太平記 現代語訳 18-7 尊良親王と奥方の悲しい運命

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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夜明け頃、甲楽(かぶらき:福井県・南条郡・南越前町)の海岸から、「皇太子・恒良(つねよし)親王殿下が、こちらにおわします」との知らせが届いた。

さっそく、島津忠治(しまづただはる)が急行し、皇太子の身柄を拘束した。

その後、足利側は、金崎にて討死あるいは自害の新田軍メンバーらの首151個を並べて検分した。

足利軍リーダーA おっかしいなぁ・・・新田一族の首、いやに少ねぇじゃん。

足利軍リーダーB ほんとやなぁ。新田義顕(にったよしあき)と里見時義(さとみときよし)二人の首しかない。かんじんの新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)の首、ないがね。

足利軍リーダーC どっか、そのあたりの海底にでも、沈んどるんでは?

足利軍リーダーD 海士(あま)に潜らせて、捜索してみるかい。

しかし、新田一族の首は一向に見つからない。

斯波高経(しばたかつね)は、恒良親王の前に行き、問いただした。

斯波高経 新田義貞と脇屋義助の死骸、どこにも見当たりません。どうしてでしょうかねぇ?

恒良親王は、幼いながらも、

恒良親王 (内心)二人が今は杣山城にいることをこいつらに知られてもたら、すぐに、あっちへ押し寄せていくやろうな。

恒良親王 義貞と義助の二人はな、昨日の暮れ方に自害してしもぉたわ。部下の者らが、陣中で火葬にしたとかいううわさや。

斯波高経 なるほど、ドウリで死骸が見つからないわけだ。

このようなわけで、足利サイドは、二人の捜索をあきらめてしまった。

足利軍リーダーA 杣山城は、どうしましょうかねぇ?

斯波高経 大した敵がこもっているわけでもなし、そのうち、降伏して出てくるだろう。しばらく放っておこう。

我執(がしゅう)と欲念に支配されて、互いに敵対心を燃やす人間たちも、やがては「死」という名前の無常の鬼に出会い、ついには地獄の呵責に苦しむ事になるのである。あぁ、なんと哀れにも愚かなる事であろうか。

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新田義顕と新田一族3人の他、主要メンバーの首7つを携え、恒良親王を張輿に乗せて、足利軍一同、京都へ凱旋となった。足利軍のリーダーたち、意気揚々の晴れ姿である。

新田義顕の首は、京都の大路を引き回しの上、さらし首にされたが、この処置については、様々の反対意見があった。

意見を発する人E 天皇が即位されてから3年間は、国中どこでも刑を執行しない、というのが、従来からの慣例ですやんか。

意見を発する人F そうですわ、そうですわ。天皇陛下の鴨河原での禊(みそぎ)やご即位後初の新嘗祭(にいなめさい)もまだやという時に、市中に首を引き回すやなんてぇ・・・。

意見を発する人G ほんまにそうですよ。あの先帝陛下の時の、悪しき例をよぉ考えてみとくれやっしゃ! 鎌倉幕府を倒して天皇位に還り咲かはった後に、いの一番にしはった事はといえば、規矩高政(きくたかまさ)と糸田貞吉(いとださだよし)の首を市中引き回し。あんな事しはったから、政権の座から滑り落ちんならんようになってしもたんですわ。そやからねぇ、天皇のご即位後間もなく、首を引き回しにするなんちゅうのは、不吉極まる行為ですよ。

意見を発する人H あのねぇ! みなさんは、あれをいったい誰の首だとお思いなんでしょう?! 他ならぬ朝敵のトップリーダー、新田義貞の長男・義顕の首なんですよ! 市中引き回しの上、獄門、それが、当然の処置でしょう!

意見を発する人一同 ・・・。

というわけで、彼の首は、市中引き回しになったのである。

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恒良親王に対する足利側の処置は厳しかった。京都への帰還の後、牢屋同然の御座所が建てられ、親王はそこに幽閉されてしまった。

新田義顕と共に自害した尊良親王(たかよししんのう)の首は、禅林寺(ぜんりんじ:注1)の住職・夢窓国師(むそうこくし:注2)のもとへ送られ、夢窓が葬礼の儀式を執り行った。

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(訳者注1)永観堂(京都市・左京区)。

(訳者注2)足利兄弟の精神的な師としての役割を果たした高僧・夢窓疎石(むそうそせき)。
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尊良親王の奥方の嘆きに関しては、何とも表現のしようがない。この方とめでたくゴールインするまでの尊良親王の心労を思えば、哀れの思いひとしおである。

尊良親王は元服の後、その成長とともにどんどん才覚を現されるようになり、容貌の点においても人並み外れたものがあった。「尊良親王こそは次期皇太子!」と、みな期待に胸躍らせていた。しかし、鎌倉幕府の差しがねにより、後二条院の長子・邦良親王(くによししんのう)が皇太子に就任。尊良親王に仕えていた人々はみな望みを失い、親王自身も世の中真っ暗になってしまった。それからというものは、詩歌に明け暮れ、風流に心運ぶしか他にない毎日。

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(訳者注3)[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の巻十八の補注七、および、[新編 日本古典文学全集55 太平記2 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、これ以降にに記されている話は、明らかに史実ではない、とのことである。
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尊良親王側近の者I あぁ、殿下、お気の毒やなぁ。文学や音楽の会をいくら催してみても、あんまり喜んでくれはらへんなぁ。

側近の者J 皇族とか摂政関白家とかに、誰かえぇお嬢さん、いはらへんかいなぁ。その娘とネンゴロな仲にでもならはったら、お心も少しは慰まるやろうに。

側近の者K いやな、わしも殿下に、しつこぉ言うたげてんねんわ、「殿下、はよ、どっかのエエコと仲良うなんなはれぇ」てなぁ。

側近の者I で、どないやのん、殿下?

側近の者K あかん・・・殿下のお気にめすような娘は、この世のどこにもおらんみたいや。「これは!」っちゅうような浮いた事もなぁんも無し。未だに独りぼっちや。

ある日、左大臣・鷹司冬教(たかつかさふゆのり)の家で、若手の公卿や殿上人らが多数集まって絵合わせ(注4)をやっていた。

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(訳者注4)左右の組に別れ、順番に絵を出しあって優劣を競う、という遊び。
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洞院公賢(とういんきんかた) よし、この絵はどうや!

公卿L おぁ、これは、源氏物語の例のあのシーンの絵!

公卿M これにある宇治八宮(うじはちのみや)の令嬢、桧(ひのき)の柱の陰に隠れながら、琵琶を奏でし時。

公卿N その時まさに、月を覆いし雲、にわかに切れ、月光明々と夜空に輝く。

公卿O 月さん、どうぞこちらにいらっしゃい。

公卿P しかれど、招きたくとも、扇は無し。

公卿L ならば、この手に持つ琵琶の撥(ばち)もて、招いて見んか。

公卿M 撥を掲げて月を見上ぐる、その乙女の顔の美しさ。

公卿N 匂いこぼれんばかりの、花のようなその美貌。

公卿O その一瞬を、見事に描き切ったこの絵。

公卿一同 すばらしいー!

尊良親王 ・・・。

公卿M ・・・殿下、殿下・・・。

尊良親王 ・・・。

公卿N 殿下、いったいどないしはりましたんや、そないに真剣に絵を睨んで・・・。

尊良親王 ・・・洞院殿!

洞院公賢 ハァ!(ビックリ)

尊良親王 この絵をしばらくの間、私に貸して下さい!

洞院公賢 はぁ・・・まぁ、よろしですけどぉ・・・。

それからというもの、親王は毎日、その絵を巻いては開き、開いては巻き、じっとながめ続ける。

尊良親王 あぁ、この絵の中の女人、なんと美しい人なんやろう・・・。

尊良親王 こんな女性が、自分の側にいてくれたらなぁ。

尊良親王 あぁ、この娘といっしょになりたい。

尊良親王 とは言うてもな・・・絵の中に入っていくわけにもいかんし・・・。

尊良親王 あぁ・・・あぁ・・・この絵、見れば見るほど、つらくなってくるーッ!

側近の者I (ヒソヒソ声で)おいおい、えらい事になってしもぉたがな。

側近の者J (ヒソヒソ声で)殿下、絵の中の女人に恋をしてしまわはったんかいなぁ。

側近の者K (ヒソヒソ声で)まいったなぁ。

尊良親王 昔、中国の前漢王朝の時にな、孝武帝(こうぶてい)の最愛の李夫人(りふじん)は、甘泉殿(かんせんでん)にて病の床に伏し、ついに亡くなってしもぉた。孝武帝は、悲しみに絶えられず、死者の霊魂を呼び戻す力があるという返魂香(へんごんこう)というお香を焚いた。

側近の者K で、その結果は、どないでしたんや?

尊良親王 香から立ち上る煙の中に、まぎれもなく現れたるは、李夫人の面影。孝武帝は、すぐに絵師を呼んで、その面影を写生させた。

側近の者K ・・・。

尊良親王 しかし、孝武帝はいわく、「彼女の絵をいくら眺めていてもなぁ、ものも言わん、笑うてもくれん・・・眺めれば眺めるほど、わしの愁いは増すばかりや。」。孝武帝のその気持ち、今の私にはよぉ分かる。

側近の者一同 ・・・。

尊良親王 まったくもって、我ながら、どうしようもない迷いの心に取り付かれてしもうたもんやなぁ・・・生きている美女を見てさえも、「いやいや、世のすべては無常なんや、目の前の美女もまたしかり、夢の中で逢ったようなものと思え」と思惟して、それに執着したらあかんのや。そやのにな、よりにもよって、現実に存在せぇへん絵の中の美女に恋してしまうとは・・・ほんまにもう、なんちゅうこっちゃぁ!

側近の者I 殿下・・・。

尊良親王 古今集(こきんしゅう)の序文の中でな、紀貫之(きのつらゆき)が僧正遍照(そうじょうへんじょう)の和歌を、こない言うて批評してるやろ、「歌の形式という点では優れてはいるのやけど、歌の中に込められてる真実っちゅうもんが、イマイチ足りひんのんとちゃうやろか。たとえて言うならば、絵に描かれた女を見て徒に心を動かしているようなもん、とでも言ったらえぇんやろかねぇ」・・・(ハァー 溜息)まったくなぁ・・・「絵に描かれた女を見て徒に心を動かしている」・・・よぉ言うたぁ・・・まさに、今の私の姿そのものやんか。

側近の者一同 ・・・。

尊良親王 いつまでも、こないな事してられへんわ、この絵の中の女、さっさとあきらめよう!

とは言うものの、そうそう簡単にあきらめ切れるものではない。絵の中の彼女への恋ゆえの苦しみが胸中に満ち満ちて、親王は毎日、もの想いにふけるばかり。

側近の者I ほんまにもう、困ったもんやなぁ。キレイな女の子やったら、世間にいくらでもおるやないかい。

側近の者J いやな、そないなコら見はっても、殿下は、なぁ(何)も関心、示さはらへんねんやんかぁ。

側近の者K 今まで何かと親しいしてた女性らとは、いったい、どうなってんねん?

側近の者J 最近は、そないなコらとも、接触される事、完全にの(無)うなってしもぉたなぁ。

側近の者I この世のどこかに実際に生きてる美女のうわさを聞かはってやで、それに心惹かれてはる、いうんやったら、何とでもやりようがあんねんけどなぁ。簾から吹き込む風のように、その女性の室へ忍び入ることかて、できるやろうに。

側近の者J どこかでキレイな女性の姿をちらりと垣間見た、とでも言うんやったら、よかったんやけどなぁ。

側近の者K たとえ水の泡と消えてしまおうとも、寄る瀬の無きにしもあらず、てかいな。

側近の者K 実際に見た美女でもなし、うわさに聞いた美女でもなし、昔書かれたフィクションの物語、想像で描かれた筆の跡に、恋してしもぉたっちゅうねんからなぁ、もうこら、どうしようもないでぇ。

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尊良親王 (内心)あぁ、悩ましい・・・どっか、気晴らしに行ってみよかいなぁ。

親王は車に乗り、下鴨神社(しもがもじんじゃ:左京区)へ詣でた。

境内の御手洗川(みたらしがわ)で手を清めた後、川べりをぶらぶらと歩いてみた。

尊良親王 (内心)伊勢物語に、存原業平(ありわらのなりひら)のこんな歌があったなぁ、

 恋せじと 御手洗河に せしみそぎ 神はうけずも なりにけるかな

尊良親王 御手洗の 流れに深く 祈り込む しょせん神には 届きはしないが

(原文)祈る共(とも) 神やはうけん 影をのみ 御(み=見)手洗河(たらしがわ)の 深き思(おもい)を

尊良親王 あっ、にわか雨、降りだした。

お付きの者 殿下、こちらの木の下で、しばらく雨宿りを。

間もなく雨は上がった。

尊良親王 袖が、びしょびしょになってしもた。

お付きの者 もう日も暮れましたから、そろそろ帰りましょかいな。

尊良親王 そやなぁ・・・。

一条大路を西へ車を走らせていく途中、一軒の屋敷が親王の目に止まった。垣根には苔むし、瓦には松が生えていて、久しく荒れたままになっているようである。そのさびしげな館の中から、撥(ばち)の音も気高く、琵琶の音が響いている。

尊良親王 (内心)誰かが、青海波(せいかいは)を弾いてるわ・・・あれはいったい誰の館やろう? いったい誰が弾いてんねんやろう?

垣根の側に車を止めて、親王は中を覗いて見た。

尊良親王 あぁっ!

御簾を高く巻き上げた館の中には、年の頃16ほどの一人の女人が・・・外から覗き見している男がいる事にも気づかずに、暮れゆく空の時雨雲(しぐれぐも)の晴れ間に、ひっそりと姿を現した月を眺め、去りゆく秋を惜しみながら、琵琶を弾ずる絶世の美女一人。

一曲、また一曲、鉄で珊瑚(サンゴ)を砕くかのようなその音色。玉盤に氷をそそぐかのようなその歌声。琵琶の音と美女の声は、庭の落ち葉に沈潜し、親王の耳中に交錯する。

いつしか、親王は涙ぐんでいた。

尊良親王 (内心)あぁ、ついに見つけたぞ! 今、私の目の前にいるあの娘、長いこと恋焦れ、せめて夢の中でも会えたらと思い続けてきた、あの絵の中の美女にそっくり・・・いや・・・。

親王は、館の中の女性を凝視した。

尊良親王 (内心)いやいや、絵の中のあの美女よりも、あそこにいる彼女の方が、もっと美しい! あぁ、ついに出会えたんやぁ!

もはや心ここにあらず、自分がどこかへ飛んで行ってしまったような気分。車から下りて築山の松の木陰に寄ってみた。

尊良親王 (内心)しまった、気づかれてもたか。

覗き見を嫌ってか、彼女は、琵琶を几帳(きちょう)の傍らに置き、室内へ引きこもろうとしている。裳すそを引きながら中に入っていく姿を見て、親王は、

尊良親王 (内心)あぁ、もう一度、表に出てきてくれ、もう一度・・・。

ほのかな期待を懐きながら、なおも館の周囲をうろついてみたが、ついに、侍たちが格子戸を閉めはじたようである。

やがて、館はひっそりと静まりかえってしまった。

尊良親王 いつまでも、ここでウロウロしてても、しゃぁない、帰るとするか・・・心残りやけどなぁ・・・。

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絵の中の女性でさえも、あのように心悩ましたのである。ましてや、実在の女性に遭ってしまったとあっては、この先いったい、どうしていったらよいものか・・・悩みは更に深まった。尊良親王はもうすっかり思いつめてしまっている。しかしさすがに、その思いを言葉に出しては言えない。

ここに、親王の詩歌管弦仲間で親しく交際している二条為冬(にじょうためふゆ)という者あり。彼は親王にいわく、

二条為冬 殿下ぁ。(ニヤニヤ)

尊良親王 なんや?

二条為冬 あれはいつの事でしたかいなぁ、下鴨神社へ行ったんは。あの帰り道に見上げた宵の月、幽玄なる美しさに輝いておりましたですねぇ。

尊良親王 ・・・。

二条為冬 あのね、殿下・・・フフフ・・・もう一度、あの月をご覧になりたいんやったらね、それはいと、たやすい事ですよぉ。

尊良親王 為冬!

二条為冬 あの娘(こ)はいったい、どこの誰かなぁと思ぉてね、私、調べてみたんですわ。

尊良親王 ・・・(両手を握りしめる)

二条為冬 あの娘はねぇ・・・フフフ。

尊良親王 どこの誰や!

二条為冬 今出川公顕(いまでがわきんあき)殿のご令嬢ですわ。徳大寺公清(とくだいじきんきよ)と既に婚約を交わした仲らしいですが、天皇陛下の中宮オフィスで、女房として働いているとか。

尊良親王 ・・・。

二条為冬 そないに彼女の事が好きなんやったら、歌会にことよせて、今出川邸に行ってですよ、隙を見つけて殿下の思いのタケ、彼女にうちあけはったらよろしやん。

尊良親王 ・・・。(笑顔)

二条為冬 いやぁ、殿下のそないな笑顔、久しぶりに見ましたでぇ。

尊良親王 よし、誰か、今出川邸に使いに行ってくれ、「今夜、お宅で、和歌の批評会やりたい」てな!

親王からの要請を聞いた今出川は、「まことにかたじけない事」と、さっそく風流を好む人々を集め、親王に開催案内を伝えてきた。

尊良親王 よぉし、行くぞぉ!

親王は、二条為冬だけを供に連れて、今出川邸へ赴いた。

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尊良親王、もとより和歌の批評が今夜の目的ではない。なので、和歌を皆で詠み上げるだけで、批評は一切無し。主人側の今出川公顕は、さっそく酒宴の用意をさせた。

親王はめずらしく上機嫌である。謡いや歌曲のたびごとに、盃を公顕にすすめるので、公顕もついつい度を過ごして深酔いしてしまい、ついに横になって眠りはじめた。

親王も横になり、夜の更けるのを待った。

みんな寝静まった頃あいを見はからって、親王は起き上がり、二条為冬に合図した。為冬も、そこはちゃんと心得ていて、飲酒量を控えめにしていた。

為冬は親王を、かの女人のいる今出川邸の西棟へ導いた。

垣根の隙間から覗いてみると、はたして、彼女はそこにいた。灯火を幽かにともし、花や紅葉の散り乱れた絵柄の屏風を引き回し、起きるでもなし寝るでもなし、といった風である。さきほど皆が詠んだばかりの和歌の短冊を取り出して、顔を傾けて読んでいる。

こぼれかかる髪の端から、匂わんばかりの美しい顔。露を含める花の曙とでも言うべきか、はたまた、風になびく柳の夕の景色とでも言うべきか・・・絵に描くとも及び難し、語るに言葉も無し。

尊良親王 (内心)こないだ、家の外から幽かに見た時は、世にも類まれなる美貌と思ぉて、もうそれこそ、気も狂わんばかりに魅了されてしもぉた。そやけどなぁ、こうやってあらためて、ま近に見ると、もうとても、こないだの比ではない・・・もう信じられんほどの美しさや。

親王はもはや忘我の境地、魂も身も、どこかへけし飛んでいってしまったかのようである。

幸い、周囲には人もいない、灯火もそれほど明るくない。親王は、思い切って妻戸を開き、室内へ入っていった。

今出川息女 あっ・・・。

彼女はそれほど驚いた風でもなかった。穏やかに親王にあいさつをし、ゆっくりと頭から衣を覆った。その風情がまた何とも言えないほど、なよやかにして雅(みやび)やかである。

親王は、彼女の側ににじり寄った。

尊良親王 やっと、やっと・・・貴女の近くに来ることができた・・・こないだ、貴女を一目見たその時から、私は・・・私は・・・。

親王は、これまでの自分の思いの限りを訴えた。しかし、今出川息女は無言のまま沈んでいる。その可愛い姿がまたまた、親王の心をかきたてる。

花は薫り、月霞む夜のしじま、いったいこれは、見果てぬ夢なのか現実なのか、時間の経過をも忘れ果て、ただひたすらに、彼女に対してかき口説き続ける親王。しかしなおも、彼女の態度はつれない。

やがて、鶏の声が響いた。

尊良親王 あぁ、なんというにくたらしい鶏の声。自分は雌雄仲良く翼を並べながら、無情にも、我々を別れさせるのか。

涙の氷解けやらず、成果空しく、帰宅の途につく親王。

尊良親王 あぁ、あの女(ひと)は何とつれないのか・・・空にかかってるあの有明けの月のように、私の心など、意に介してくれへん・・・。

しかし、親王はギブアップしなかった。

その日から、彼女にせっせと、レター、レター、レター・・・その数、およそ一千通ほどにもなったであろうか。ついに、今出川息女の方も情にほだされ、親王に好意をいだくようになってきた。

しかしながら、やはり、人の目が気になる。二人の間にはなおも、障害が立ちふさがっていた。

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それから数ヶ月過ぎた頃、式部少輔英房(しきぶのしょううひでふさ)という儒学者が、親王のもとに文学講和にやってきて、貞観政要(じょうがんせいよう:注5)の講義を行った。

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(訳者注5)中国・唐王朝の太宗と臣下との政治議論の記録。
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英房いわく、

式部少輔英房 中国唐王朝の皇帝・太宗は、鄭仁基(ていじんき)の娘を后として、後宮に迎え入れようとしました。その時、魏徴(ぎちょう)が、これをいさめました、「陛下、それはなりませぬ、この娘は既に、陸氏と婚約しておりますゆえに」と。太宗はその諌めに従って、その娘を后に迎えるのをやめました。

尊良親王 (内心)そうかぁ、昔の名君はそのように、賢人のいさめを聞き入れて、恋愛を断ち切ったんやぁ。そやのに私は・・・すでに婚約者が決まっている女性に言い寄って、他人の心を傷つけようとしてるんや。こないな事では、いかんなぁ。

親王は、古の帝王の行為に比べて自らの様を恥じ、世間のそしりをも慮(おもんぱか)り、この悲恋の苦悩をただじっと心の中に秘めていようと、決意した。それからは、自分の恋愛の事を口には一切出さず、彼女に手紙を送ることもやめてしまった。

尊良親王 昔、女から、「私のとこへ百夜連続通ってきてくれたら、あなたになびく」と言われた男が、それからせっせと女のもとに通い続けては、車の轅(ながえ)に通った回数を書き足していったんやそうや。あと一夜で百回、というちょうどその時、男の親が死んでしもぉて、ついに男は、お百度を達成できずに終わったという。私の恋もこれと同様、あともう少しっちゅう所で、挫折してしもたなぁ。

海士(あま)の刈る藻草(もぐさ)のように、すっかりしおれてしまい、思い乱れる親王。

このようにして月日が過ぎていく間に、今出川息女の婚約相手の徳大寺公清(とくだいじきんきよ)が、二人の関係に気付いた。

徳大寺公清 (内心)殿下はそれほどまでに、彼女の事を思いつめてはんのか。それやったら、もう彼女は、殿下に譲ってしまおう。

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親王側近I 殿下、えぇ知らせですわ! 徳大寺公清殿は、今出川家のお嬢はんと別れて、別の女の方に通うようにならはったとか。

尊良親王 それ、ほんまか!

親王側近J これでもう、あの方とつきあわはるのに、何の障害も憚りも、なくなりましたなぁ。

親王側近K 殿下ァ、さぁさぁ、今出川家のお嬢さまのもとへ、お手紙を!

尊良親王 よぉし、書ぁくぞぉ!

つい力が入りすぎて、いつもよりもさらに黒い字で、

尊良親王よりのレター

 知ってます? 塩焼く浦の 煙さえ 思わぬ風に なびくのですよ

(原文)知(しら)せばや 塩やく浦の 煙だに 思はぬ風に なびく習(なら)ひを

今出川息女 (内心)あぁ、あたしはなんでこうまでも、殿下に対してつれない仕打ちをしてきてたんやろう・・・どうかお許しください、殿下。

今出川息女よりのリプライ

 浮き名立つ おそれが何も 無かったら 煙も風に なびいたですわよ

(原文)立(たち)ぬべき 浮名を兼(かね)て 思はずは 風に煙の なびかざらめや

かくして、あれやこれやの心配や気兼ねもすっかり解消し、二人はついに結ばれた。

尊良親王 ゆく川の 水の流れのように

親王奥方 あたしたちどこまでも 二人でいっしょに生きていくんよね

尊良親王 老いて後も、命尽き果てるその日まで

親王奥方 あなたとあたしは 決して離れない

尊良親王 死して後も

親王奥方 二人いっしょに 同じ墓の苔の下に

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しかし、二人の蜜月はそれから10か月しか続かなかった。天下に乱起こり、尊良親王は土佐国(とさこく:高知県)の幡多(はた)郡へ流罪となり、奥方は一人、都に残される事になってしまった。

夜の明けるのも知らずに、嘆き伏し続ける奥方である。

親王奥方 いっそのこと、二人とも死んでしもぉてたらよかったんや。それやったら、やがて再び、この世に生を受けて、また二人は再会できる。そやのに、今は、殿下とあたしは生き別れのままやん・・・(涙)遠い海山に間を割かれ、互いに風の便りの音信を交わす事すら、できひんやん。(涙)

今まで召し使っていた侍や女たちも、もう一人も屋敷にいない。すべてが昔と一変してしまった中に、荒れ果てた屋敷の庭には草の露しげく、奥方の袖は涙に濡れて乾くひまもない。

親王奥方 あぁ、これから先、あたしはいったいどないして生きていったらえぇのん!(涙、涙)

気も狂わんばかりの毎日。

尊良親王の方も、京都を離れてからは、父・後醍醐先帝の事や自分の事を思うと、悲しみは増すばかり。それに加えて、奥方の顔をもう二度と見ることはできないのかと思うと、食事ものどを通らず、道中の草葉の露と共に消えはててしまうか、と思われるほどである。

流刑地の土佐の幡多郡に着いてからは、とてもこの世とも思えぬような海岸のほとりに住いを定められて月日を送る中、嘆きが晴れる日は、一日とて無い。

尊良親王の落胆しきった姿のあまりの哀れさに、警護担当の有井荘司(ありいのしょうじ)もさすがに、見るに見かねて、

有井荘司 殿下、奥方様をこっそりここへ呼ばれたらどうですかい? わしゃぁ、見て見ぬフリしてさしあげますぜよ。

有井荘司は衣を一着仕立て、奥方の旅の道中の事まで細々と処置してくれたので、尊良親王は大喜び。たった一人だけ自分について土佐まで来ていた右衛門府の下官の秦武文(はだのたけふん)という供人を、奥方を迎えるために京都へ上らせた。

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親王からの手紙を携えた秦武文は、京都へ急いだ。

一条堀川(いちじょうほりかわ:上京区)の館へ行ってみたが、草は生い茂り、松葉が積もって道も無い。館を訪れてくる物は梢を鳴らせる夕嵐、軒からもれる月の光だけ、人が訪問してくる気配も無く、屋敷は荒れ果てている。

秦武文 奥様はきっと、どっか別の所に、隠れ住んだはるんやろうな。いったいどこへ行ってしまわはったんやろう。とにかく、何とかして探さな!

あちらこちらと、奥方の行くえを探し歩く中、嵯峨(さが:右京区)の奥の方の深草(ふかくさ・清涼寺付近)の里で、一軒の家が目についた。荒れ果ててまばらになった低い松の垣根には蔦がはい掛かり、池の姿も淋しい。池の水ぎわの松には、秋の嵐が冷たく吹き付けている。

秦武文 (内心)この家、誰か住んでる人、いるんやろうか。ものすごぉ、うっとおしい感じに荒れ果ててるやん・・・いや、待てよ・・・家の中から、琵琶の音、聞こえてくるぞ・・・。

思わず立ち止り、耳をすます武文。

秦武文 (内心)あぁ、あの琵琶の音は・・・間違いない、奥様の弾かれる琵琶の音色や! やったぁ、見つけたぞぉ!

武文はあいさつもせずに、築地の破れ目から邸内に入り、中門の縁の前にかしこまった。

破れた御簾の中から、奥方は彼の姿を認め、幽かな声を上げた。

親王奥方 あぁっ!

奥方は言葉も無い。女房たちは、さざめき合うばかり。やがて邸内から、すすり泣く声が聞こえてきた。

秦武文 武文、殿下からのおことづけを持って、土佐から京都に上ってまいりました。奥様の行くえを訪ねて、ようやくここまでたどりつきましたでぇ!(涙、涙)

武文は、縁に手をついてサメザメと泣く。

しばらくしてからようやく、奥方が口を開いた。

親王奥方 武文、ここへ。

奥方の召しに従って、武文は、御簾の前まで進んでひざまづいた。

秦武文 殿下より、「あなたと遠く離れている今の状態、到底絶え忍びがたい。何としてでも、京都を出て、こちらまでやっておいで」とのおことづけ、持って参りました。さ、これが殿下からのお手紙です。

奥方は急いで文を開き、読みはじめた。よほど切ない日々を送っていたのであろう、手紙の一文字を読むごとに、彼女の眼から涙がこぼれ落ちる。

奥方 わかりました、あたしはすぐに殿下のもとへ参ります。たとえどんな辺ぴな地でも、殿下といっしょやったら、あたし、耐えていけるわ。

彼女はすぐに、旅立ちの仕度に取り掛かった。武文もかいがいしく立ち働き、さっそく輿を手配した。

やがて一行は京都を出て、尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)に到着、そこで渡海の順風を待った。

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ちょうどその時、尼崎湊に、松浦五郎(まつらごろう)という筑紫国(つくしこく:福岡県)の武士が、やはり順風を待ちながら滞在していた。

この男がひょんな事で、尊良親王の奥方の姿を、垣の隙間ごしに見てしまった。

松浦五郎 (内心)ドヒャー! すごかぁ美人たい。天女が地上に舞い降りて来たんかいのぉ・・・。

彼の目は、奥方に釘付け。

松浦五郎 (内心)こないして、あの女を眺めちょるだけでは、つまらんばい。あの女、なんとしてでも、おい(我)のモンにしたかぁ。誰の人妻であろうが、どこかのお家のお姫さまであろうが、とにかく、おいのモンにしたかぁ。たとえ天皇のお后だって、かまうもんか。あんな女をモノにできるんじゃったら、それと引き替えに自分の寿命が100年縮まったって、よかと。よぉし、あの女を誘拐して、筑紫へ連れて行くばい!

五郎は、浜のあたりに出てきた秦武文の部下を呼び寄せ、酒を飲ませ、贈り物をした上で、

松浦五郎 それにしてもな、あんたのご主人のお連れさんな、ほれ、あの出帆を待ってるあのご婦人、あのお方はいったい、どこのどういう人なんかの?

身分の低い者は思慮分別というものがまるで無い。秦武文の部下は、酒や贈り物にすっかり喜んでしまい、一連の事情をペラペラと話してしまった。それを聞いた五郎は大喜び。

松浦五郎 (内心)こりゃよかと! あの女の夫は、親王は親王でも、謀反人だとねぇ。島流しになったその男の所へこっそり行こうとしちょる女を誘拐したって、大した罪にもならんばい。

五郎は自らの郎等たちに、秦たちが宿泊している宿のレイアウトをしっかり把握させ、日没を待った。

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夜も更け、みな寝静まった頃、松浦五郎の郎等30余人は、鎧に身をかため、松明を点した。

松浦部隊リーダー よぉし、行くぞ!

彼らは、宿の戸を蹴破って前後から踏み入った。

秦武文 うっ! 強盗やな!

秦武文は公家出身ではあるが、心剛(ごう)にして度々武勲を顕してきた男。枕辺に立てていた太刀を取って、中門まで走り出た。

秦武文 エェイ! ヤァ! エヤァ!

武文の太刀 ズブッ、ズバッ、ビュイ!

たちどころに、押し入ってきた3人を切り伏せ、縁に上がった松浦一味30余人を、庭へ追い落とす。

秦武文 おれは秦武文や、刀を取ったら天下一やぞ! モノ取りに入ってきたこの家の中で自分の命を失うとは、お前らヌスットども、ほんまに、運の悪いやっちゃのぉ。

武文は、あざ笑いながらそり返った太刀を押し直し、門の脇に仁王立ち。

松浦部隊メンバーらは、武文におそれをなして、門の外へ、さぁっと逃げ出した。

松浦部隊リーダー えぇい、情けねぇやつらよ。相手はたった一人たい、切って入らんかぁ!

松浦部隊メンバーらは、付近の家屋に火を放ち、再びおめいて攻め込んできた。秦武文、闘志は燃え盛るものの、浜風に吹きあおられた煙が目にしみて、防ぎようが無くなってきた。

武文は奥方を背負い、向かってくる敵をなぎ払いながら、海岸まで走った。

秦武文 (沖の船に)おぉい、どの船でもえぇ! この女の人、ちょっと、預かってくれへんかぁ!

停泊していた船は数多かったのに、一番にそこに漕ぎ着けてきたのは、よりにもよって、松浦五郎の乗っている船であった。

松浦五郎 (内心)うひゃひゃひゃ、しめしめ・・・。

船長 ほれ、この船に乗れ!

秦武文 あぁ、助かった! さ、奥様、こちらの船室の中へ、さ、さ。

奥方 あ、武文、どこ行くんや?

秦武文 もういっぺん、あの宿へ戻って、あこに置いてきてしもたモンやら、御伴の女性方を、ここに連れてきます。安心して待っててくださいや!(船を飛び出す)

奥方 武文! 武文!

宿の建物にもすでに火が燃え移っていた。

秦武文 遅かったか! 供の連中も一人もいいひん。どっかへ逃げていってしもたようやな。

一方、松浦五郎は、

松浦五郎 (内心)うひょひょひょ。あの女が偶然、この船に逃げ込んでくるとはなぁ・・・おいと彼女、不可思議なる運命の糸に結ばれたる二人でありました、それは誰も知らない前世からの約束事でありました・・・なーんちゃってな、ウハウハウハ・・・。

松浦五郎 おーい、もういいぞー! みんな、この船に乗れーぇ!

これを聞いて、松浦五郎の郎等・部下ら100余人は、みなあわてて、船に乗り込んできた。

船は沖合いはるかに漕ぎ出した。海岸へ帰ってきた秦武文は、それを見てびっくり。

秦武文 おぉい、そこの船、待たんかい! ここへ戻ってこい! さっき船室に預けたそのご婦人、陸にお上げするんや!

松浦五郎 ガハハハ・・・あの男、海岸につっ立って、いったい何言っとるん? 全く聞こえんとね、ガハハハ・・・さぁさぁ、順風に帆をあげて、筑紫へ、筑紫へ!

武文は、海岸にあった手繰網(たぐりあみ)漁師の小舟に乗り、自ら櫓を漕ぎ、船を追った。

秦武文 なんとしてでも、あの船に追いつかんと!

しかし、帆に順風をはらんで進み行く大船に、手漕ぎの小舟が追いつけるわけがない。

秦武文 (はるか沖を行く大船に対して、扇をかざして招きながら)おぉい、そこの船ぇ-っ、戻れーっ、戻れーっ!

松浦部隊メンバーQ なーんばしちょっとね、あの男は。

松浦部隊メンバーR あの扇でもって、この船をあおぎ戻そうってかいね。

松浦部隊メンバー一同 ギャハハハ・・・。

秦武文 う・う・う・・・無念、残念無念やぁ! よぉし、そっちがそのツモリやったら、おれにも考えがある。たった今からおれは、海底の龍神になったるぞ! 龍神になって、その船をゼッタイに先には進ませへんからなぁ!

秦武文は、激怒の中に腹を十文字にかっ切り、海に身を投げた。

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宿に松浦一味が押し入ってきた時から、奥方は心ここにあらず、淵の上に浮き沈みする夢の浮橋の上を渡るような心地ばかりして、何がどうなっているのか、さっぱり分からない。

船に乗り合わせている人S いやぁ、あの男、なかなか立派やん。

船に乗り合わせている人T 主の奥方を他人に奪われて、腹を切るとは・・・哀れな男やなぁ。

奥方 (内心)あれは! きっと武文の事や。武文、死んでしもぉたんか!

そう思いながらも、彼女はもう、目を開けてもおれない心境である。衣を頭からかぶって、船室の中に泣き崩れている。

突然、奥方のすぐ側で、男の声が。

松浦五郎 あんた、なんばぁ、そないに泣いちょるとね。

奥方 あっ!(目をつむり、身を縮める)

見るも恐ろしげな、むくつけき髭面(ひげづら)の男の、たくましく日焼けした顔から、次々と、言葉が・・・。

松浦五郎 あんたねぇ、これからの道中、面白いとこ、いっぱいあるとね。瀬戸内の名所、とっぷりと見物しながら旅してったら、心も慰むるとね。いかんいかん、そないに、泣き続けとったんじゃ、船酔いしてまうとねぇ。

このように、五郎は奥方をあれやこれやと慰めようとするのだが、奥方はもう恐怖に身をすくめて顔もあげることも出来ない。鬼といっしょの船に乗って中国・揚子江の三峡(さんきょう)の急流を行く恐怖さえも、これに比べたらまだまし、という心地。もう、息も絶え絶えである。

さすがの松浦五郎も、とまどってしまい、ただ舷側に寄りかかって、彼女の哀れな姿を見つめ続けるしかない。

その夜、船は、大物(だいもつ:尼崎市)海岸に停泊。

翌朝、再び順風となり、そこに停泊していた船は一斉に帆を上げ、舵を取り、思い思いの方角に漕ぎ出していく。

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船に乗り合わせている人S もうだいぶ、京都からは、離れてしもぉたなぁ。

船に乗り合わせている人T この船、九州には、いつごろ着くんやろ?

奥方 (内心)あぁ、この船、九州に向こぉてるんか。私の運命、これから先、いったいどないなっていくんやろう。

奥方 (内心)九州といえば、北野天神(きたのてんじん)にならはった菅原道真(すがわらのみちざね)公が流されていかはったとこや・・・天神様、昔の九州流罪のご自身のお悲しみ、おぼえておいででしたら、どうか、あたしの事もかわいそうやと、思ぉて下さいませ、あたしを京都へ帰してくださいませ、お願いです、あたしを京都へ帰してくださいませ、どうかお願いですから!

その夕方、船は、阿波(あわ:徳島県)の鳴門海峡(なるとかいきょう)へさしかかった。(注6)

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(訳者注6)尼崎から九州へ向かう船が鳴門海峡を通るとは地理的に見て、どうにも考えがたいのだが、まぁ、そこはその、「太平記感覚」(?)で、読み進めて行くとしよう。
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にわかに風向きが変わり、潮流も船の進行方向とは逆方向に変わってしまって、船は全く、先へ進めなくなってしまった。

船員が帆を下ろし、近くの磯へ船を寄せようとし始めたその時、

船員U おい、あれ見てみい、あれ! あこや、あこ(あそこ)!

船員V うわっ! えらいこっちゃぁ!

舵取りW あれいったい、なんやぁ・・・。(呆然)

船員U 渦や・・・渦や・・・大渦や・・・。(顔面蒼白)

船員V ここの海峡なんべんも通ったことあるけど、あんな大きい渦、見たことない・・・。(恐怖に顔をひきつらせる)

船長 おぉい、渦の底、見えたるかぁ?!

船員U ・・・見えへん・・・底無しの渦やぁ!

船員V あぁっ、船が渦に・・・渦に巻き込まれるぅ!

船長 帆、帆、渦に投げいれぇ!

舵取りW 薦(こも)! 帆、薦、なんでもえぇ、かさばるもん、渦に投げ込め! 渦の力弱めて、そのすきに逃げるんや!

船員U あかん! そんなんではとてもキカへん! ムリや! あーっ、巻き込まれるぞーっ!

ついに船は、渦に巻き込まれてしまった。茶臼を回すがごとく、船は高速に回転し始めた。

船長 ・・・こ、これはきっとな、鳴門の・・・鳴門の龍神がな、この船に積んだる財宝に目ぇつけよったんや。金目のもん、なんでもえぇ、海へ投げ入れぇ!

みんな一斉に、船中の弓矢、太刀、刀、鎧、腹巻鎧等を残らず海へ投げ込んだ。しかしなおも、渦は静まらない。

船長 もしかしたら、龍神、きれいな衣、欲しいんちゃうか!

そこで、奥方の衣と赤い袴を海に投げ入れてみた。白い波の上に紅葉を浸したかのように鮮やかに赤色が広がると共に、渦の勢いが少し弱まった。しかし船は依然として回転し続けている。

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それから3昼夜、船は渦に呑まれて回転し続けた。船中では、立っておれる者はもはや一人もいなくなってしまった。全員、船底に酔い伏して、うめき声が飛び交っている。

奥方は、ただでさえ生きた心地もしなかったのに、ましてやこの渦である。もう肝も消え去り、自分がどこかへ行ってしまったような気分である。

奥方 (内心)この先、つらい目にあうよりは、いっそのこと、今、この目の前の渦の中に身を投げて・・・。

奥方 (内心)そやけど、あの皆の泣き叫ぶ声を聞いてるとなぁ・・・底知れぬ海底の水屑(みくず)となってしもぉたんでは、墓も無いままになってしまうわ。深い罪に落ちてしもうた私の後世を弔ぉてくれる人も、いったいどこを訪ねてきたらえぇのか、見当つかんやろうなぁ。

あれやこれやと悩みながら、彼女はただ、床に臥すのみである。

さすがの松浦五郎の心中にも、後悔の念が込み上げてきた。

松浦五郎 (内心)きっと、こげな高貴な身分の人を誘拐したもんで、龍神を怒らせてしもうたとね。おいもまっこと、愚かな事してしもぉたなぁ。

そこへ、一人の舵取りが船底から這い出てきていわく、

舵取りW この鳴門というとこはなぁ、龍宮城(りゅうぐうじょう)の東のゲイト(門)に当たるポイントなんやわ。何でもえぇから、龍神様の欲しがらはるもんを海へ沈めんとな、いつも、こないな不思議な事が起こってしまうんや。

舵取りW なぁ、あんた。わしが思うにやな、どうも龍神様は、そこのご婦人に惚れ込みはったんとちゃうやろか。

松浦五郎 ・・・。

舵取りW こないな事言うたら、ほんまにムゴイ事やねんけどな、そのご婦人一人の為に、この船に乗ってるみんなが死なんならっちゅうのんも、あまりにもヒドイ話やないかい、なぁ、あんた!

松浦五郎 ・・・。

舵取りW そやからな、そのご婦人を海へ投げ込んでな、他の百人の命、助けてぇなぁ!

五郎はもとより、情け心のかけらもない男。「これで、我が命助かるかも」と思い、船室の中に入って奥方を荒々しく引き起こした。

松浦五郎 あんたのそのツレナイ顔ばっかり毎日見せられたんでは、わしも面白ぉなかとね。だからな、あんたを海に放り投げてしまう事に決めたばい。ダンナとの契りが深けりゃ、あんた、土佐の幡多とやらへ流れ着くかもね。そしたら、その宮とか堂とかいう人といっしょに(注7)、暮してったらえぇね。

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(訳者注7)原文では、「御契(おんちぎり)深くば土佐の畑へ流れよらせ給いて、其の宮とやらん堂とやらん、一つ浦に住ませ給え」。親王を、「宮」とも呼ぶ。
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五郎は、情け容赦もなく奥方を抱きかかえ、まさに海へ投げ入れようとした。

奥方 (内心)もはやこれまで。

彼女はもう言葉も無く、ただ夢を見ているような気持ちの中に、息をつめる。

奥方 (内心)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。

そのままそこで、息絶えて行くかとさえ思われる奥方である。

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その船に、一人の僧侶が乗り合わせていた。

僧侶は、松浦五郎が今にも奥方を海に投げ込もうとしているのを見て、彼の袖を捕らえて、

僧侶 あんたはいったい、なんちゅう事をする!

松浦五郎 うるさいなぁ! みんなの命を助けるためには、この女を龍神に捧げるしか、しょうがなかとね。

僧侶 あんなぁ、龍神というのはなぁ、南方の世界で一切の煩悩を捨てきって悟りを開き、仏の教えを全て会得してはるんやでぇ。そないな存在が、こないな罪業(ざいごう)の深い捧げもの、受けとらはるはず無いやんか。人を生きながらに海に沈めなんかしてみい、龍神はますます、怒らはるぞ。そないなったらもう、この船に乗ってるもん、一人も命助からんぞ!

松浦五郎 ・・・。

僧侶 ここはやな、とにかくお経を読み、ダラニを唱えてやな、そうやって得られた功徳(くどく)を龍神にお捧げしていくっちゅうセンで、いった方がえぇで。

僧侶のこの強い制止に、五郎は、

松浦五郎 なるほどなぁ。

五郎は、奥方を船室の中に荒々しく投げ入れた。そして、

松浦五郎 ならばさっそく、このお坊さんの言う通りに、みんなで祈ってみるばい。

船中全員、異口同音に、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の御名(みな)を唱えはじめた。

すると、怪異な者たちが次々と、波の上に浮かび上がってきた。

まず最初に姿を現したのは、濃紅の服を着た雑役人ふうの人物。長持ちをかつぎながら、船の前を通りすぎて行ったと思ったら、すぐにその姿は消えてしまった。

次に現れたのは、白い鞍を置いた白葦毛(しろあしげ)の馬。8人の馬丁(ばてい)がそれを引いて通り過ぎていく。彼らも同様に、皆の眼前で、すぐに消失してしまった。

そしてついに現れた、あの男が・・・。

船員U あぁ! あれは!

船員V あの男やん! 尼崎沖で、この船を追いかけてきた男。

船長 小舟の上で、腹を切って果てた、あの男!

松浦五郎 ・・・(顔面蒼白)。

赤糸威(あかいとおどし)の鎧と赤い五枚兜をかぶり、黄赤色の馬に乗ったその男は、海の上に弓を杖つきながら、紅一色の扇を掲げて、船を招いている。

船長 (震えながら)なんか、「そこの船止まれぇ」ちゅうような、シグナルを送ってきてるように、見えるんやけど・・・。

舵取りW 波の荒いとこを船が通る時に、不思議なもんが見えるっちゅうんは、よぉある事や。そやけどな、あれは、そういうたぐいのもんとは、まるでちゃう(違)わ。あれはもうゼッタイに、あの男の怨霊(おんれい)や、間違いないて。

船上の人々全員 ・・・。

舵取りW 試しにな、小舟を一艘海に降ろしてな、あのご婦人をそこに乗せてな、波の上に押し流してみたらどうや。龍神がいったい何を考えてるんか、はっきりしてくると思うで。

松浦五郎 なるほど。

というわけで小舟を一艘引き下ろし、一人の船員と奥方をそこに乗せて、漲り渦巻く波の上に浮かべてみた。

それにしてもまぁ、何という酷い事をするのであろうか。これに比べたら、かの古代インドの「島に捨てられた早離(ソウリ)・速離(ソクリ)兄弟」、「飢寒(きかん)の愁い深くして、涙も尽きた」という話の方がまだましであろう。そこは無人島ではなかったのだから、頼って行く場所もあった。

それにひきかえ、奥方が今捨てられたこの場所は、浦でもなければ島でもない、鳴門海峡の波の上ではないか! 身を捨舟(すてぶね)の浮き沈み、潮に流され、消える泡のように死んでいくしかないとは、なんと哀れな・・・。

しかしそれもまた、哀れな奥方を松浦五郎の魔手の中から救わんとの、人智を絶した龍神のお計らいであったのだ。

急に風が吹き出し、松浦らが乗る船は西方へ流されはじめた。武庫(むこ)の山々(兵庫県・西宮市)から吹き下ろしてくる風にあおられて、船は一の谷(いちのたに:神戸市・須磨区)の沖合から、はるか彼方に消えていった。

しばらくして、渦は消え、波も風も静かになってきた。

奥方といっしょに小舟に乗せられた船員は、懸命に船を漕ぎ、淡路国(あわじこく:兵庫県・淡路島)の武島(むしま:場所不明)という所へ、たどり着いた。

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この武島という所、周囲は1里足らず、家屋といえば海士(あま)の住む家しかない。住民らはとりあえず、奥方を、葦で覆った粗末な家に入れた。

ここ4,5日の波風に、心身ともに衰弱しきっていた奥方は、その家の中に入るやいなや、気絶してしまった。島の住人たちはびっくり。何も分からない子供たちまでもが、「どないしたらえぇんや!」と泣き悲しみ、奥方の顔に水をかけたり、櫓床を洗った水を口にそそぎ込んだり。(注8)

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(訳者注8)「櫓床」とは船上の櫓を設置する箇所。そこを洗った水を口に注ぐ、というのが当時の救急法だったのかも。
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彼らの努力のかいあって、それから1時間後に、奥方の意識は戻った。

しかしながら、依然として、奥方の涙の乾く日は無い。悲しみの絶え間のない旅寝のつらさに、

奥方 いつまでも、ここにこないしてるわけにもいかへん・・・どうかお願いですから、土佐の幡多というとこまで、私を送り届けてくれませんか。もう毎日、つろぉてつろぉて・・・。(涙)

海士X あんたのその気持ち、わしらもよぉ分かっとぉ。そやけどな、あんたみたいな美しい人をわしらの舟に乗せて土佐まで行くなんちゅうの、どだいムリな話や。またどこかの港で、誰かに誘拐されてまうかもしれんやろ。

奥方 ・・・。

このようなわけで、奥方は武島から外に出ることもかなわずに、そのままそこで年を越した。なんと哀れな事であろうか。

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尊良親王 (内心)おかしいなぁ・・・武文を京都へやってから、もうだいぶ日も経つというのに、いまだに何の知らせも無い。もしかしたら、何かトンデモナイ事、起こってしもたんかいなぁ。

しきりに気を揉む親王である。京都からやってきた人に、確かめてみると、

京都からやってきた人Y それは、おかしぉまんなぁ・・・。去年の9月に、奥方様は、京都を出発し、土佐へ向かわれたと、確かにお聞きしましたんですけど。

尊良親王 (内心)「去年の9月に京都を出発」?・・・そやのに未だに、ここへ着いてない・・・さては、道中で誰かに誘拐されたか・・・あるいは、嵐に遭うて、千尋(ちひろ)の海底に沈んでしもぉたか・・・(ガックリ)。

ある夜、警護担当の武士たちが、中門に宿直しながら、よもやま話をしていた。

警護担当武士α あれはたしか、去年の9月頃の事やったかなぁ。船に乗ってここへ来る途中、阿波の鳴門海峡にさしかかった時にな、船の楫に衣がひっかかかりよったんよ。それがまた、ものすごい上等の衣でな、とても、フツーの人の着るようなもんやなかったでよ。

警護担当武士β へぇー、そりゃまた不思議な話やのぉ。

警護担当武士α おれの推理やと、あの衣の持ち主、院か御所に勤務しとった女房やろ。その女が、故郷へ帰る旅の途中に嵐に遭うて、海に沈んでしまいよった。女が着とった衣だけが海を漂っとってな、ほいで、船の楫にひっかっかったんやろ。

警護担当武士γ かわいそうな女やのぉ。

これを垣根ごしに聞いていた尊良親王は、

尊良親王 (内心)もしかしてその衣、武文に持たせたあの衣では?!・・・まさか!

尊良親王 おぉい、ちょっと、おまえ!

警護担当武士α ???

尊良親王 そうや、おまえや、ちょっとここへ!(手招き)

警護担当武士α はい・・・何かご用で?

尊良親王 今、おまえが話してた、船の楫にかかった衣、まだ、おまえの手元にあるか?

警護担当武士α あるでよ。そやけど色、相当落ちてしもてるで。

尊良親王 その衣、気になる事あるんやわ。ちょっと私に見せてくれへんか。

警護担当武士α はい、今すぐに持ってくるでよ。

武士が持ってきた衣をつらつらと見るに、

尊良親王 (内心)間違いない、これはたしかに、彼女を迎えに武文を京都へ行かした時に、有井荘司(ありいのしょうじ)が仕立てて贈ってくれた衣や。

不思議な事もあるものよと、裁断した残りの布切れを取り寄せて、その衣と合わせてみた。

尊良親王 (内心)綾模様まで寸分違わず、ピッタリと合う。やっぱしこの衣は・・・(涙)。

それを二目と見ることもできずに、親王は衣を顔に押し当て、涙を拭った。その側にいた有井荘司も、目に涙をいっぱいためながら、その場を立った。

尊良親王 (内心)あぁ、私が愛して止まぬ彼女は、もはやこの世にはおらんのや(涙)・・・。今は彼女の菩提を弔うてやるしかないのか・・・(涙)。

親王は、船の楫に衣が掛かった日を彼女の命日とし、自ら写経をし、念仏を唱え、彼女の冥福を祈った。

尊良親王 今はなき藤原氏の女(注9)、さらには、物故者となりし秦武文、共に三界(さんがい)の苦海を出(いで)て、速やかに極楽浄土に至りますように。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。

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(訳者注9)奥方を指している。
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親王の嘆く姿、まことに哀れである。

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その年の春頃から、日本国中に打倒・鎌倉幕府の軍が続々と決起、六波羅庁、鎌倉幕府、九州庁、北陸地方の幕府サイド勢力が一斉に滅び、後醍醐先帝は隠岐からめでたく京都に帰還、尊良親王も、土佐の幡多から都へ帰ってきた。

尊良親王 (内心)天下悉く朝廷と公家が治める事になり、それはそれで、めでたい事ではある。おかげで私も、このように京都へ帰ってこれた・・・そやけど、彼女はもう、この世にいいひん(涙)。彼女がいない私の人生に、いったい何の楽しみがあるというのか、あぁ・・・。(涙)

親王側近I 殿下! 殿下!

尊良親王 もう・・・なんや、うるさいなぁ。

親王側近I 奥様が、奥様が!

尊良親王 ・・・。

親王側近I 奥様、生きておいでですよ! 淡路の武島という所に、ご無事でおられるそうですわ!

尊良親王 エェーッ、そ、それ、ほんまかぁ!(激歓喜)

親王側近J 早いとこ、こちらにお迎えせんと、あきませんな!

尊良親王 すぐに、迎えのもんを送れぇ!

親王側近I ハハーッ!

親王側近J いやぁー、よかった、よかったぁ!

やがて、奥方が京都へ帰ってきた。

尊良親王 あぁ・・・あぁ・・・もう一度キミの顔を見れるやなんて・・・夢見てるんとちゃうやろか・・・。(涙)

奥方 あたし・・・あたし、こわい男にさらわれて・・・筑紫に向かう船に乗せられたんです。あの時の心細さいうたら・・・もう・・・(涙)。大きな大きな渦に巻き込まれて、もうダメというような事も・・・あぁ、自分の命、泡のように今消えていくんか、なんて思いましたわ。

尊良親王 キミもほんまに、つらい目に遭うてたんやねぇ。

奥方 もうとにかく、つらくてつらくて・・・とても分かってはもらえへんでしょうねぇ。(涙、涙)

尊良親王 私もな、つらい日々の連続やった。キミはもうてっきり死んでしもぉたんやろう思うてな、菩提を弔らうなんて事まで、したんやでぇ。

奥方 ・・・。

尊良親王 あのつらかった日々・・・いやいや、こんな事言うのん、もうやめにしとこうや、お互いにな。こうやってまた、二人いっしょになれたんやん、つらかった事や悲しかった事なんか、今さら思い出してみてもしゃぁない、やめとこ、やめとこ。

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つらかりし日々も今や過去の思い出、それからの二人はまさに、人間の栄華を極め、天上の娯楽を尽くし、という毎日。

鎌倉幕府滅亡の後、まさに天下は太平、後醍醐天皇の政権は盤石(ばんじゃく)ゆるぎなく、「輝かしき1000年の扉、今開く」といった雰囲気。

しかしながら、「楽(たのしみ)尽きて、悲しみ(かなしみ)来(きた)る」のが人生の常。

数年の後、建武2年の冬頃より再び天下は乱れ、政権は公家から武士の手に渡った。そして、尊良親王は越前の金崎(かねがさき)城にて自害、その首は京都へ送られ、禅林寺の夢窓国師(むそうこくし)が葬礼を執行。

奥方は、悲しみに打ちのめされ、車に助け乗せられて禅林寺の周辺をさまよう。

見ると、一本の細い煙が風にたなびき、心細げに夕べの雲に向けて立ち上っている。

奥方 (内心)殿下は、あの煙になってしまわはったんや・・・。

奥方 (内心)人間と生まれたからには、誰かて、愛する人との別れは避けられへん。みんなそれで涙を流さんならんのや。それは分かってる、分かってるけど、それにしても、殿下のご最期は、あまりにも酷(むご)い・・・。

奥方 (内心)尊いお体に自ら剣を突き立てて、命終えていくしかなかったやなんて・・・酷すぎる・・・悲しすぎる・・・。殿下、殿下は最期の瞬間、いったいどないなお心で、おられたんですか・・・。

奥方 (内心)あたしも今、殿下といっしょに死んでしまいたい・・・殿下といっしょに煙になって、いっしょのお墓に入ってしまいたい。

あぁ、哀れなるかな、くるくる回る車のように、苦悩のとどめようのない奥方の心中。

二人の思い出の場所を訪ねてみても、宮殿の上に輝く月にため息をつくばかり、住まいに帰り一人床に入っていると、孤独感がさらにこみ上げてくる。見ること聞くこと万事、悲嘆の元となり、嘆きは日を追うごとに深まっていく。

世間の声δ そしてついに、奥方は病の床に伏すようにならはりましてなぁ。尊良親王殿下の四十九日を迎えるよりも先に、奥方もお亡くなりになってしまわはったんどすえ。

世間の声ε いやぁ、ほんにまぁ、悲しいお二人の物語どすなぁ。(涙)

世間の声ζ こないな哀れな話、世間にそうそう、あるもんやないえ。(涙)

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