太平記 現代語訳 36-4 山名時氏、美作へ侵入 and 九州地方において菊池武光、攻勢に

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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7月12日、吉野朝廷(よしのちょうてい)側の重要メンバー、山名時氏(やまなときうじ)とその息子の師義(もろよし)、氏冬(うじふゆ)が、出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)、因幡(いなば:鳥取県東部)3か国の軍勢3,000余騎を率いて、美作(みまさか:岡山県北部)へ侵入した。

美作国の守護・赤松貞範(あかまつさだのり)は、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)にいて、山名軍に対して、何の対応もすることができなかった。

その結果、廣戸掃部助(ひろとかもんのすけ)の奈義能山(なぎのやま:鳥取県・八頭郡・智頭町)の2か城、飯田(いいだ)一族がたてこもる篠向城(ささぶきじょう:岡山県・真庭市)、菅家(かんけ)一族の大別当城(だいべっとうじょう:岡山県・勝田郡・奈義町)、有元民部太夫入道(ありもとみんぶたふうにゅうどう)の菩提寺城(ぼだいじじょう:岡山県・勝田郡・奈義町)、小原孫次郎入道(おはらまごじろうにゅうどう)の小原城(おはらじょう:岡山県・美作市)、大野(おおの)一族がたてこもる大野城(おおのじょう:岡山県・美作市?)、以上6か城は、矢を一本も射る事なく、山名に降伏してしまった。

林野城(はやしのじょう:岡山県・美作市)と妙見城(みょうけんじょう:美作市)は、20日間余り、山名軍に対して抵抗したが、山名時氏の言葉巧みなる調略の結果、これらもついに、山名側に転じた。

今や残るは、倉懸城(くらかけじょう:美作市)ただ一つだけ。ここには、作用貞久(さよさだひさ)と有元佐久(ありもとすけひさ)が、わずか300余騎で、たてこもっていた。

山名時氏・氏冬父子は、3,000余騎を率いてこの城めがけて押し寄せ、周囲の山々峯々23箇所に陣を取り、鹿垣(ししがき)を二重三重に張りめぐらし、逆茂木(さかもぎ)をビッシリと設置した後、矢を射るのに都合がよい地点まで前進して、倉懸城を攻撃した。

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播磨と美作の国境付近には、竹山城(たけやまじょう:美作市)、千草城(ちくさじょう:兵庫県・宍粟市)、吉野城(よしのじょう:美作市)、石堂が峯城(いしとうがみねじょう:岡山県・備前市-兵庫県・赤穂郡・上郡町)の4つの城があり、赤松則祐(あかまつのりすけ)が、それぞれに100騎ずつ配備しながら守備していた。

山名家執事(しつじ)・小林重長(こばやししげなが:注1)は、2,000余騎を率いて星祭山(美作市)へうち上り、城を眼下に見下ろし、相手側にすきあらば攻め下らんと、馬の腹帯をかためてひかえている。

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(訳者注1)32-8 に登場。
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赤松貞範、その弟・赤松則祐、その弟・赤松氏範(うじのり)、赤松光範(みつのり)、赤松師範(もののり)、赤松直頼(なおより)、赤松顕範(あきのり)他、作用(さよ)、上月(こうづき)、真嶋(ましま)、杉原(すぎはら)ら、赤松一族2,000余騎は、高倉山(たかくらやま:岡山県・津山市)の麓に陣を取り、山名軍が倉懸城を攻撃するのを、じっと見守り続けていた。山名軍に疲れが見え始めたら、その後方から攻めかかろうとの作戦である。

それを見てとった山名師義は、精鋭800余騎を率いて、接近してきた赤松軍を迎撃せんと、山名軍本体から離れて待機した。

この、山名師義率いる軍が小勢であるとの情報をキャッチした赤松軍は、「まずは、この敵をやっつけてしまえ」と、出陣した。

ところが、「阿保直実(あぶなおざね)が、急に山名と気脈を通じて但馬国(たじまこく:兵庫県北部)へ侵入、長九郎左衛門(ちょうくろうざえもん)と連合して、さらに播磨へまでも侵攻しようと企てている」との情報に、

赤松貞範 東の方に城郭を構え、道々に警護の兵を置け!

ということになり、法華山(ほっけさん:注2)に城を構えて大山越(おおやまごえ:注3)ルートを塞ぎ、5箇所の地点へ軍勢を差し向けた。

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(訳者注2)法華山一乗寺(兵庫県・加西市)。

(訳者注3)兵庫県・神崎郡・神河町の大山地区を経由するルート。
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その結果、赤松軍本体の兵力が減少し、山名軍と戦う事も、但馬へ退却する事もできなくなってしまい、進退窮まり、前後の敵に悩まされることになった。

赤松貞範 こないなったら、細川頼之(ほそかわよりゆき)に頼るしかないわいな。

中国地方の大将・細川頼之は、讃岐国(さぬきこく:香川県)の守護をも兼任しており、当時、四国にいた。彼に手紙を送って援軍を頼み、備前(びぜん:岡山県東部)、備中(びっちゅう:岡山県西部)、備後(びんご:広島県東部)、播磨4か国の軍勢をもって、倉懸城の後づめをしようと、考えたのである。

赤松貞範からの援軍要請を受けた細川頼之は大いに驚き、9月10日、瀬戸内海を渡って備前へ進軍、そこで後続の軍勢の到着を待った。

ところが、頼之の麾下(きか)にある4か国の武士たちは、自身の本拠地における私闘で手一杯、一向に、頼旨の旗の下に集まってこない。

細川頼之 まったくもう! みんな野心満々の連中ばっかし、ほんと、頼りにならないんだからぁ!

頼之は、唐河(からかわ:位置不明)に停滞したまま、徒(いたずら)に月日を送るしかなかった。

倉懸城は、守る兵の人数多く、食料の備蓄は少ない。戦う度に有利に事が運んではいたものの、後づめの援軍も来ない、食料も矢もついに尽きてしまった。もはやいかんともしがたく、11月4日、ついに全員、城を捨てて逃げ出した。

かくして、山名時氏は、山陰道4か国を完全制圧、その勢威はますます増大していった。

時氏の影響力は、近燐諸国のみに止まる事なく、「山陰道に山名あり!」との認識は、広大な範囲へ拡大していった。

「このような事では、これからいったい、世の中はどうなっていくものやら」と、誰しもが危ぶまずにはおれない、足利幕府にとっては、危機的な状況展開になってきた。

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九州地方においても、情勢の激変があった。

7月初め、「吉野朝廷サイドの懐良親王(かねよししんのう)、新田(にった)一族2,000余騎、菊池武光(きくちたけみつ)率いる3,000余騎が、博多(はかた:福岡県・福岡市)に進出し、香椎(かしい:福岡市)に陣取った」との情報に、九州地方の足利幕府サイド勢力は、一斉に色めきたった。

「あっちサイドの兵力が増えない前に、さっさと追い落としてしまうに限るばい!」ということで、大友氏時(おおともうじとき)率いる7,000余騎、少弐頼尚(しょうによりひさ)率いる5,000余騎、宗像大宮司(むなかただいぐうじ:注4)率いる800余騎、紀井常陸前司(きいのひたちのぜんじ)率いる300余騎他、総勢25,000余騎が、一つに合して、大手方面へ向かった。

さらに、からめて方面からは、上松浦(かみまつら)、下松浦(しももつら)両党武士団3,000余騎が、飯守山(いいもりやま:福岡市)に上り、相手の背後へ回り込んだ。

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(訳者注4)宗像神社の大宮司家。
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幕府側の兵力は膨大で、相手を完全に包囲しきっている。これに対する吉野朝側勢力は、到底対抗すべくもないほどの小勢で、平地に陣を取っている。

しかし、菊池武光は、常に大敵を前にしていささかもひるむ事なく、逆に相手を呑んでかかってきた武将、一寸たりとも動揺する事もない。

両軍の間隔は、わずか20余町。

それから数日の間は、互いに馬の腹帯をかため、鎧の高紐を緩めずに、自分の方から攻撃を仕掛けようか、それとも相手の攻撃を待って迎撃にうって出ようかと、互いのすきをうかがい、決断をためらないながら、徒(いたずら)に2か月が過ぎていった。

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菊池の家臣中に、城隆顕(じょうのたかあき)という、謀略に優れた人がいた。

彼は、山伏、禅僧、時宗(じしゅう)僧侶たちを、松浦党武士団の陣中に潜入させて、様々な流言飛語(りゅうげんひご)を放流させた。

山伏A (小声で)おまえらの仲間のXばぁ、とっくの昔に、敵方に内通しとるとよぉ。

禅僧B (小声で)この陣中のYばぁ、敵方にな、「戦ばぁ始まったらぁ、松浦党の連中らに背後から矢ぁ浴びせてぇ、そいからさっさと降参しますたい。」とか、言うとるらしいよぉ。

時宗僧侶C (小声で)裏切りもんには、よくよく警戒しとくに限るたい、でないと、あんたら犬死にするだけよぉ。

松浦党武士団・メンバー一同 (内心)そないな事、ありえん!

松浦党武士団・メンバー一同 (内心)いやいや・・・もしかすると・・・昨今の人間の心なんかぁ、あてにぁならんでねぇ。

かくして、松浦党武士団中に、互いに警戒しあい、危ぶむような気分が、蔓延(まんえん)していった。

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その少し後、8月6日の暁、城隆顕は、1000余騎を率いて飯守山に押し寄せ、全員に盾の板を叩かせ、ドッとトキの声を上げさせた。

松浦党武士団側は、大軍勢である上に、城の防備も堅い。たったこれだけの人数相手に、城を落とされるはずなどありえないのだが、「城中には、敵に内通する者、多し」との謀略宣伝に完全にのせられてしまっているから、

松浦党武士団・リーダー一同 味方に討たれちゃ、たまらんばい、周囲をしっかり見張っとけよ!

と叫びつつ、我先に、城から逃げていく。

城軍サイドは、勝に乗り、追いかけ追いかけ、彼らを討つ。

夜が明けてみれば、松浦党武士団は、どうやら全滅してしまったようである。

菊池武光 松浦党の連中、さぞかし手強かろうと、思うとったけどぉ、さすがは城、謀略使ってあぁっという間に、やっつけてしまいよったばい。こうなったら、少弐と大友、やっつけるんなんか、カンタン(簡単)、カンタァーン!

菊池軍は、懐良親王率いる軍勢に合流。総勢5,000余騎は、翌7日正午、香椎の陣へ押し寄せた。

「昨日の戦において、からめて方面軍の松浦党武士団、完敗!」と聞いた瞬間から、「あぁ、さっさと退却してしまいたいなぁ」との思いに駆られていた少弐と大友の軍勢メンバーは、もう一瞬も踏みとどまれるはずがない。馬に鞭うち、鐙(あぶみ)を入れ、我先に、退却していく。

横道に逃げ込む事もできず、遺棄(いき)した鎧兜(よろいかぶと)や弓矢をかえりみる余裕もなく、幕府側・大手方面軍2万余騎は、まる1日、菊池軍の追撃を受け続けながら、ただただ敗走していくばかり。ようやく本拠地へ帰りつけた者は、全軍の50%もいたかどうか・・・。

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