太平記 現代語訳 20-10 脇屋義助、兄の弔い合戦を志すも、かなわず

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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脇屋義助(わきやよしすけ)は、河合の石丸城(いしまるじょう:福井県・福井市:注1)へ帰った後に、

脇屋義助 おぉい、誰か、アニキの行くえ、知らないかなぁ? いったい、どこ行っちまったんだろ・・・。

最初の間は、確かな情報を把握している者が一人もおらず、自分たちが今いったい、どのような状況に陥ってしまっているのか、誰にも分からなかった。しかし、時間が進むにつれ、事は次第に明らかになってきた。

様々のメンバーから提供される情報を総合すれば、そこから得られる結論はただ一つ、

 新田義貞、戦死

脇屋義助 ・・・アニキ・・・(涙)。

新田軍リーダー一同 ・・・(涙)。

脇屋義助 よぉし、アニキの弔い合戦だ。明日にでも黒丸城へ押し寄せて、アニキの討たれた場所で、おれも討死にする! 待ってろよ、アニキ、おれもすぐに行くからなぁ!(涙)

しかしながら、あまりの出来事に、全員ショックに打ちのめされて、ただただ呆然。戦意はほとんど沸き上がってはこない。

まさに、変わり易きは人の心。その衝撃に追い討ちをかけるかのように、足利サイドになびく者も城中に出てきたと見えて、城内に不審火が発生すること、一夜の中に3回。

斉藤季基(さいとうすえもと)、斉藤道献(さいとうどうけん)の二人は、義貞からの格別の恩顧を被った近習であったので、門前の左右の脇に陣を並べ構えていた。ところが彼らは、その陣を引き払い、夜陰に紛れて、いずこへともなく逃亡してしまった。

これをかわぎりに、その場限りの出家をして、称念寺(しょうねんじ:福井県・坂井市)へ入ってしまう者や、縁故を頼って、黒丸城の斯波高経(しばたかつね)サイドへ、新田サイドに所属した罪を謝して投降してしまう者も続出。昨日まで3万騎もいたのに、一夜明けて見れば、わずか2000騎足らずになっている。

脇屋義助 これじゃぁとても、越前・制圧なんて無理だ。

仕方なく、義助は、残ったメンバーを、越前の方々に配置した。

三峯城(みつみねじょう:福井県・鯖江市)には、河嶋(かわしま)を、
杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)には、瓜生(うりう)を、
三国湊城(みくにみなとじょう:福井県・坂井市)には、畑時能(はたときよし)を残し、

うるう7月11日、脇屋義助・義治(よしはる)父子は、禰津(ねづ)、風間(かざま)、江戸(えど)、宇都宮(うつのみや)の軍勢700余騎を率いて、越前国府へ帰還した。

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(訳者注1)21世紀になってからの発掘調査により、石丸城があった、とされてきた地から、様々な遺構や様々な物が発掘されたようである。

[福井市 石丸城 発掘調査]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。
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