太平記 現代語訳 18-4 瓜生兄弟、奮戦

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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斯波高経(しばたかつね) うーん、こりゃぁまずい情勢になっちまったなぁ。わが軍の背後に反旗を翻す者が現れでもしたら、もうアウトじゃないか! そいつらに北陸道を塞がれちまったら、金崎城攻めなんか、もうやってられなくなる。ここはとにかく何としてでも、杣山城(そまやまじょう)の連中らの影響力が越前国全域に拡大するのを、防がないといかん!

そこで斯波高経は、北陸地方4か国(注1)の勢力3,000余騎を率いて、11月28日(注2)、蕪木(かぶらき:福井県・敦賀市)から、越前国府(こくふ:注3)に帰還した。

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(訳者注1)原文には明記されてないが、おそらくは、能登、加賀、越中、越前の4か国であろう。前三か国の勢力が杣山城に派遣されているように、前章では設定されているし、斯波高経の本拠地は越前だから。

(訳者注2)前章からこの章にかけて、太平記の日付記述が相当混乱しているようである。前章では極力修正するように努力したが、この章では原文のままとした。

(訳者注3)「国府」とは、国司もしくはその代理が詰めている役所、あるいはその周辺地域の事である。越前国府は現在の福井県・越前市にあった。
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この情報をキャッチした瓜生保(うりうたもつ)は、

瓜生保 斯波に対して、わずかの余裕も与えちゃいかんよ。ここでイッキに攻めたてるんだ!

同月29日、保は、3,000余騎を率いて国府に押し寄せ、まる1昼夜攻め続けて、高経がこもっている新善光寺城(しんぜんこうじじょう:越前市)を攻め落とした。この時の斯波側の戦死者は300余人。捕虜になった者も首を刎ねられ、帆山(ほやま:越前市)の河原に、彼らの首がさらされた。

これ以降、瓜生兄弟に盛り立てられた脇屋義治(わきやよしはる)の勢威は次第に近隣に及んでいき、平泉寺(へいせんじ:福井県・勝山市)や豊原(といはら:福井県坂井市)の衆徒たち、さらには越前国やその他の諸国の地頭(じとう)・御家人(ごけにん)らも、義治のもとに続々と馳せ参じ、引き出物を捧げたり、酒や肴を持参してきたりするようになった。

しかしながら、脇屋義治の気分は一向に晴れないようである。

義鑑房(ぎかんぼう)は義治に、

義鑑房 毎日こんなにめでたい事続きだというのに、いったいどうしたんです? もう少し勇み立って頂いても・・・。

脇屋義治 (いずまいを正して)我が軍が連続勝利をおさめ、敵を多数討てたというのは、たしかにそりゃぁ喜ばしい事ではあります。でもねぇ、考えても見て下さいよ、皇太子殿下はじめ、わが新田家の人々は今もなお、金崎城の中に包囲されてるんだ。

義鑑房 ・・・。

脇屋義治 きっと、食料も乏しくなっていて、とっても苦しい戦を強いられてるんでしょう。城の中の人たち、一時も心の安まる事は無いんじゃぁ・・・そう思うとねぇ、酒宴の場でも、おれは少しも心が浮きたたないんだなぁ。

義鑑房 ・・・。

脇屋義治 ・・・。

義鑑房 金崎城の事は、どうか、ご心配なく。今は、激しい吹雪の天候やから、長距離の行軍は不可能ですけど、もうすぐ天候も回復するでしょう。雪が止んだらすぐに、金崎城の応援に・・・。

義鑑房は、感涙を押さえながらその場を退出した。

垣根ごしにこの会話を聞いていた、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)と小野寺(おのでら)は、

宇都宮泰藤 「好堅樹(こうけんじゅ)という木は、土の中にある時からしてすでに巨大。頻伽羅(びんぎゃら)という鳥は、卵の中にいる時にしてすでに、他の鳥よりもはるかに美しい声で鳴く」という。あの脇屋義治という少年、年に似合わず、なかなか立派なもんじゃないか。自分の親族にあのように思いをはせていくとはなぁ・・・いや、こりゃぁ、頼もしいぞ!

小野寺 あぁ、早いとこ、金崎城の応援に出動したいですねぇ!

彼らは兵を集めて盾を準備させ、「吹雪がおさまり次第、ソク出動!」とばかりに、そのタイミングをじっと待ち続けた。

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1月7日、杣山城内で、盛大なる新年祝賀会が開催された。

1月11日、雪は止み、風も止んで、少しのどかな天候。

脇屋義治は、里見時義(さともときよし)を大将として5,000余人を、金崎城救援の為に敦賀にさし向けた。

全員、吹雪への対策怠り無く、鎧の上に蓑を着て、藁靴(わらぐつ)にはカンジキを装着し、8里の山道を雪踏み分けて、その日のうちに桑原(くわばら:敦賀市)に到達した。

これを迎えうつ高師泰(こうのもろやす)側も準備怠り無く、敦賀湊から20余町ほど東の地点にある格好の防衛ポイントに、今川頼貞(いまがわよりさだ)を大将として2万余騎を差し向けた。彼らは、要所毎に垣盾(かいだて)を立てて、脇屋軍の到着を今や遅しと待ち構えた。

夜明けとともに、脇谷軍の一番手・宇都宮泰藤率いる紀清両党(きせいりょうとう)300余人が、攻撃開始。彼らはまず、坂の中ほどに布陣している足利サイド1,000余人を、はるかかなたの峯の上まで追い上げた。そしてさらに、足利サイド第2陣に襲いかかっていったが、両側の峯からの大量の矢に射すくめられ、やむなく北側の峯へ退却した。

脇屋軍の二番手は、瓜生、天野(あまの)、斉藤(さいとう)、小野寺らが率いる700余騎。太刀の切っ先をそろえて坂を駆け上り、今川頼貞の防衛陣3か所を打ち破った。

さぁっと退く今川軍に入れ替わって、高師泰率いる新手の3,000余騎がこれに相対。瓜生と小野寺の軍は高の軍に退けられ、宇都宮軍と合流せんとして、傍らの峯上へ退く。

これを見た脇屋軍大将・里見時義は、

里見時義 おまえら、きたねぇぞ! 逃げるな、戦え!

時義は、わずかの手勢を率いて横方向から、足利軍中に突入していった。

足利軍リーダーA あぁっ、今、攻撃に出てきたあいつが、敵の大将だぞ。

足利軍リーダーB おまえらな、他のつまんねぇヤツラには目もくれるなよ! あいつだ、あいつをやっちまうんだ!

足利軍リーダーC あいつを包んで、やっちまえ!

これを見た瓜生保と義鑑房は、

瓜生保 おれらが今ここで討死にしなきゃ、わが軍は全滅やろな。

義鑑房 そんな事、もとから覚悟の上よ!

彼らは、たった二人だけで敵陣に突入していった。はるか彼方に退いていた瓜生保の3人の弟・林源琳(はやしげんりん)、瓜生重(しげし)、瓜生照(てらす)は、二人と共に討死にしようと、再び前線に戻ってきた。

義鑑房は、彼らを尻目に睨んでいわく、

義鑑房 あれほど何度も言ってきたのに、もう忘れたのかい。「兄弟のうち、おれたち2人だけが死ぬのならばそれでもいい、でも兄弟全員死んでしまったら、瓜生家の未来は無い」ってな・・・まったくぅ・・・もうっちょっとよくよく、モノゴト考えてくれよなぁ!

義鑑房の激しい言葉に3人は足を止め、少しばかり躊躇した。その間に、足利サイドの大軍は、里見時義、瓜生保、義鑑房の3人を包囲、ついに彼らは討ち死にしてしまった。

桑原からの深い雪の道中、重い鎧を装着しながら踏み分けて来た脇屋軍であった。

脇屋軍メンバーD (内心)あぁ、もう何時間も戦い続けて・・・クタクタだぁ。

脇屋軍メンバーE (内心)おれたちと交替して戦ってくれるような新手のもんら、もうどこにもいやしねぇ。

脇屋軍メンバーF (内心)反撃に出ようにも、それだけの力ももう無いわ。

脇屋軍メンバーG (内心)退却しようにも、足に力が入らん。

あちらこちらに退却した後、その場で自害してしまう者は数え切れないほど。運良く戦場から逃げおおせた者も皆、弓矢や鎧を捨てての逃走であった。

足利軍リーダーA こないだの国府と鯖波の合戦では、こっち側はたくさん武具を捨てちゃったけどぉ、今日の戦で、またそっくり取り戻せたわさぁ。

足利軍メンバー一同 ワッハッハッハ・・・。

いつ死ぬとも分からぬ人間の身でありながら、はかないわが命を延ばさんが為に、人殺しの罪業を互いになす。そのあげくのはての因果応報、死後の世界において、永遠の苦しみを受ける・・・あぁ、人間はなんと、あさましき存在なのであろうか。

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