太平記 現代語訳 30-2 足利直義、京都を離れて北陸へ 付・殷の紂王の事

太平記 現代語訳 インデックス 15 へ
-----
この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
-----

7月末日、石塔義房(いしどうよしふさ)と桃井直常(もものいなおつね)が、足利直義(あしかがただよし)のもとへやってきた。

石塔義房 殿! 敵側、いよいよ動き始めましたよ!

桃井直常 主要メンバーが続々、京都を離れて本拠地へ向かってます、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、土岐(とき)、佐々木(ささき)。

石塔義房 おそらく、将軍様の御意(ぎょい)を受けてか、あるいは、義詮(よしあきら)様の命令書発行に従ってか・・・いずれにしても連中、国元へ帰って兵をかき集め、決起しようってコンタンでしょう。

桃井直常 赤松則祐(あかまつそくゆう)も、何やら怪しげな動きを始めましたよ。故・護良親王(もりよししんのう)の遺児を戴いて、吉野朝の方へかけ込んだそうで・・・ま、おそらく一種のカムフラージュでしょうな。吉野朝に味方するふりして兵を集め、それから、義詮様の下へ走ろうってことでしょうよ、きっと。

足利直義 うーん・・・。(唇をかみしめる)。

石塔義房 殿、このまま京都におられたら、非常に問題ですよ。こんな少ない手持ち兵力のまま、ここにじっとしてるだなんて、あまりにも不用心すぎるんじゃないでしょうかねぇ?

桃井直常 そうですよ、今夜中にでも夜陰に紛れ、篠峯越(ささのみねごえ:注1)のルートを通って、北陸地方に移動なさいませ。あっちへ着いてしまやぁ、もうしめたもの、木目峠(このめとうげ:福井県・敦賀市)と荒血の中山(あらちのなかやま:注2)を塞いでしまやぁいいんですから。

-----
(訳者注1)京都の大原から、篠峯(比叡山中)付近を経由して、滋賀県・大津市・仰木に至るルート。

(訳者注2)滋賀県と福井県の県境、JR北陸線の深坂トンネル付近。
-----

桃井直常 あっち方面には、我が方の勢力、そりゃもうワンサカおりますからね。まずは、越前(えちぜん:福井県東部)に斯波高経(しばたかつね)殿でしょ、加賀(かが:石川県南部)には富樫高家(とがしたかいえ)でしょ、能登(のと:石川県北部)には吉見氏頼(よしみうじより)、それに、信濃(しなの:長野県)の諏訪下宮(すわしもしゃ:長野県・諏訪郡・下諏訪町)の祝部(はふり)、みんな殿に忠節をつくしている者ばかり。彼らがいる地域へは、敵は一歩だって、足を踏み入れる事なんかできゃしません。

石塔義房 おまけに、甲斐(かい:山梨県)と越中(えっちゅう:富山県)は、我ら二人の領国、もうパーフェクトにかためてしまってますからね、敵サイドに走るやつなんか、ただの一人だっていやしませんや。

桃井直常 とにかく、北陸地方に行けば、絶対に安心! まずはあちらへお下りになって、それから関東、中国へ、軍勢召集令状を送られませ。そしたら、みんなイッパツで、殿の下に集まってきますってぇ!

今日になっていきなり持ち掛けられた提案ゆえに、直義には、熟慮する時間が無かった。

足利直義 よし、分かった、すぐに北陸へ出発する。

取る物も取りあえず、その場に居あわせた人々だけを引き連れ、その夜半、直義は京都を出て、篠峯越ルート経由で越前へ入った。実にあわただしい決断であった。

この報を聞いて、直義の親族の者らはもちろんの事、外様(とざま)の有力武士、各国の守護、京都市中48か所警護所所属の者たち300余人、在京警護担当武士たち、近畿とその周辺、四国、九州からついこの間京都へやってきたばかりの武士たちも、我も我もと、直義の後を追って京都を去ってしまった。今や京都に残っている武士はといえば、公家に仕えている者しか見当たらない。

-----

翌朝、足利義詮は、父・尊氏(たかうじ)の館へ急行した。

足利義詮 まったくもう、昨夜の大騒動、タダゴトじゃありませんよ! 京都中の武士どもが、叔父上といっしょに京都を出ていってしまいました! あれだけの数だから、いつなんどき踵(きびす)を返して、京都に攻めかかってくるかも。

このような事を聞いても、尊氏はいささかも動じない。

足利尊氏 ・・・あのなぁ、義詮・・・人間の運命なんてものはだな・・・すべて、天の一存で決まるんだ・・・いまさらジタバタしたって、しょうがないだろう・・・。

足利義詮 ・・・。

足利尊氏 うー、あー・・・こしかたもぉ・・・。(注3)

尊氏は、歌競技会の和歌記録の短冊(たんざく)を取り出し、それを心静かに詠吟しながら、悠然と座している。

足利義詮 (内心)ウーン、モォゥ、父上! そんなノンキに構えてる場合じゃぁ、ないでしょうがぁ!

-----
(訳者注3)「足利尊氏 高柳光寿著 春秋社 1955初版 1966改稿」の510ページに、「等持院殿御百首より」として、尊氏の詠んだ和歌が2首紹介されている。

 山ふかく 心はすみて 世のために まだ背(そむ)き得ぬ 憂身(うきみ)なりけり
 こしかたも いま行すえの あらましも 思ひのこさぬ 暁のそら
-----
-----

敦賀(つるが:福井県・敦賀市)に到着した足利直義は、さっそく軍勢を招集し、参集してくる武士の氏名をリストアップしはじめた。

当初は、13,000余騎。ところが、リストに記録される者の数は日に日に激増、ついに、ト-タル(total)6万余騎となった。

この時すぐに、この大軍を率いて京都に攻め寄せていたならば、尊氏も義詮も、何の抵抗も出来なかったであろう。ところが、主要メンバーたちは、才学に溺れた議論をあれやこれやと展開して作戦会議に時間を費やし、貴重な数日が空しく経過してしまった。

いったいなぜ、直義はこのような行為、すなわち肉親である兄や甥とあえて戦を交えてでも、無道なる輩を誅して世を鎮めんとする方向へと、自らの政治路線ベクトルを定めていったのか? それは、一人の儒学者が、おりある毎に提案していた事を直義が採用したからであると、聞いている。

その儒学者の名は、藤原有範(ふじわらのありのり)、藤原南家の流れに属し、当時、足利幕府・禅宗寺院管理局・局長(注4)の地位にあった。

-----
(訳者注4)原文では、「禅律の奉行にて召し仕われける南家の儒者」
-----

有範は、直義に以下のような中国史上の逸話を語った。

藤原有範 昔々、中国を韻(いん)王朝が支配していた時の事、武乙(ぶいつ)という人が、王の位につきました。これがまた、どえらいワルの王様でしてなぁ・・・。

(以下、藤原有範が語った内容)
=====
武乙王 わしは天子として、一天四海を我が掌(たなごころ)に握っておるわい。しかるに、未だに、わしの言う事を聞かぬ、ふとどきものがおる。まずは太陽、そして月じゃ。あやつらは、わしの命令を完全に無視し、自分勝手に、世界を明るくしたり暗くしたりしおるではないか!

武乙王 それに、雨と風じゃ! わしの意向に逆らいおって、暴風雨をもたらしおる! まったくもって、けしからん!

武乙王 天が、どうしてもわしの言う事をきかぬというのならば、わしが、この手で亡ぼしてくれるわい!

武乙王は、細工師に命じて木製の人形を作らせた。そして、これを「天神」と名付け、これを相手に一対一の賭博勝負を行った。

相手は、ほんものの神にはあらず、木製であるからして、サイコロを振れるわけがない。いったいどのようにして勝負を? なんの事は無い、武乙王の家臣が「天神」の後ろに座り、「天神」の手となってサイコロを振り、石を置くのである。このような八百長勝負に、王が負けるはずがあろうか。

武乙王 ウワッハッハッハァッ! ザマを見ろ天神め、おまえの負けじゃ! よぉし、これから負けた罰を与えるでな!

王は、その木製の「天神」の手足を切り、頭を刎ね、打擲(ちょうちゃく)して踏みにじり、獄門にその首を曝した。

武乙王 えぇい、かような事ではてぬるいのぉ。徹底的に、天をこらしめてやるわい!

今度は、皮を縫い合わせて人形を作り、その中へ血を入れて、高い木の梢に駆けさせた。

武乙王 みなのもの、見ておれよ! これから天を射て見せるでな! (弓に矢をつがえ)ウウウウウ、エェーイ!

矢 ヒューーーー、ブシュッ!

血 ドヴァーッ!

「天」からほとばしり出たおびただしい血が、地面に降り注いだ。

武乙王 ウワッハッハッハァッ! 天め、出血多量で瀕死(ひんし)の重傷じゃぁ、ウワッハッハッハァッ!

このような悪行の積み重ねが身に余る結果となり、渭水(いすい)での狩りの途中、武乙は雷に討たれ、体が八つ裂きになって死んでしまった。

時は流れ、やがて、武乙王の孫の末子が帝位についた。これがかの、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)である。

紂王はやがて、「おそるべき君主」に成長した。

キレモノであるがゆえに、家臣たちは、彼を諌めてもことごとく、言い負かされてしまう。弁舌さわやかであるがゆえに、あれやこれやと言いつくろって、自らの罪を覆い隠してしまう。その武勇は常人の域を遥かに越え、自らの手を下して猛獣を楽々と取りひしいでしまう。自らの能力を最高として、人臣を見下ろし、声望の高さを天下に誇る。

紂王 わしは、至高(しこう)にして絶対なる存在じゃ! 世の中のものどもはすべて、わしの下で仕えるために生まれてきておるのじゃ。ゆえに、わしに諫言(しんげん)をする者など、この宮廷に置いておく必要はない。先代の王たちの定めた法にも、従う必要など毛頭ない。世界はわしのものじゃ、わしが世界の法を決めるのじゃ!

紂王は、妲己(だっき)という美人を寵愛し、万事彼女の言うがままに処置した。ゆえに、罪無くして死刑に処せられる者が非常に多く、ただただ悪を積んでいく。

鉅鹿(きょろく)という郷に(注5)、周囲30里もある倉を作り、そこに米穀をいっぱい貯め込んだ。また、朝歌(ちょうか)という所に、高さ20丈の台を建て、銭貨をいっぱい貯め込んだ。

-----
(訳者注5)司馬遷著の「史記・殷本紀」にはこれらの地名は書かれてはいない。[史記 司馬遷 著 野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦 訳 平凡社]には、「鹿台(ろくだい)に金銭をみたし、鉅橋(きょきょう)に穀物をみたし」とある。太平記作者が、混乱して書いてしまっているようだ。
-----

また、沙丘(しゃきゅう)には、周囲1千里の苑台を造営し、酒を湛えて池とし、肉を懸けて林とした。その中に、若い美男300人、容貌優れた女300人を、裸にして放ち、相遂うて婚姻なさしめた。酒の池には龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟を浮かべて長時に酔いをなし、肉の林には北里の舞い、新しく作曲されたみだらな音楽を奏させ、不逞なる歓楽を尽した。いやはや、天上世界の淫楽快楽さえも、これには到底及ばないであろう。

ある日、妲己が、暮れゆく宮庭の中に花をめでながら、寂寞(じゃくまく)として立っていた。

紂王は、見るに堪えずして、

紂王 妲己よ、何をそのように、さびしい顔をしておるのじゃ? 何か、気にくわぬ事でもあるのか? う? うん?

妲己 はい・・・わらわ、「炮烙(ほうらく)の刑」とやらを、未だにこの目で見たことがござりませぬ・・・あぁ、一度でもよいから見てみたいもの・・・しかし、それは到底かなわぬ事でありますゆえに・・・。

紂王 なんじゃ、そんな事で沈んでおったのか! なぜ、もっと早く言わぬ、「炮烙の刑」を見せる事など、たやすき事よ。

妲己 んまぁ! 本当でござりまするか?! 見せていただけるのでござりまするか?!

紂王 たやすき事と、言うておるではないかぁ。よし、さっそく準備にかからせようぞ!

紂王は、すぐに工事にかからせた。

やがて、宮庭に「炮烙」が完成し、いよいよ妲己が、それを見物することになった。

この「炮烙の刑」というのは、以下のようなものである。

長さ5丈の銅製の柱を2本東西に立て、その間に鋼鉄製の縄を張る。その下に炉をおいて、鉄をも融解せしめてしまうほどの高温の炭火を赤々と燃やす。その後、背中に石を負わせた罪人を、刑吏が矛を取って責め、柱の上に上らせる。そして、中空に張られたその鋼鉄の縄を渡る事を、強制するのである。やがて、罪人は力つきて縄上から炉中に落下、灰燼となって焼け死んでいく。まさに、焼熱地獄、大焼熱地獄の苦患さながらの刑ゆえに、「炮烙の法」と名付けられたのである。(注6)

-----
(訳者注6)「炮烙の刑」については、[史記 司馬遷 著 野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦 訳 平凡社]の注には、上記とは異なる内容が書いてあるが、この件については、もうこれ以上書きたくないので、書かない。
-----

「炮烙の刑」の執行を見て、妲己はこの上なく興じた。

妲己を喜ばせる為なら、どんな事でもする紂王であったから、その日以降、子を殺され、親を失った人々の泣き悲しみの声、家々に満ち満ちて止む事無しの状態となった。

ここに、西伯(せいはく)・昌(しょう)という人がいた。後に、周(しゅう)王朝の文王(ぶんおう)となる人である。彼は、人民のこの苦しみを目の当たりにして、密かに嘆いた。

西伯・昌 あぁ、なんということだ・・・至る所で民は悲しみ、殷王の非道をそしっておる・・・このままでは、天下の乱が出来(しゅったい)するぞ。

これを、崇侯(そうこう)・虎(こ)という者が聞きつけて、紂王に密告した。

紂王は大いに怒り、ただちに西伯・昌を捕え、羑里(ゆうり)の獄舎に押し込めた。

西伯・昌の家臣・コウ夭(ゆう)は、砂金3,000両、大苑(たいえん)産の馬100匹、みめかたち麗しく妖艶なる美女100人をそろえて紂王に献じ、西伯・昌の赦免を願い出た。

色に溺れ、宝を好む事この上なしの紂王は、後日の禍をも顧みず、

紂王 これらのみつぎ物、その一をもってしてさえも、西伯を許してやるには十分じゃ。ましてや、これほど多くのものを献上せんというからにはのぉ・・・(喜色満面)

紂王は、すぐに西伯・昌を釈放した。

故郷に帰りついた西伯・昌は、自分の命が助かった事をさして喜ばず、依然として、炮烙の刑によって罪無き民人が毎日毎夜10人、20人と焼き殺されていく事を、我が身に被る苦のごとくに、哀れに、悲しく思うのであった。

ついに西伯・昌は、洛西(らくせい)の領土300里を妲己に献上して、「炮烙の刑」の停止を嘆願した。

妲己も紂王同様、慾に染む心が深かったので、紂王に、「炮烙の刑」停止を提案した。かくして、洛西の地と引き替えに、「炮烙の刑」の執行が止まった。(注7)

-----
(訳者注7)史記には、西伯・昌は、妲己にではなく、紂王に直接この嘆願を行った、と記されている。
-----

紂王は、西伯・昌が領土300里を献上した事を非常に喜び、「炮烙の刑」を停止したのみならず、ついには、弓矢斧鉞(ゆみやふえつ)を賜り(注8)、天下の政治を執行し、武力を執行する権利を持つ官位を授けた。

-----
(訳者注8)諸侯を征伐する地位を与えた、という事である。弓矢斧鉞はその地位の象徴である。
-----

苦難の末に得た、この西伯・昌の運命の開花、まさに、「龍が水を得て雲上に上がる」の構図である。

それから数年後、西伯・昌は、渭水(いすい)の北岸に狩りに出ようとした。

事前に、史編(しへん)という者に、占いを立てさせてみたところ、

史編 今回の狩の獲物は、熊にもあらず、ヒグマにもあらず。天は伯に、師を与えたまうものなり。

西伯・昌 (大喜)おぉ、これはこれは・・・わしは、すばらしい獲物に出会えるのじゃな。ならばこちらもそれなりに、準備を整えて行かねばのぉ。

西伯・昌は、7日間、精進潔斎(しょうじんけっさい)した後に、渭水北岸に赴いた。

西伯・昌 (内心)わしの師となるべき人とは・・・いったいどこにおるのか・・・あの男かな?・・・いや、違うな・・・フィーリングがどうもな・・・ではあの男か?・・・いやいや違う、インスピレイションが湧かぬ。

西伯・昌 ヌヌ!

西伯・昌はふと、雨の中に岸辺にじっと釣竿を垂れる初老の男に、目を止めた。彼の着ている蓑は粗末そのもの、その身をやっと半分ほど蓋うのみ。男は冷たい雨に打たれながらも、黙想するかのように目をじっと閉じながら、心静かに糸を水面に垂れている。

その瞬間、西伯・昌は、自分があたかも河中の魚になったかのように感じた。男の垂れる釣り糸にグイグイと吸引されていくのだ。何か目に見えない不思議な大きな力が、自分をつき動かしているように感じられてならない。

西伯・昌 もし・・・そこのお人・・・。

姜子牙(きょうしが)・太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう) ・・・はぁ?

西伯・昌 そこのお人。

太公望呂尚 ・・・わたくしめの事にて、ござりまするか?

西伯・昌 さよう。

しばらく男と語りあった後、西伯・昌は、確信を得た。

西伯・昌 (内心)史編が言っておった「今回の狩の獲物」とは、まさにこの男の事じゃ、間違いない! もっとも、「獲物」というべきは、むしろわしの方であったかもな・・・彼の釣り糸に、わしが食らいついたというわけよ・・・フフフ・・・。

西伯・昌は、太公望呂尚を車の右に乗せて、宮殿に帰った。そしてただちに、彼を武成王と仰ぎ(注9)、彼を師として心細やかに仕え、その献策に従って、自らの領国中に徳治を広く敷延(ふえん)していった。

-----
(訳者注9)史記にはそのような記述は無い。
-----

西伯・昌の子・周の武王(ぶおう)の時代になると、もはや、天下の人心はことごとく韻を背いて、周になびくようになった。そしてついに、武王は殷の紂王を亡ぼして周王朝を建国、その後800年間、周王朝は支配者として中国全土に君臨した。
=====
(以上、藤原有範が語った内容)

藤原有範 ・・・と、まぁ、こういうわけでしてなぁ・・・。それにしてもこの話、なにやら現在の世相に相通ずる所、大ありやと思わはりまへんか? 足利義詮殿の淫乱なるご日常なんか、殷の紂王の無道なる生きざまに、よぉ似とりますわなぁ。

足利直義 ウーン・・・。

藤原有範 悪逆なる権力者は、速やかに、政治の場から退場させんとあきまへん。ゆえに、周の武王は、紂王を討ちました。これもまた、民を救い、国を救う「仁」の道と申せましょう。

足利直義 ・・・。

藤原有範 直義さま、直義さまも周の文王と武王にならい、「仁」の道に立たれませ! 悪逆非道の人物を亡ぼす事に、いったい何の不都合がありましょうか!

足利直義 ・・・。

このように有範は、直義を徳篤い周の文王にあてはめ、自らを太公望呂尚になぞらえて、折に付け節に付けては、直義をたきつけた。有範のその言葉に影響されてしまった直義こそ、まことに愚かであったといえようか。

足利直義はあまりにも、自らを過大評価してしまっていたのではないだろうか? いったい彼に、どれほどの「仁」があったというのか? 君主の地位を有徳なる自らの甥・西伯・昌に譲り、他国に出奔したあの周の泰伯(たいはく)ほどの「仁」があったろうか? いったい直義に、どれほどの「義」があったというのか? 無道の行いをする兄弟の管叔(かんしゅく)をあえて討った周公・旦(しゅうこう・たん)ほどの「義」があったといえようか?

結局のところ、足利直義という人は、権道(けんどう:注10)、覇業(はぎょう:注11)の双方共に欠けたる人であったと、いうべきであろう。

-----
(訳者注10)手段は正しくないのだが、結果として正道を実現できている、というやり方。

(訳者注11)武力や権謀術数を駆使して権力を獲得していく、というやり方。
-----

-----

太平記 現代語訳 インデックス 15 へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?