太平記 現代語訳 8-3 赤松軍、敗退し退却

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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日野資名(ひのすけな)と日野資明(ひのすけあきら)は、牛車に乗り合わせて御所へ急行した。見れば、御所の四方の門は開けっぱなしになっており、警護の武士が一人もいない!

光厳天皇(こうごんてんのう)は、紫宸殿(ししんでん)にお出ましになり、緊迫した面もちで、

光厳天皇 誰かいぃひんか、誰か!

御所警備を担当する六衛府(ろくえふ)の者ら、諸官庁の官吏、弁官、学士たちも、いったいどこへ行ってしまったのであろうか、一人もいない。陛下のお側近くには、勾當内司(こうとうのないし:注1)とお側つきの童男・童女2人だけ。

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(訳者注1)天皇への伝言を司る女官が「内司」で、「勾當」はその筆頭である。
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資名と資明は、天皇の御前に参じて、

日野資名 陛下、えらいこってすわ! こっちサイドの軍、ほんま弱体でしてな、反乱軍が、京都市街の中まで迫ってきとります。

光厳天皇 えぇっ、なんやてぇ!

日野資名 こないな事になってしまうとは、もう全く予想だに・・・とにかく、ここにこのままじっとしとられたんでは、危のおす。賊軍がな、六波羅庁の守備軍を追い散らしてな、ここまで乱入して来よるかもしれまへん。

日野資明 陛下、急いで三種の神器をお持ちになられましてな、六波羅庁(ろくはらちょう)へご避難あそばされませ!

すぐに天皇は御輿に乗られ、二条河原(にじょうがわら:注2)を経由して、六波羅庁へ避難された。

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(訳者注2)鴨川と二条通りが交わるあたり。
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やがて、堀川具親(ほりかわともちか)、三条実忠(さんじょうさねただ)、鷲尾中納言(わしのおちゅうなごん)、参議・坊城(さんぎぼうじょう)以下、公卿・殿上人たち20余人が、天皇の乗られた輿に追いついてきて、お伴申し上げた。

「天皇陛下、六波羅庁へ御避難!」との知らせに、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)、花園法皇(はなぞのほうおう)、康人皇太子(やすひとこうたいし)、寿子内親王(すずこないしんのう)、尊胤法親王(そんいんほっしんのう)たちも皆、六波羅庁へ避難されてきた。

彼らに従ってやってきた公卿・殿上人の車が京都防衛軍と入り交り、車の先払いの声が六波羅一帯に、声高に騒々しく響きわたる。

北条仲時 おいおい、なんだなんだ、いったいどうなってんだぁ?!

北条時益 どうなったもこうなったもないよ、皇族方が一斉にここへ避難さね。もう・・・どこへ、入っていただこう?

北条仲時 うーん・・・急な事だし、適当な所がなぁ・・・とりあえず、北方の方の建物に入っていただくとするか。あそこだったら、まぁそれほど失礼にも当たらんだろうよ。

というわけで、六波羅・北方庁を急の皇居とし、上皇と法皇にはそこに入っていただいた。

まさに事態は、急展開に次ぐ急展開である。

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南北両長官・北条仲時and北条時益が率いる六波羅庁・首都防衛軍はすぐに、七条河原(しちじょうがわら:注3)に陣を揃え、赤松軍の接近を、今か今かと待ち構えた。

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(訳者注3)鴨川と七条通りが交わるあたり。
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前に立ちはだかるこの大軍を見ては、さすがの赤松軍も、すぐには攻めかかっては行けない。ここかしこと走り回っては放火し、トキの声を上げながらも、軍を前に進めようとはしない。

北条仲時 ふふん、どうやら敵の兵力、それほど多くはないようだな。

北条時益 よぉし、蹴散らしてしまえぃ!

仲時と時益は、隅田と高橋に3,000余騎を与え、八条口へさし向けた。さらに、河野通治(こうのみちはる)と陶山次郎(すやまじろう)に2,000余騎をそえて、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう:京都市・東山区)付近へ向かわせた。

陶山次郎 なぁ、河野殿、おれ、思うんじゃけんど、ただの寄せ集めの連中を混ぜて戦ってみてもなぁ・・・。かえっておれらの足手まといになってまって、戦の駆け引きも思うようにならんやろ?

河野通治 お言葉、ごもっともじゃね。

陶山次郎 六波羅庁から応援につけてもらった連中らはなぁ、八条河原に控えさせてトキの声を上げさせといてや、ほいでもって、おれたちの手勢の中から、腕のタツやつを選抜して精鋭軍を編成する。でもって、三十三間堂の東のあたりから敵陣深く突入してのぉ、四方八方十文字に駆け破り、左右に敵を引き付けた後、犬追物(いぬおうもの)でもやらかすみたいに、敵にバンバン矢をあびせちゃる! どうや、この作戦?

河野通治 ヒッジョー(非常)に、えぇ!

というわけで、他家からの応援部隊2,000余騎は塩小路(しおこうじ)の七条道場(しちじょうどうじょう)のあたりへ向かわせ、河野の手の者300余騎と陶山の手の者150余騎は分かれて、三十三間堂の東へ廻りこんだ。

しめしあわせた時刻の到来とともに、八条河原に配置した軍からトキの声が上がった。これと一戦交えようと、赤松軍は馬の頭を西に向け直して、攻撃態勢を取った。

そこをすかさず、

陶山次郎 よし、今じゃ!

河野通治 行くぞー!

陶山・河野軍団一同 オーーーツ!

思いもよらぬ背後の方から、陶山・河野軍団400余騎が、トキの声をドットあげて、赤松軍中に突入してきた。

陶山・河野軍団は、東西南北に赤松陣を駆け破り、赤松サイドを一個所に集中させないように、追い立て追い立て、攻め戦う。一所に合しては二方向へ別れ、二方向へ別れては再び一所に合流し、7度、8度と赤松陣を蹂躙(じゅうりん)する。

長途の進軍に疲れている赤松軍の徒歩の武者たちは、陶山・河野軍団側の駿馬の騎馬武者たちに悩まされ、討たれる者はその数知れず、負傷者を捨て、道を横切り、ちりじりばらばらになって敗走していく。

陶山と河野は、逃げゆく敵には目もくれずに、

河野通治 ここはまぁ、これでよしと。で、西七条方面の戦況、いったいどうなっとる?

陶山次郎 あっち方面は、隅田と高橋が行っとるんじゃろ? こころもとないわなぁ。

彼らは再び、七条河原を斜めに西へ馬を走らせ、七条大宮(しちじょうおおみや:下京区)までやって来た。

朱雀大路(すざくおうじ)の方を見れば、案の定、隅田と高橋率いる3.000余騎が、赤松側の高倉左衛門佐(たたくらさえもんのすけ)、小寺(こでら)、衣笠(きぬがさ)勢2000余騎に追い立てられ、馬の足も立ちかねるような状態に陥ってしまっているではないか。

河野通治 おい、あのままじゃ、やつら、やられてまうで! 加勢して打ってかかろうや!

陶山次郎 いやいや、しばらく待とうや。(ニヤリ)

河野通治 えー? いったいなんでぇ?

陶山次郎 あのなぁ、この場の戦闘、勝敗が決する前に俺たちが応援してやってよ、それで仮に勝てたとしてみようや。そうなったらな、あの隅田と高橋の事じゃけん、また例によって言葉巧みにな、「この場の勝利の功績、我らにあり!」なーんちゃってね(ニヤニヤ)。

河野通治 フハハハ、ありうる、ありうる。

陶山次郎 じゃけん、このまましばらく、うっちゃらかしといて、様子見てみん? ここの局面で敵側が勝ってしもぉてな、それで調子づいてしもぉたとしても、別段、大勢に影響無いじゃろうがぁ。

ということで、二人は高みの見物を決め込んでしまった。

そうこうするうち、隅田と高橋率いる大軍は小寺と衣笠の小勢に追い立てられ、退却するに退却もかなわず、朱雀大路を北方に内野(うちの:京都市・上京区)目指して逃亡するもあり、七条通りを東方へ逃亡するもあり、馬から離れてしまった者は心ならずも戦場に踏みとどまって戦死するもあり。

陶山次郎 いかんねぇー、ボロボロじゃぁ・・・。あんまり手ぇこまねいてじっと見てるばかりじゃぁ、六波羅庁軍全体が、形勢不利になってしまいよるかもねぇ。しょうがねぇ、そろそろ出て行くかぁ?

河野通治 異議無ーし!

二人は、河野・陶山双方の軍勢を一つに合わせて赤松軍内に突入、それから2時間ばかり戦闘を継続した。

四方からのこの突撃に、さしもの赤松側の堅陣も崩れ去った。百戦の勇力を臨機応変に用いる河野と陶山の力の前に、赤松軍はこの方面の戦闘にも敗北、寺戸(てらど:京都府向日市)付近を西方面へ退却していった。

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赤松貞範(あかまつさだのり)・則祐(のりすけ)兄弟は、桂川(かつらがわ)を渡河の後、逃げる相手を追いかけながら、後続の味方の無い事にも気付かず、主従6騎だけで竹田(たけだ)より北上、法性寺(ほっしょうじ)大路を突っ走り、六条川原へ出て六波羅庁突入の機をうかがっていた。

しかし、東寺(とうじ:京都市・南区)方面へ押し出して行った味方も早々と打ち負かされて退却したものと見え、彼らの周囲、東西南北すべて六波羅庁軍サイドの者ばかりである。

赤松貞範 しょうがない、こいつらの中にしばらく紛れ込みながらな、味方の到着を待つとしようや。

赤松則祐 OK!

六人は皆、笠標(かさじるし)をかなぐり棄てて、一団となった。

そこへ隅田と高橋がやってきた。

隅田 おぉい、皆の者! 赤松側の敗残者どもが味方に紛れてな、我々の中に潜んでいるにちがいない!

高橋 あいつら、桂川を渡ってきとるから、馬も鎧もきっと濡れてるやろうて。それを目印にして、組んで討って取れ!

赤松貞範 うーん、敵陣中に紛れ込むのも、まずいなぁ。

赤松則祐 こうなったら、トコトン戦うのみやぁ!

赤松貞範 よぉし、行くぞ!

赤松軍メンバー一同 おう!

赤松貞範・則祐兄弟と郎等らは総勢たった6騎で、馬のくつばみを並べ、ワッとおめいて六波羅庁軍2000余騎の中へ駆け入った。こちらに名乗りを上げ、あちらに敵に紛れ、獅子奮迅(ししふんじん)の闘いを展開。相手にしているのがたった6騎とは、とても思いもよらない六波羅庁軍側は東西南北に入り乱れ、同士討ちしながら1時間が経過。

しかしながら、大勢の敵を相手にしての戦いゆえ、激しい勢いもそうそう持続できるものではない、郎等4人は諸所で討たれてしまい、貞範と則祐もいつしか互いに離ればなれになってしまった。

則祐はたった一騎で、戦場からの脱出を試みた。まず七条通りを西方へ、次に大宮通りを南方へ・・・落ち行く彼の後を、印具武慶(いぐたけよし)の郎等8騎が追いかけてきた。

印具方の者 敵ながら立派。いったいどこの誰だ、名を名乗られよ!

則祐は馬を静かに御し、歩みを進めながら返答する。

赤松則祐 おれは無名の者やからな、名乗ってみても、あんたらもご存じないやろうて。どうしてもおれの名前知りたいいうんやったら、この首取って人に見せてみ、そないしたら、どこの誰か分かるわ。

則祐は、印具方の者が接近して来ると応戦し、退けば馬を歩ませ、というようにしながら、そこから約20余町の間、8人につきまとわれながらも、心静かに落ちていった。

西八条(にしはちじょう)の寺の前を南へ過ぎたあたりで、目の前に一団の武士300余騎の姿が見えた。見れば、赤松貞範がその中にいる。羅城門(らじょうもん)の前を流れる小川の中で馬の足を冷やしながら、敗残の武士らを集める為に、赤松家の旗を立てて待機している。

赤松則祐 (内心)おぉ、よぉやっと、合流できたわ!

則祐はもっけの幸いと、左右の鐙(あぶみ)を同時に打ち、馬を走らせてその一団に合流してしまった。

印具方の者たち エェイ! 絶好の敵を見つけたと思ってたのにぃ。ついに取り逃がしちまったぜ!

彼らは、馬をユーターンさせて引き返していった。

そのうち、七条川原や西朱雀で六波羅庁軍に懸け散らされてしまった者らが方々から集まってきて、兵力は再び1,000余騎になった。

赤松貞範は彼らを率い、市街地を東西に走る小路を通って再び京都に侵入、七条のあたりで再びトキの声を上げた。六波羅庁軍7,000余騎は、六条院(ろくじょういん)を背後にしながら、追いつ返しつ、赤松軍と再び4時間ほど戦った。双方互角の形勢、勝負がいつつくとも分からない。

その時、河野と陶山が率いる500余騎が、大宮通りを南下してきて、赤松軍の背後から襲いかかった。

後方を破られた赤松軍は多数の死傷者を出してしまい、残存のわずかの勢力はやむなく山崎(やまざき:京都府・大山崎町)目ざして、退却を開始。

河野と陶山は勝ちに乗じて、作道(つくりみち)のあたりまで追跡をかけたが、ややもすると反撃に転じようとする赤松側の勢いを見て、

河野通治 あいつら、意外にしぶといわ。あんまし深追いせん方が、えぇんじゃなかろぉかのぉ?

陶山次郎 ごもっとも。今日の戦闘は、これまでじゃ。

彼らは、城南離宮(じょうなんりきゅう)の前あたりで追跡をストップし、引き返した。

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捕虜20余人と取った首73個を刀の切っ先に貫き、血まみれになった陶山次郎と河野通治が六波羅庁へ帰ってきた。

光厳天皇は御簾を巻き上げさせて彼らの勇姿をご覧になり、六波羅庁両長官は敷き皮に座しながら、首実検を行った。

光厳天皇 河野・陶山両人の活躍、例によって例のごとしとはいいながら、特に今夜の合戦は、殊勲賞もんやったなぁ! 彼らが自ら手を下し、命を投げ出して戦(たたこ)ぉてくれへんかったら、とても、勝てへんかったんとちゃうかぁ?

北条仲時 お言葉の通りで、ございます。

光厳天皇 いやぁ、とにかく河野と陶山、すごいなぁ! よぉやってくれた!

このように再三に渡って、天皇からのお褒めに預かった二人であった。

その夜、臨時の国司任命の辞令が発行された。河野通治は対馬国(つしまこく:対馬諸島)国司に任ぜられ、あわせて御剣を与えられ、陶山次郎は、備中国(びちゅうこく:岡山県西部)国司に任ぜられ、あわせて皇室所有馬を与えられた。

これを聞いた武士たちは、

武士A あ、いいなぁ、いいなぁ。

武士B これぞ武士の面目躍如(めんもくやくじょ)っちゅうもんやわなぁ!

武士C うらやましいなぁ。

このようにして、河野と陶山は世間からの羨望と嫉妬を一身に集める身となり、二人の名は天下に知れわたったのであった。

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翌日、隅田と高橋は、京都中を馳せ回り、あちらこちらの掘や溝に倒れている負傷者や死者の首を取り集め、それを六条河原に懸け並べた。その総数、873個。これを見れば、六波羅庁軍側の戦果は非常に大きいように思えるのだが、赤松軍側にはそれほど多くの戦死者は出てはいない。

そこには、大きなインチキが隠されていたのである。ろくに戦闘もしていない六波羅庁軍のメンバーらが、「今回の戦で、自分は大手柄をたてたんだぞ」と吹聴(ふいちょう)せんが為に、京都中や近郊の庶民たちを殺害し、その首に様々の名前を添え書きして、提出していたのであった。

その中には、「赤松円心」という札を付けられた首が5つもあった。円心(えんしん)の顔を知っている者が一人もいないので、5つともみんな掛けっぱなしになっている。

世間の声K こらぁ! 円心から首借りたヤツぅ! そのうち、利子たあんと付けて返さんと、あかんようになるぞぉ!

世間の声一同 ワハハハ・・・。

世間の声L それにしてもやな、「赤松円心の首」がこないによおけ(多数)あるやなんて、いったいどないなってしもてんねん?!

世間の声M どっかで赤松円心のクローン、うじゃうじゃ発生しとんのんとちゃいまっかぁ?

世間の声一同 ワハハハ・・・。

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