高貞 (大声)わが家の安否も、わが身の浮沈も、これからのたった一戦で決まるんだぁ! みんなぁ、覚悟はいいだろうなぁ! 行くぞー! ヘヤァー!(馬に拍車を入れる)

高貞は、前後に人無く、東西に敵ありとも思わぬような気色で、真っ先に馬を進めていく。

これを見た芳賀高家は、

芳賀高家 ひとたび軍門に入った後は、主(あるじ)の命令を聞く必要はない、戦場に臨んだ後は、兄に対して礼をつくす必要もない。今日の合戦の先駆けは、このオレよぉ!

誇らしげに広言し、兄をさしおいて、その先に馬を進める。

敵陣めがけて馬を走らせていくこの二人を見て、つき従う兵800余騎が、これに遅れるはずがあろうか、我れ先に戦わんと、魚鱗(ぎょりん)陣形をもって、突撃。

すさまじい芳賀軍の勇鋭を目の当たりにしながらも、足利基氏は、いささかもひるむ事なく冷静に、全軍を率いてしずしずと、馬を前進させていく。

先に、トキの声を上げたのは、芳賀軍の方であった。

芳賀高家 エェーイ! エェーイ!

芳賀軍メンバー一同 オーウ!

トキの声を3度上げた後、いささかのためらいの色が、芳賀軍サイドに表れた。その瞬間、

足利基氏 トキの声、イッパァツ!

鎌倉府軍メンバー一同 オーーーウ!

天も落ち、地も裂けるかと思われるほどのたった一声のトキの声、すかさず、鎌倉府軍は、左右にサァッと分かれた。

そして、鎌倉府軍は、芳賀軍800余騎を、東西から包囲。

両軍互いに、右方から襲い、左手背後に回り、切っては落とされ、追いつ追われつの1時間。

両陣、互いに場を替え、南北に分かれたその跡をかえりみれば、原野は血に染まり、緑の草も色を変え、人馬汗を流し、掘兼(ほりかね:位置不明)の池は血の池に変じた。

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足利基氏は芳賀軍が先に陣取っていた所に登り、芳賀軍は基氏のいた所に打ち上った。

双方、自軍の状態を見るに、戦死者100余人、負傷者はその数を知らず。

芳賀高貞 主要メンバーのうち、討たれたのは、誰と誰だ?

芳賀軍メンバーB 高家様の姿が見えません! 鎌倉殿に、切って落とされたんじゃぁ?

芳賀高貞 なに!

芳賀軍メンバーC ほんとだ・・・ついさっきまで乗っておられた馬だけが、ほら、あそこに・・・。

芳賀軍メンバーD あぁ、きっと、討たれちゃったんだ。

芳賀高貞 ・・・(涙)。

芳賀高貞 (額に流れる汗を、涙と共におしぬぐいならが)おれたち二人は、実体と影みたいなもん・・・常に行動を共にし、死なばもろとも・・・そう思ってた。その弟を目の前で討たれ、その死骸がどこにもないだなんて・・・そんな事、あってたまるかぁ!

芳賀高貞 (切り散らされた母衣を結び継ぎ、鎧に隙間が出来ないように鎧を揺すり動かし)エェイ、行くぞ、オオーー!

高貞は、一声おめいて、鎌倉府軍中に突っ込んでいく。

一方の基氏も、

足利基氏 戦死者の数は?!

鎌倉府軍リーダーE 70余人です!

足利基氏 主要メンバーの戦死は?!

鎌倉府軍リーダーF 両軍が引き分かれる時、木戸兵庫助(きどひょうごのすけ)殿が、接近してくる敵に引き組み、落馬、落ち重なってきた敵に、討たれました!

足利基氏 ナニィ!(目を血走らせて)

足利基氏 兵庫助! なんで、先に行ってしまった! この戦、死なばもろともに死ぬ、生き残らば同じく生き残ろうと、あれほど固く、誓いあったじゃないか!

足利基氏 よぉし、こうなればもう、我が命なんか惜しまん!

基氏は、敵と渡り合ってササラのようになってしまった太刀の刃本を小刀で削り直した後、二度三度、うち振るった。

足利基氏 行くぞぉ!

再び馬を走らせ始めた基氏を見て、左右の武士3,000余騎もまた、それに続く。

鎌倉府軍メンバー一同 ウオオオオオーーー!

彼らは基氏を追い抜き、その前方に展開して芳賀軍と相対。

両軍、追い廻(まわ)し懸け違(ちが)え、おめき叫んで戦う声は、さしも広大な武蔵野(むさしの)をも覆って余るかと思われるほど。

基氏はあまりにも頻繁(ひんぱん)に、懸け立て懸け立て、戦い続けたので、彼の乗馬は尻と首の両側に3箇所の傷を負い、ドウと尻餅をついて倒れてしまった。

当然の事ながら、鎌倉府長官・基氏の顔は、多くの者に知られている。芳賀軍メンバーは続々、そこに懸け寄ってきた。

基氏の兜を落としてしまおうと、背後から回り込んでくる者あり、馬から飛び下りて徒歩になり、組み打ちにしてしまおうと、太刀を背中にしょって左右から襲ってくる者もあり。

しかし、基氏は、その力は他に勝れ、心も極めて機敏、黄石公(こうせきこう)や李道翁(りどうおう)の兵法を臨機応変に駆使できる人、敵から逃げず、目もそらさず、襲いかかってくる相手を次々と倒していく。

兜の鉢を真っ二つに割られる者あり、おじけづいて後ずさりする所を斬りすえられてしまう者あり。鎧の胴の真ん中を一刀のもとに切断、余る太刀にて左からかかってきた敵を払う。

基氏がふるう刃(やいば)にキモを冷やし、あえて彼に接近しようとする者は、もはや誰もいなくなった。

そうこうするうち、東西開け、前後晴れ、基氏が乗馬を失ってしまって徒歩で戦っている事が、芳賀軍メンバー全員の知る所となった。

はるか彼方からこれを見た大高重政(だいこうしげまさ)は、急いでそこに馳せ寄り、基氏の左側に降り立った。

大高重政 いやぁ、まったくぅ! なんてぇ凄(すご)い戦いぶり! 古の世の、和泉(いずみ)や朝比奈(あさひな)だって(注8)、ここまで凄くはなかったでしょうなぁ。

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(訳者注8)和泉親衡と浅井名義秀。
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このように、正面からまじまじと見つめて褒めた後に、

大高重政 さ、この馬に乗られませ。

基氏は大いに喜び、馬にさっとまたがり、鞍壷に座りながら、

足利基氏 主人の替え馬を預かってた後藤守長(ごとうもりなが)が逃げちゃったんで、平重衡(たいらのしげひら)は生け捕りになったっていうよなぁ。おまえは、それとは、えらい違いだ。

大高重政 (ニッコリ)いえいえ、どういたしましてぇ。

足利基氏 「大高」・・・「大いに高い」か、名前がその行動に、みごとにマッチ(match:適合)してるよなぁ。

大高重政 いやぁー・・・デヘヘヘ(頭をかく)

両者、互いに褒め合いである。

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その後も、足利基氏は、主のいなくなった放れ馬を見つけてそれに乗り、方々に群れている鎌倉府軍メンバーを集めて、再び芳賀軍の中へ突入、2時間以上戦い続けた。

そして、両軍互いに、人馬を休めるために、両方へサッと引き分かれた。

見れば、またもや、双方、陣が入れ替わっており、基氏のいた陣は芳賀の陣となり、芳賀の陣は再び基氏の陣となっている。

芳賀高貞 (自軍を見渡しながら)八郎(はちろう)がいねぇ・・・討たれちまったか・・・。

我が子の安否を気づかい、心もとなげに言う。

馬の前にいた中間(ちゅうげん)いわく、

中間 殿、あっちの方に、放れ馬が数100匹、走り散ってるでしょ、ほら、あれ、あの馬! あれたしか、八郎殿が乗ってた馬じゃありません? ほら、あの、黒ツキ毛の、レンジャクのシリガイかけてんの・・・そうですよ、あの毛色、あの鞍具足(くらぐそく)、ぜったい間違いねぇ・・あぁ、きっと、討たれてしまったんだぁ。

芳賀高貞 その馬、血ぃついてるか?!

中間 (問題の馬を凝視しながら)・・・いんやぁ・・・頭に矢が一本ささってるけんど、鞍には、血ぃついてねぇよ。

これを聞いて、さしもの勇ましき芳賀高貞も、涙を目に浮かべ、

芳賀高貞 (涙)八郎、幼いんで、生け捕りになっちまったな・・・戦がちょっとでも止んだら、きっとその間に、八郎は斬られちまう、さぁ、もう一戦だぁ!

それを聞いて、岡本富高(おかもととみたか)はニッコリ笑って、

岡本富高 (笑顔)大丈夫ですよ、殿! もう、この戦、勝ったようなもんだもん! 敵側の大将が見分けらんねぇうちは、戦(いくさ)しにくくって、しょうがねぇけんどねぇ・・・そりゃそうでしょ、ヘタな木っ端武者なんか相手に、とっ組んで勝負したかぁねぇもんなぁ・・・でもねぇ、もう分かっちまったよ、敵の大将。さっきの、白糸威(しろいとおどし)の鎧きて、馬から下り立ってた若武者、あれが鎌倉殿だ、間違いねぇ。

芳賀高貞 ・・・。

岡本富高 鎧の糸の色、目標(めじるし)にしてさぁ、組み打ちにしちまやいいじゃん。カンタン(簡単)、カンタン。

鎌倉府軍の中になんとかうまく紛れこもうと、岡本富高は、自分の笠標(かさじるし)を取って投げ捨て、従軍時衆僧(じゅうぐんじしゅうそう)の前で「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と、称名(しょうみょう)を10回あげた。もうすっかり、覚悟をかためきった様子である。

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鎌倉府軍サイドの岩松直国(いわまつなおくに)は、思慮が深く、戦場における様々な情勢変化を、機敏に先読みできる人であった。

岩松直国 (内心)ヤベェな・・・基氏様の鎧の色、きっと、敵の目に焼き付いちまってるに違ぇねぇ。これから敵は、大将一人だけに狙いつけてくんぞぉ・・・おれが、身代わりになんなきゃ。

岩松直国 殿、おそれながら、その鎧を、おれに。

足利基氏 え?

岩松直国 その鎧、ちょっと目立ちすぎじゃぁありませぇん? そんなの、やめときましょうやぁ、敵の標的になるだけですぜぃ。

足利基氏 うん・・・それもそうだな。

岩松直国 さ、さ、早く、脱ぎましょ、脱ぎましょ!

というわけで、直国は、基氏の着ていた白糸威しの鎧を手に入れた。

岩松直国 よし!

直国は、今まで着ていた紺糸威しの鎧を脱ぎ、基氏の白糸威しの鎧に、急いで着替えた。

その後再び、両軍は混戦状態に突入、入れ替わり入れ替って戦い始めた。

岡本富高 ええっとぉ・・・白い鎧は・・・おっ、あそこにいる! よぉし!

てっきり基氏であると思い込み、相手を組み討ちにせんものと、岡本富高は、岩松直国めがけて接近していった。

直国はもとより、基氏の身代わりになろうと鎧を着かえたのであるからして、いまさら命を惜しむはずがない。

二人はしずしずと、馬を歩み寄せていった。

二人の間隔がぐっと縮まったその時、岩松直国の郎等・金井新左衛門(かないしんざえもん)が、いきなり前に飛び出した。

新左衛門は、直国の馬の前に立ち塞がり、富高に引き組み、共に馬からドウと落ちた。そして二人は、地上に達する前に、空中で互いに刺し違え、共に命を終えた。

岩松直国は基氏の命に代ろうと鎧を着替え、金井新左衛門は直国の命に代って討死にした。主従共に義を守り、節を重んずる忠貞(ちゅうてい)、このような人間は、そうそうそこいらにいるものではない。

その他の人々も、命を軽んじ義を重んじ、ここで勝負を決してしまおうと、互いに戦いあった。

さて、問題の芳賀八郎(はがはちろう)であるが、父・高貞の懸念通り、彼は生け捕りになってしまっていた。しかし、未だ幼い垂れ髪の身であったがゆえに、戦が終わって後、人をつけて芳賀サイドに帰されたという。

これを聞いた世間の人々は、「足利基氏のこの処置は、まことに寛大でよろしい」と、評価した。

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芳賀軍800余騎の乗馬は、昨日の強行軍の疲れが蓄積していた。標準2日行程の道のりを、たった1夜で懸け抜けてきたのだから。

軍のメンバーもまた、一息も継げない状態のままであったので、疲れ切ってしまっていた。入れ替わってくれる軍もないままに、終日戦い続けてきたので。

さすがの芳賀高貞も、「今はこれまで」と思ったのであろう、日が既に西に落ちかかろうかという頃、生き残ったメンバーわずか300余騎の命を助けんがため、宇都宮(うつのみや:栃木県・宇都宮市)へ向けて、撤退を開始した。

芳賀軍が退却していくのを見て、それまでは、この戦を他人事のように眺め、勝ち目のある方につこうと機を窺っていた白旗一揆(しらはたいっき)武士団は、堰をきったように、芳賀軍を追撃しはじめた。

白旗一揆武士団メンバー一同 (内心)相手の弊(へい)に乗じ、疲れきってる芳賀軍を、攻めろ、攻めろ、どこまでも追撃、全員みなごろしだぁ!

彼らは、得意満面で芳賀軍を追走した。

彼らだけではない、遅れ馳(ば)せに基氏のもとにやってきた武士たちも、「芳賀軍が敗北し、退いていく」と聞き、しめたとばかりに、橋を落し、芳賀軍の退路を塞ぎ、一人も逃がさじと、追撃に参加。

このような状況の下、芳賀軍サイドは、退却の途中、更に100余人の戦死者を出してしまった。

かろうじて命助かり、故郷に帰りつけた者も、ほとんどのメンバーが髪を切って遁世し、その存在無きも同然の状態になってしまった。

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この戦の完全終結の後、「今度は、宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)を退治だ、すぐにやってしまえ」という事になり、足利基氏は、80万騎の軍勢を率いて、宇都宮に向かった。

その途中、小山(おやま)氏の館に宿泊していた基氏のもとに、宇都宮氏綱が息せききってやってきた。

宇都宮氏綱 私の家臣、芳賀禅可(はがぜんか)の今回のけしからん振舞い、あれは、私が一切、預かり知らぬ所で起った事です。事前に何の相談も受けてません、もし相談されたとしたら、あんな事に、私が同意するはずがありませんよ。

足利基氏 フン・・・んで?

宇都宮氏綱 主従の義に背(そむ)いた自らの咎(とが)、到底のがれられるものではない、と思っての事でしょう、芳賀は既に、どこかへ逃亡してしまいました。ですから、あえて、軍勢を差し向けられる必要も無いと、私には思われますが。

足利基氏 フーン・・・。

基氏にも何か、深く考える所があったのであろう、翌日、すぐに全軍をまとめ、鎌倉に引き返した。

昔の人の言葉にも、次のようにある、

 諫言(かんげん)をしてくれる臣下がいない時には、君主は自分の国を失うであろう
 諫言をしてくれる子供を持たないならば、父は我が家を亡ぼしてしまうであろう

(原文)
 君無諫臣則君失其国矣
 父無諫子則父亡其家矣

たとえ、芳賀禅可が老いのひがみから、かくのごとき悪行を企てるに至ったとしても、彼の子供たちが義の道を知って父を制止していたならば、このような、一族中から多くの死者を出し、諸人からの嘲笑を招くような事に、なってはいなかったであろうに。

思慮を欠いた芳賀禅可が起こしたこの戦の結果、足利基氏の威勢は、ますますその重みを増すことになった。それにつれて、有力武士や一揆グループの勢を恃(たの)んでの無理押しは、幾分かは下火になったようである。

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