太平記 現代語訳 10-7 長崎思元・為基父子の奮闘

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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やがて、由比ヶ浜(ゆいがはま:鎌倉市)一帯や稲瀬川(いなせがわ:鎌倉市)東西の家々から、火の手が上がり始めた。

おりからの激しい浜風にあおられて、炎と黒煙は車輪が転り行くがごとく四方八方へ飛散(ひさん)、10町ないし20町ほども隔たった所にまで燃え移り、同時に20余箇所から火柱が立ち上り始めた。

猛炎の下から、倒幕軍の武士たちが続々と攻め入ってくる。途方に暮れる幕府軍の人々をここかしこで、射伏せ切り伏せ、引き組み刺し違え、生け捕り分捕り。

煙にまかれる女や子供たちが、追い立てられて、火の中、堀の底へと逃げ倒れていく。

帝釈宮(たいしゃくきゅう)中の戦闘において、阿修羅王(あしゅらおう)の部下たちが帝釈天(たいしゃくてん)になぎ倒され、剣戟(けんげき:注1)の上に倒れ伏していく様もかくのごとしか、あるいは、阿鼻叫喚地獄(あびきょうかんじごく)に苦しむ罪人たちが、地獄の獄卒(ごくそつ)たちの槍の穂先に追い立てられて、熱鉄湯池(ねってつとうち)の底深く落ち込んでいく姿もかくのごとしや・・・あぁもはや、語るに言葉なく、聞くに哀れを催し、ただただ涙にむせぶばかり。

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(訳者注1)剣(つるぎ)や戟(中国の武器、棒状)。
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煙が四方から迫り来て、ついに、北条高時(ほうじょうたかとき)の館付近にまでも、火がかかり始めた。

高時は、1,000余騎を連れて葛西が谷(かさいがやつ:鎌倉市)の東勝寺(とうしょうじ)にたてこもり、諸大将率いる武士たちは寺内に充満。この寺は北条氏父祖代々の墳墓(ふんぼ)の地、武士たちに防ぎ矢を射させ、この寺内にて心静かに自害しようというのである。

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長崎思元(ながさきしげん)・為基(ためもと)父子は、極楽寺坂(ごくらくじざか)切り通し方面へ向かい、攻め入ってくる倒幕軍に相対して必死の防戦を行っていた。しかしながら、倒幕軍側のトキの声は既に小町通り(こまちどおり)付近にまで達しており、高時の館にもはや、火がかかったようである。

長崎父子は、指揮下の武士7,000余騎をそこに残し、手勢600余騎のみを率いて、小町通りへ急行。これを迎えうつ倒幕軍の武士たちは、彼らを殲滅(せんめつ)せんものと、包囲の輪をグイグイと縮めてくる。

長崎父子とその部下たちは、一所に打ち寄せては魚鱗(ぎょりん)陣形に連なって懸け破り、虎韜(ことう:注2)陣形に分散しては相手を追い靡(なび)け、七度八度と攻めかかっていく。倒幕軍側は、蜘蛛手(くもで)、十文字(じゅうもんじ)に懸け散らされ、若宮小路(わかみやこうじ)へさっと退却、人馬にしばしの休息を取らせる。

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(訳者注2)中国春秋時代の[六韜]という兵法書にある中の戦法。
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そうこうするうち、今度は天狗堂(てんぐどう)方面、扇が谷(おうぎがやつ)方面にも倒幕軍が回ったと見え、そちらの方角からもおびただしい黒煙が立ち上りはじめた。

長崎為基 (内心)もうこうなったら、父子左右にあい分かれ、

長崎思元 (内心)それぞれの場所の防衛に、馳せ向かうしかない。

長崎為基 (内心)あぁ、父上の姿を見るのも、これが最後か!(涙)

為基は馬を止め、遙か彼方にいる父を名残(なごり)惜しげにじっと見つめた。それを見た思元は、為基をキッと睨み付け、馬をひかえて大声でしかりつけた。

長崎思元 おい! メメしいぞ! なにをそんなに、名残を惜しんでる!

長崎為基 ・・・(涙)。

長崎思元 片方が死んで行き、もう片方が生き残るってんだったらな、そりゃぁ、名残を惜しみたくなるのも、もっともな話さ。いつとも期しがたい再会なんだから。

長崎思元 だけどな、考えてもみろよ、おれもおまえも、今日の日暮れ時までに、共に討死にする身じゃぁないか。明日になればまた、冥土(めいど)のどこかで落ち合う事になるってわけだ、別れてるのもたった一夜の間だけだろ、なのに、いったいナニをそんなに悲しんでる!

為基は、涙をおし拭っていわく、

長崎為基 分かりました、もう悲しみません!

長崎思元 よぉし!

長崎為基 では父上、冥土の旅にお急ぎください。死後に越えるとかいう、あの山道で待ってますからね!

このように言い捨てた後、倒幕軍の大軍中に懸け入っていく為基の心中、まことに哀れ。

戦い続けるうちに、為基に従う者は次々と戦死、たった20余騎だけになってしまった。倒幕軍3,000余騎は、彼らを包囲し、速やかに勝負をつけてしまおうと、ギリギリと肉薄してくる。

為基が持つ太刀は、「面影(おもかげ)」という名の名刀である。刀匠(とうしょう)・来太郎国行(らいたろうくにゆき)が、百か日の精進潔斎(しょうじんけっさい)を行った後に、100貫の鉄を使って3尺3寸に打ち鍛えた太刀。この切っ先にいったん回ったが最後、あるいは兜の鉢をまっぷたつに割られ、あるいは鎧の胸板を袈裟(けさ)がけに切って落とされ・・・倒幕軍側メンバーらはことごとく、為基に追い立てられ、あえて彼に近づこうとする者は皆無になってしまった。ただただ遠巻きにし、射手の密集集団で遠矢を放って、彼を射殺そうとする。

矢 ビュンビュンビュンビュンビュンビュン・・・。

為基の乗馬 ヒヒーン!

為基の乗馬に、矢が7本突き立った。

長崎為基 (内心)エェイ、馬をやられてしまったぁ! こうなっては、敵軍のオオモノに接近して引き組む事もできないなぁ・・・よぉし!

為基は、由比ヶ浜の大鳥居の前で馬からユラリと飛び下り、ただ一人、太刀を逆さまに地について、その場に仁王立(におうだ)ち。

倒幕軍メンバーらはこれを見て、なおもただ十方から遠矢を射るばかり、彼に立ち向かっていこうとする者は誰もいない。

長崎為基 (内心)エェイ! 矢ばかり打ってきやがる! これじゃぁ、ラチがあかん、なんとかして接近戦に持ち込まないと・・・よぉし・・・。

為基は、負傷したかのように装い、膝を折って地上に伏した。

それに欺(あざむ)かれて、どこの家中の者であろうか、輪子引両(りゅうごひきりょう)の笠標(かさじるし)を着けた武士50余人が、為基の首を取らんとして、互いに競いあいながらヒシヒシと、彼に接近してきた。

頃合いを見計らい、為基は、ガバと身を起して太刀を取り直し、

長崎為基 こらぁ! どこのドイツだぁ! 戦にくたびれて気持ち良く昼寝してるの、起こしやがって! よぉし、オマエらがそんなに欲しがってるこの首、くれてやるぜぃ! 欲しけりゃぁ、取って見ろぃ!

鐔元(つばもと)まで血にまみれた太刀をうち振い、落ちかかる雷鳴のごとき勢いをもって、為基は、両手を左右に張り広げ、相手に襲いかかっていく。これにおそれをなして、接近してきた50余人はアタフタと、その場から逃げていく。

長崎為基 こらこら! いったいどこまで逃げる気だぁ! ヒキョウ者、逃げるな、返せ、返せー!

逃げる武士A (内心)アイツのノノシリ声、オレの耳のすぐ側から聞こえてくるようなカンジがする。

逃げる武士B (内心)この馬の足、もっと速いはずだったのに。

逃げる武士C (内心)一向に前へ進んでねぇじゃねえか、もっと速く、速くぅ!

逃げる武士D (内心)もう、恐ろしいなんて、そんなナマヤサシイもんじゃぁねぇぜ。

逃げる武士E (内心)まったくもう、トンデモねぇヤロウだ!

その後なおも、為基はたった一人で戦い続けた。敵中へ懸け入ってはその裏へ抜け、とって返しては懸け乱し、今日を限りと闘い続けた。

このように、5月21日の合戦において、由比ヶ浜にひしめく倒幕側の大軍を東西南北に懸け散らし、両軍双方の目を驚かした長崎為基であったが、その後の彼は生死も定かではなく、その消息を知る者は誰一人としていない。

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