太平記 現代語訳 24-3 延暦寺、天龍寺の供養法要執行に対して、強硬に抗議

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・康永4年(1345)8月、「光厳上皇(こうごんじょうこう)ご臨席を賜り、天龍寺(てんりゅうじ)において、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)供養法要を執行」との趣旨の下、幕府より諸国の有力武士らに招集が発せられ、例のごとくに、諸々の役が課せられた。

「まさに天下の一大イベント、洛中の壮観ここに尽き!」との前評判に、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)の衆徒らが、心中おだやかであろうはずがない。

天龍寺への怒りの炎をむらむらと燃やし、毎夜のごとく決起集会を開き、比叡全山の谷々の雷動(らいどう)休む時なし。天魔は障碍(しょうげ)の手を伸ばし、法要の前途に暗い影がさしはじめた。

梶井(かじい)、青蓮院(しょうれんいん)、妙法院(みょうほういん)の3人の門跡(もんぜき)が、彼らの怒りを静めるために比叡山に登山したが、延暦寺の若手メンバーらは宿泊先の坊へ押し寄せ、即座に、門跡たちを下山せしめてしまった。

そして、東塔、西塔、横川の延暦寺3エリアこぞっての一大決起集会が、大講堂の広庭で行われた。その場で、以下の内容の決意声明文の宣言が、議題提案された。

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決意声明

王道の盛衰(せいすい)は仏法の正邪によって決せられ、わが日本国の安全はひとえに、我ら延暦寺の護持によって保たれている。

桓武(かんむ)天皇による平安京開設の際、天皇は、「朝廷と延暦寺とは、運命共同体的関係にある」とされた。その御心を受け、伝教大師(でんぎょうだいし)による比叡山延暦寺の開闢(かいびゃく)以来、わが寺は、首都・京都の鎮守としての役目を立派に果たしてきた。

衆生済度(しゅじょうさいど)の為に釈尊(しゃくそん)が教えたもうた仏教の正しい教義を、一寸の間違いもなく今に伝えてこれたのも、あるいは、天皇の本命星(ほんみょうじょう)を祈念したてまつって、わが日本を安泰たらしめてこれたのも、ひとえに、わが延暦寺の教義の繁興(はんこう)あってこその事である。

このようなわけで、代々の聖君主は、わが寺を尊崇し続けてこられた。

ところが昨今、「禅宗(ぜんしゅう)」なる流派が世にはびこり、顕密(けんみつ)二教(注1)は世に無きがごとしの状態になっているではないか! これぞまさしく、亡国の前兆にして仏法を滅亡に至らしめる過程、これは誰が見ても明々白々の事。

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(訳者注1)天台宗と真言宗。
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我々は断言する、このままでは、わが国の将来は、お先まっくらであると!

我々は、過去の歴史に学ぶべきである。

中国の例を見てみよう。宋(そう)王朝の幼帝は、禅宗を崇拝していた。で、その結果、どういう事になったか? 宋王朝はモンゴル帝国に征服されてしまったぞ!

わが国ではどうか。かの北条高時(ほうじょうたかとき)も禅宗を尊んでいたが、その結果、朝廷に家を傾けられてしまったではないか。

近い過去に、このような失敗の教訓が存在するのであるからして、後に続く者は、その轍(てつ)を踏まぬようにしなければならない。

しかし、「天龍寺の先帝供養は国営法要の体をもって執行、上皇陛下もそれに御参列」との風聞が、都中に飛び交っている。かりにも、そのような事が真実であるのならば、我々としては、もはや黙って見すごしているわけにはいかない!

我々は、朝廷に対してお願いする、

 夢窓疎石(むそうそせき)を、流罪に処せらるべし!
 犬神人(いぬじんにん)を送り込んで、天龍寺を破却せしめらるべし!

我々のこの訴えが聞きいれられなくば、比叡七社の神輿(しんよ)をかついで御所の中まで乗り込み、我々の決意の程を、朝廷にたっぷりと見ていただこうとの所存である。

決意表明、以上!
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この決意表明は、満場一致をもって可決採択された。

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同年7月3日、延暦寺高僧らの連名により、朝廷に対して、以下のような訴状が送られた。

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延暦寺三千の大衆法師ら、つつしんで申し上げたてまつります。

特別なる陛下よりの裁定を賜った上で、先例に沿い、夢窓疎石が宣布しておる邪法を廃せられ、彼を、遠島流刑に処せしめられん事を。また、天龍寺における供養法要を中止せられん事を。そして、顕密両宗の教えを広く世間に宣布し、国家護持の祈りをますます強固たらしめん事を。

我らつつしんで思いまするに、諸宗の頂点に位置し、代々の天皇陛下を護持したてまってきたのは、なんといっても、我ら、顕密両教の教えを奉ずる天台宗をおいて他にはありません。

我が宗派が提唱する一実円頓(いちじつえんとん)の境地は、夜空に高く輝く満月のごとく、我らの獲得せる四曼相続(しまんそうぞく)の花は、誰にも破壊できぬ堅固なる存在。

ゆえに、代々の帝王は、わが寺に篤い尊崇の思いを寄せられ、かたじけなくも、そのご命運をわが寺に託してくださいました。

諸々の宗派の新たなる寺院の建立に際しては、その多くは、わが延暦寺の末寺としての位地づけをもって、認可されてきました。

その宗派の者たちが我々に対して従順であるならば、我々は、その建立を決して妨げは致しませんでした。例えば、建仁(けんにん)年間のあの寺のように(注2)。しかし、いったん我らに逆らった時には、その寺院は建立が不可能となったのであります、嘉元年間のあの時のように。

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(訳者注2)建仁寺の事を指している。
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さて、問題の人、夢窓疎石の日ごろの行いを、つらつらと見てみまするに・・・いやはや・・・。

柱を食らう木食い虫とは、まさに、このような人間の事を言うのでは、ないでしょうか。

人間に毒気を吹きかけて病に至らしめるという怪虫・含沙(かんしゃ)のような男であります、あの男は。

あのような者が大きな顔をしてのさばっているようでは、亡国の前兆の極み、仏の大法も衰微していく事でありましょう。

我々がなにゆえに、このような事を申すのか、少し説明させてください。

夢窓が提唱している禅宗、あれをはじめたのは、インドのダルマという者なのであります。禅宗は、インドから中央アジア、中国を経て我が国に伝えられた正統なる仏法を乱すものであります。

禅宗の信者たちは、「我らの教祖・ダルマは、ホトギを被って壁に向かって座り続けて修業された」、と言っております・・・いやはや、信ずる者には、ただの石コロでも黄金のように思えてくるのでしょう。まったくもって、愚か者の集団としか、言いようがなく・・・。

ましてや、亀山天皇がお住いになっておられた跡を寺に変えて、そこに、ただの人間が住むとは・・・(注3)、あぁ、なんと痛ましい事でありましょう。

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(注3)天龍寺の事を指している。
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そんな事になってしまったら、儀礼の場たる天皇陛下のお住いも、野狐(やこ)が屍を奪いあう地に成り果ててしまうことでしょう。八宗(はっしゅう:注4)論談の聖なる場所も、鬼神が舌を伸べて邪な教えを広めていく、悪の拠点になってしまいます。

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(訳者注4)倶舎、成実、律、法相、三論、華厳、天台、真言。
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夢窓疎石の日常の行動を見るにつけ、我々は、二人の仏教史上の大悪人を思い出さずにはおれません。

その一は、かのデーバダッタ。釈尊のもとに集まった修行者らの中において分派活動を行い、多くの人々を邪なる路に至らしめた人物です。

その第二は、かのサンディーラ。人々からの供養を得んとの不純な動機より荒野において座禅し、その悪因ゆえに地獄に落ちたといいます。

普通人の住いでさえも、それを寺に変えるような事をしてはならないと、古賢は戒めました。ましてや、天皇陛下のお住いの後を寺の敷地にするとは、まったく、何を考えているのでしょうか!

仏道を修行する者たるや、岩の間に住み、谷の水を飲んで俗世間より離れているべきであります。贅沢な建物を建て、その中にぬくぬく暮すなど、まさに俗人の奢侈(しゃし)と言うものであります。

しかし、夢窓疎石は、これよりもさらにひどい。自らの威勢を隠し、おとなしくやっている風を装ってはおりますが、人の隙を見ては、悪事を行っております。手を垂れて、あいそ笑いをふりまきながら、世間の人気取りに終始する、まことにいやしいその、人となり。

世間においては、彼の事を何か言った後には、口をすすいで清め、比叡山上においては、彼の事を何か聞いた後には、耳を洗って浄めるほどなのですよ。

ましてや、「このたび上皇陛下おごそかに御臨幸の下、かの天龍寺において供養法要が執行」とあっては、我々、黙ってはおれましょうか。三千の学侶(がくりょ)はたちまちに雷動し、一筆したため、先日、朝廷に対して、直訴申し上げました。

それに対する、朝廷よりのご回答は、以下の通りでした。

 「天龍寺での供養法要は、厳密な意味においての勅願寺の国営法要とは言えない。あの寺はあくまでも、先帝の菩提を弔うために、というので建立を許可した寺なのである。」

 「今回の追善法要の件も、朝廷からではなく、幕府から願い出てきたものである。上皇陛下は、その法要を、ちょっと聴聞しに行かれるだけのことではないか。公式な参列ではなく、あくまでも非公式のものなのである。延暦寺はいったい、なにをわけの分からぬ事を言ぅておるのか、うんぬん」と。

そのようなご回答、我々には到底、納得いきません。

代々の天皇のご政策をつらつらと考えまするに、元を捨てて末を求めるのは、決して名君のなされる所ではありません。正を軽んじ邪を重んずるは、み仏のみ心に反する事であります。

今や、延暦寺内の九院は荒廃し、苔が生えて露の置く間もないほど。五堂は焼失したまま、再建もままなりません。

わが君、いったいなにゆえ、天子の本命星を祈願したてまつるわが延暦寺をさしおいて、[前世=子牛]・集団が建てた寺を、盛り立てなされますのですか。

純朴(じゅんぼく)なる世には、比叡山上に天台四教の法門起こり、あぁ、痛ましきかな、人心浮薄の末世になりて、禅宗五門が繁茂する。

正法と邪法の興廃は燦然(さんぜん)として、これを見るべし。つらつら仏法滅尽経(ぶっぽうめつじんきょう)の文を見まするに、はたせるかな、釈尊は次のように予言しておられます。

 「私の入滅後、五濁(ごじょく:注5)が満ちる悪い世となり、天魔は修行者になりすまし、私が説いたこの教えを破壊し、私の教えを信ずる者たちを、混乱に陥れようとするであろう。彼らは、財物を貪り、蔵の中にそれを積み上げ、決して人々にそれを施そうとはしない。」

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(訳者注5)劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁。
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夢窓疎石のしていることこそ、まさしく、この大聖釈尊の予言通りであります。

願わくば、朝廷におかれましては、仏道にからみつき、ついにはこれを倒してしまうツタや藤ヅルの類を、直ちに断ち切られますように。

すなわち、天龍寺に対しては、法要列席の儀を中止され、あそこに与えられた勅願寺の称号を取り消されますように。

さらに、夢窓疎石を流刑に処せられ、天龍寺を破却せしめらますように。

このような果断なる処置を行っていただきましたならば、法性常住(ほっしょうじょうじゅう:注6)の灯火(ともしび)は末長く輝いて末法500年の闇を明々と照らし、朝廷から発せられる陽光は温かく日本全土を包み、民の頭上には、春二月三月の天空のごとき麗わしい青空が、いっぱいに広がっていくことでありましょう!

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(訳者注6)仏の本体たる「法性」は「常住」、すんわち、永遠に不変であり、壊れる事がない。
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以上、仏教と日本の行く末を憂えるあまり、なんとしてでも朝廷に懇願を致さずにはおれなかった我らの心中、なにとぞ、なにとぞ、ご理解たまわりたく、衆徒ら一同、ここにつつしんで申し上げたてまつります。

康永4年7月日 三千の大衆法師ら、たてまつる
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延暦寺(えんりゃくじ)よりの訴状を受け、関白(かんぱく)は、その取り扱いを決するために閣議を招集した。

関白 ・・・というわけでしてなぁ、またまた延暦寺からエライ強硬に言うてきよりましたわ。つきましては、みなさんのご意見をおうかがいしたい。

閣議列席メンバー一同 ・・・。

あまりにも重大な問題であるだけに、誰も口を開こうとしない。

やがて、坊城経顕(ぼうじょうつねあき)が、意を決して口火を切った。

坊城経顕 延暦寺よりの訴えをよくよく聞き、彼らの言わんとしている所をつらつらと考えてはみましたが・・・はっきり言うて、彼らの言うてる事はムチャクチャですわ!

閣議列席一同 ・・・(坊城経顕を注視)。

坊城経顕 中国や我が国の史実を根拠にして、「禅宗を好む世は必ず滅びる」とかなんとか、主張してますけどな、それは、論理的に破綻しとります。なぜならば、中国に禅宗が広まった最初のきっかけは、梁(りょう)王朝の武帝(ぶてい)が、ダルマの「無功徳話(注7)」を聞き、大同寺(だいどうじ)にて座禅を修した事からでした。以来、唐(とう)王朝289年間、宋(そう)王朝320年間、政権は長期に渡って安定し、中国の全土に安静が続きました。

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(訳者注7)「寺を建立したが、どんな功徳があるか」との武帝の問いに対し、「功徳は無い」とダルマが答えた、という逸話。
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坊城経顕 我が国においても同様です。北条(ほうじょう)氏歴代の鎌倉幕府執権は、代々禅宗に帰依してましたが、9代に渡っての栄華を築きあげてるやないですか。

坊城経顕 たしかに、中国では、幼帝の時に至って、宋王朝はモンゴル帝国に征服されました。我が国においては、元弘(げんこう)年間の初め、高時(たかとき)と共に北条氏は滅亡しました。そやけど、これはなにも、禅宗に帰依してたからではありませんよ。政治を乱し、驕りを極めていたから、そのような破局を迎える事になってしもぉたんですわ。

坊城経顕 そやのに、延暦寺の者らは、良き治世が行われていた期間はことさらに無視し、宋王朝や北条氏が滅亡したその時だけにスポットライトを当てて、「それ見ぃ! 禅宗に重きをおいてるから、そないな事になるねんや」と言いよる。まったくもって、なんちゅう、ずるい言い方なんやろか!

閣議列席メンバー・多数 ・・・(うなづく)。

坊城経顕 彼らは、天皇陛下の権威を、いったいなんやと思ぉとるのか! 陛下のお名前に、例えば「武」の一文字が入っていたならば、世人は「武」という字を一切用いてはいけない、それくらいに、天皇陛下に対しては、畏れかしこみつつしむべきなんです。

坊城経顕 ましてや、夢窓疎石(むそうそせき)は、後醍醐(ごだいご)先帝、上皇陛下(注8)、そして今上(きんじょう)天皇陛下(注9)と、三代に渡っての天皇陛下の国師(こくし)、天下の名僧ですよぉ。

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(訳者注8)光厳上皇。

(訳者注9)光明天皇。
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坊城経顕 延暦寺がなんとしてでも、自らの主張を押し通すにしてもや、少しは義を知り、礼をわきまえておるのであれば、もうちょっと穏当なモノの言い方をして、陛下のご裁決を仰ぐべきなんちゃいますか。なにぃ、「夢窓疎石を流刑にせぇ」やてぇ! 「天龍寺(てんりゅうじ)破却を犬神人に命ずべし」やてぇ! ナニを言うとるか!

坊城経顕 ここまで朝廷を軽んずる延暦寺の罪、決して軽いとはいえません。ここは、キツゥーイ処罰を下すべきです。ここで甘い顔してたんでは、連中、ますますつけあがってしもぉて、今後、延暦寺からの強訴(ごうそ)は絶える事がなくなるでしょう。早いとこ、三門跡(さんもんぜき:注10)に調査していただき、今回の強訴の張本人となった衆徒らを逮捕し、断罪流刑に処せられるべきと存じます!(きっぱり)

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(訳者注10)三千院、青蓮院、妙法院。
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閣議列席メンバー・多数 ・・・(深くうなづく)。

日野資明(ひのすけあきら) ・・・うーん・・・たしかに延暦寺の言い分、強訴に近いものがあるといえば、その通りかも・・・ただねぇ・・・ここでちょっと冷静になって、近頃の我が国の宗教事情について、考えてみたいと思うんですわ。

閣議列席メンバー一同 ・・・(日野資明を注視)。

日野資明 そもそも、日本列島の開闢(かいびゃく)は、延暦寺のある比叡山(ひえいざん)から発してましてな(注11)、首都・京都の鎮護(ちんご)は、専ら延暦寺の力によってなされてきましたわいな。

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(訳者注11)18-8 中で、玄慧が語っている、「葦の葉が、日本列島に・・・」の話を言っているのであろうか?
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日野資明 朝廷が乱れた政治を行った時には、延暦寺はこれを諌(いさ)め、邪教が世にはびこる時には、かの寺の衆徒らがそれを退けっちゅうような事が、過去にもたびたび、ありましたわなぁ。

日野資明 例えば、後宇多(ごうだ)上皇陛下の御代(みよ)、横岳(よこだけ)の太応国師(たいおうこくし)が嘉元寺の建立認可を願い出ましたが、延暦寺がそれに抗議したよってに、認可はされませんでした。

日野資明 それよりか前、土御門(つちみかど)上皇の御代、元久(げんきゅう)3年、沙門(しゃもん)・源空(げんくう:注12)が、専修念仏(せんじゅうねんぶつ:注13)の教えを流布しようとした時にも、延暦寺は朝廷に訴えて、これを押さえ込みました。後堀川(ごほりかわ)上皇の御代、嘉禄(かろく)3年には、なおも専修念仏の残存影響力、看過しがたし、ということで、法然上人(ほうねんしょうにん:注14)の墳墓を破却せしめました。

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(訳者注12)法然上人の本名。

(訳者注13)ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えること。

(訳者注14)この箇所、原文には「法然上人」となっている。源空は、その房号が「法然」であったので、「法然上人」と呼ばれるようになった。
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日野資明 後鳥羽(ごとば)上皇の御代、建久(けんきゅう)年間、栄西(えいさい)や能忍(のうにん)が、禅宗を京都中に広めようとした時には、延暦寺は奈良の興福寺(こうふくじ)と共に、禅宗排撃の強訴を行いました。そこで栄西は、建仁寺(けんにんじ)を建立するに当たり、シャナ道場と止観(しかん)道場(注15)を寺内に建て、そうやって延暦寺の末寺の体裁をもってして、建立をようやく許可されたんですわ。

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(訳者注15)
「シャナ」は「ビルシャナ(Vairocana)」の略。ビルシャナは真言密教の中心仏。

「止観」は天台宗の教義に深い関わりを持つ。最澄(伝教大師)は中国において真言密教と天台宗の双方を学び、帰国後、比叡山に一堂を築いて、止観業(天台学)とシャナ業(密教学)をおいて、円・密一致の宗旨を宣揚した。以降、延暦寺に伝わる密教の流れを「台密(たいみつ)」という。ちなみに、最澄が最初に建てたこの堂は後に「一乗止観院」と号せられた。(以上、「仏教辞典 大文館書店刊」より)。
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日野資明 朝廷と延暦寺との密なる関係、これはなにも、仏教の事だけに限った事ではありません。数多の君主の治乱、国家の安危、古より今に至るまで、延暦寺は決して、これを看過する事がありませんでした。例えば、治承(じしょう)年間、平清盛(たいらのきよもり)が天下の権力を一手に握った末に、都をこの京都から、海浜の辺地、福原(ふくはら:神戸市・兵庫区)に遷そうとした時にも、延暦寺は唯一、これに異議を唱え、ついに、遷都を思いとどまらせたのでした。

日野資明 こういった過去の事例、何も、延暦寺を大事にしたゆえに、そのような結果になったのではありません。仏法と王法とが対等の関係にあるからこそ、そのような裁決がなされたのであります。

日野資明 さて、問題の禅宗ですが・・・。禅宗の教義の根本は、かつての宋王朝時代に確立された諸々の形式と、その祖師・ダルマの行跡とにおかれているはず。そやのに、今の世の禅宗僧侶たちの心のあり方、ことごとく、これに違背しておるといえましょう。なぜかといえば・・・。

日野資明 宋王朝には、「西方異国の帝師」と呼ばれる真言密教の修行者がおりました。その者は、マハーカーラの法を修して、王家の護持をいたしておったのです。その地位たるやなんと、「天の下、帝王の上」と決められとりましてな、禅宗のいかなる大寺院の高僧、老僧といえども、道で彼に出会うた時には、膝を屈(かが)めて地に跪(ひざまず)き、王宮の庭に参会する時には、手を伸べて彼の靴を取る、というように、礼儀の限りをつくしたもんです。

日野資明 ところが、我が国ではどうかといえば・・・、修行未だ至らず、学才もないくせに、禅宗の僧侶やというだけで、東寺、延暦寺、興福寺の宗務長や大僧正、天台座主(てんだいざす)や一山の長に、肩を並べようとする。ついこないだ、父母の養育の手を離れてきたばかりの修行者や童子までもが、兄を越え、父を越えようなどと、思い上がってしまいよる。

日野資明 もうこないなったら、仏教以前の問題ですわなぁ・・・人間としての踏むべき道を踏んでない、仁義礼智信の法を踏み外してしもとるっちゅう事ですわ。このような事は、かつての宋王朝では見られへんかった現象、わが国独特の現象ですよ。

日野資明 彼らはそらもう、口だけは達者ですわぁ。言うてる事聞いてたら、なにやら偉い高僧の言い残した言葉に、似てなくもない。いったん自分とこの宗旨の事を説き始めたら、ソラもうすごいもんや、ひょっとしたら、仏様やダルマさんよりも説教うまいんちゃうやろか。

日野資明 ところがね、そのやってる事は、いったいなんですかいなぁ! 利得の巣窟には、サァット集まり、権力者に対して、媚びを売る。施主を見てはへつらい、金持ちには、ペコペコ頭を下げる。身には華美なる衣服を纏(まと)い、食にはグルメを尽くし。財産を蓄えて一寺の住職の地位を望み、「寄進」と称しては、せっせと金集め・・・あぁ、まことに、仏法滅亡の至りなるかな。

日野資明 かの孔子様も、いみじくも、のたもうておられますよ、「君子はその言のその行に過ぎんことを恥ず」・・・人間、恥(はじ)を知るべきですわなぁ。

日野資明 心ある修行者たるや、モノに目を奪われているようではあかんのですよ。未だ修行の途上、悟りの境地にも至れてへん状態では、施主から施された色々なモノ、それらは全て、罪作りの元になっていってしまうんですわなぁ。

日野資明 さらに言うならば・・・仏道を学ぶ者に、三種類あり。

日野資明 まず第一は、[上機(じょうき:注16)の人]。この人は[人我無相(じんがむそう)]の境地に至った人です。[我]を完全に滅し去った境地におりますから、心に掛かる事が一切無い。

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(訳者注16)「機類」、「機根」、「機縁」等と熟語をなし、宗教上の対象たる教法に対する主体(衆生)の方を総じて「機」という。(「仏教辞典 大文館書店刊」より)。
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日野資明 その第二は、[中機(ちゅうき)の人]。[自意識]が未だ完全に滅しきれてはいないがゆえに、「彼はナニナニやけど、自分は違う、自分はあんなんやない」とか「オレがしてやったんやぞ」とか、どうしても「自分が」「自分は」という風に、ついつい思ってしまうが、それでも、[自他一切差別無し]の道理をしっかりと観じる事ができるまでにはなっておりますから、その瞬間瞬間、湧き起こってくる「自意識」、すなわち、自と他を別の存在とみなしてしまう心を自覚するやいなや、それをスパッ、スパッと、断ち切っていく事ができる。

日野資明 第三に、[下機(げき)の人]。この人は、[我]の執着から未だに脱出できてはおりません。そやけどな、この人は、慚愧(ざんぎ:注17)懺悔(ざんげ:注18)の心を持っとりますのや。そやから、他人を悩ましませんし、慈悲の心を持っとります。

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(訳者注17)「慚とは自己の作った罪を自らはぢ、愧は他に対してはづるをいふ。」(「仏教辞典 大文館書店刊」より)。

(訳者注18)自らが犯した罪の許しを請う事。
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日野資明 さて、この「上機」、「中機」、「下機」以外にな、どうやら「地獄に落つべき仏教修行者」がおるようですよ。いったいどういう人らかと言うとですなぁ、他人の人生を妨げ、朝から晩まで他人の非をあげつらい、他人を難じて止まぬ、そういう人らの事ですわ。

日野資明 およそ寺を建てるにしてもですなぁ・・・人間としてのまともな生き方を、まずは踏まえたその上に、仏教修行者としてのあるべき道を重ねていく・・・禅宗の者らがそういう風に心がけていくのであれば、仏法の世界の道にも、俗世間の道徳の道にもかなっていくでありましょうに・・・。いくら立派な寺を建てたところで、それをいくらきれいに飾りたててみたところで、その中におる僧侶が、慈悲の心無く、不正直にして、仏教を盾に取って他人を誹謗(ひぼう)しながら徒(いたずら)に日々を送っているようでは・・・そないな事では、仏法興隆とはとても言えませんでしょう。

日野資明 仏教の力によって人々を幸せに導く人、すなわち善知識(ぜんちしき)とは、自らの身命を惜しまず常に他人に仕え、人々に救いの手を差し伸べ、諸々の執着と自他の対立観を離れ、清浄な心をもって、日夜修行に励むべし。

日野資明 そやのに、今の禅宗の姿はどうですか! 天皇陛下や皇太子殿下の御所でさえも、昨今の財政事情悪化ゆえに、あばらや同然、なのに、禅宗寺院は、玉の楼閣、黄金の御殿。大臣諸公は、木の実を食べ、草の衣を着ているが、禅宗僧侶は、山海の珍味を食し、身にはトップモードのオートクチュール。禅宗の祖師のダルマさん、こんな生活してはりましたんか?

日野資明 昔、インドのマガダ国に、一人の僧侶がいたんやそうです。

日野資明 彼は毎朝、東の方を向いては、面に歓喜をたたえて礼拝し、北の方を向いては、溜息をついて涙を流しとったんやそうな。ある人が彼に問いました、「あんた、いったいなんで、そないな事してはるんですか?」。僧侶は答えていわく、「東の方の山中にはな、智慧の光輝き、戒を守ること厳重なる一人の僧がおられるのや。樹下の石の上に座して、既に覚りを開いてから年久しい。そこは、仏教が興隆してる地、そやから、私はそちらを向いて礼拝してる。

日野資明 かたや、北の方には、ある都市があって、そこに寺院がある。数十の堂塔が甍(いらか)を並べ、仏像経文、金銀を鏤(ちりば)めておるわ。ここに住する百人千人の僧俗は、飲食(おんじき)衣服、何ひとつとして欠く所はない。そやけどなぁ、その寺の中には、如来の正法を究めてるもんは一人もおらん。そちらの場所においては、仏法は滅亡の危機に立ち至っている。そやから、毎朝溜息をついてるんや。」

日野資明 ねぇ、こういう事ですやん・・・。いかに立派な寺を作ってみたところで、人々の煩(わずら)いや嘆きのみ有ったんでは、何の益もないでしょう。

日野資明 かたや、壮麗華美をつくした禅宗寺院、かたや衰微しきった朝廷。まことに、嘆いて余りあります。こういう現状を憂えるからこそ、延暦寺は、朝廷にしきりに訴えてきとりますのや。延暦寺の主張はまさに、正論以外の何ものでもない、彼らには何の咎もありません。彼らの主張に我々は耳を傾け、自らへの戒めとすべきではないでしょうか!

憚る所なく言い放つ、日野資明である。

閣議列席メンバー一同 ・・・。

真っ向から対立する二人の主張の双方いずれにも一理あるように思え、閣議列席メンバーらは、ただただ、沈黙を守るのみであった。

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しばしの沈黙の後、

中院通冬(なかのいんみちふゆ) やれやれ、お二方のご主張は完全に相反しとりまんなぁ。妥協の余地はまったくないようです、ハァー(溜息)

閣議列席メンバー一同 ・・・。

中院通冬 延暦寺は、いろいろと言うてきてますけど・・・そやけどな、今回の問題の本質はですなぁ、ようは、禅宗が正法なんか邪法なんか、いったいどっちやねん? これに尽きると思うんですわなぁ。

閣議列席メンバー一同 ・・・(うなづく)。

中院通冬 ここはね、いっちょ、宗教論争をやらせてみては、どないでっしゃろ? 禅宗側と旧仏教側、双方から高僧を招いてね、議論を戦わさせるんですわ。そないでもせん事には、この問題、どこまで行っても決着つけれませんでぇ。

閣議列席メンバー一同 ふーん・・・。

中院通冬 こういった宗教論争はな、インド、中国、日本にも、過去に例が多数あるんですよ。例えば、インドでは、あの有名な祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)建立の際の逸話がありまっしゃろが。わたいな、朝廷での勤務の余暇・・・いやいや、余暇はないな・・・勤務のひま見てですな、「賢愚因縁経(けんぐいんねんきょう)」を開いて勉強してみたんですがな、そこに、こないな話がのってましたでぇ。

(以下、中院通冬が紹介した故事逸話)
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むかしむかし、釈尊(しゃくそん)が、インドのコーサラ国において、広く仏教を説いておられた時の事。その国の大臣に、スダッタ長者という人がいた。

スダッタは、釈尊の教えに深く帰依していたのだが、ある日、一念発起した。

スダッタ よし! 拙者(せっしゃ)不肖の身ながら、釈尊とそのお弟子方らのために、この国に精舎を一つ建立し、その中に、み仏を安置したてまつらん!

精舎用地の選定のため、スダッタは、釈尊の高弟・サーリプッタ(注19)と共に、あちらこちらの村の園林を見てまわった。そしてついに、「まさにここ!」というような所が見つかった。

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(訳者注19)釈尊の十大弟子の一人で、「智慧第一」と称された人。サンスクリット語では「シャーリプトラ」であるが、一般に広く知られているパーリー語の「サーリプッタ」を用いて表記した。「シャーリ」は、は彼の母の名前であり、「プトラ」は、「息子」の意であるのだそうだ。
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スダッタ この園林の所有主は、どこのどなたかのぉ?

村人 はい、皇太子殿下でごぜぇやす。

スダッタ なに、皇太子殿下とな? プラセーナジット王(注20)の皇子、あのジェータ太子殿下(注21)が、この園林を所有しておられると申すか?

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(訳者注20)「プラセーナジット」(サンスクリット語)、「パセーナディ」(パーリ語)。日本の仏教書には、「波斯匿王」と表記されている。

(訳者注21)日本の仏教書には、「祇陀(ぎだ)太子」と表記されている。
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村人 おおせの通りでごぜぇやす。殿下はよく、ここにいらっしゃいましてな、禅定(ぜんじょう)に入られたり、散策を楽しんだりしておられますじゃ。

スダッタ 精舎を建てるにふさわしき土地、ここをおいて他にはない。譲り渡して下さるように、さっそく太子とかけあってみようぞ。

スダッタは、太子のもとを訪れた。

スダッタ ・・・と、いうわけでしてな、殿下、なにとぞ、あの地を、私めにお譲り下さいませ。

ジェータ太子 ・・・うーん・・・あの園林をそちに譲れとな・・・これはちと、無理な話じゃのぉ。

スダッタ 殿下、そこをなんとか!

ジェータ太子 あの園は、わしが大いに気にいっておる場所でなぁ・・・あの中を散策しておるとな、わしは何ともいえん良い気分になってくるのじゃよ・・・心がゆったりと、のびやかになってくるのじゃよ・・・そうそうたやすく、そちにあの地を譲るわけにはいかん。

スダッタ 金ならば、いくらでもお出ししますぞ。

ジェータ太子 うーん・・・(ニコリ)よし、ならばこうしよう。あの広大な園の敷地をな、黄金で残す所なく敷きつめてみよ。その黄金全てとならば、あの土地と交換してもよいわ。

太子の側は、単なる戯れに出した言葉であったのだが、スダッタの方は、しんけんそのもの。

スダッタ 分かりもうした、では、さっそく!

スダッタは、自家の数個の倉庫を開き、黄金を運び出して象に背負わせ、園林へ向かった。

園林に到着するやいなや、

スダッタ それぇ! この園の地面のことごとくを、この黄金で覆い尽すのじゃ! ものども、かかれえぃ!

スダッタ家の召し使い一同 ヘェーイ!

スダッタ家の召し使いリーダー よぉし、一列に並べぇ!

スダッタ家の召し使い一同 ほいほい!

スダッタ家の召し使いリーダー バケツリレー開始ぃー! 一(ひと)つめー!

スダッタ家の召し使いA 一(ひっとつ)っとせぇー(金板αをつかんで、隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いB 他人(ひと)を救(たす)ける ためなっらばぁー(金板αを隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いC 金銀財宝(金板αを隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いD ドンッと出すぅ!(金板αを地面に置く)

金板α ドス!(地面に置かれる音)

スダッタ家の召し使い一同 そいつぁ ゴウキ(豪気)だねぇ そいつぁ ゴウキだねえぇー!

スダッタ家の召し使いリーダー 次、二つめいけー!

スダッタ家の召し使いA 二(ふったつ)っとせぇー(金板βをつかんで、隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いB フマン(不満)たらたら グチばっかりぃ(金板βを隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いC こぼす人生(金板βを隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いD おっさらばだぁ!(金板βを地面に置く)

金板β ドス!(地面に置かれる音)

スダッタ家の召し使い一同 そいつぁ ゴウキ(豪気)だねぇ そいつぁ ゴウキだねえぇー!

このようにして、ついに、園の全土、面積80項のことごとくが、黄金で敷き詰められてしまった。

スダッタ 殿下、ご覧ください。お約束通り、黄金を敷き詰めましたぞ。さ、お受け取りくださいませ。

ジェータ太子 ・・・スダッタ・・・。

スダッタ 殿下、どうか、あの園を私めに。

ジェータ太子 スダッタ・・・この黄金を、そちの倉の中に収めよ。

スダッタ 殿下、何をおっしゃる! お約束ですぞ!

ジェータ太子 あれはな、戯れに言ってみたに過ぎぬ。そちは大願を発して、精舎を建てんがため、わしにこの地を請うた・・・わしがこの地を惜しむはずがあろうか・・・わしはなぁ、この地、そちに、タダで譲り渡そうと思う・・・その黄金は、精舎の建物の建立の費用に使うがよい。

スダッタ (首を横に振り)ありがたきお言葉ではありまするが、殿下、国を保つ太子ともあろうお方が、戯れにもせよ、妄語(もうご)を発してなんといたしますか!

ジェータ太子 ・・・。

スダッタ 不肖スダッタ、国王陛下よりの信任を頂き、臣としてお仕えする身、食言は絶対に許されませぬ! 出すと、いったん言った以上、この黄金、もはや拙者のものではない! 黄金を返すなどと言われても、受け取れませぬ!

ジェータ太子 スダッタ!

スダッタ よし、かくなる上は、この黄金、どこぞの断崖絶壁から地中に捨てるまでのことよ! ものども!

ジェータ太子 待て、待てぃ、スダッタァ!

スダッタ ものども、この黄金をな、

ジェータ太子 待てい、スダッタァ、待てぇいぃぃぃーーー!

スダッタ ・・・。

ジェータ太子 わかったぁ! この黄金、わしがもらい受く! たった今からこの園林は、そちのものじゃぁ!

スダッタ 殿下、殿下ァーッ!

ジェータ太子 わしのこよなく愛して止まぬこの美しき園林にな、世にもたぐいまれなる立派な精舎、みごとに建ててくれぇい、スダッタァーッ!(感涙)

スダッタ かぁたじけありませぬゥーッ! ウ、ウ、ウ・・・(感涙)

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このニュースを聞きつけた6教団(注22)の者たちは、プラセーナジット王のもとへやってきて、訴えた。

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(訳者注22)原文では、「六師外道」。
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6教団メンバーA 陛下、我らの聞き及びますところによりますれば、ジェータ太子殿下は、スダッタに、某園林をお譲りになられたそうですな。スダッタはそこに、かのシャモン・ゴータマ(注23)の為に、精舎を建立する計画とか。

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(訳者注23)釈尊のお名前。「シャモン」は修行者の意。
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プラセーナジット王 ほう、それはまた・・・。

6教団メンバーB 陛下、まさか、その計画をご承認なされるような事、ありますまいな?

プラセーナジット王 うん?

6教団メンバーC そのような事をお許しあっては、世のためになりませぬ。国の弊(ついえ)、民の煩(わずらい)を招くのみならず、世を失い、国を保つことあたわざる結果となりましょうぞ。速やかに、スダッタの計画を禁止されんこと、おん願い奉ります。

プラセーナジット王 うーん・・・よしわかった、よく考えてみる。今日のところは、一応、聞き置いておく。

6教団メンバーA 陛下、くれぐれも・・・。

プラセーナジット王 わぁかったと、言っておるではないか!

プラセーナジット王は困ってしまった。6教団側の言い分ももっともに思えたが、かといって、スダッタの大願を無に帰せしめる気にもなれない。

プラセーナジット王 よし、こうしよう! ゴータマ側の弟子代表と、6教団側の弟子代表を王宮に招いてな、その神通力を競わせてみるのだ。どっちが勝つかで、今回のこの問題の決着をつけよう。

これを聞いたスダッタは、

スダッタ ふふん・・・見て驚くなよ。6教団の者らの神通力などな、釈尊の高弟のそれに比べたら、わしの足の毛一本ほどのものじゃよ。いや、それ未満かな? ムハハハハ・・・。

やがて、王宮より、「期日を定め、両者の神通力の勝劣を国王陛下がご覧ぜらる」との宣言が発表された。

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いよいよ、その日がやってきた。

王宮では、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして、見物の衆を集合せしめた。コーサラ国中、仏教に帰依する3億の人々が、行競(ぎょうくらべ)の場に定められた宮庭にことごとく集まり、膝を重ねて座に連なった。

次に、その場に、6教団側の門徒たちが雲霞のごとく、続々参集してきて着座した。

スダッタ (ヒソヒソ声)はて・・・サーリプッタ殿は、いかがした?

スダッタ家召し使いD (ヒソヒソ声)菩提樹の下で、まだ禅定を続けておられます。

スダッタ (内心)相手側は、もう出揃っておるのに・・・。

6教団メンバーE こちらは全員そろったぞ。そちらの側の代表は、まだか!

スダッタ ちょっと待ってくれ、今、仕度を調えておるのでな。

6教団メンバーF 仕度? えらく時間がかかっておるのぉ。普段からの神通力エネルギー蓄積が、チト少なすぎるのではないかのぉ?

6教団側門人一同 ワハハハ・・・。

6教団メンバーG ゴータマの側の代表は、いったい誰じゃ?

スダッタ サーリプッタ様である。

6教団メンバーG ふーん、サーリプッタか。

6教団メンバーE こちら側の今日の代表は、最高の行者ぞろいじゃでな、あの男もオソレをなして、どこかへ逃げていってしもうたのかも。

6教団側門人一同 ワハハハ・・・。

その時、サーリプッタは、禅定の座から、すっと立った。

衣服を整え、布を左の肩にかけ、行競べの場に向かって、ライオンのように厳かに歩んでいく。

王宮のメンバーH サーリプッタ殿ぉ、到着ぅーーー!

一斉に、どよめきが起った。

仏教信者たち おお、サーリプッタ様が、あれに・・・。

プラセーナジット王 来たか!

スダッタ (内心)よーし!

無言のまま、行競べの場に歩み入るサーリプッタ。

仏教信者たち ・・・(五体投地:ごたいとうち:注24)

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(訳者注24)額、両肱(ひじ)、両膝の計5箇所の身体の部分を地につけて礼をする。
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この時、思わず、6教団の者たちも、サーリプッタの威厳に打たれ、彼の前に、

6教団の者たち全員 ア、ア、ア・・・(五体投地)

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双方の座が定まった後、6教団側の代表、ロウトシャが、会場に歩み出た。

ロウトシャ さぁ、いくぞ!

サーリプッタ ・・・。

ロウトシャは、虚空を仰ぎ、目をつむり、呪文を唱えた。

ロウトシャ DPHX&R=)IIFS・・・。(注25)

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(訳者注25)呪文は、公の場に明らかにすべきではないようなので、このように暗号で書いた。ただし、訳者は6教団の呪文を知らない、太平記原文にも記載されていない。
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ロウトシャが呪文を唱え終えるやいなや、まことに不思議な事に、天空に突如、巨大な樹木が現れた。

やがて、春の温かい風が吹きはじめ、その樹木から花びらを散らしはじめた。

次に、急激なる気温の低下。降りた霜が、みるみる葉を枯らしはじめる。

人々は、夢を見るような思いの中に、それをただ、見つめるばかり。

その時、サーリプッタ、口をすぼめて、

サーリプッタ フッ!

彼の口から噴出した息は、たちまち大旋風と化し、巨大なる幻の樹木に襲いかかった。

樹木 バリバリバリ・・・ドシャーン!

旋風にあおられた樹木は、根こそぎ空中に舞い上がった後、地上に倒れた。

見物の人々 おお!

ロウトシャ ふふふ・・・なかなか、やるではないか。よし、ならば!

再び空を見上げながら、ロウトシャは、呪文を唱えた。

ロウトシャ WP8HF4==#NV!

たちまち、周囲300里もあろうかという池水がにわかに湧出、宮庭一帯はことごとく、七宝の霊池と化した。

見物の人々 オオオオオオ・・・。

サーリプッタは、目を上げて、遥か天のかなたを見つめた。すると、6本の牙を持つ1頭の白象が、空中より下ってきた。

それぞれの牙の上に七宝の蓮華が生えていて、その花の一つ一つの上には、玉のような7人の美女が載っている。象は舌を伸べ、

象 グビリ、グビリ、グビリ・・・。

あっという間に、その池水を飲み尽くしてしまった。

見物の人々 うわぁ!

ロウトシャ ヌヌ、おぬし、できるな!

再び空を見上げながら、ロウトシャは呪文を唱えた。

ロウトシャ 9URMBGDDDDDD!

今度は三つの大山が現われた。その上には、百余丈もの樹木が生えている。雲のように花が咲き、玉のような実が連なっている。

見物の人々 うおぉーーー!

サーリプッタは手をあげて、空中より何者かを招くしぐさをした。

すると、一人の仁王(におう)が現われた。

仁王は、金剛杵(こんごうしょ)を振るって山を一撃、

金剛杵 ヴァシーン!

大山は粉微塵に砕け散ちった。

見物の人々 あわわわ!

ロウトシャ これでどうだぁ! JORQBFYDQQQQQQQ!

10個の頭を持つ巨大な龍が、雲中から下降してきた。雨が降り、雷が鳴り出す。

見物の人々 うわあああ!

またもや、サーリプッタは頭を上げて、空中を凝視した。

一羽の巨大なカルラ鳥が飛来して、龍に襲い掛かった。

カルラ鳥 キュェーン!

大龍 ギャオー!

見物の人々 うああ、こりゃすごいー!

あっという間に、カルラ鳥は大龍を裂き食らってしまった。

ロウトシャ ええい! PPPRRREEEYYY$$$!

肥え太った大力の鉄牛が、一頭現われた。

鉄牛 ウグモーーー! ウグモーーー!

鉄牛は、地上を這い回りながら吠え、怒る。

見物人一同 キャアー!

サーリプッタ トットッ!

猛り狂った鉄のライオンが現れて、鉄牛に襲いかかった。

鉄ライオン ガオー!(バリバリバリ)

鉄牛 ギュヒーン!

鉄ライオンはまたたく間に、鉄牛を食い殺してしまった。

ロウトシャ これでもか! ZDXFCGVHBKNL!

身長10丈余りほどもある一匹の鬼神が出現した。頭上から火を吹き、その炎は、天までも上がる。四本の牙は剣よりも鋭く、眼は日月のごとく輝いている。

見物人一同 キャアーーー!

その場にいた者はみな倒れ伏し、恐怖のあまり魂も消えんばかり。サーリプッタただ一人、黙然と座し続けている。

たちまち、巨大な天神が現れた。かの四天王中、北方を護る多聞天(たもんてん)である。身には金色の鎧を着し、手には魔性降伏(ましょうごうぶく)の矛を持っている。

多聞天が睨み付けるやいなや、

鬼神 ウ、ウ、ウ・・・。

鬼神はおそれをなして、風のように逃げ去っていった。

にわかに猛火がまき起こり、炎が、ロウトシャめがけて襲いかかった。

ロウトシャ うぁぁーーーっ!

6教団の者たちは悉く、サーリプッタの前に倒れ伏し、五体投地しながら叫ぶ。

6教団メンバーE 願わくば、サーリプッタ尊者(そんじゃ)、慈悲(じひ:注26)の心を起して、我らを哀れみたまえ。

6教団の者たち全員 我ら今ここに、自らの罪を謝する事、かくのごとし。

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(訳者注26)「慈」とは、相手に楽を与えること、「悲」とは相手の苦しみを除くことである。
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これを見たサーリプッタは、慈悲と忍辱の心を起こし、多数の分身を現ぜしめ、18種類の神通を現した後、蓮華座(れんげざ)に着座した。

この一部始終を見物していた人々はことごとく、過去に積んだ福徳善根が今や善果を結び、随喜感動の念を起こし、6教団の門徒たちは全員出家して、仏教に帰依するようになった。

その後、スダッタの願望みごとにかない、かのジェータ太子の所有していた園林に、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)が建立された。厳浄(ごんじょう)の宮殿とも微妙(びみょう)の浄院とも言うべきその精舎には、ミロク菩薩をはじめ、極楽浄土の諸仏のことごとくが参集、人間や諸天人が日々、仏の教えを仰ぎ頂く仏教宣布の一大拠点となったのであった。
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中院通冬 ・・・というのが、インドにおける宗教論争の一例ですわ。

中院通冬 中国ではどないかと言いますとな・・・時は後漢(こうかん)王朝第2代、顕宗(けんそう)皇帝の時代に、こないな事がありましたわなぁ。

(以下、中院通冬が紹介した故事逸話)
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永平某年8月16日の夜、皇帝は不思議な夢を見た。太陽のごとき光明を帯びたシャモンが一人、皇帝の前にやってきて、空中に立ったのである。

その翌朝、起床するやいなや、皇帝は群臣を召して、

顕宗皇帝 昨夜、かくかくしかじかの内容の不思議な夢を、朕(ちん)は見たのじゃ。そなたら、この夢を何と解く?

傅毅(ふぎ) その御夢の意味、私めといたしましては、以下のごとく解釈いたしたく・・・今を溯ること数百年の昔、かのインドにおいて、「大聖釈尊(たいせいしゃくそん)」なる一人のブッダが現れたもうたとか。釈尊が説きたまいしその教法、やがてはわが国にも流布し、多くの人々がその化導(けどう)に預かる事とならん・・・陛下の見たまいし夢、まさにその前兆たる瑞夢(ずいむ:注27)なりかと。

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(訳者注27)めでたい夢。
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はたせるかな、それから間もなく、インドから、マトウとジクホウランがやってきて、仏舎利(ぶっしゃり:注28)と42章からなる仏典を中国にもたらした。

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(訳者注28)釈尊の遺骨の一部。
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これ以降、皇帝は、仏教を尊崇する事この上なし、という状態となった。

これを見て、老荘の道(ろうそうのみち:注29)を尊んで虚無(きょむ)自然の理(しぜんのことわり)を専らにする道教(どうきょう)家たちは、皇帝の前で激しく仏教を批判していわく、

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(訳者注29)老子と荘子の教え。
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道教家I わが国におきましては、太古・五帝三皇(ごていさんこう)の時代以来、歴代の帝王は、儒教をもって仁義を治め、道徳をもって純朴なる心を修したもうてまいりました。

道教家J しかるに、今、マトウらは、釈氏(しゃくし:注30)の教えを我が国に伝え、彼の遺骨が何よりも尊いものであるかのように、説いて回っておりまする。

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(訳者注30)「シャカ族出身の尊い方」との意をこめて、仏教徒は「釈尊」と呼ぶのだが、道教側からは、「釈氏」との呼称となるのであろう。
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道教家I 彼らの布教活動を、放置しておいてはなりませぬ。彼らを野放しにしておいたのでは、学徳兼備の儀に背くことになりましょうぞ。「徳をもって世を治むる」の道にも違(たが)う結果となりましょう。

道教家J 速やかに、マトウらを流罪に処せられ、わが国の宗教のあり方を、旧きよき時代、天地開闢(てんちかいびゃく)以前の状態に復せしめられまする事、ここに、こい願いたてまつりまする。

この訴えを受けて、皇帝は、

顕宗皇帝 なんじらがそこまで言うのであればな、ひとつ、道教修行者と仏教修行者とを召し合わせての、その威徳の優劣を、じっくりと見てみるとしようではないか。

というわけで、皇宮の東門に壇を高く築き、行競(ぎょうくら)べの日時を定めた。

いよいよ、その日がやってきた。

道教側3,700人は、椅子を連ねて西に向かって着座し、マトウ法師は東を向いて、草座(そうざ:注31)の上に座した。

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(訳者注31)法会(ほうえ)の時、仏前に座す長老の用いる座具の一種。「茅座」ともいう。釈尊が菩提樹下に悟りたもうた時、吉祥草(きっしょうそう)(香茅)を敷ける故事にならうもの。後世用いる物は四周に糸を垂れて吉祥草に模倣している。(以上、「仏教辞典 大文館書店刊」より)。
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道教家I さてと、いかようの行をもってして、勝負を決せようぞ?

マトウ 天に上ぉり、地に入るぅ、山を裂ぁき、月を握ぃる、で、どうでっしゃう?

道教家J (ヒソヒソ声で)なんと!

道教家K (ヒソヒソ声で)してやったり!

道教家L (ヒソヒソ声で)天に上り、地に入り、山を裂き、月を握るだと? なんの事はない、朝な夕な、我らがやっておる行ばかりではないか。こんなの、わけない、わけない。

道教家I マトウからの提案、承諾しても問題なかろう?

道教家一同 問題なし!

道教家I よろしい、その術でいこう。

道教家J そちら側の代表は誰じゃ?

マトウ法師 わったくしでぇす。

道教家I 心得た!・・・では、いくぞ。

玉晨君(ぎょくしんくん)を礼し、柴と萩を焚き、息をいっぱい吸い込み、鯨の泳ぐ淵を脳裡に思い描きながら、

道教家I 天に昇るぞ、エエエーーイ!

見物人一同 ・・・。

道教家I (内心)おかしいな・・・術がきかん。

道教家I 地に入るぞ、ヤアーーー!

見物人一同 ・・・。

道教家I (内心)ムム、術が・・・術がきかんではないか!

道教家J おい、どうした?

道教家I 山よ、裂けよ、トオーーー!

見物人一同 ブツブツブツブツ・・・。

道教家I (内心)いったいどうしたというのだ、術がきかんではないかぁ!(冷や汗)

道教家J (内心)おかしい・・・。

道教家I 月を・・・つかむぞ、ムーーーーン! あぁ・・だめだ!

種々の仙術もすべて仏力に押されて、効力を発揮しえなくなってしまったのであろうか。

見物人一同 ワイワイガヤガヤ、ピィーピィー、ブーブー、ワハハハ(手を打って大笑い)

道教家たちが、面を垂れて意気消沈してしまったと見るや、マトウは、瑠璃(るり)の宝瓶(ほうびょう)に仏舎利を入れ、左右の手でそれを捧げ持った。その瞬間、マトウの姿が、公衆の面前からかき消えてしまった。

見物人M ややや、マトウが見えなくなってしもぉたぞ。

見物人N マトウはいずこに?

見物人O 空を見ろー!

見物人一同 アアッ!

なんと、虚空百余丈の上空に、マトウの体が浮かんでいるではないか。何かの下にぶら下がっているわけでもない、何かの上に載っているわけでもない。完全浮遊状態である。

見物人N あの光は、いったい・・・。

マトウが捧げ持つ仏舎利は光明を発し、その光は一天四海を照らし、皇帝が座する金帳(きんちょう)の裏、その背後の屏風までをも光り輝かせ、皇帝、諸侯、高官、諸官僚、万民ことごとく、金色の光を反映して輝いている。

皇帝は、玉座から下り、マトウに向かって五体投地(ごたいとうち)した。皇后、公卿、官僚ことごとく、信仰(しんごう)の首(こうべ)を地につき、随喜(ずいき)の涙に袖を濡らす。

仏教に対立していた道教家とその信者たち3,700余人は、即時に出家し、マトウの弟子となった。

そして、白馬寺(はくばじ:河南省・洛陽県)が建立され、その後、仏教は中国全土に弘通、合計1,703箇所の寺院が建立されるに至った。

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中院通冬 このようにして、仏教は中国に広まり、今に至るまで流布してるんですわ。

中院通冬 さてと、我が国においては、どないな例があるかといいますとな・・・。

中院通冬 村上(むらかみ)天皇の御代、応和(おうわ)元年(961)にな、天台(てんだい)宗と法相(ほっそう)宗の各々の本山から高徳の僧侶を宮中に招いて、宗教論争をさせはった事がありました。

中院通冬 天台宗側の代表は、延暦寺(えんりゃくじ)横川(よかわ)エリアの慈慧僧正(じえそうじょう)。法相宗側代表は奈良の興福寺(こうふくじ)松室(まつむろ)の仲ゼン法師。

(以下、中院通冬が紹介した故事逸話)
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論争の当日、仲ゼンは、奈良を出発して京都へ向かった。

途中、木津川(きづがわ)にさしかかったのだが、あいにくの増水。しかし、舟も橋も、付近には見当たらない。

川のほとりに輿をすえて、

仲ゼン まいったなぁ。どないしたらえぇんや。

そこへ、怪しげなる老翁が一人現れていわく、

老翁 いったい、どないしはったんですか?

仲ゼン いやな、御前での宗教論争に召されて御所に向かってやってきたものの、この増水や・・・。しょうことなしに、水が引くのをじっと待っておるんですよ。

老翁 やれやれ・・・。水は深し、智は浅し、魚や水鳥にも力及ばず・・・。そないな事では、宗教論争なんか、とてもとても・・・はははは。

仲ゼン ムムッ!

仲ゼン (内心)まさに、真理をつく言葉・・・水は深し、智は浅し、魚や水鳥にも力及ばず・・・この翁の言う通りや。よし!

仲ゼン (僧形の輿かきたちに対して)輿かついで、川に入り!

輿かき えぇっ・・・そんなムチャな。

仲ゼン えぇから、入り!

輿かき そこまで言われるのならば・・・。

思い切って、輿を川にかつぎ入れた瞬間、おびただしい川水が左右にバァット分かれ、大河もにわかに陸地と化した。一行全員、足を濡らす事もなく、木津川を渡りきる事ができた。

その頃、慈慧の方も、川水に行く手を阻まれていた。比叡山(ひえいざん)西側山麓の下松(さがりまつ:左京区)のあたりまで車を迎えにこさせ、御所に向かったのだが、鴨川の岸でストップしてしまった。川水は増水し、逆波が岸を茫々と浸している。

牛童(うしわらわ)が牛車(ぎっしゃ)の轅(ながえ)を持ちながら、呆然と立ち尽くしていたその時、水の中から一頭の水牛が姿を現し、川を泳ぎ来たり、車の前にやってきた。

喘(あえ)ぎながら立っている水牛を見て、慈慧は、

慈慧 そうや!(パンと手をたたき)

慈慧 この車の牛をな、その水牛ととりかえてな、川の中に車を入れなさい。

牛童は命に従って水牛に車を懸け、一鞭くれるやいなや、水牛は飛ぶがごとく走りだして、鴨川へザブン。

不思議や不思議、水牛の引く車は川の中をひた進み、車の轅を水に濡らす事もなく、波の上30余町を一気に駆け抜けていった。

車はそのまま御所に向かい、陽明門(ようめいもん)の前で、水牛はかき消すように消滅してしまった。

かたや仲ゼン、かたや慈慧、共に、仏菩薩の化身ゆえ、このような奇跡が起こっても不思議ではないといえばそれまで。しかしそれにしても、類まれなる出来事ではある。

さぁいよいよ、天台対法相・宗教論争の開始。

御所の清涼殿(せいりょうでん)に法座をしつらえ、問者(もんじゃ)、講師(こうし)、東西に相対した。村上天皇は南面して飾りのついた冠を被り、臣下は北面して、階下に冠をずらりと並べる。

法席定まった後、まず慈慧が、自宗派の重要テーゼ、「草木成仏(そうもくじょうぶつ)の義」を弁じた。

それに対して、仲ゼンは、以下のように反駁(はんばく)した。

仲ゼン わが法相宗では、「五性各別の理(ごしょうかくべつのり)」と申しましてな、一切万物は5種類に分かれる、と説いております。5種類とは、「菩薩定性(ぼさつじょうしょう)」、「縁覚定性(えんがくじょうしょう)」、「声聞定性(しょうもんじょうしょう)」、「三乗不定性(さんじょうふじょうしょう)」、「無性有情(むしょううじょう)」。

仲ゼン 前者3つのカテゴリーに属する者は、生まれる前に先天的に、このうちのどれかに生まれ落ちるように決定されてしもてます。ゆえに、「定性」といいます。このうち、仏になれるのは、「菩薩定性」のみです。

仲ゼン 次に、「三乗不定性」。「三乗」とは言うまでもなく、「菩薩」、「縁覚」、「声聞」のことです。「乗」とは、「衆生を悟りの彼岸に運ぶ乗り物」の意ですな。「三乗不定性」に属する者においては、「菩薩」、「縁覚」、「声聞」の中のいったいどれに生まれ落ちるかに関して、根本的な不確定性が存在します。ゆえに、「不定性」と申します。

仲ゼン 最後の「無性有情」。これは、前の4種のいずれにもなる可能性が皆無であるような存在の事をいいます。

仲ゼン 人間、動物、植物、万物は、この5種類のカテゴリーのいずれかに所属しております。どのカテゴリーに所属するかは、先天的、決定的、確定的でありまして、努力次第で所属カテゴリーが変化する、などというようなものではないのです。

仲ゼン さて、さきほど、慈慧殿は、「草木成仏」と説かれました。しかし、この「五性各別の理」をもってすれば、草や木が成仏するなど、到底ありえない事です。

仲ゼン たしかに、心を持たぬ草や木も、その中に仏性(ぶっしょう)を秘めてはおります。しかしながら、その秘められた仏性を顕現し、実際に仏となるためには、慈悲の心を起こしたり、他者に救いの手を差し伸べたり、真理を認識したり、といった、心や行いの持続が絶対に必要不可欠なのであります。しかるに、草や木は心を持ってはいません。ゆえに、成仏は不可能です。(注32)

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(訳者注32)原文では、「非情草木、理仏性を具すといえども、行仏性無し。行仏性無くんば、何ぞ成仏の義有らんや。」。
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仲ゼン ・・・お経典のどこかに、「草木成仏す」と書かれている、とでも言うのであれば、話は別ですけどねぇ。

慈慧 書いたりますでぇ、円覚経(えんがくきょう)にね!

 じごくてんぐう みなじょうどたり(地獄天宮 皆為浄土)
 うしょうむしょう ひとしくぶつどうをなす(有性無性 斉成仏道)

仲ゼン ・・・。

言葉につまり、しばらく口を閉ざしてしまった仲ゼン。

ところが、法相宗を擁護する奈良の春日明神(かすがみょうじん)が、助け舟を出した。明神は高座の上に姿を現し、かすかな声で仲ゼンに何やら耳うちした。

仲ゼン (内心)なるほど!

仲ゼン その、円覚経の漢文はね、そないに読んだらあきませんねん。こないな風に読むのが正しい。

 じごくてんぐう みなじょうどたらましかば(地獄天宮 皆為浄土)
 うしょうもむしょうも ひとしくぶつどうをなってまし(有性無性 斉成仏道)

つまり、「地獄や天宮が皆浄土であるはずがなかろう。もしそんな事が事実だとすれば、心を持つ存在も心を持たない存在も皆、仏になっているはずではないか。」と。

慈慧 な、なんと・・・。そないなムチャクチャな漢文解釈、仏教の世界では到底、通用しませんでぇ!

仲ゼン ・・・。

慈慧 一木(いちもく)一草(いっそう)各一因果(かくいちいんが)、一本の木も草も、それぞれその因があって果として生じたんや。山河大地同一仏性(さんがだいちどういつぶっしょう)、山も川も大地も皆、仏性を持っておる。

慈慧 「心を持たぬ草や木も、仏性(ぶっしょう)を秘めてはいる」と、先ほど仲ゼン殿は認められた。ところがその一方では、「いくら仏性を秘めていたとて、草や木には永遠に仏となる可能性は無い」と言われる。ではいったい、仲ゼン殿の言われる「中に秘められた仏性」とは、そもそもなんぞや? 「仏性」とは、「仏となる可能性」の事ではなかったのか?(注33) 「可能性を秘めている」のに、「可能性は無い」? 矛盾してますわなぁ。

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(訳者注33)「仏性」:サンスクリット語では"Buddhatva"。パーリ語では"Buddhatta"。成仏すべき本性、迷語によって改ることなく本来衆生に具はる仏たるべき性質をいう。即ち、衆生成仏の可能性である。(「仏教辞典 大文館書店刊」より)<
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仲ゼン ・・・。

慈慧 「仏となる可能性」を秘めている草や木が決して成仏はできない、というのであれば、「心ある有情(うじょう)なる存在」、すなわち動物や人間もまた、決して成仏できない、と言う事になりはしまいか? 「有情が成仏できる」という事の根拠は、「それが仏性を秘めている」という一点にのみ、求められるのであるがゆえに。

仲ゼンは、返す言葉も無く、しばらく沈黙していたが、

仲ゼン 草や木、心のない非情の存在が成仏するなどとは、到底信じがたい。まず、あなたが、今この場にて、成仏の証(あかし)を示してくださらんことには、私としては全く納得がいきませんなぁ。

慈慧 ・・・。

慈慧は、しばらく沈黙しながら座し続けた。

茶褐色の法衣がたちまち、宝玉をちりばめた柔軟な衣服に変じ、その肉身はにわかに変じて、黄金に輝きはじめた。彼の体から発せられる光は十方をあまねく照らし、宮庭の葉の落ちた樹木には、にわかに花が開き、温かい春風が吹き始めた。その場に列席の公卿らも、その身そのままに蓮華蔵(れんげぞう)世界の浄土にトランスポートし、妙雲相如来(みょううんそうにょらい)のみもとに至れるかと思われたほど。

これを見た仲ゼンは、嘲ったような顔をして、如意棒(にょいぼう:注34)を揚げ、席を叩いていわく、

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(訳者注34)僧侶が論議の時に手にとる棒。
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仲ゼン 止みなん 止みなん 説くべからず 我が法は妙にして思い難し(注35)。

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(訳者注35)法華経 方便品中の文。
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たちまち、慈慧の体から発していた大光明は消滅し、もとの姿に戻った。

これを見た藤原氏の公卿らは、

藤原氏メンバー一同 やっぱしなぁ、うちの氏寺、興福寺はんの法相宗が最高やでぇ。

このような、高慢な心を起して御所を退出しようとした彼らが、門外で目撃した不思議、それは一匹の牛のヨダレであった。

門外に繋がれた車を引く牛が、舌をたれヨダレでもって、門下の石だたみの上に、何かを描いていた。

見れば、一種の和歌がそこに。

 こころ(心)無い くさき(草木)さえほとけ(仏)に なれるとは こころ(心)有るみ(身)には 嬉しいかぎり

 (原文)草も木も 仏になると 聞(きく)時は 情有身(こころあるみ)の たのもしき哉(かな)

これすなわち、「草木成仏」の証歌。

というわけで、この日の宗論は引き分け、仲ゼン、慈慧、いずれを勝劣とも定めがたかった。

それもそのはず、仲ゼンは千手観音(せんじゅんかんのん)の化身、慈慧は如意輪観音(にょいりんかんのん)の化身であったのだから。その智慧と弁才、言説、いずれを取っても相手にひけを取るはずがない。まさに、かの中国の好敵手、雲間の陸雲が日下の荀隠と初めて相対した時もかくのごとくであったのだろうか。

かくして、「天台と法相、ともに仏教八宗の最頂たるべし」と決せられ、共に面目を施したのであった。
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中院通冬 このように、宗教論争も過去に色々と行われてまいりました。さて、問題の天台宗と禅宗間の仏教の正統争いですが。

中院通冬 そもそも、天台宗の法脈相承(ほうみゃくそうしょう)は、獅子尊者(ししそんじゃ)の時に、いったん途絶えてしもぉたんですよ。そのはるか後、唐王朝の大師・南山慧思(なんがくえし)が天台宗を復興し、以降、智顗(ちぎ)、章安灌頂(しょうあんかんじょう)、妙楽(みょうらく)が、自解仏乗(じげぶつじょう)の智を得て、金口相承(きんくそうしょう)を絶やさず続けてきたというわけで、天台宗はまさにこれを根拠として、自らを「正統仏教である」と主張しているわけでして。

中院通冬 この「金口相承」、まさに釈尊が教えたもうた事をそのままに、師から弟子へと相承してるんやという事らしい・・・まことに奇特な事ですわな。しかし、禅宗側はこれを、「釈尊からの直々の相承やなんて、確たる証拠もないくせに、えぇかげんな事言うとるわい」と批判してますわ。

中院通冬 一方の禅宗の側の「正統仏教」なる主張の根拠は、といいますと・・・。

中院通冬 ブラーフマ(注36)の願いを受けて、トウリ天において釈尊がご説法をされました時、花を手に取り、それを拈(ねじ)って見せられました。みんな、「いったいなんで釈尊は、あないな事をしはったんかいなぁ」と、首をかしげておりましたが、マハーカーシャパ(注37)のみ、その意味を覚り、ニッコリ笑った、という故事があるのです。これを「拈花瞬目の妙旨(ねんげしゅんもくのみょうし)」といいましてな、ま、いわば、「拈った花」というシンボルを使って、マハーカーシャパに対して、釈尊は以心伝心による法の伝達を行われた、という事ですかいなぁ。この教化が、禅宗の起源なんやと言うんですわ。

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(訳者注36)原文では「大梵王」。

(訳者注37)釈尊の十代弟子の一人。ズタ(欲を捨て去る行)第一と称せられた。第一回目の仏典結集(ぶってんけつじゅう)を主宰する等、釈尊入滅後の仏教の継承・発展に大いなる力を発揮した。
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中院通冬 ようは、禅宗の者らは、自らの正当性を、「釈尊からマハーカーシャパへ、そして、我らに伝えられた教え、それぞすなわち、禅宗なり」というテーゼでもって、主張しておるわけでしてなぁ。この「拈花微笑」の故事は、「大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)」に説かれておる話やと、禅宗の者らは主張しとりますわいな。

中院通冬 ところが、この経典、宋(そう)王朝の王安石(おうあんせき)が翰林学士(かんりんがくし)やった時に、秘して官庫に収めたんやが、その後どこぞに紛失してしもたんやと言うんですわ・・・。そこを他宗の者から鋭くつかれとりましてな、「そんな経典、ほんまにあったんかいやぁ?!」とね。

中院通冬 天台宗の側が禅宗を「あれは邪法や」と難じてきたからには、この際、以上に挙げたような宗教上の疑問点をも解明したいと、私は思います。そやから、ここはひとつ、禅宗、天台双方から高僧を召し合わせて、宗教論争を行わせてみては、いかがでしょう?

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坊城経顕、日野資明、中院通冬の順に述べられた三つの主張、いずれも是非は様々に分かれ、特失互いに備わっている。

閣議列席者P (内心)いやぁ、ほんまにこれは難しい問題やなぁ・・・わたいらみたいな下席のもんでは、こないな議論には、よぉついて行けへんなぁ。

閣議列席者Q (内心)考えれば考えるほど、誰の意見がベストが、さっぱり分からんようになってきてしもぉた。もうこないなったら、上席の方々に決めてもらうしかないなぁ。

全員、互いに顔を見合わせ、沈黙するばかりである。

二条良基(にじょうよしもと)いわく、

二条良基 八宗派分かれて、末流は道異なる・・・とはいうもんの、どの宗派の教えも、ライオンのごとき威厳をもって、自信をもって説かれた釈尊の教えに非ず、と、言うようなもんでもないんやろうなぁ・・・こちらの説を採り、あちらの説を捨てる、というようなすじあいのもんでは、ないんやろう。

二条良基 それになぁ、たとえ宗教論争をやらせてみたところで・・・天台宗は、「唯受一人の口決(ゆいじゅいちにんのくけつ)」、その教義の本当に深い所は、師資相承(ししそうしょう)、すなわち、師から弟子へ一対一でもって、口で伝えられていく。

二条良基 一方、禅宗はといえば、「没滋味の手段(ぼつじみのしゅだん)」。滋味を噛み砕いて弟子に教えていくような行き方ではなしに、難解な課題をいきなり与えて、自力でもって、それに必死で取り組ませる。

二条良基 ムリ、宗教論争なんてムリな話。双方に、互いに理を弁じ、奥義を談じさせてみたところでですよ、いったい誰が、その優劣を判断します? 双方の教義、その本質、わたいらのうち、いったい誰が、それを的確に理解できます?

閣議列席メンバー一同 ・・・。

二条良基 そらな、旧き良き時代であれば、マトウのように、虚空の中に立てる人もおりましょう、慈慧大師のように、即身成仏できる人かておりましょう。そやけどね、今は末世、見ての通りのこないな世の中ですやん・・・。如来の説きたもうた尊い教えも、この現代の宗教論争の場においては、いたずらなる詭弁に堕してしまう、ダルマ大師の精神でさえも、叫騒怒張(きょうそうどちょう)の中に埋没してしまうだけやないか・・・。

二条良基 宗教論争っちゅうもんはなぁ、そらもう、やっかいなもんやでぇ。こないな話を聞いた事がありますわ。

二条良基 釈尊のご入滅から1,100年の後、インドに、ダルマパーラ(Dharmapāla:護法)と, バヴィヤ(Bhavya:清弁)という二人の菩薩が現われたんやそうや。ダルマパーラは、法相宗の元祖(がんぞ)にして、「有相(うそう)の義」を談じ、バヴィヤは三論宗(さんろんしゅう)の初祖にて、「諸法無相の理(しょほうむそうのり)」を宣説した。(注38)

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(訳者注38)太平記のこの箇所の記述については、訳者注45 に書いた。
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二条良基 双方の門徒は、互いの是非を論じ合っておった。そしてついに、ダルマパーラとバヴィヤはあいまみえ、「空か有か」の宗論を戦わせはじめた。

二条良基 議論は7日7夜続き、ともに、プンナ(注39)のごとき弁舌をもって、その智は三千世界を傾ける。二人の論戦を聞いて、無心の草木も随喜して時ならぬ花を開き、人を恐れる鳥獣も感歎しながら議論に聞き入り、その場を去ろうともせん。

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(訳者注39)仏教界ではよく、[富楼那(ふるな)]という表記で表現される。釈尊の十大弟子中の一人で、「説法第一」とされた人。
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二条良基 論争はついに終止符を打つことなく、双方の法理、互いに一歩も譲らへん。「こないなったら仕方が無い、56億7千万年の後、ミロク菩薩がこの世に出生したまう時に、再びあいまみえ、この論争に決着をつけよう」と言う事になり、ダルマパーラは、蒼天(そうてん)の雲を分かちて遥かトソツ天に上り、バヴィヤは、青山(せいざん)の岩をつんざき、シュラ洞窟に入った。

二条良基 その後、華厳宗(けごんしゅう)の祖師、法蔵(ほうぞう)が、中国の唐時代にこの「空か有か」の論争の内容を聞いていわく、

 「色即是空」と書いたならば、ダルマパーラの説いた「有」の主張にも通じていくし、
 「空即是色」と書いたならば、バヴィヤの説いた「空」の理論にも反しない。

このように主張して、双方の宗旨を、アウフヘーベン(aufheben:止揚)した、というんですわ。

二条良基 遠い昔の菩薩でさえも、宗教論争始めたら、かくのごとし。ましてや、この現代、末法の世に生きてる僧侶を招いて、宗教論争させてもなぁ・・・。

二条良基 それにやね、近頃は、国の事は、大きな事から小さな事まで、何事も幕府に決定させて、天皇陛下におかせられてもノータッチ状態。そやからね、延暦寺がどないな事を言うてきとるにしてもや、まずは幕府に諮問(しもん)してや、その返事を聞いてから、陛下の御聖断を仰ぐと・・・まぁ、これが無難なセンとちゃいますかいなぁ。

閣議列席メンバー一同 ・・・。(うなずく)

この意見、満場一致の同意を得て、その日の閣議は終了した。(注40)

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(訳者注40)「ここまでの議論、いったいナンやったん(なんだったのか)!」と、訳者としては言いたくなる。太平記原文に記載のこの閣議の議事録、これもまた史実ではないのかもしれない、フィクションかもしれないぞ、と自らに言い聞かせながらも・・・。

14世紀の日本において、すでに、現代にもあるこのような、「問題、先送り」の構造が存在していたのか? いや、「問題、先送り」ではなく、「問題、幕府送り」か・・・。

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翌日、朝廷から足利幕府に対して、延暦寺(えんりゃくじ)からの抗議文を添えて、「これに対しては、いかが取り計らうべきか」との諮問(しもん)が行われた。

抗議文を見た足利兄弟は、

足利直義(あしかがただよし)まったくもう! 延暦寺の連中ときたら!

足利尊氏(あしかがたかうじ) うーん・・・今回の天龍寺(てんりゅうじ)での法要に対して・・・いったいぜんたいどうして、こんなケチをつけてくるんだろう?・・・いったい何が、気に食わないって言うんだぁ?・・・分からんなぁ・・・。

足利直義 天龍寺を建立し、そこの僧侶たちを尊んだとて、それでいったい、延暦寺にどんな損害が及ぶってんでしょうかねぇ! べつに、延暦寺の領地を取り上げようとしてるわけでもないでしょ、衆徒を煩わすような事を強いてるわけでもないでしょ、ただ単に、朝廷と幕府と共同で、仏法に帰依しての大法要を営もうってだけの事じゃないですか!

足利尊氏 ・・・同じ仏教徒どうしなんだもんなぁ・・・天龍寺の法要を、共に喜んでくれたっていいじゃぁないのぉ・・・。

足利直義 そうですよ! なのに、ジャマばっかりして! まったく理解に苦しむなぁ。

足利尊氏 ・・・彼ら・・・言い分が聞き入れないとなったら・・・またまた例のごとく、御輿(みこし)をかついで押し寄せてくるんだろうなぁ・・・どうする?

足利直義 兵を出動し、彼らが京都へ乱入してくるのを、防ぎ止めるまで!

足利尊氏 ・・・ふーん・・・もしも、道中に神輿(しんよ)を振り捨てていったら?

足利直義 京都内のそこら中に、延暦寺・関係の金融業者がたぁくさん、いますからねぇ、そこからちょいとばかり金、出させて、新しい神輿を作らせたらぁ?(注41)

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(訳者注41)原文では、「京中にある山法師の土蔵を点じ、造替させんに何の痛みか可有」。
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足利尊氏 ハハハハハ・・・そりゃぁいいな。

足利直義 「こんな根拠のない理不尽な抗議など一切相手にせず、天龍寺において荘厳なる供養法要を執行すべきです」と、朝廷には、このように回答申し上げておこうと思います。それでよろしいですよね?

足利尊氏 うん。

「幕府より、かようの回答がなされた。朝廷においても、それに対しては一切異議は無し。」との厳重なる決定により、例の抗議文は廃棄処分となってしまった。

延暦寺の衆徒たちは、完全に面目を失い、空しく比叡山に帰っていった。

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延暦寺三千の衆徒たちの、怒りは頂点に達した。

衆徒一同 強訴(ごうそ)やぁーーー!

康永(こうえい)4年8月16日、彼らは、比叡山(ひえいざん)上の三社の神輿(しんよ)を、根本中堂(こんぽんちゅうどう)に上げ奉った。

八坂(やさか)と北野(きたの)の両社の門は閉ざされ、獅子舞や田楽舞を舞う法師や、神社に勤務する者たちまでもが大挙して、延暦寺に集合してきた。

比叡山上、老若問わず、異常な興奮状態になっている。

延暦寺衆徒リーダーR 朝廷からも幕府からも、我々の意向は完全に無視されてしもぉたぞ!

延暦寺衆徒リーダーS わが寺にとっての、非常時や、非常時や!

延暦寺衆徒リーダーT 今まさに闘いの時来る! ここをどう闘い抜くかで、わが寺の将来は決まるぞ!

延暦寺衆徒リーダーU しかし・・・。

延暦寺衆徒リーダーR 「しかし」? いったいなんやねん!

延暦寺衆徒リーダーS いったい何がいいたいねん?!

延暦寺衆徒リーダーU 強訴するには、これだけでは人数、足らん!

延暦寺衆徒リーダーV 言われてみれば、なるほどその通り。末寺にも動員をかけようやないか。

延暦寺衆徒リーダーT 他宗の本山にも、応援要請やな。

というわけで、同月17日、劔神社(つるぎじんじゃ:福井県・丹生郡・越前町)、白山神社(はくさんじんじゃ:福井県・勝山市)、豊原寺(といはらじ:福井県・坂井市)、平泉寺(へいせんじ:福井県勝山市)、書写山円教寺(しょしゃざんえんきょうじ:兵庫県・姫路市)、法華寺(ほっけじ:奈良県・奈良市)、談山神社(たんざんじんじゃ:奈良県・桜井市)、内山永久寺(うちやまえいきゅうじ:奈良県・天理市)、日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ:栃木県・日光市)、太平護国寺(たいへいごこくじ:滋賀県・米原市)他、末寺末社370余箇所へ動員をかけた。

同月18日、東大寺、興福寺、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)に対して、連盟結成の勧誘文を送った。

以下に紹介するのは、興福寺へのそれである。

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延暦寺よりの連盟結成勧誘の状
 興福寺宗務局御中

先例にならい、貴寺に対して、我らここに、連盟結成の訴えを送るものなり。天龍寺供養の儀を停止すると共に、禅宗の興行を断絶せしめられらん事を、我らはここに主張する。

貴寺と我が寺とは古来より、仏教究極の真理の日月(にちげつ)を共に戴き、教えの門を広く開いて、無尽蔵の福徳の貯蔵庫たる大聖釈尊(たいせいしゃくそん)のみ教えの源流から、互いに仏智(ぶっち)の水を汲みあってきた。

都よりの距離の遠近の違いを越えて、皇室安寧(こうしつあんねい)の為に、仏法擁護(ぶっぽうようご)の為に、常に力を合わせ、功を同じくし、真理を全うしてきて、歳月幾久しいものがある。また、邪なる宗教を退治し、教法を乱す者を掃討する事においても、古より今日に至るまで、両寺は決して怠る事がなかった。

朝廷を扶翼(ふよく)し、政道を修整(しゅせい)する必要が生じた際には、貴寺と当寺とは盟を合してそれを行い、聖君明王(せいくんめいおう)の叡願(えいがん:注42)を受けた時には、尊神霊祇(そんしんれいぎ)に祈りを捧げて、その成就に尽力してきた。

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(訳者注42)天皇が神仏に願をかけること。
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国家の安危の時や政局の緊迫の時に、貴寺と我が寺は、この上ない大きな力を発揮してきた、これは、誰しも否定することのできない、厳然たる事実なのである。

しかるに昨今、禅宗の興行(こうぎょう)天下に喧(かまびすし)く、ただ座禅だけを頼りにして経文の研究を一切顧みようとせぬ輩(やから)が、世に満ち満ちておる。この厭(いと)わしい風潮、まだ端緒(たんしょ)の段階にあるとはいえ、やがては天上界にまでも達するような大きな波涛と化する兆候を見せている。くすぶったる松明(たいまつ)の火とて、決して油断はならんぞ。ひとたび放置せば、たちまち燎原(りょうげん)の炎となり、野原を焼き尽くしてしまうであろうて。

正統仏教に連なる諸宗派・本寺本山の威光は、彼ら禅宗勢力によって、白日の下に空しく掩蔽(えんぺい)され、朝廷、公卿、幕府の面々における禅宗偏信(へんしん)の迷いの雲も、一向に晴れる兆しがない。今この時、禅宗に対して禁圧を加えなければ、諸宗の滅亡は必至!

伝えきく所によれば、昨年、大和国(やまとこく:奈良県)においては、貴寺の活躍により、片岡山達磨寺(かたおかさんだるまじ:奈良県・北葛城郡・王寺町)が速やかに焼き払われ、その住職は流刑に処せられたとか。

貴寺のその一大快挙からまだ1年も経過していないというのに、禅宗側はまたまたしょうこりもなく、天龍寺での供養法要などという、とんでもない行事を企画しておる。

我ら延暦寺が、それを黙って見すごすはずがない。朝廷に対して再三再四、その法要の中止を訴え続けてきたのだが、今月14日、院よりの回答があった、「今度の法要は、勅願寺での国営の体にはしないから、うんぬん」と。

あまりしつこく騒ぎ立るのもいかがなものか、ここはしばらく様子を見てみよう、ということで、こちらもしばらくは静かにしていた。ところがなんと、陛下からのお言葉、あっという間に裏を返すように変わってしまった、供養法要の形式、前よりもさらに盛大なものになってしまっておるではないか。なんと、「院に仕える者全員、上位者から下位者までこぞって、その法要に参座予定」ときた。

朝廷のご決定は、もっと、理にかなうものであるべきだ。「天下の政治においては、言葉をもって欺くべからず」と、声を大にして言いたい。

当寺は、朝廷から完全にコケにされてしまい、面目マルつぶれである! かような仕打ちを見たならば、朝廷のバックにおられる日本古来のヤオヨロズの神々でさえも、憤怒の念をいだかれる事であろう。

というわけで、我々は再び、朝廷に対して以下のように訴え申し上げ、しばしば、上皇陛下のお耳をも驚かしもうしあげた。

 =====
 公卿以下の方々の天龍寺法要への参座を、取りやめとせられんこと
 上皇陛下の、法要への御参座、当日、翌日ともに、取りやめとせられんこと
 禅宗の布教を禁圧せんがために、以下の処分をなされんこと
  1 夢窓疎石(むそうそせき)を遠島流刑に処する
  2 天龍寺一寺に限らず、洛中洛外の禅宗の大小の寺院を、ねこそぎ破却する

 かくのごとくして、かのダルマの教えの足跡(そくせき)を永久に掃去(そうきょ)し、正しき仏教の法輪(ほうりん)弘通(ぐつう)を開かれんこと
 =====

邪(よこしま)を排し、世に正法(しょうぼう)を確立する、これこそまさしく、仏教徒の努めではないか!

この趣旨に対しての貴寺よりの協賛を、我々は大いに期待する。事態がここまで進んでしまった以上、いまさら、後ろをふりかえる余地は無い!

この連盟結成の勧誘を貴寺が受け入れてくれたならば、我々は朝廷に対して、以下のような宣言を発する予定である。

 =====
 1 延暦寺衆徒がかつぐ比叡山・日吉社(ひえしゃ)の神輿と、興福寺衆徒がかつぐ春日大社(かすがたいしゃ)の御神木、双方機を一(いつ)にして、堂々の京都入洛を果たした後、

 2 藤原氏の中の、天龍寺供養法要の諸役を務めようとする者、および、当日の法要への参座要請を受諾した公卿らを全員、法要の執行前に、藤原氏から排除せしめる。

 3 それでもなお、あえて法要に参座しようとする者がいるならば、延暦寺、興福寺より、事務方、社家の神人(じんにん:注43)、公人(くにん:注44)らをそれらの者の家に遣わし、苛烈なる処分を加える。

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(訳者注43)神社に使える人々。

(訳者注44)寺の雑役に携わる人々。
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貴寺への我らからの提案、以上の通りである。速やかなる衆議をつくしていただくことを希望する。

過去の前例のごとく、「この連盟提案、受諾した」とのご返報を頂けたならば、南の興福寺と北の延暦寺、両門の合力により、天下は太平となり、両寺の一致協力は、わが国の未来長久を約束するものとなるであろう。

貴寺と当寺、過去において、トラブルが全く無かったとまでは言わない。朝廷において宗旨を論じあった際には、「一つ屋根の下での兄弟げんか」のごとき様相を呈したような事もあった。しかし、もとはといえば同じ仏教を信ずる者どうしではないか、この危急の事態にあたっては、呉越同舟(ごえつどうしゅう)の志を共にすべきではないだろうか。「緊急事態に臨んでは、過去の細かいことには、こだわらず」の姿勢を早急に整えていただき、「義を見ては、すなわち勇む」の歓声を速やかに聞きたいものである。

我々よりの連盟結成勧誘の状、以上の通り。

康永4年8月日。
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延暦寺が興福寺に連盟結成の勧誘を行ったと聞き、院に使える藤原氏の諸卿らは、「興福寺からの返答が発せられる前に、早いとこ、事態を収拾せんとあかん!」ということで、院にやってきて光厳上皇に訴えた。

院の近臣W 昔から、延暦寺の訴訟ちゅうもんは、道理の通らん事でも道理にかなった事であるかのように強弁する、そういうのんが非常に多かったです。ただし、今回の彼らの言い分、もっともと思えるフシがないでもないですわ。

院の近臣X 天龍寺での法要・・・仏事を行い、僧や法を尊ぶのんも、たしかにえぇ事には違いありません。そやけど、それを執行した結果、天下が太平に保たれた、という事になってこそ、法要執行の意義がある、と言えませんでしょうか?

院の近臣Y やれ神輿や神木が京都に入ってくる、やれ興福寺や延暦寺の衆徒らが強訴に押し寄せてくる・・・幕府が何と言おうとも、そないな騒ぎになったんでは、法要も無事に済みませんやろて。

院の近臣W そないな結果になってしもうたんでは、上皇陛下のみ心も、徒(あだ)になってしまうんとちゃいますやろか?

院の近臣X 陛下、ただただ速やかに、ご聖断あそばされまして、衆徒の訴えをなだめられました後に、お心安く大法要を執行されてと、こないな風に、段階を踏んでやっていかれた方が、えぇのんちゃいますやろか?

このように様々に申し上げたので、

光厳上皇(こうごんじょうこう) そうやなぁ・・・近頃のわが国、ほんまに乱れてしもてて、一日も気の休まる時がない・・・その上にまだ、興福寺や延暦寺が、神輿や神木を持って京都に押し寄せてきてもて、衆徒らが鬱憤を晴らして怒り狂う、てな事になってしもぉたら、これまた、どんならんわなぁ。

というわけで、諸事を曲げて、以下のような院宣(いんぜん)が下された。

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上皇陛下におかせられては、先日よりの勅願の義を停止せられる事となった。当日の法要参座は見合わされ、仏様との御結縁(ごけちえん)の為に、その翌日、天龍寺に御幸せられる。
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これにより、ようやく延暦寺の衆徒らも気がおさまって静かになり、神輿はたちまち元の場所に還った。京都の警護に当たっていた武士たちもみな、馬の腹帯を解き、延暦寺の末寺末社の門戸は再び、参詣の道を開いた。

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(訳者注45)
 [有]とか[無]、あるいは、[存在]という事は、よく分かっているようで、よく分からないものなんだ

これが、量子力学の基礎について書かれた書物、あるいは、[Sein und Zeit (存在と時間)]に関する、ある解説書を(少しだけ)読んでの、私の感想だ。

このような状況において、

 法相宗:有相
 三論宗:無相

と言われてみても、理解しがたいし、無理して理解しようとすれば、誤解するおそれが大いにあるので、気をつけたいと、思う。

(例えば、法相宗=唯物論、三論宗=虚無主義、といったような誤解)

薬師寺(奈良県・奈良市)の公式サイト中に、以下のような趣旨の事が書かれている、(薬師寺は、法相宗の寺院なのだそうである)。

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[法相宗]は、インドにおいて、
 マイトレーヤ(Maitreya:弥勒)、
 アサンガ(Asaṅga:無著)、
 ヴァスバンドゥ(Vasubandhu:世親)
によって大成され、 
 ダルマパーラ(Dharmapāla:護法)
等によって発展した。

玄奘によって、インドから中国に伝えられた。

その後、中国に留学した、
 道昭、智通、智達、智鳳、智鸞、玄昉によって、日本に伝えられた。

[法相宗]は、別名[唯識宗]とも呼ばれるように、以下のように、全てのモノとコトの存在の様を説く:

 我々の心の深層(奥)には、[阿頼耶識(あらやしき)]と[末那識(まなしき)]という深層意識がある。

 [一切法]は、[阿頼耶識]に蔵する[種子(しゅうじ)]から転変されることにより、存在する。([唯識所変(ゆいしきしょへん)]。
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[一切法]とは、私が想像するに、[all 法](全ての法)という意味であろう。

仏教界においては、は、様々な意味を持っているようだが、上記で用いられている[法]はおそらく、[存在するモノとコト]という意味で用いられているのであろう。

原子や素粒子は、dhármaなのであろう、電波も、dhármaなのであろう、「あぁ、今日はシンドイ一日やった」という[思い]も、dhármaなのであろう。「元気が湧いてきた」の[元気]も、dhármaなのであろう。

薬師寺の公式サイト中には、以下のような記述もある:

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 「つまり私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、十人の人間がいれば十の世界がある(人人唯識[にんにんゆいしき])ということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものである。・・・」
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一方、[三論宗]について、ネットで調べてみた結果、以下の事が分かった:

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[三論宗(さんろんしゅう])は、中国において、隋王朝の時代に、[吉蔵]によって大成され、高句麗から日本に渡来した[慧灌(えかん)]により、日本に伝えられた。

[三論]の名は、[中論]、[百論]、[十二門論]という3個の[論]を、教義の中心に置く事によっている。

[中論]と[十二門論]の著者は、ナーガールジュナ(Nāgārjuna:龍樹)。
[百論]の著者は、アーリヤデーヴァ(Āryadeva:提婆)。

奈良時代に、[元興寺]と[大安寺]が[三論宗]の中心寺院となり、[南都六宗]のうちの一つとして興隆するも、その後、衰退して現在に至る。
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(仏教界の言語においては、[論]とは、[仏教の解説書]を意味するようだ。)

太平記中に登場する[バヴィヤ」については、

[仏教の思想 3 空の論理<中観> 梶山 雄一 上山 春平 著 角川ソフィア文庫] の179P~180Pには、以下のようにある:

 「ブッダパーリタを非難したバヴィヤは、中観思想をインド論理学の形式をもって解説するという前者と同じ意図をもちながら、こんどは定言論証式をその方法として主張したのである。」

同書の187Pには、以下のようにある。

 「以上見てきたように、ナーガールジュナの論理を定言論証式に書き換えるというバヴィヤの努力は、帰謬法を武器としたブッダパーリタの努力ともども不成功に終わってしまった。」

 「・・・したがって『中論』の論理は形式論理によってではなく、これを弁証法として理解すべきものであろう。」

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