太平記 現代語訳 14-7 新田軍と足利軍、淀川を挟んで対峙

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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年が改まり、建武3年(1336)の正月を迎えたが、朝廷においては年賀の儀式も行われない。京都や白川(しらかわ:注1)では、家屋を壊して堀に入れ、財宝を車に積んで運び出し、といった光景が見られる。朝廷から、何らかの特別な発表があったわけでもないのだが、何となく、もの騒がしい気分が、首都の中に充満している。

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(訳者注1)鴨川と東山との間の、白川の流域の地域。
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そのような中に、反朝廷側・勢力の動向についての情報が、次々と入ってくる。

 「足利尊氏(あしかがたかうじ)の軍勢80万騎、美濃(みの:岐阜県南部)・尾張(おわり:愛知県西部)へ、既に到着。」

 「四国の反乱軍、首都に接近中。」

 「山陰道方面の反乱軍、大枝山(おおえやま:京都市・西京区-京都府・亀岡市)に布陣。」

このような情勢を見て、招集に応じて京都に集まっていた諸国の武士たちは十方に逃亡してしまい、いまや、首都の中に留まっているのは1万騎いるかいないか、といった状態である。その士気もまったく高揚せず、何らかの地点への出動命令を出しても、彼らの耳には全く入っていかないようである。

何とかして彼らの士気を奮い立たせようと、朝廷は、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)の壁に、以下のような内容の掲示を出した。

 「今度の合戦において忠功あった者には、その日のうちに、恩賞を与える。」

すると、張り出されたこの紙の上に、いったいどこの誰の仕業であろうか、落書きが。

 このように た(垂=誑)らさせ給う 綸言(りんげん)が 汗のごとくで あればいいのに(注2)

 (原文)かく計(ばかり) たらさせ給う 綸言の 汗の如くに などなかるらん

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(訳者注2)「綸言」とは、天皇の口からでた言葉の事である。「綸言汗のごとし」(天皇の口からいったん出た言葉は、取り消しが効かないのだ、いったん出た汗が体内に帰っていくことがないのと同様に)と言われてきたのに、どうして、最近の綸言はコロコロと変わるんだろうか、この綸言だって、あてにならないぞ、というような意が込められている落書である。「たらす」に「(汗を)垂らす」と「誑す(たらす=だます)」が、かけられている。「なかる」に「(汗が)流れる」と、「無かる」(なぜ、XXでないのか)が、かけられている。
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1月7日、新田義貞(にったよしさだ)は、朝廷から退出の後、軍勢の配置を決定した。

瀬田(せた:滋賀県・大津市)へは、名和長年(なわながとし)に、出雲(いずも)、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)3か国の軍勢2,000騎を添えて向かわせた。

供御の瀬(ぐごのせ:注3)、膳所が瀬(ぜぜがせ:場所不明)の2か所に、大木数千本を流しかけて太い綱を張り、乱杭(らんぐい)を打ってつなぎあわせたので、いかなる河神・水神であろうとも、その上を泳ぎ越える事も、その下を潜りくぐる事も不可能と思われた。

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(訳者注3)[瀬田川]と[大戸川]の合流地点付近の、浅瀬。
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宇治橋(うじばし:京都府・宇治市)へは、楠正成(くすのきまさしげ)に、大和(やまと)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、紀伊(きい)の武士5,000余騎を添えて向かわせた。

宇治橋の橋板を4、5間ほど外し、宇治川の中に大石を積み、逆茂木(さかもぎ)をびっしりと立て、東岸が屏風のごとく高く切り立つように、工事を行った。その結果、川水は二筋に別れ、白波は龍門三級(りゅうもんさんきゅう:注4)のごとくに流れていく。

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(訳者注4)竜門山付近の黄河の急流。
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足利軍に容易に陣取りされないように、ということで、橘の小島(たちばなのこじま)、槙島(まきしま)、平等院(びょうどういん)のあたりを、一軒残らず焼き払っていたところ、天魔の吹き起こす風によって、炎が平等院にまで燃え移り、仏閣、宝蔵がたちまち焼け落ちてしまった。まったくもう、なんと、浅ましい事であろうか。

山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)へは、脇屋義助(わきやよしすけ)を大将として、洞院公泰(とういんきんやす)、文観僧正(もんかんそうじょう)、大友氏泰(おおともうじやす)、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)、海老名五郎左衛門(えびなごろうさえもん)、長九郎左衛門(ちょうくろうさえもん)以下、7,000余騎を向かわせた。

宝積寺(ほうしゃくじ:京都府・乙訓郡・大山崎町)の付近から淀川の岸まで、塀や堀を築き、高櫓(たかやぐら)、張出櫓(はりだしやぐら)を、300余箇所に設置した。

堅固な陣構えであるように見えるのだが、急ごしらえの陣地である。塀の土も未だに乾ききらず、堀も浅い。そこを守る者たちは、公家の家に使われている者や僧侶に仕えている者ばかり、これでは、十分には戦えないだろう。

大渡(おおわたり:場所不明)付近は、新田義貞を大将に、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、山名(やまな)、桃井(もものい)、額田(ぬかだ)、田中(たなか)、籠澤(こもりざわ)、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、菊池(きくち)、結城(ゆうき)、池(いけ)、風間(かざま)、小国(おくに)他、河内国の武士10,000余騎が、守ることになった。

この場所においても、橋板を3間ほどまばらに引き落とし、橋の中間地点より東の方に、垣のように盾を並べ、櫓を築き、川を渡ってくる敵に対しては、側面から矢を浴びせ、橋桁を渡ってくる者に対しては、走り木を滑らせて押し落としてしまおうと、防備を固めた。

馬が駆けあがれそうな場所には、逆茂木をびっしりと設置し、その後方に、屈強の者たちが、馬を引きたて、並び居る。源平合戦時代のかの名馬、イケズキ、スルスミに、たとえまたがったとしても、ここを渡れようとは到底思えないような、堅い守備である。

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1月7日、足利尊氏は80万騎を率いて、近江国の印岐志呂神社(いきしろじんじゃ:滋賀県・草津市)に延暦寺僧・成願坊(じょうがんぼう)をリーダーとしてたてこもっていた300余騎を、1日1夜のうちに攻め落とし、1月8日、八幡(やわた:京都府・八幡市)の山麓に陣を敷いた。

一方、四国・中国の軍勢を率いている細川定禅(ほそかわじょうぜん)は、1月7日、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)の大蔵谷(おおくらだに:兵庫県・明石市)に到着。本拠地に戻って挙兵するために、京都を脱出してきた赤松範資(あかまつのりすけ)にそこで出会い、二人は、共に大いに意気上がった。

元弘年間の打倒・鎌倉幕府の戦の時、赤松家が先頭に立って戦いを繰り広げて、めでたく倒幕が成ったのだから、ということで、そのエンギをかつぎ、赤松範資を先頭に、細川・赤松両軍あわせて23,000余騎の軍は、播磨を出発。1月8日正午頃、芥川宿(あくたがわじゅく:大阪府・高槻市)に陣を取った。

久下時重(くげときしげ)、波々伯部為光(ははかべためみつ)、酒井貞信(さかいさだのぶ)は、但馬(たじま)と丹後(たんご)の勢力6,000余騎を率いて、西山の峰堂(みねどう:京都市・西京区)に陣取っていた二条師基(にじょうもろもと)の軍を追い落とし、1月8日の夜半から、大枝山の峠で篝火を焚いた。

京都内には、危うくなってきた方面に臨機応変に出動せよ、とのことで、新田一族30余人と諸国の勢力5,000余騎が待機していた。さっそく、「大枝山を占領した敵を追い払え」とのことで、江田行義(えだゆきよし)に3,000余騎を率いさせ、丹波路へ向かわせた。

1月8日早暁(そうしょう)、江田軍は、桂川(かつらがわ)を渡り、朝霞に紛れながら、大枝山に押し寄せた。

双方から一矢を射放つやいなや、江田軍は、一斉に山を攻め上がっていった。

やがて、最前線にいた久下時重の弟・久下長重(くげながしげ)が重傷を負い戦死、これを見た久家軍サイド後陣の者らは、馬に鞭うって一斉に退却。

江田軍はさほど深追いをしなかったが、丹波方面の反朝廷勢力は、10ないし20里ほど、退いた。

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明くる1月9日午前8時、いよいよ、足利尊氏は80万騎の兵を始動、大渡の橋の西詰めまで押し寄せていったが、そこでハタと止まってしまった。

足利軍リーダーA さてさて、問題は、目の前の川をいかにして渡るか、だ。

足利軍リーダーB 橋桁の上を渡っていくべきか、それとも、川の中に入って、馬に泳ぎ渡らせるべきか。

足利軍リーダーC 見たところ、橋の上も川の中も、敵の守り、堅そうだしなぁ。

足利軍リーダーD さぁてと、いったいどうしたもんだろうかねぇ・・・。

このように思案するまま、時は過ぎていく。

やがて、新田軍サイドから、心はやりたった者100名ほどが、川端まで進み出てきて、足利軍サイドに向かって、大声を上げ始めた。

新田軍メンバーE 足利殿が頼りにしてる、カラメ手の丹波方面の連中なぁ、あいつら、もう、終わっちゃてるぜぃ。

新田軍メンバーF 昨日、コテンパンにやっつけてやったぁ!

新田軍メンバーG バンバン追い散らして、一人残らず、首取っちゃったぞぉ!

新田軍メンバーH そちらにおいでの皆様方の、旗のご紋を見てみまするに、足利サイドの主要メンバーのみなさま、おおかたは、こちら方面にお出ましのようですねぇ。

新田軍メンバーH その昔、治承(じしょう)年間には足利又太郎(あしかがまたたろう)が、元暦(げんりゃく)年間には佐々木高綱(ささきたかつな)が、宇治川(うじがわ)を渡って、後生に名を伝えてるんですがぁ・・・。

新田軍メンバーH 皆様方の目の前を流れてるこの川、宇治川よりも浅くて、流れも遅いと思うのですがぁ・・・。いったいなぜ、速やかに、この川を、渡って来られないのでしょうかぁ?

新田軍メンバーE 悔しけりゃぁ、さっさと渡って来やがれぃ!

新田軍メンバー一同 ワッハッハッ・・・。

このように、口々に足利サイドを嘲弄(ちょうろう)し、エビラを叩いてドット笑う。

足利軍メンバーI エェイ、モゥ! あっちにあんなに言われちゃぁ、もう渡らずには、おれねぇ!

足利軍メンバーJ 川が深くて、馬と人間もろともに沈んだって、そんなの、かまうもんかぁ! 後に続く人間が、沈んだやつらを橋がわりに踏んで、この川渡りゃぁいいんだよぉ!

足利軍の一部のメンバーたち よぉし、いくぞぉ! オオーッ!

足利軍サイドの2,000余騎が、一斉に馬に鞭打って、川に入ろうとした。

それを見た高師直(こうのもろなお)は、彼らの前を馳せ回っていさめにかかる。

高師直 ちょっと待てぇ! おまえら、どうかしてるぞ!

足利軍メンバー一同 ・・・。

高師直 馬の足も立たねぇ大河ってぇのはなぁ、そりゃぁ、上の方だけ見たら、緩やかに流れてるように見えるけんどよぉ、底の方はきついんだぞぉ。いくらガンバッテみたって、渡れるもんかい!

足利軍メンバー一同 ・・・。

高師直 もうちょっと落ち着いて、物事考えろやぁ! さぁ、そこらへんの家壊してなぁ、材木にして、それで筏組むんだよぉ。それに乗っかって、向こうへ渡りゃぁいいじゃん。

足利軍メンバー一同 なぁるほど!

足利軍メンバーはすぐに、近在の家屋数100軒を破壊し、幅2、3町ほどもある筏を作った。

武蔵(むさし)・相模(さがみ)の武士たち500余人が、これにびっしりと乗り込み、橋の下流の地点を渡りはじめた。

しかし、川の中に打ちこまれている乱杭(らんぐい)に筏が引っかかってしまい、いくら棹を指しても前進できなくなってしまった。

新田軍は、筏めがけて散々に矢の雨を降らせる。足利軍サイドメンバーらは、あせりにあせるが、筏はびくともしない。そうこうしているうちに、流れ淀んだ波の力によって、木材を繋ぎ合わせていた筏の綱が、切れてしまった。

流れに必死に指す棹も空しく、組み重ねた材木は次第にバラバラに・・・その上に乗っている500余人の武士たちは、次々と水中に没していく。

新田軍メンバー一同 (盾をたたき鳴らしながら)ワハハハ、ざまぁ見ろい!

新田軍メンバーの盾 バンバンバンバン・・・。

足利軍メンバー一同 (いらだちの中に手を動かしながら)いったいどうすりゃいいんだ、あの筏、なんとかならんのか!

嘆き騒いでも、どうしようもない。

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筏でのこの渡河が失敗した後、橋の上に設営された新田軍サイドの櫓の上で、一人の武士が、矢間の板を押し開いて叫びはじめた。

新田軍メンバーK 治承(じしょう)年間の源平争乱のおり、以仁王(もちひとおう)が挙兵した後に、宇治橋は、橋板3間ばかり引き落とされて、橋桁だけ残っている状態だった。でも、筒井浄妙(つついじょうみょう)、矢切但馬(やぎりのたじま)は、一条・二条大路よりも広い道の上を行くみたいに、細い橋桁の上を走り渡りながら、戦ったというじゃないか。それに比べりゃぁ、この橋は、垣盾(かいだて)に使う為にところどころ橋板を外してしまってはいるけど、人間がとても渡れないほどでもないだろう。

新田軍メンバーK 関東から京都へ攻め上ろうってんだからな、おまえら、川を隔てての戦があるくらいのことは当然、考えてたろ?

新田軍メンバーK 舟を使ってもダメ、筏を作ってもうまくいかん・・・となりゃぁ、もう、歩いて渡るしかねぇだろうが! さぁさぁ、あれやこれやと余計な事を考えてねぇで、もうとにかく、橋の上を渡ってこっちへ来いやぁ! そしたら、おれらがどれだけ強いか、よくよく分かるだろうからなぁ。

このように、櫓の上に立って嘲笑し、足利サイドを挑発する。

これを聞いて、高師直の配下の、野木頼玄(のぎらいげん)という武士が前面に出てきた。

頼玄は、大力の早業で、刀の使い手として、評判が高い人。胴丸の上にフシナワメの大鎧を隙間無く着て、ライオンの頭を飾りにつけた兜をかぶり、目の下に頬当てを装着し、4尺3寸のいかめしい太刀を帯び、股を覆うすね当てを鎧の下部に引き込んで、柄の長さ5尺、刀身の長さも5尺の備前長刀(なぎなた)を右の小脇にはさんでいる。

野木頼玄 おまえなぁ、治承の合戦なんて言ってるけんどよぉ、そんなの、ただ、話に聞いてるだけのもん、自分の目で、その現場見てきたヤツなんか、一人もいやしねぇじゃねぇか!

野木頼玄 筒井浄妙だとぉ! よぉし、浄妙とおれと、どっちがスゲェか、よっく見てろぉ! 天台山(てんだいさん)の石橋だろうが、蜀(しょく)の吊り橋だろうが、敵がそこにいる限り、おれが渡っていけねぇ橋なんか、世界中どこにもねぇんだよぉ!

このように大声で広言し、頼玄は橋桁の上に進み出た。

これを見た櫓の上の新田軍は、頼玄を射すくめて橋の上から落としてしまおうと、垣盾(かいだて)の陰からビシビシ矢を飛ばしてくる。

幅わずか1尺ほどの橋桁、その上を歩いていったら、矢に当たること間違いなし。しかし頼玄は、上の方に飛んでくる矢を、うつ伏せになってやり過ごし、下の方に飛んでくる矢を、橋桁の上で跳躍してよけてしまう。左の方に飛んでくる矢を、右の橋桁に飛び移って避け、右の方に飛んでくる矢を、左の橋桁に飛び移ってよけ、真ん中を狙って射られた矢を、矢切但馬にはあらねども、1本残らず切って落としてしまう。

両軍数万がこの様を眺めている中に、さらに、山川判官(やまがわほうがん)の家臣2人が、頼玄に続いて橋桁を渡り始めた。

ますます勇気づいた頼玄は、そのまま橋を進み、櫓が建っている所まで到達した。そして、櫓の下に入り込んで、その柱を、エイヤ、エイヤと引いた。

橋の上に構築された櫓ゆえに、橋といっしょに揺れ動き、今にも倒壊してしまいそうである。櫓の上にいた射手たち4、50人ほどは、もうダメ、と思ったのであろう、櫓の上から次々と飛び降り、あわてふためきながら、二の木戸の奥へ逃げ込んでいく。これを見た足利軍サイドは、一斉にエビラを叩いて大笑い。

足利軍メンバーL ワハハハ・・・。

足利軍メンバーM ざまぁ見やがれぃ!

足利軍リーダーN 敵が退く今こそ、攻め時ぃーっ!

足利軍メンバー一同 オーッ!

三河(みかわ)、遠江(とおとおみ)、美濃(みの)、尾張(おわり)のたけりたった武士たち1,000余人が、続々と馬から下り、我先にと橋に殺到。

新田軍サイドの放つ矢に当たり、橋から落ちて水に溺れていく者も多数。しかしそれをもかえりみず、さほど広くもない橋の上に、靴に打った鋲のようにビッシリと立ち並び、幾重にも設置された櫓と垣盾(かいだて)を引っ張って、それを取り除こうとする。

すると、橋が!

橋桁 メリメリ、ピシピシ・・・ガタ、ガタ・・・。

新田側が、予め何か橋に仕掛けておいたのであろうか、橋桁4、5間が折れてしまった。

橋桁の上にいた足利軍メンバー1,000余人が川に落ちてしまい、浮きつ沈みつしながら流れていく。今度は、新田軍サイドが、一斉にエビラを叩いて大笑い。

野木頼玄も川に落ちてしまったが、彼は水泳にも熟練していた。橋板1枚の上に乗り、長刀を竿がわりに使って、足利陣へ戻っていった。

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足利軍リーダーA マイッタなぁ。

足利軍リーダーB 橋桁、折れちゃったよねぇ。

足利軍リーダーC 筏で川渡るってのも、ダメだったし。

足利軍リーダーA このまま、ここで持久戦かぁ? いったいいつまで?

足利軍リーダーB 何とかして、攻め落とさないとなぁ・・・。

そこへ、賢こそうな一人の力者(りきしゃ:注5)が、立封(たてふう:注6)の文書を持ってやってきた。

力者 赤松貞範(あかまつさだのり)様の陣は、どこでしょうか?

彼は、足利陣営内を、あちらこちらと走り回りながら、たずねて回っている。

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(訳者注5)僧侶の姿で、輿をかついだり警護を職としているような者。

(訳者注6)縦に包んだ文書。正式の書状の様式。
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8日の宵から、桃井(もものい)、土屋(つちや)、安保(あぶ)らとともに、橋のたもとに布陣していた赤松貞範は、これを聞いて、

赤松貞範 おおぃ、ここにおるぞ、おれが、貞範や。いったい何の用や?

力者 赤松様への手紙を、預かってきております。

赤松貞範 どれどれぇ。

貞範は急いで封を切って見た。書状には、兄・赤松範資(あかまつのりすけ)の自筆で、次のように書かれていた。

 「新田義貞以下の逆賊らを退治せよ、との将軍命令書が、こちらの方に届けられた。さっそく義に応じて挙兵し、播磨(はりま)国に進軍の途上、京都めざして攻め上ってきた細川定禅(ほそかわじょうぜん)と出会い、行動を共にする事にした。」
 
 「元弘年間の吉例にならい、範資が先陣に立つことを承諾。今日すでに芥川宿に到着。明日10日、午前8時ころには山崎まで進軍して、新田側と一戦交える予定。以上の事、足利将軍に申し上げてくれ。」

赤松貞範は、この書状を足利尊氏の前に持参して、その内容を読み上げた。尊氏はじめ、吉良(きら)、石堂(いしとう)、高(こう)、上杉(うえすぎ)、畠山(はたけやま)ら将軍側近メンバーらは、「もう、これで大丈夫だ!」と、大喜びである。

この使者が帰って後、約束の時刻になったので、細川定禅の軍20,000余騎は、桜井宿(さくらいじゅく:大阪府・三島郡・島本町)の東へ進み、赤松範資の軍2,000余騎は、淀川に沿って進んだ。赤松貞範は対岸から、赤松範資軍の旗の紋を見付け、小舟3隻に乗って川を渡り、兄の軍に合流した。

赤松貞範 兄キ! 生きとったか!

赤松範資 あぁ、生きとった! こないだから、東西数百里隔てて、お互い、生きとるんやら死んどるんやら、さっぱり分からんかったわなぁ。もしかしたら、貞範、どっかで討死にしてしもとぉかなぁと、ものすごい、心配しとったんやぞぉ。

赤松貞範 (涙)こっちかて同じやわい。兄キの事が、気がかりで、気がかりで・・・。

赤松範資 (涙)お互い、無事でよかったわ・・・ほんまに、不思議な天運のめぐり合わせやなぁ。

このように、互いに手に手を取りあい、額を合わせて、喜びにむせび泣く赤松兄弟であった。

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山崎方面の戦は、元弘の時の吉例をかついで、赤松軍がまず開戦の矢合わせを、と予め決定していたのだが、播磨国の紀氏(きし)の者ら300余騎が、抜け駆けして一番手で、新田軍めがけて押し寄せていった。

新田軍はこれを小勢と見て、木戸を開き、逆茂木を引き除き、500余騎を繰り出して迎撃。紀氏の者らは、ひとたまりもなく追い立てられ、四方に逃亡していった。

細川・赤松連合軍の二番手は、坂東・坂西(ばんどう・ばんせい:注7)の者ら2,000余騎。桜井宿の北から山ぞいに進出。

これを迎え撃つ新田側は、脇屋義助(わきやよしすけ)の軍と、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)率いる紀清(きせい)両党2,000余騎。二の木戸から一斉にうって出て、東西に開きあい、南北へ追いつ返しつ、1時間ほど戦った。

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(訳者注7)ここの「坂東」は、関東地方を表わす「坂東」ではなく、徳島県のある地方を表わす「坂東」である。
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汗馬(かんば)の馳せ違う音、両軍のトキの声、山に響き地を動かし、雌雄いまだ決せず、戦はいよいよ激しさを増す。

そこへ、細川定禅の軍60,000余騎と、赤松範資率いる2,000余騎が、二手に分かれて押し寄せてきた。

この大軍を見た新田軍は、とてもかなわない、と思ったのであろう、退いて、城の中にこもった。

細川・赤松連合軍は、勝に乗じて、堀に飛び入り、逆茂木を引きのけ、矢を射られてもものともせず、打たれてもひるまず、障害物を乗り越え乗り越え、ひたすら、城の中へ攻め入っていく。堀は死人で埋まって平地となり、矢間はみな閉じられて開かない。城内の新田側は、次第に敗勢が濃くなっていく。

やがて、但馬(たじま)国住人の長九郎左衛門(ちょうのくろうざえもん)と、彼に志を同じくする300余騎が、旗を巻き、城を出て、足利サイドに投降。

これを見て、畠水練(はたけすいれん:注8)の洞院公泰の配下や文観僧正の部下らが、弓の弦を外し、兜を脱いで、我先にと投降。城中の新田軍は、力を失って防戦もままならぬ状態になってしまった。

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(訳者注8)畑の中で水泳の練習をするがごとく、実際の戦闘経験は皆無で、観念だけで戦を考えている姿を、このように比喩している。
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 「もうこうなったら仕方がないから、城を捨て、淀(よど:京都市・伏見区)、鳥羽(とば:京都市・伏見区)あたりへ退却し、大渡を防衛している軍団に合流して戦おう」

ということになり、新田軍3,000余騎は、城を捨て、赤井(あかい:京都市。伏見区)方面を目指して退却。かくして、新田サイドの山崎方面防衛ラインが、崩壊してしまった。

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新田義貞 いかん! 山崎方面が崩れちまった。このままでは、敵が御所に乱入してしまう。

新田義貞 陛下は、比叡山に避難していただこう。そうすりゃ、心おきなく戦えるからな。よし、京都へ退却!

義貞は、大渡の防衛ラインを放棄し、京都へ帰還してしまった。

この間に、大友氏泰、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)は、足利サイドに投降し、足利軍陣営に加わってしまった。

新田義貞・脇屋義助・兄弟が、合流して淀大明神(よどのだいみょうじん)の前を通過しているところを、細川定禅の軍6万余騎が、追い討ちをかけてきた。

後陣を進んでいた新田義顕(にったよしあき)が、3千余騎を率いてこれを迎撃、相撲が辻(すもうがつじ:場所不明)に陣を取って旗をサッと掲げた。

義顕は、自分が迎撃戦を行っていることを、義貞にはあえて知らせなかった。天皇の比叡山への避難を優先させたからである。

新田義顕軍は、矢戦でしばらく時を過ごした後、義貞が御所へ到着したころを見計らい、2手に分かれて東西から、どっとおめいて細川軍に襲いかかり、その大軍をものともせずに乱闘を展開、火花を散らして戦った。

先ほどまで新田サイドにいて、今は足利サイドに属している大友軍、宇都宮軍のメンバーたちは、義顕の顔をよく知っている。彼らは、他の人間には目もくれず、こちらにとりこめ、かしこによせ合わせ、ひたすら義顕を討とうと、迫っていく。

義顕は、打ち破っては包囲から逃れ、取って返しては追い退け、7度8度と奮戦。鎧の袖も兜のシコロも全て切り落とされ、身体のあちらこちらに重傷を負い、半死半生になるまで切りまくられながらも、なんとか、京都へ帰りついた。

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