太平記 現代語訳 36-7 反幕府勢力、東西に台頭

太平記 現代語訳 インデックス 18 へ
-----
この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
-----

若狭国(わかさこく:福井県西部)は近年、細川清氏(ほそかわきようじ)の支配下にあり、頓宮四郎左衛門(とんぐうしろうざえもん)が、その統治の実務を任されていた。

四郎左衛門は、小浜(おばま:福井県・小浜市)に堅固な城を築き、食料数万石を備蓄していた。

小浜城に逃げ込んだ細川清氏は、城の構えや軍備を調べて、

細川清氏 (内心)ここなら大丈夫。双方攻め合いの戦をするにしても、篭城戦(ろうじょうせん)をするにしても、1年や2年は、もつな。そうそう簡単には、落ちないだろう。

やがて、清氏のもとへ、次のような情報がもたらされた。

細川軍メンバーA きますよ、きますよ、敵軍がぁ。

細川軍メンバーB 大手方面の敵側・大将には、斯波氏頼(しばうじより:注1)が任命されました。斯波は、北陸地方の勢力3,000余騎を率い、越前国(えちぜんこく:福井県東部)から椿峠(つばきとうげ:福井県・三方郡・美浜町)経由ルートで、若狭へ進軍の予定とか。

-----
(訳者注1)斯波氏頼は、36-6 に登場している。ただし、[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注では、大将に任命されたのは、石橋和義であり、この部分の記述は、太平記作者が誤っているのであろう、としている。
-----

細川清氏 うん。

細川軍メンバーC カラメテ方面軍の大将には、仁木義尹(にっきよしたか)が任命されました。山陰道(さんいんどう)の勢力2,000余騎を率いて、丹波(たんば:兵庫県東部+京都府中部)から逆谷(さかさまたに:福井県・大飯郡・おおい町)経由で、こちらへ向かう予定とか。

細川清氏 ウワハハハ・・・攻めてくるってかぁ? 哀れなやつらめ、ウワハハハ・・・。

細川清氏 あんな連中ら、幾千人攻めてきたって、どうってことないねぇ。そうさなぁ・・・こっちサイドの力仕事専門のもん2、3人に、杉材棒(注2)でも持たせて、立ち向かわせとくとするかぁ・・・もうそれで十分だろ、ウワハハハ・・・。

-----
(訳者注2)杉の棒の先に、鋭利な刃物を装着した武器。
-----

細川清氏 よぉし、まずは、敦賀(つるが:福井県・敦賀市)。あそこには、あっちの先鋒役の朝倉(あさくら)ナントカってのが陣取ってる、それを蹴散らすんだ、わかったな!

細川家・中間8人 オウ!

彼ら8人は、敦賀の津へ潜入し、浜に面した民家10余軒に火をつけて、トキの声を上げた。

朝倉軍メンバー300余騎は、びっくり仰天、

朝倉軍メンバーD ヤヤ、細川軍の奇襲だ!

朝倉軍メンバーE きっと、ものすごい大軍でやってきてるよぉ!

朝倉軍メンバーF 退却して、後陣に合流しようや。

朝倉サイドは、矢の1本も射る事も無いまま、敦賀から撤退。メンバー300余騎は、馬や鎧を捨て、越前の国府(福井県・越前市)へ逃走した。

-----

若狭&越前の人々G あんなんじゃぁ、とてもとても、細川には立ち向かえないとの、もっぱらの前評判だったけど、

若狭&越前の人々H やっぱし、その通りになってしまったね、ククク・・・。

若狭&越前の人々 ほんと、ほんと、アハハハハ・・・。

世間の人々のこの嘲笑を聞いて、斯波氏頼は、

斯波氏頼 (激怒)えぇい! なにやってんだよぉ!

10月29日、氏頼は、大軍を率いて椿峠へ向かった。

これを聞いた細川清氏は、

細川清氏 来たかぁ・・・よぉし・・・。

細川清氏 今度は、おれが出陣する。あいつら、徹底的に、やっつけてやる。一人も、生きて越前に帰さないよぉ!

というわけで、小浜城を頓宮四郎左衛門に任せ、清氏は、弟・頼和(よりかず)と共に500余騎を率いて、斯波軍に馳せ向かっていった。

しかし、斯波軍に直面して、細川兄弟の心中に、迷いが生じてしまった。

細川頼和 うーん・・・これはまたぁ・・・えらい攻めにくい所に、陣を構えられてしまったなぁ。

細川清氏 そうさなぁ。

細川頼和 あっちから攻め懸かってくるのを待ち、迎撃するか・・・それとも、先制攻撃、しゃにむに攻撃しかけるか・・・さぁて・・・。

細川清氏 うーん・・・。

このように、あれやこれやと思案を重ね、未だ戦の火蓋を切らずにいた、そんなある日、

細川軍メンバーI たいへんです! 頓宮が裏切りましたぁ!

細川清氏 えぇっ!

細川頼和 なにぃ!

「これまで、彼に対して施してきた恩は、格別である、ゆえに、決して、裏切ったりしないであろう」と、厚い信頼を置いていた頓宮四郎左衛門が、どうしたことか、にわかに心変りしてしまった、というのである。

細川軍メンバーI 頓宮のやろうめ、城ん中に降伏サインの旗、揚げやがりましてね。

細川軍メンバーJ それから、城の木戸、閉じて。

細川軍メンバーK 敵側の連中、あっという間に、後方から城になだれこんできて。

細川軍メンバーL みんなもう、どうしようもなくなっちゃって、右往左往しながら、やっとの思いで城を脱出・・・。(うなだれる)

細川清氏 ・・・(愕然)。

細川頼和 ・・・(愕然)。

いやはや・・・まったくもって、「馬6匹を繋(つな)ぎ止めるに、朽ちた縄を用いるがごとき、危うさ」とでも言うべきか・・・昨今の武士たちの心ほど、あてにならないものはない。

-----

勇士・細川清氏といえども、さすがに、「こうなっては、もはやかなわぬ」と思ったのであろう、頼和と二人だけで若狭を脱出、篠峯(ささのみね)越えルート(注3)経由で、密かに京都へ潜入した。

-----
(訳者注3)仰木(滋賀県・大津市) --> 比叡山の篠峯付近 --> 大原(京都市・左京区)のルート。
-----

「一夜だけでも京都の中に潜伏するのは、極めて危険」との判断の下、清氏と頼和は、それからは各々、別ルートを取る事にした。

清氏は、比叡山(ひえいざん)を越えて坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ下った。そこで1日、馬の足を休めた後、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ向かった。

頼和はその夜半、京都市街地の中を西方へ駆け抜けた。その後、大渡(おおわたり)を経由して、兄との取り決め通り、天王寺へ向かった。

-----

天王寺へ到着した清氏は、直ちに、石塔頼房(いしとうよりふさ:注4)のもとへ使者を送った。

-----
(訳者注4)31-1 において、石塔頼房は父・義房と対立し、足利幕府側陣営に留まった。しかし、32-3 では吉野朝勢力の一員として、細川清氏との戦に参加している。
-----

使者 わが殿より石塔さまにお願いしたい事があって、やってきました。

石塔頼房 おぉ。

使者 わが殿より、次のように石塔さまに申し上げよと、おおせつかってきております、

 「清氏、讒者(ざんしゃ)の不当なる訴えにより、何の罪も無いのに、死罪に処せられることになりました。今やまさに日本国内、我が身の置き所は、一寸の地もございません。よって本日、天皇陛下のご恩顧をいただきたく、御軍門に降参してまいりましてございます。石塔殿とは長いおつきあい、ただただ、貴方様をおたのみ申すばかり。とにもかくにも、何とかして、朝廷へのお口ききを、なにとぞ、よろしくお願いいたします。」

石塔頼房 ・・・。

使者 わが殿よりのお願い、以上、確かにお伝えいたしました。なにとぞ、なにとぞ、よろしくお願い申し上げます!(平伏)

石塔頼房 ・・・(涙)。

使者 ・・・(平伏)

石塔頼房 ・・・まったくもう・・・これは、夢か現実なのか・・・信じられん・・・あの清氏殿がなぁ・・・(涙)。

使者 石塔殿、なにとぞ、なにとぞ!

石塔頼房 うん、わかった。とにかく、朝廷の方へ折衝してみるよ。結果がどうなるか、保証はできないけど。

使者 お願い申し上げます!(平伏)

頼房は直ちに朝廷に参内し、細川清氏降伏の件を奏上した。

閣議の結果、以下のような赦免の旨を記した天皇裁決書(注5)が発行された。

=====
敵軍リーダー、首を伸べて帝徳に降る。しかれば、天子が彼を許さないはずがあろうか。速やかに、朝廷軍の一員としてその軍門に慎み仕え、朝敵征伐の忠を専らにすべし。
=====

-----
(訳者注5)原文では、「恩免の綸旨」
-----

頼房は大喜び、すぐに、清氏に対面した。

石塔頼房 細川殿・・・(涙)。

細川清氏 石塔殿・・・(涙)。

石塔頼房 ・・・(涙)。

細川清氏 ・・・(涙)。

石塔頼房 ほんとになぁ、人間の一生ってぇのは・・・一寸先は闇、何が起るか、分からんもんだなぁ。

細川清氏 世の転変、今に始まった事じゃぁないけど・・・でもなぁ、こうやって、あんたと、思いもかけない再会ができた・・・これで長年の願いもかなった・・・嬉しいよ・・・嬉しいよぉ・・・。(涙)。

石塔頼房 ・・・おれもだ・・・。(涙)

このように、清氏はただ、あいさつだけして帰って行った。

古代中国・秦(しん)帝国の末期、陰の実力者・趙高(ちょうこう)の讒言を恐れて、将軍・章邯(しょうかん)が楚(そ)の項羽(こうう)の軍門に降った時、面(おもて)を垂れ、涙を流し、言葉には出さねどもその心中には、讒者が世を乱す事への恨みを含んでいた、その時の光景と全く同様である。

-----

京都の人M えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、仁木頼夏(にっきよりなつ:注6)はんも、京都から脱出しはったえーっ!

-----
(訳者注6)36-6 に登場。
-----

京都の人N えーっ、いったい、どこえぇなぁ?

京都の人M 本拠地の伊勢(いせ:三重県中部)やがな。伊勢で兵集めて、旗揚げしはるんやろう。

京都の人O 仁木はんだけと、ちゃうでぇ、細川氏春(ほそかわうじはる:注7)はんもや。京都、脱出して、淡路島(あわじしま:兵庫県)へ逃げていかはったわ。「淡路全島の勢力を集めて、清氏殿に連合、軍船を整え、大阪湾(おおさかわん)をつっきり、堺(さかい:大阪府堺市)へ上陸ぅ!」っちゅうてなぁ、エライ気勢、上げたはるらしいでぇ。

-----
(訳者注7)36-6 に登場。
-----

京都の人P 摂津国(せっつこく)のなぁ、源氏の血筋引いたはる松山(まつやま)とかいうお人も、幕府に叛旗ひるがえしはったえぇ。香下城(かしたじょう:兵庫県・三田市)の防備かためてな、吉野の朝廷に志、通じ、播磨道(はりまどう)塞いでもてな、人馬の通行、完全ストップやてぇ。

京都の人Q ほんにまぁ、えらいこっちゃがなぁ。

京都の人M たまらんでぇ。

京都の人一同 アァーッ、また、戦争かいなぁ。

「近畿地方において、反乱蜂起、多発!」との情報をキャッチしても、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)は、涼しい顔。

足利義詮 大丈夫だってぇ。みんなちょっと、騒ぎすぎぃ。

足利義詮 京都近辺がガタガタしたってさぁ、関東はあの通り、安定しちゃってるじゃぁん。いざとなったら、関東八か国の軍勢を上洛させてだねぇ、反乱軍、退治させちゃえばいいんだろぉ。みんないったい、なに、そんなに大騒ぎしてるんだぁ?

-----

京都朝年号・康安(こうあん)元年(1361)11月13日、関東よりの早馬が京都に到来、使者いわく、

関東よりの急使 関東地方に一大事発生! 畠山国清(はたけやまくにきよ)とその弟・畠山義深(よしふか)、幕府に対して叛旗(はんき)をひるがえし、伊豆国(いずこく:静岡県東部)にたてこもりました。関東の道は、諸処(しょしょ)で寸断、武士たちは軍勢催促に応じようとしません!

足利義詮 えっ!

関東の事態急変の経緯は、以下の通りである。

一昨年の冬、吉野朝勢力・討伐軍・大将として上洛した際に、畠山国清は、関東八か国の武士たちを、大小問わず残らず率いて、京都にやってきた。(注8)

-----
(訳者注8)34-2 参照
-----

関東から遙か遠く離れた近畿地方への遠征、しかも、長期戦となって在陣は数か月。メンバー全員、出費がかさみ、どうにも首が回らなくなり、ついには、馬や鎧までをも売却せざるをえない状態に、追い込まれてしまった。

こうなってしまってはもう、戦も何もあったものではない、畠山陣営からは、毎日ポロリ、ポロリと、メンバーの姿が見えなくなっていく。

大将の畠山国清にいとまごいをする事もなく、大半のメンバーが陣を去り、自らの本拠地へ帰っていった。

戦の後、関東に帰還した国清、いわく、

畠山国清 あの国家の一大事、あの大遠征の際に、戦陣を勝手に離れるたぁ、なにごとだぁ! そんなやつらは、絶対に許さぁん!

かくして、関東武士たちは、命の懸かった我が領地(注9)を、次々と没収されていった。

-----
(訳者注9)原文では、「一所懸命の所領どもを」。
-----

関東武士たち一同 なんてぇムチャな! そんなの、ヒデェぞぉ! 領地、返してくれよぉ!

彼らの必死の嘆願を、国清は一切無視。足利幕府・鎌倉府(かまくらふ)の奉行たちが、見るに見かねて進言してきても、

畠山国清 ウルセェィ! よけいな差し出口しやがるやつは、かたっぱしから、たたっきるぞぉ!

奉行たち ・・・。

このようなわけで、関東中、訴人(そにん)は徒(いたず)らに群集し、憂いを心中にいだかざる者は一人も無し、という状態に至ってしまった。

-----

領地を没収された武士たちは、しばらくの間は、訴訟状を手に、東奔西走していたが、

武士R おい、おまえも、領地、没収されちまったんかい?

武士S そうだよ。おまえもだろ?

武士T うん。

武士V おれっちの近所で、同じメにあったやつ、けっこういるよ。

武士W おれっちの方も。

武士R おれたちと同じメにあったやつ、大勢、いるみたい。

武士S みんな集まりゃ、けっこうな数になるかもよぉ。

武士T どうだい、みんなで一致団結してだ、鎌倉府長官の基氏(もとうじ)様に、直訴するってぇのは。

武士U そうだったなぁ・・・団体交渉ってぇテがあったよなぁ。

武士V 団交だよ、団交。

武士W いっちょ、やってみっかぁ?

武士R みんなで手分けしてさぁ、オルグ(org : organizeの略称 : 組織化活動)やってみようや。

武士S よーし!

武士T やるぞぉ!

彼らは、ついに決起した。

主要メンバー1000余人、共に神水を呑んで一揆団結(いっきだんけつ)を誓い合った後、足利幕府・鎌倉府長官・足利基氏に対して、畠山国清の非行を訴え出た。

=====
悪辣(あくらつ)にして暴虐(ぼうぎゃく)なる、鎌倉府・執権・畠山国清を、どうか、罷免(ひめん)してください。そうでないと、我々は今後一切、長官様のご命令には従えません!」
=====

足利基氏 (内心)まったくもう、なんてやつらだ! しもじもの分際でありながら、上位に当たる執権職の罷免要求を出すとは! 下克上(げこくじょう)も甚(はなは)だしい! けしからん!(憤り)

足利基氏 (内心)でもなぁ・・・彼らに背かれてしまったら、1日たりとも、関東地方を安定状態に保つ事はできない・・・うーん・・・やむをえん!

基氏は、すぐに、国清のもとへ使者を送った。

使者 長官様よりのメッセージ、お伝えいたします、

=====
一昨年のあの上洛の際、南方朝廷勢力の退治を二の次にして、おまえは専ら、仁木義長(にっきよしなが)討伐にのみ、血道(ちみち)を上げていた。

今にして思えば、その行動は、おまえの密かなる、幕府転覆・陰謀の一端では無かったか?

さらに、関東に帰還の後、さしたる罪もない諸人の領地を、おまえは、かたっぱしから没収してしまった。

おそらくそれも、おまえの陰謀であろう。世間を混乱状態に陥れ、天下の人心を、私・基氏から離反せしめようとの、魂胆(こんたん)であろう?

かくのごとく、反逆の意志が明々白々に露見してしまったからには、なんじ、畠山国清、ただの一日たりとも、我が館の門下に、その足跡をも残すべからず! 退出が遅々に及ぶならば、速やかに追討の軍勢をさし向ける事になるから、そのつもりでな!
=====

その時、国清は鎌倉(神奈川県・鎌倉市)にいたが、

畠山国清 (内心)いってぇなんでぇ、これは・・・基氏様、カンカンに、怒っちまってらぁ。

畠山国清 (内心)こういう状態じゃ、もう、なに言ってもだめだろうなぁ・・・しかたねぇ、とにかく、鎌倉から、トンズラするべぇ。

かくして、畠山兄弟5人、郎従ともども300余騎、鎌倉を出て、伊豆へ向かった。

-----

国清たちが小田原宿(おだわらじゅく:神奈川県・小田原市)へ着いた時、土肥掃部助(とひかもんのすけ)は、

土肥掃部助 畠山たちは、今や、基氏様の敵だ。矢の一本も射ずに、逃亡していくのを見過ごすわけには、いかんよなぁ。

掃部助ら主従8騎は、小田原宿へ押し寄せ、風上から火をかけ、煙の下から切り込んでいった。

畠山側の遊佐(ゆさ)、神保(じんぼ)、斎藤(さいとう)、杉原(すぎはら)が、それに立ち向かい、散々に追い払った。

畠山側メンバー一同 たった、あれっぽっちの人数で、おれたちに襲いかかってくるだなんて・・・あいつら、どうかしてるよなぁ・・・アハハハ・・・。

後陣メンバーたちに、防ぎ矢を少々射させながら、国清たちはその夜、小田原宿を発った。

そして彼らは、伊豆の修善寺(しゅぜんじ:静岡県・伊豆市)に到着し、そこにたてこもった。

その後、国清の弟・義深は、修善寺から信濃(長野県)へ向かい、諏訪祝部(すわのはふり:注10)を仲間に引入れた。

-----
(訳者注10)諏訪盆地を本拠地とする諏訪氏である。諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めていた。
-----

京都の人X 近畿地方一帯、えらい事になってもた、と、思ぉてたのに、あれまぁ。

京都の人Y 関東、中国、東山道、どこもかも一斉に、反乱軍、決起やがな。

京都の人Z いったいこれ、どないなってんのぉん?

京都の人一同 ほんにまぁ、えらいこっちゃがなぁ、これからいったい、世の中、どないなっていくんやろかいなぁ?

-----

太平記 現代語訳 インデックス 18 へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?