太平記 現代語訳 39-3 仁木義長、吉野朝サイドから足利幕府サイドへ転ずる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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仁木義長(にっきよしなが)は、さしたる不義の行為は無かったけれども、そのふるまいが余りにもひどいとして、多くの人々に憎まれた結果、心ならずも幕府に敵対し、伊勢国に逃げ下って長野城(ながのじょう:三重県・津市)にたてこもっていた。(注1)

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(訳者注1)仁木義長の幕府からの離反については、35-2、35-5、36-1 を参照。
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仁木・討伐軍の大将には、佐々木氏頼(ささきうじより)と土岐康頼(ときやすより)の二人が任命されて長野城を攻めていたが、氏頼は他の用事で京都に召されて上洛し、康頼だけが伊勢国に残って仁木義長を攻め続けていたが、義長は頑強に抵抗し、城は落ちなかった。

そうこうするうち、吉野朝側勢力の伊勢国司(いせこくし)・北畠顕信(きたばたけあきのぶ)が、雲出川(くもでがわ)以西を制圧し、兵を出し、すきを窺(うかが)って戦いを挑みはじめた。

かくして、伊勢国には3勢力が分立、片時も戦の絶える間が無い状態と、なってしまった。

このような状況で5、6年経過の後、ついに、仁木義長は、「これまでの咎(とが)を悔いて、降参したい」旨のメッセージを、幕府に送った。

幕府リーダーA ほほぉ、仁木もですかぁ。

幕府リーダーB 考えてみれば、彼は、先代様(注2)の頃から、そりゃぁもう、忠功抜群でしたよねぇ。

幕府リーダーC 彼がこっちサイドについたら、伊賀(いが:三重県西部)、伊勢両国も自然と、静まるでしょうよ。

足利義詮 じゃぁ、義長、赦免して、京都へ帰らせたらぁ。

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(訳者注2)足利尊氏の尊称。
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仁木義長の場合は山名父子とは違い、勢力がすっかり衰えてしまった後の降参であったから、領地も安堵されず、あい従う軍勢も無しである。かの、とらわれの身となって北方民族の中に生きた李陵(りりょう)のごとく、旧交の友さえ訪ねては来ない。

 庭に咲いた かえりみる人も無い 花 たった一輪
 春は 孤独に 光り輝く
 馬もまれにしかやって来ない門の前に 柳の木 たった一本
 秋は 孤独に 風が吹く

(原文)
 省る人遠き庭上の花
 春独春の色なり
 鞍馬稀なる門前の柳
 秋独秋の風なり

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