太平記 現代語訳 6-5 反乱軍鎮圧のため、鎌倉から大軍、出動

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「近畿地方および中国地方に反乱軍、続々と決起!」 

六波羅庁から早馬が鎌倉へ飛ぶ。 

北条高時(ほうじょうたかとき) なにぃーっ!(大驚) さっさと、討伐軍を送りやがれぇぃー! 

というわけで、北条一族他、関東8か国の有力御家人たちに動員令が下され、討伐軍が編成された。その構成、以下の通り。 

北条一族:阿曽治時(あそはるとき)、名越元心(なごやげんしん)、大佛高直(おさらぎたかなお:注1)、大佛宣政(おさらぎのりまさ)、伊具有政(いぐありまさ)、陸奥家時(むついえとき)

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(訳者注1)原文では、「大佛貞直」になっているのだが、[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]と[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注において、ここは「大佛高直」とするべきを、太平記作者がミスしたのであろうとしているので、このようにしておいた。
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外様(とざま:注2):千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮三河守(うつのみやみかわのかみ)、小山秀朝(おやまひでとも)、武田三郎(たけたさぶろう)、小笠原彦五郎(おがさわらひこごろう)、土岐頼貞(ときよりさだ)、葦名(あしな)判官、三浦氏明(みうらうじあき)、千田太郎(せんだたろう)、城太宰大弐入道(じょうのだざいのだいににゅうどう)、佐々木清高(ささききよたか)(注3)、佐々木備中守(ささきびっちゅうのかみ)、結城親光(ゆうきちかみつ)、小田時知(おだときとも)、長崎高貞(ながさきたかさだ)、長崎師宗(ながさきもろむね)、長江弥六左衛門尉(ながえやろくさえもんのじょう)、長沼駿河守(ながぬまするがのかみ)、渋谷遠江守(しぶやとおとおみのかみ)、川越円重(かわごええんじゅう)、工藤高景(くどうたかかげ)、狩野七郎左衛門尉(かのしちろうさえもんのじょう)、伊東常陸前司(いとうひたちのぜんじ)、伊東大和入道(いとうやまとゆうどう)、安藤藤内左衛門尉(あんどうとうないさえもんのじょう)、宇佐美摂津前司(いさみせっつのぜんじ)、二階堂道蘊(にかいどうどううん)、二階堂時元(にかいどうときもと)、二階堂宗元(にかいどうむねもと)、安保左衛門入道(あぶさえもんにゅうどう)、南部次郎(なんぶじろう)、山城四郎左衛門尉(やましろしろうさえもんのじょう) 

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(訳者注2)北条一族以外。

(訳者注3)佐々木清高は隠岐にいるはずなので、ここは、太平記作者の誤りであろう。
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これらの人々をはじめとして、主な御家人132人、兵力総計30万7500余騎! 

9月20日に鎌倉を出発、10月8日に、先陣は京都に到着するも、後陣はいまだに、足柄・箱根(神奈川県)のあたりを進軍、というほどの大軍団であった。 

これに加え、四国からは、河野通治(こうのみちはる)が大船300余隻で瀬戸内海を渡海、尼崎(あまがさき:兵庫県尼崎市)より上陸し、下京(しもぎょう:京都市・下京区一帯)に到着。 

厚東入道(こうとうにゅうどう)、大内介(おおうちのすけ)、安芸(あき:広島県西部)の熊谷(くまがい)らは、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)の軍勢を率い、軍船200余隻にて瀬戸内海を東上、兵庫(ひょうご:神戸市・兵庫区)から上陸して西の京(京都市・中京区・西の京付近)に到着。 

甲斐(かい:山梨県)・信濃(しなの:長野県)両国の源氏7,000余は、中山道(なかせんどう)経由で上洛し、東山(京都市・東山区一帯)に到着。 

江馬越前守(えまえちぜんのかみ)と淡河右京亮(あいかわうきょうのすけ)は、北陸道7か国の軍3万余を率いて、東坂本(ひがしさかもと:滋賀県・大津市)を経由し、上京(かみぎょう:京都市・上京区一帯)に到着。

このように、諸国七道から軍勢が我も我もと馳せ上ってくるものだから、洛中、白川あたりの家だけではとても彼らの宿所に当てるには足りない。醍醐(だいご:山科区)、小栗栖(おぐりす:山科区)、日野(ひの:山科区)、勧修寺(かんしゅうじ:同左)、嵯峨(さが:右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)、太秦(うずまさ:右京区)のあたり、さらには、西山(にしやま:西京区)、北山(きたやま:北区)、賀茂(かも:北区)、北野(きたの:上京区)、革堂(こうどう:上京区)、河崎堂(かわさきどう::上京区)、清水寺(きよみずでら:東山区)、六角堂(ろっかくどう:中京区)の門の下、鐘楼の中までも、余す所なく幕府軍の宿所となってしまった。 

今まで日本は小さい国だと思っていたのに、これほど多くの人間がいたのであったか・・・いまはじめて思い知った次第である。 

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元弘3年(1333)1月末日、諸国からの軍勢80万を3手に分け、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)、赤坂(あかさか:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)、金剛山(こうごうさん:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)の3つの城に向かわせた。 

吉野方面軍の大将は、二階堂道蘊(にかいどうどううん)。あえて他家の軍勢を交えず、2万7000余騎にて、上ツ道(かみつみち)・下ツ道(しもつみち)・中ツ道(なかつみち)経由の(注4)、3手に分かれて進軍。

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(訳者注4)奈良時代に、奈良盆地の中に設営された、街道である。 
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赤坂方面軍の大将は、阿曽治時(あそはるとき)。8万余を率いて赤坂城へ向けて進発、まず、天王寺と住吉に陣を張った。 

搦め手・金剛山方面軍の大将は、陸奥家時(むついえとき)。10万余を率いて、奈良路から進軍を開始した。

幕府軍・侍大将を勤めるは長崎高貞(注5)。彼は自分の威勢をひけらかそうとしてであろうか、皆から一日遅れで進発した。その軍のいでたちは、まことに人目を驚かすものであった。

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(訳者注5)高資の弟。 
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先頭を旗差兵(はたさしへい:注6)が進み、それに続いて、鮮やかな房で飾り立てたたくましい馬にまたがる武士たち800余人、揃いの鎧を着て、軍団本体から2町ほど先を、粛々と馬を歩ませていく。 

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(訳者注6)大将旗を持つ旗手
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そしてその後を、長崎高貞が行く・・・絞り染めの直垂(ひたたれ)、絹の大口袴、濃紫色の鎧、銀星のついた5枚しころに8匹の金の龍形の飾り付きの兜を深くかぶっている。

磨きぬかれた銀めっきのすね当て、黄金づくりの太刀2本、乗馬は、「一部黒(いちのへぐろ)」という5尺3寸の関東一の名馬。潮の干いた干潟に残された小舟の図柄の蒔絵を施した鞍を置き、馬体には山吹色の房を付けている。

エビラの中には、銀製の磨き上がったハズに大中黒(おおなかぐろ)の羽がついた矢が36本。本滋藤(ほんしげとう)の弓の真ん中を握り、都の道路を所狭しと、馬を歩ませていく。 

左手に小手(こて)を付け、腹当てを着して武器を持つ雑兵500余人が、高貞の馬の前後に2列で従い、しずしずと路地を歩んでいく。その後方4、5町ほど遅れ、思い思いに鎧を着た武士たち10万余、兜の星を輝かし、鎧の袖を重ね、靴の底に打った釘の列のごとくに、周囲5、6里に展開して進軍していく。 

決然たるその威勢、まさに天地を響かせ山河をも動かすほど。 

その他、外様の御家人衆の軍団が、5,000、3,000と互いに間隔を保ちながら、13昼夜もの間、ひっきりなしに通過していった。 

わが国は言うにおよばず、中国、インド、モンゴル、東南アジアに至るまで、いまだかつて、これほどの大軍を組織することは出来なかったであろう、と思われるほどの幕府軍の威容である。 

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