太平記 現代語訳 10-5 赤橋守時と本間山城左衛門の最期

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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洲崎(すさき:鎌倉市)方面へ向かった赤橋守時(あかはしもりとき)は、5月18日の朝から、倒幕軍と戦い続けていた。

この方面の戦闘は極めて激しく、一日一夜の間に65回もの衝突が展開されたほどであった。当初数万騎いた郎従は次々と戦死、あるいは逃亡し、残りわずか300余騎になった。

侍大将(さむらいだいしょう)としてその陣に加わっていた南条高直(なんじょうたかなお)に対して、守時はいわく、

赤橋守時 古代中国の、漢(かん)と楚(そ)の8年間に渡る戦いにおいて、漢の高祖(こうそ)は戦う度に敗退するばかりだった。しかし、ひとたび烏江(うごう)の戦に勝利を得た後は、一気に形成逆転、楚の項羽(こうう)はついに滅び去ったよな。

南条高直 ・・・。

赤橋守時 古代中国・春秋時代(しゅんじゅうじだい)、斉(せい)と晋(しん)は70回も戦火を交えた。晋の重耳(ちょうじ:注1)は一向に勝つことができずにいたが、最終的には国境での戦いに打ち勝って、晋国を保つことができたんだ。

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(訳者注1)後の晋の君主、文公の事。君主になる以前の名前。
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南条高直 はい。

赤橋守時 万死を出でて一生を得る、百回負けた後に最後の一戦にて形成逆転、戦(いくさ)ってぇのは、いつの時代にあっても、そういうもんなのさ。今回の戦だって、敵方は相当勝ちに乗ってはいるようだけどな、かといって、わが北条(ほうじょう)家の命運が今日ここに尽きてしまった、なんてフウには、おれには到底思えねぇな。(注2)

南条高直 そうですとも!

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(訳者注2)赤橋守時は、北条一族に属する人である。
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赤橋守時 でもなぁ、この守時、我が北条一族の安否を見届ける前にな、ここの陣頭で腹を切ってしまおうって思うんだ。

南条高直 えっ・・・いったいなぜですか? なぜ?

赤橋守時 うん・・・なぜかって・・・それはだな・・・おれの妹(注3)、あの足利殿の所に嫁いでるんだもんな。

南条高直 (唇をかみしめる)・・・。

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(訳者注3)守時の妹・登子は、足利高氏の妻である。
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赤橋守時 高時殿はじめ、一族の人々はおそらく、おれの事、あまり信用してくれてないだろうよ。

南条高直 ・・・。

赤橋守時 こんな疑惑を身内から抱かれるなんて、まさに、勇士の恥ずる所じゃないか!

南条高直 (じっとうつむく)・・・。

赤橋守時 古代中国・戦国時代末期、かの田光先生(でんこうせんせい)はある日、燕(えん)国の太子・丹(たん)から、秦・始皇帝(しんのしこうてい)暗殺計画を打ち明けられ、助力を求められた。その後、太子・丹は田光先生に、「この事を絶対に口外してはならぬぞ、よいな」と言った。そこで、田光先生は太子・丹に余計な疑念を抱かせまいと、彼の目の前で自らの命を絶ったという。

赤橋守時 おれが率いてるこの軍、激戦に次ぐ激戦で、みんな疲れきっちゃってる。もうこれ以上、とても戦えやしない。かといって、守りをかためているこの場から退いたとあっては、おれには、なんの面目もねぇよ。一族の疑惑の中に、しばらく命ながらえたって、それでいったい、なんになるってんだぁ!

このように言い放つやいなや、戦い未だ半ばに達せずというさ中であるにもかかわらず、守時は、帷幕(いばく:注4)の中に鎧を脱ぎ捨て、腹を十文字に切って、北を枕に倒れ伏した。

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(訳者注4)陣屋。
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南条高直 赤橋殿! 赤橋殿!(涙)。

赤橋守時の郎等ら一同 ううう・・・(涙)。

南条高直 あぁ、逝(い)ってしまわれた・・・(涙)。

赤橋守時の郎等ら一同 ううう・・・(涙)。

南条高直 えぇい! 大将がすでに御自害されたとあっちゃぁ、もう誰のためにも惜しむものかぁ、この命! 赤橋殿、おれも、お供しますよ!

守時に続いて腹を切る高直を見て、志を同じくする武士90余人、上に上にと重なって、腹を続々と切っていく。

かくして、5月18日夜半、洲崎の守備陣がまず破れ、新田義貞率いる倒幕軍は、山内(やまのうち:鎌倉市)まで進んだ。

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ここに、本間山城左衛門(ほんまやましろざえもん)という武士がいた。

彼は長年、大仏貞直(おさらぎさだなお)に目をかけてもらい、お気に入りの近習の一員として仕えていた。ところが、ふとした事から、貞直の勘気(かんき)を食(くら)ってしまい、「以後、出仕に及ばず」の状態となり、蟄居謹慎(ちっきょきんしん)の身となっていた。

5月19日の早朝、

鎌倉の人A 大変だ、大仏殿が守ってる極楽寺坂の陣、破れちゃったぞ!

鎌倉の人B エェッ!

鎌倉の人C 敵がドンドン、攻め込んできてるってよぉ!

本間山城左衛門 ナニィ! 大仏様が!

本間山城左衛門 (内心)こうしちゃおれねぇ、とにかく、行かなきゃ!

本間は、自らの若党(わかとう)・中間(ちゅうげん)100余人を率いて、極楽寺坂へ向かった。

本間山城左衛門 (内心)殿へのご奉公も、今日で最後か・・・。

本間らは、倒幕軍大将・大館宗氏(おおたちむねうじ)率いる3万余騎の陣の真っただ中へ掛け入り、勇み誇る大勢を八方へ追い散らし、宗氏に引き組まんと、突撃をくり返す。そのあまりの勢いの激しさに、3万余騎の倒幕軍は瞬時の間に分かれなびいて、腰越(こしごえ:鎌倉市)まで退却。

なおも激しく迫る本間を見て、とって返して思う存分戦った大館宗氏は、ついに本間の郎等に引き組まれ、互いに刺し違えて果てた。

本間山城左衛門は、大いに喜んで馬から飛び降り、大館宗氏の首を取って太刀の切っ先に貫き、大仏貞直のもとに馳せ参じ、幕の前にかしこまっていわく、

本間山城左衛門 長い間ご奉公させていただき、殿からは数々の御恩を頂いてきましたが、その御恩にやっと報じ奉ることができました・・・今日のこの一戦で。

大仏貞直 ・・・。

本間山城左衛門 私への殿のお疑い、晴らせないままに死んでしまってちゃ、あの世へ行ってからも私の気持ち、スッキリしませんでしたでしょうね・・・きっと妄念になっちまってね、わが魂の救いの妨げになってたことでしょうよ。

大仏貞直 本間・・・。

本間山城左衛門 これでやっと、心安らかに冥土へ行けるってもんでさぁ。

大仏貞直 本間・・・お前ってヤツは・・・。

本間山城左衛門 殿、ありがとうございました・・・じゃぁ、お先に失礼します!

言うが早いか、流れる涙を押さえつつ、本間山城左衛門は、腹をかき切った。

大仏貞直 ううう・・・本間! 本間ぁ!・・・・(涙、涙)

大仏貞直 「たとえ敵が大軍なろうとも、その上下の心和さざれば、その将帥をも奪う事も可能」・・・よくぞ言ったもんだ・・・。「徳を以って恨(うらみ)を報ず」とはまさに、本間のこの心そのものだ。あぁ、なんて立派な男・・・こっちが恥かしくなるくらいだ。

落ちる涙を鎧の袖にかけながら、大仏貞直は奮い立った。

大仏貞直 よぉし! 本間、オマエの志に今からミゴト、応(こた)えてみせるからなぁ! 行くぞぉ!

大仏軍メンバー一同 オーウ!

自ら先頭切って出陣する貞直の後に、幕府軍の武士たちは、涙を流しながら続いていく。

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