太平記 現代語訳 20-6 新田義貞、再び足羽城攻めを計画

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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脇屋義助(わきやよしすけ) ・・・と、いうわけでねぇ・・・。

新田義貞(にったよしさだ) そっかぁ、そんな事になっちまったのかぁ・・・。

脇屋義助 ・・・。

新田義貞 八幡の連中らを支援しつつ、スキあらば京都を攻略、ということで、進軍を急がせたんだけどなぁ・・・互いの手違いで好機をムザムザ逃しちまったか・・・うーん、残念!

脇屋義助 面目ない・・・アニキ・・・(がっくりと頭を垂れる)

新田義貞 ハハハ・・・まぁまぁ、そう落ち込むなって、義助! ものは考えようってもんさね。これで、じっくり腰を落ち着けてさぁ、越前の敵勢力を完全に退治できるようになったって、わけじゃぁねえの! 越前をしっかりかためてから、また、吉野としめし合わせて、京都を攻めりゃいいんだわさ。

脇屋義助 うん!

新田義貞 今度は、おれとお前といっしょに、一戦やらかそうやぁ! 河合庄(かわいしょう:福井県・福井市)へ打って出て、足羽(あすは)の城を落としちまうんだ!

脇屋義助 よーし!

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これを聞いた、足利・北陸方面軍大将・斯波高経(しばたかつね)は、

斯波高経 こっちはわずか300騎足らず、新田軍は3万余騎。城を囲まれてしまったら、千に一も勝ち目はないな。

斯波軍リーダー一同 ・・・。

斯波高経 方々の道路もすでに、新田軍に全て塞がれてしまった、と言う情報もあるからなぁ・・・たとえ城から脱出しても、どこまで逃げれるもんやら・・・。

斯波高経 こうなったらもう、「討死あるのみ!」って覚悟固めて、城の守りをかためる以外、どうしようもないだろうが、えぇ? なぁ、みんな!

斯波軍リーダー一同 その通りです!

斯波サイドは、本拠地の周囲一帯の深田に水を入れて馬の足を立たないようにし、道路の随所に堀を切り、落とし穴を仕掛け、橋を外し、溝を深くして、防御をかためた。自らの支配エリア内に7つの城砦(じょうさい)を建設し、敵が攻めてきたら互いに助けあいながら挟撃(きょうげき)できるようにしていた。

この足羽(あすは)の地は、藤島庄(ふじしましょう)に隣接しており、7つの城の半ばが、藤島庄(ふじしましょう)の内にあった。

やがて、平泉寺(へいせんじ:福井県・勝山市)の衆徒から、斯波高経のもとへ密使が送られてきた。

平泉寺密使 藤島庄は長年に渡って、わが平泉寺と延暦寺が、その所有権をめぐって係争を繰り広げてきた地です。藤島庄を平泉寺のものにしてくださるのであれば、わが寺の若手のめんめんを足羽の城の中へ援軍として送りこみ、戦わさせましょう。老僧らは室にこもり、斯波殿の為に戦勝祈願いたすとしましょうか。

高経は大いに喜び、下記のような将軍御教書(しょうぐんみぎょうしょ)を作成した。

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今回の合戦においては、ひたすら貴寺の衆徒方の応援を仰ぎ、神霊のご擁護を頼むものなり。ゆえに、まずは、藤島庄を貴寺にさしあげる事とする。もし勝利を得られたならば、さらなる恩賞を、将軍にお願いして、さしあげるといたそう。

以上、将軍様のご意向、たしかに申し伝えるものなり。

建武5年(注1)7月27日 尾張守・高経

平泉寺衆徒御中
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(訳者注1)20-1 以降、「延元」とか「建武」とか、年号が様々に錯綜していて、ややこしい。鎌倉幕府倒幕後、「建武」という年号を定めた後醍醐天皇であったが、足利軍を九州に追いやって後、「延元」と改元。しかし、尊氏に支持されて帝位に就任した持明院統は、「建武」の年号を復活した。ゆえに、後醍醐天皇側の新田義貞は「延元」を用い(20-4)、足利側の斯波は「建武」を用いているのである。

 参照:「日本の歴史・9・南北朝の動乱 佐藤進一著 中央公論社 1974 ISBN4-12-200077-7」中の「延元の改元論議」(126P)、「新帝擁立」(136P)、「年表」(巻末)。
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この将軍御教書の発行に、平泉寺の衆徒らは喜び勇んだ。

さっそく、若手500余人が山から藤島庄へ下って足羽城にたてこもり、老僧50人は護摩壇(ごまだん)の煙にくすぶりかえりながら、怨敵調伏(おんてきちょうぶく)の法を修し始めた。

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