太平記 現代語訳 8-4 赤松軍、京都西方に踏みとどまる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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今や天下は乱れに乱れ、戦火が空を覆い尽くしてしまっている。玉座にある帝王には一日として心安らかなる日は無く、武臣、鉾(ほこ)をきらめかせ、錦のみ旗、閑(しず)かに動かず、という日も無くなってしまった。

公卿A こういう時にこそ、頼りになるのが、み仏の偉大なるお力ですわいな。

公卿B ほんま、そうですわなぁ。仏法の力をもってして、逆賊を鎮めてもらわんことには、天下の静謐(せいひつ)は期しがたいですわ。

ということで、朝廷より諸寺諸社に命が出て、朝敵調伏の大法秘法(たいほうひほう)が修されることになった。

陛下の兄弟・尊胤法親王(そんいんほっしんのう)は、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県大津市)の長・天台座主(てんだいざす:注1)の地位にあらせられたので、自らもまた宮中に壇を築き、仏眼法(ぶつがんほう)を修された。裏辻(うらつじ)の慈汁僧正(じじゅうそうじょう)は、仙洞御所(せんとうごしょ)において薬師如来法(やくしにょらいぼう)を修した。幕府もまた、延暦寺、興福寺(こうふくじ:奈良市)、園城寺(おんじょうじ:大津市)の衆徒の歓心を得て神仏のご加護を仰ごうと、方々の荘園をこれらの寺々に寄付し、種々の重宝を献上して、加持祈祷(かじきとう)を行わせた。

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(訳者注1)天台宗のトップ。
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しかしながら、朝廷の政道は正しからず、武家の積悪は災禍を招くばかり、いくら祈ろうとも、神仏はその非礼を享(う)けられない。味方に引き入れようといくら説いてみても、人々もまた幕府の発する甘言には、なびかない。日を追うにつれて、諸国からの急を告げる早馬の数は、ただただ増していくばかりであった。

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さる3月12日の合戦において、赤松(あかまつ)サイドは一敗地にまみれ、山崎(やまざき:京都府・大山崎町)を目指して退却していった。すぐにそれに追い討ちをかけておきさえすれば、赤松軍はもはや京都付近には、踏みとどまれなかったであろう。

しかし、「ここまでやっつけたのだから、もう大丈夫だろう」と、六波羅庁側には油断が生じてしまった。それを良い事に、赤松サイドの敗軍の武士たちはあちらこちらから再び集合してきて、あっという間にまたまた、大軍団に復活してしまった。

赤松円心(あかまつえんしん)は、中院貞能(なかのいんさだよし)を「聖護院(しょうごいん)の宮」と称してまつりあげ、彼をトップに頂きながら、山崎から八幡(やわた:京都府・八幡市)一帯に陣を取り、桂川(かつらがわ)-宇治川(うじがわ)-木津川(きづがわ)の三川合流地点(注2)の通行を阻害し、京都と中国地方間の運輸・交通を完全に遮断してしまった。

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(訳者注2)京都府・八幡市の付近にあり。
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その結果、京都内の物資流通は完全にストップ、幕府側勢力の兵糧運搬は極めて困難な状況になってしまった。これを聞いた六波羅庁両長官は、以下のような指令を発した。

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六波羅庁令、以下のごとし:

赤松円心たった一人のために京都中が悩まされ、士卒が苦しむとは、まったくもって、遺憾な事である。

さる12日の戦闘の状況から見ても、敵はさほどの大軍ではない。なのに、なんとも情けないことには、赤松軍、再び勢力増、と耳にしただけで震え上がり、彼らを山城(やましろ:京都府南部)・摂津(せっつ:大阪府北部+兵庫県南東部)の国境付近にのさばらせたままにしているとは! こんな事では、幕府の名折れ、後代までの恥辱である!

とにかく今度という今度こそは、我ら官軍の方から敵陣に押し寄せ、八幡、山崎の赤松側両陣を攻め落として、賊徒を川に追いつめ、その首取って六条河原にさらすべし!

この命令に従って、京都市中48か所警護所ならびに在京の武士たち合計5,000余騎は、五条河原(ごじょうがわら)に勢揃いした後、3月15日午前6時、山崎へ向けて進軍を開始した。

始めは二手に分かれて進んでいったのだが、久我畷手(くがなわて)の道は路幅が狭くて周囲は泥田だから馬の進退もままならんだろう、ということで、八条のあたりから全軍合流した。

桂川を渡った後、川島(かわしま:京都市・西京区)の南方を経て、物集女(もずめ:京都府・向日市)、大原野(おおはらの:京都市・西京区)の前方から赤松陣めがけて、ひたひたと接近していく。

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「六波羅庁軍来襲」との報を受け、赤松サイドは、3,000余騎の兵力を3手に分けた。

第1軍団:足軽の射手選抜隊500余人を、小塩山(こしおやま:京都市・西京区)へ配置。

第2軍団:野伏(のぶし)に騎馬の武者を少々交えた1,000余人を、狐川(きつねがわ:位置不明)付近に展開。

第3軍団:刀と槍の武装軍団800余騎を編成し、向日明神(むこうみょうじん:京都府・向日市)後方の松原の陰に伏兵として配備。

赤松軍がこれほど近くまで進出してきているとは思いも寄らず、六波羅庁軍サイドは不用意に、相手が仕掛けた包囲網の奥深くに入ってしまった。

寺戸(てらど:京都府・向日市)付近の家々に放火しながら、最前線部隊が今まさに向日明神の前を通過しようとしていたその時、善峰山(よしみねやま:京都市・西京区)、岩蔵山(いわくらやま:京都市・西京区)の上から、赤松軍・足軽矢戦軍団が、一枚盾をてんでに引っさげながら山麓に殺到、六波羅庁軍に対して一斉射撃開始!

赤松軍・足軽矢戦軍団メンバー一同 それぇ!

矢 ビュンビュンビュンビュン・・・。

六波羅庁軍サイドは、馬の頭を揃えて突撃し彼らを撃破せんとするも、斜面は急峻でとても登っていくことができない。広い所におびきだして討ち取ってしまおうとしても、赤松軍サイドもそのへんの事はよくよく心得ており、攻めかかってこない。

六波羅庁軍リーダーK ええねん、あんなん、ほっとけ、ほっとけ!

六波羅庁軍リーダーM そうやでぇ。つまらん野伏(のぶし)ら連中を相手に、骨折ってみても、しゃあないがな。

六波羅庁軍リーダーN あいつらにはかまわわんと、このまま山崎へ進もうや。

六波羅庁軍リーダー一同 賛成。

このように合議の後、六波羅庁軍は馬を進めた。

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西岡(にしおか:京都府・向日市)付近を南へ通過した所で、思いもよらず、赤松サイドの坊城左衛門(ぼうじょうさえもん)率いる50余騎が、向日明神の小松原中から突如出現した。

坊城左衛門軍団メンバー一同 ウオーー!

彼らは六波羅庁軍サイドの大軍中に、突入してくる。

六波羅庁軍リーダーK なんや、なんや、たったあれだけの小勢やないかい、真ん中にとりこめて、残らず討ち取ってしまえぃ!

さらに、田中(たなか)、小寺(こでら)、八木(やぎ)、神澤(かんざわ)らの赤松サイドの軍団が、ここかしこから、100騎、200騎と思い思いに現われた。彼らは、魚鱗(ぎょりん)、鶴翼(かくよく)と様々な陣形を取って、六波羅庁軍を包囲殲滅しようと襲いかかってくる。

これを見て、狐川に配置されていた赤松軍500余も、六波羅庁軍の退路を断ってしまおうと、畷づたいに進み、道を横切って展開してきた。

六波羅庁軍リーダーK あ、あかん、退(ひ)け、退(ひ)けぇ!

六波羅庁軍側は馬に鞭打ち、一斉に退却していった。

短時間の戦であったゆえに、六波羅庁軍側の損害は、それほどひどくはなかったけれども、堀や溝、深田にはまりこみ、馬も鎧も上から下まですっかり泥まみれになってしまった。白昼、京都の市街を通って退却していく彼らを見て、見物の連中はみな、大笑いである。

見物人X あれ見てみぃなぁ、みんな、泥だらけになってしもとるやないかい。

見物人Y 陶山(すやま)、河野(こうの)二人を向かわせといたら、これほどの「泥沼の戦」には、ならんかったやろうになぁ。

見物人一同 わはははは・・・。

かくして、京都在住の勢力より構成の六波羅庁軍は、赤松軍掃討戦に敗北、これに参加せずに京都に残留していた河野通治(こうのみちはる)と陶山二郎(すやまじろう)の威信は、ますます高くなっていったのであった。

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