太平記 現代語訳 14-5 新田軍、箱根から退却

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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大手・箱根路方面においては、新田(にった)軍サイドは、戦えば戦うほど形勢有利に。かろうじて持ちこたえている状態の足利直義(あしかがただよし)軍を追い落とし、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)制圧は、もう目と鼻の先、新田軍メンバーは勇みに勇み、夜の明けるのも待ち遠しい思いである。

そんな所に、情報が飛び込んできた、

 「からめ手の竹下(たけのした)方面のわが軍、戦いに敗れ、足利側に追い散らされている!」

たちまち、招集に応じて諸国から参戦の軍勢、あるいは、ここまでの戦闘において降伏してきた関東の人々が、幕を捨て、旗を倒し、我先にと、新田陣営から離脱していく・・・広大な箱根山中をぎっしりと埋め尽くしていた新田軍サイドには、あっという間に、人の気配が無くなってしまった。

新田家執事(しつじ)・舟田義昌(ふなだよしまさ)は、最前線に位置して足利軍を攻めていたが、足利サイド陣中に早馬がやってきて、「竹下で、将軍様が勝利、敵を残らず、追い散らしてしまいましたよ!」と言っているのを耳にした。

舟田義昌 (内心)おいおい、あっちではあんな事を言ってるじゃないか! あれは本当だろうか、もし本当なら、これはエライ事になってしまったぞ!

義昌は、自分一人だけで、味方の陣営を見回った。

舟田義昌 (内心)なんてこった! 残ってるのは幕だけ、どこの陣も、無人状態じゃないか! さては、やっぱし、竹下方面で、わが方が敗北してしまったんだな。いかん、早いとこ、殿に報告しなきゃ!

義昌は新田義貞のもとに急行し、状況を報告した。

舟田義昌 ・・・というような状態です。

新田義貞 !!!・・・。

しばしの思案の後、義貞は、

新田義貞 このままじゃ、まずいな。とにかく、少し退却してから陣を敷き直そう。逃走してる者らをそこに留めて、それから、もう一度、戦うとしよう。

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義貞は、義昌を伴って箱根山から退きはじめた。従う者は、わずか100騎足らずである。

途中、しばらく馬を留めて後方を振り返っていると、例の「16騎党」が、馬を走らせて追いついてきた。また、北の方の山沿いにも、「三つ葉柏」の旗が見えたので、「そこにいるのは、敵か味方か?」と問うてみたら、熱田摂津大宮司(あつたせっつのだいぐうじ)の軍勢100騎ほどが、義貞を待っていたのであった。その軍勢を合わせて野七里(のくれ)まで来た所で、鷹の羽の旗を一本掲げた、菊池武重(きくちたけしげ)の軍300余騎が、合流してきた。

そこへ、西の方からやってきた散所法師(さんじょほうし:注1)が一人、来合わせた。彼は、舟田義昌の馬前にかしこまっていわく、

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(訳者注1)雑役・雑芸能に従事する法師。
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散所法師 あなた方はいったい、どこへ行かれるおつもりでしょう? 昨日の暮れ方、脇屋(わきや)殿が竹下の戦に敗北して退却した後に、足利殿の軍勢80万が、伊豆国府を占領してしまいましたよ。そこに入りきれなかった者たちが、木の下や岩の陰までも埋めつくしております。たったこれだけの軍勢では、伊豆国府の地を通っていくのは、不可能でしょう。

馬を並べて控えていた、栗生左衛門(くりふさえもん)と篠塚伊賀守(しのづかいがのかみ)は、これを聞いて、あぶみを踏まえてツット伸び上がり、味方の軍勢を見渡していわく、

栗生左衛門 あぁ、なんとあっぱれな、味方のモノノフたち。「一騎当千の武者」とは、こいつらの事を言うんだろうぜ。

篠塚伊賀守 敵が80万で、おれらは500か、ちょうどいい人数だ。よしよし、これから敵を駆け破って、道を開くぜぇ! おれに続いてこい、みんなぁ!

勇み立った後に、彼らは、数万騎がひしめく足利軍の陣中に突入していった。

足利軍サイドの一條次郎(いちじょうじろう)は、3,000余騎を率いて伊豆国府に布陣していた。

一條次郎は、新田義貞の姿を見て、「これはすばらしい敵!」と思い、馳せ並んで組み落とそうと、迫ってきた。それを見た篠塚伊賀守は、間に割って入り、次郎が打ち下ろす太刀の一撃を左の鎧の袖で受け止めた後、次郎をぐっとつかみ、弓2本分ほど前方に投げつけた。

一條も大力ですばしこい武者、投げつけられても、倒れない。よろめく足を踏みしめ直し、なおも、義貞に走り懸ろうとする。

篠塚は、馬から飛び下り、両足を揃えて、一條を蹴り倒した。一條が倒れるやいなや、起き上がろうとする所を抑え付けざま、首をかき切り、それを高々と差し上げる。

一條の郎等たちは、目の前で主を討たれて無念の思い込み上げ、馬から続々と飛び降り、篠塚を討たんとして、襲いかかっていく。

篠塚は、彼らとすれ違いざま蹴り倒し、蹴り倒しては首を取り、足をとどめることなくその場で9人を討ち取ってしまった。

これに圧倒された足利軍サイドメンバーらは、その数は数十万騎といえども、あえて、篠塚伊賀守に立ち向かおうとする者もいない。

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新田義貞たちは、静々と伊豆国府を通過していった。宵頃からの戦に敗北してそのあたりに潜んでいた者たちが方々から現れて合流し、新田軍は、2,000騎ほどになった。

新田義貞 この軍勢なら、たとえ敵が百重千重の包囲網を敷いていようとも大丈夫、ゼッタイ、駆け破って通るぜ!

喜び勇んで西へ退いていく新田軍は、木瀬川(きせがわ:静岡県沼津市)のあたりで、旗一本うち立てている2,000騎ほどの軍に出会った。接近してその紋を見れば、旗にも笠標にも、「二つ巴」が描かれている。

新田義貞 小山(おやま)の連中か。よぉし、一騎残らず、討ち取っちまえ!

義貞の命を受けて、山名(やまな)と里見(さとみ)の者らが馬の鼻を並べ、おめきながら懸けていく。小山軍は、四方八方に蹴散らされ、100騎ほどが討ち取られてしまった。

やがて、浮島が原(うきしまがはら:静岡県・沼津市、静岡県・富士市)を通過、見れば、松原の陰に、旗三本立てた500騎ばかりの軍勢がいる。

近在の者の話によれば、昨日の竹下の合戦以来、尊良親王を追撃しながら、方々で戦闘を繰り広げてきた甲斐国(かいこく:山梨県)の源氏集団だと言う。

新田貞義 これはいい敵に出会った。包囲して、討ってしまえ!

新田軍は、2,000余騎を二手に分け、南北2方向から襲いかかっていった。甲斐源氏集団は、戦っても勝ち目はないと思ったのか、矢を一本も射ることなしに、降伏した。

この甲斐源氏の集団を先に進ませながら、さらに西進。道中、中黒紋の旗を見て、戦場から逃れて潜んでいた者たちが続々と馳せ集まってきて、新田軍の兵力は7,000余騎にまで回復。ようやく安堵の中に、今井(いまい:静岡県・吉原市)、見付(みつけ:静岡県・富士市)を通過。

付近の小山の上に、旗5本を立てた2,000騎ほどの集団がいた。降伏してきた甲斐源氏の者らに、義貞は、

新田義貞 あそこの山の上にいるの、どこの家のモン(者)だい?

甲斐源氏リーダー あれは、武田(たけだ)家と、小笠原(おがさわら)家のモンらですよ。

新田義貞 だったら、攻めよう!

四方から攻め上がらせようとするのをとどめて、高田義遠(たかだよしとう)は、

高田義遠 あの敵を残らず討ち取ろう、なんてことになると、味方からも相当の損害が出ちゃうでしょう。人数が多い敵を攻める事になるんだから、一方をわざと開けながら攻めるのがいいでしょう。

この提案に従って、由良と舟田の軍は、東一方だけをわざと開けて、三方から攻め登っていった。山の上にいた軍勢は、遠矢を少々射捨てた後、東の方へ退却していった。

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それより後は、新田軍の進行をあえてさえぎろうとする者は、皆無となった。

彼らは負傷者を助け、遅れて後になってしまった軍勢を待ちながら、12月14日の暮れ方に、天竜川(てんりゅうがわ)の東宿に到着した。

上流の方で雨が降って川の水量が増し、流れが岸を浸していた。

新田義貞 長旅に、人馬ともに疲れてるからなぁ・・・馬を泳がせて川を渡るのはムリだろう。舟橋(注2)を掛けて、その上を渡るとするか。

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(訳者注2)舟を並べ、綱で結わえて、橋に仕立てた構造物。
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新田軍は、あたりの民家を破壊して材木を確保し、舟橋の構築を開始した。

この時、足利サイドが大軍を出動して、新田軍を追尾し攻撃していたならば、新田サイドは全滅していたであろう。しかし、吉良家、上杉家のメンバーたちは、作戦会議に時間を費し、3、4日もの間、軍を止めたままだった。

やがて、舟橋が完成し、数万騎の新田軍メンバーらは、次々と天竜川を渡り、その日のうちに全員が渡河を完了した。

全軍の一番最後に、舟田義昌と新田義貞は、舟橋を渡りはじめた。

その時、野心を持つ何者のしわざであろうか、舟橋をつないでいる綱が一個所、いきなり切断された。

馬の口を取りながら舟橋を渡っていた男が、馬もろとも川に落ちてしまった。人と馬は、浮きつ沈みつしながら流されていく。

舟田義昌 おぉい、誰か! あの馬を引き上げろ!

その後ろに続いて橋を渡っていた栗生左衛門が、鎧を着けたまま、川の中へ飛びこんだ。彼は2町ほど泳ぎ、流れ行く男に追いついた。

栗生左衛門は、馬と男を左右の手で持ち上げながら、肩よりも高い水位もものともせず、川底を踏みしめながら静かに歩みゆき、対岸にたどりついた。

馬が川に落ちた時に、舟橋は途中2間ほど壊れてしまい、その上を渡れそうもないような状態になってしまったが、舟田義昌と新田義貞は、手に手を組んで、そこをゆらりと飛び越えて、川を渡った。

その後に続いていた20余人は、舟橋のその破損箇所を飛び渡れそうもなく、困り果てて、うろうろしている。それを見た、伊賀(いが:三重県北西部)国住人・名張八郎(なばりはちろう)という評判の大力の者が、

名張八郎 よしよし、おまえらを、橋の向うに渡らしたるわ。

八郎は、一人づつ鎧のアゲマキを持って宙に引っさげては、ポーン、ポーンと武士たちを放り投げていった。そのようにして、20人まで、川を渡る事が出来た。

名張八郎 あと2人かぁ。

八郎は、二人を左右の脇に軽々とさしはさみ、

名張八郎 行くぞぉ、エイッ!

二人をかかえた八郎は跳躍、一丈ほどもある破壊箇所の上を、彼の体はゆらぁりと超えていく・・・。

名張八郎 おうっ!

橋板 ドスッ。

八郎は、向かいの橋板に見事着地、微動だにせず。

ちょいと軽く一飛びしただけのことよ、とでも言わんばかりの八郎の姿に、新田軍メンバーたちは、感嘆のため息を一斉にもらす。

新田軍メンバーA うわぁ、すげぇなぁ!

新田軍メンバーB 栗生、名張、どっちも、タダモンじゃないよ。

新田軍メンバーC それにしてもだ、大将といい部下といい、これほどの人間がわが方にはいたというのに。

新田軍メンバーD 足利に、敗けちまったんだよなぁ。

新田軍メンバーE 戦は時の運っていうから、しょうがねぇなぁ。

新田軍メンバー一同 でもやっぱし、悔しいぜぇ。

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その後、舟橋を切って川に流してしまったので、足利軍が寄せて来ても、そうそう簡単には渡河できないだろう、と思われた。

しかしながら、軍隊というものは、いったん退きはじめたら最後、大将と心を一つに再度敵と戦いを交えてみよう、などと思うものは、いなくなってしまうものなのである。矢作(やはぎ:愛知県・岡崎市)宿に一泊している間に、昨日まで2万余騎いた新田軍メンバーらのほとんどが十方に逃亡してしまい、残るは、その10分の1程になってしまった。

翌早朝、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)が、義貞の前に来て、

宇都宮公綱 昨夜は、まったくヒドイ状態だった。わが陣営の方々から、ひっきりなしに、逃亡していくんだ。気がついてみたら、どこの陣もまばらになってて、人がいない。

新田義貞 ・・・。

宇都宮公綱 ここでこのまま、じっとしてるのは、最悪ですよ。敵が東海道を先回りして、我らの行く手に立ちふさがる、という事だって、考えられる。もう少し西へ退いて、足近(あじか:岐阜県・羽島市)か、墨俣(すのまた:岐阜県・大垣市)を前にして陣を敷き直してから、京都周辺の国々に援軍を要請されてはいかがでしょう?

新田軍リーダーF 賛成です!

新田軍リーダーG こうなっては、京都の情勢も心配になってきましたよ。

新田軍リーダーH 京都から遠いここに長居しているのは、問題なんじゃないでしょうか?

新田義貞 よし、分かった。諸君の御意見に従うとしよう。

新田軍はその日、矢作宿を出発、尾張国(おわりこく:愛知県西部)まで退いた。

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