太平記 現代語訳 10-2 新田義貞、挙兵す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘(げんこう)3年(1333)3月11日に、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)から倒幕命令書(注1)を頂いた新田義貞(にったよしさだ)は、仮病を使って千剣破城(ちはやじょう)攻囲陣を離れ、自らの本拠地(注2)へ戻った。その後、彼は信頼のおける一族の者らを密かに集めて、打倒・鎌倉幕府のプランを練り続けていた。

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(訳者注1)原文では「綸旨(りんじ)」。

(訳者注2)新田義貞の本拠地は、群馬県の新田の地(大田市)である。
新田家のルーツは、新田義重である。新田義重は、源義国の子であり、源義家の孫である。
足利家のルーツは、足利義康である。足利義康は、源義国の子であり、源義家の孫である。
よって、新田氏と足利氏は共に、清和源氏の流れに属する。
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義貞がこのような事を企てているとは夢にも知らない北条高時(ほうじょうたかとき)は、「北条泰家(やすいえ)(注3)を大将とし、彼に10万余騎を率いさせて京都へ進軍、近畿地方と中国地方の反乱を鎮圧」との決を下した。

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(訳者注3)泰家は高時の弟である。
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かくして、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、上野(こうずけ:群馬県)、安房(あわ:千葉県南部)、上総(かずさ:千葉県中部)、常陸(ひたち:茨城県)、下野(しもつけ:栃木県)の6か国に動員令が発せられた。そして、その兵糧確保のために、関東一円の荘園に、臨時の課税がかけられた。

「新田荘(にったしょう)の世良田(せらだ)は、経済力豊かな者が多いから」ということで、出雲介親連(いずものすけちかつら)と黒沼彦四郎(くろぬまひこしろう)が新田荘担当の徴税役に任命された。

「5日間のうちに6万貫、取りたててくるべし!」との厳命を受けて、彼らは現地に乗り込んできた。

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新田荘に足を踏み入れるやいなや、出雲介親連と黒沼彦四郎は、大ぜいの部下たちを荘家(しょうけ:注4)に押し入らせ、メチャクチャな取りたてを、次々と行っていった。

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(訳者注4)荘園の事務を司る者の家。
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これを聞いた義貞は、

新田義貞 んもぉぅ! おれっち(我が館)の周りを、あやしげなやつらが馬走らせて、好き放題やりがってよぉ・・・ったくもう、ムシャクシャしてくらぁ! あぁ、もぉ、ガマンなんねぇ!

義貞は、部下を大勢出動させて両人をたちまち捕縛、出雲介親連を縛りあげて留置、同日暮れ頃にはとうとう黒沼彦四郎の首を斬って、世良田の里の中にさらしてしまった!

これを聞いて、烈火のごとく怒る北条高時、

北条高時 ヤイヤイ、わが北条家を、いってぇ何だと思ってやがんでぃ!

幕府リーダー一同 ・・・。

北条高時 おれんちが政権の座についてから、もう既に9代目、日本国中みぃんな、北条家の命令に従ってきたぞぉ。なのによぉ、最近の日本はいったいどうなってんだぁ! 遠国の連中は何かってぇと、幕府に逆らいやがる、近くの連中らも、幕府の命令をいいかげんに聞いてやがる。ふざけんなよぉ!

北条高時 よりにもよってだなぁ、この幕府おひざもとのぉ、このぉ、このぉ、関東でだぞぉ、こっちが送った使いの者を殺すたぁ、いってぇ、ナニゴトだぁ! まったくもう、トンデモネェ悪人連中、重罪ヤロウドモだぁ! ここで甘い顔してたんじゃぁ、ますます、つけあがりやがるに決まってらぁ!

幕府リーダー一同 ・・・。

北条高時 おぉい、おまえら、すぐになぁ、武蔵と上野の連中ら集めてなぁ、新田義貞とその弟の脇屋義助(わきやよしすけ)、とっととヤッチめぇぃ!

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「幕府からの討伐軍、新田荘へ向かう」との情報をキャッチした義貞は、さっそく一族の主要メンバーを集めて、会議を開いた。

新田義貞 ・・・ってなわけだ・・・さぁて、これからいったい、どうするべい?

新田一族A うーん・・・。

新田一族B 沼田荘(ぬまたしょう:群馬県・沼田市)に城を築いてな、利根川(とねがわ)を前にして、幕府軍を迎えうつってのは、どうかねぇ?

新田一族C いやいや、越後(えちご:新潟県)へ避難する方が、いいんじゃぁねぇのぉ?

新田一族D そうだよ、そうだよ、越後には我が一族いっぱいいるもんなぁ。ここから山越えして、津張郡(つばりのこおり:新潟県・十日町市および新潟県・中魚沼郡・津南町)へ移動してさぁ、まず、上田山(うえだやま:新潟県南魚沼郡)にたてこもる。で、そこを本拠地にして軍勢集めて、幕府軍に備えるのがいいと思うよ。

このように、メンバーの意見はあい異なり、なかなか意思統一を見る事ができない。

じっと思案していた脇屋義助(わきやよしすけ)(注5)が、前に進み出て、

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(訳者注5)脇屋義助は、新田義貞の弟である。
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脇屋義助 あのなぁ。

新田一族メンバー一同 ・・・。

脇屋義助 「武士の道は、死を軽んじ、名を重んじるをもって義とする」って、いうじゃんかよぉ。

新田一族一同 ・・・。

脇屋義助 北条家が天下を取ってから、もうすでに160余年にもなるんだよなぁ。でも、未だに、あの家の武威は衰えちゃいねぇやなぁ・・・日本国中、誰もかも、その命令のまま、動いてんだもん。

脇屋義助 だからな、利根川を前にして防戦するってぇのは、ムリだと思うよぉ。こっちの運が尽きたら最後、とてもかないっこねぇやな。

脇屋義助 越後にいるわが同族を頼んでみるってぇのも、なんだかなぁ・・・。一族全員、心一つになってねぇとな、どんな謀事(はかりごと)立てたって、あっという間に、破綻(はたん)しちゃうんだわさぁ。

脇屋義助 テェ(大)した事もしでかせねぇまんま、あっちゃこっちゃ、ただただ、逃げ回ってたってなぁ・・・。「おいおい、あれ見ろや、新田の何とかやらが、高時殿の使者を切った罪によって他国に逃亡、そいでもって、とうとう討たれちまったぞぉ」てなフゥに、世間のうわさになるってぇのも、どうにもイヤなもんだわさぁ、そうじゃねぇかい、えぇ?

新田一族一同 ・・・。

脇屋義助 どう転んだって、討死にしなきゃぁなんねぇこの命、だったら、謀反人だの、なんだのかんだの、人になんと言われようが、先帝陛下の為にこの命棄ててこそ、武士の本望ってもんじゃぁねぇかい? それでこそ、おれたちの死後までも、武勇の誉れは子孫の面目、わが新田家の武名は、歴史に名を残しってもんじゃんかよぉ。

脇屋義助 考えてもみろい、こないだアニキが、陛下から倒幕命令書頂いたの、あれっていってぇ、何のためだったんだぁ?

脇屋義助 あの倒幕命令書をだなぁ、各々自分の額に押し当ててぇ、運を天に任せてだぁ、たった一騎なりとも関東のそこら中に打って出てぇ、いっちょう倒幕の義兵、募ってみようじゃん! 仲間になってくれる者が多けりゃぁ、もしかしたら鎌倉だって、落とせるかもしんねぇぞぉ!

脇屋義助 とにかく、もうこうなったら、ダメモトよぉ! サイの目がダメと出た時にゃぁ、鎌倉を枕に、討死にするだけのことだぁ!

新田一族一同 そうだなぁ!

義を重んじ、勇を宗とするその意見に、座に連なっていた一族30余人は全員、賛同した。

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「情報が漏洩(ろうえい)せぬうちに、いざ出陣!」と作戦会議は決し、元弘3年5月8日午前6時、生品明神(いくしなみょうじん:群馬県・太田市)の社前にて、新田一族は旗揚げした。

後醍醐先帝より頂いた倒幕命令書を開いてそれを三度拝した後、笠懸野(かさかけの:群馬県・みどり市と太田市)目指して出発。

義貞に従う新田一族リーダーたちは以下の通り、

 大館宗氏(おおたちむねうじ)と、その子息、大館幸氏(なりうじ)、大館氏明(うじあきら)、大館氏兼(うじかね)、
 堀口貞満(ほりぐちさだみつ)と、その弟・堀口行義(ゆきよし)、
 岩松経家(いわまつつねいえ)、
 里見義胤(さとみよしたね)、
 脇屋義助、
 江田行義(えだゆきよし)、
 桃井尚義(もものいなおよし)、
これら主要メンバー他、総勢150騎たらずの軍勢であった。

旗揚げはしたものの、

新田軍一同 (内心)こんな少い人数では、この先いったいどうなるんだか・・・。

その日の夕刻、利根川(とねがわ)の方向から、馬・甲冑さわやかな武士団2,000騎ほどが、馬の土煙を上げながら馳せ来たった。

新田軍一同 (内心)いよいよきたか、幕府軍め!(前方をキッと見つめる)

ところがそれは幕府軍ではなくて、越後国に居住の新田一族すなわち、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、田中(たなか)、大井田(おおいだ)、羽川(はねかわ)家の人々であった。

新田義貞 (大喜)やったぜぇ!

義貞は、馬を控えていわく、

新田義貞 いやぁ、よく来てくれたなぁ! 倒幕の計画、だいぶ前からプラン練ってたんだけどよぉ、そんなにすぐの事たぁ思ってなかったもんでなぁ、オメェらには打ち明けてなかったんだよなぁ。ところが今になって急に、決断迫られちゃってよぉ。

新田義貞 それにしても不思議だな、越後の方には何も言って送るヒマなかったのに、いってぇどうして、こっちの倒幕決起の事、分かったんだぁ?

大井田遠江守(おおいだとおとうみのかみ)は、鞍の上にかしこまっていわく、

大井田遠江守 いやいや、「先帝の御命令に従い、殿が倒幕を思い立たれた」って聞いたもんだからね、そいで、急いでやってきたんですよ。でなきゃあ、こんなに国元から、息せききってとんで来るもんですかね。

新田義貞 えぇ?

大井田遠江守 いやねぇ、5日ほど前だったかなぁ、越後一帯を、「わしは先帝陛下の使者じゃ」って触れて廻るヤツが現われましてねぇ・・・ありゃぁきっと、山伏姿に化けた天狗のたぐいでしょうな・・・そいつがたった1日の間に越後国中に、殿の倒幕旗上げの事、触れて回ったんですよ。それ聞いてオレたち、夜を日についで、馳せ参じてきたってわけ。

新田義貞 ふーん・・・。

大井田遠江守 あっちからね、これからまだまだイッパイやってきますよ。なんせ、越後の中でも遠方に住んでる連中だもんで、どうしても後に遅れちゃってねぇ。明日中には、全員到着すると思います。ここから他国へ打って出るってんなら、もうしばらく、連中の到着待ってからにしたら?

新田義貞 うん、そうだな、そうしよう。

越後からやってきた援軍のリーダーたちは、全員馬から下り、一人づつ義貞に目通りした後、人も馬も一息ついた。

越後からの最終到着グループに加え、甲斐国(かいこく:山梨県)と信濃国(しなのこく:長野県)の源氏の血筋に連なるグループもまた、家々の旗をさし連ねて、そこに駆けつけてきた。それらの合計、およそ5,000余騎ほど。

参集してきたこの大軍勢に、義貞・義助兄弟は大喜びである。

新田義貞 いやぁ・・・これぞまさしく、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)さまのご加護だよなぁ。よぉし、こうなったらソク、行動開始だぁ!

脇屋義助 イィクゼェィ!

新田軍一同 オーウ!

5月9日、新田軍は武蔵国へ進軍。その時、紀五左衛門(きのござえもん)が足利高氏(あしかがたかうじ)の子息・千壽王(せんじゅおう)を守りながら、200余騎を率いて参軍してきた。

その後、上野、下野、上総、常陸、武蔵の武士たちが、予期もしていなかったのにどんどん集まってきて、その日の暮れ頃には、実に20万7千余騎が兜を並べてひかえ、という状態になった。

四方800余里にも及ぶ武蔵野に、人と馬が充満、立つ隙間もないほどにびっしりと軍団は展開、天に飛ぶ鳥は、ゆったりと羽を伸ばせる場所もなく、地を走る獣も、我が身を隠す隙間さえない。草原より出ずる月は、馬の鞍の上にほのめき、鎧の袖に光を落とす。すすきの穂をなびかす風は、旗の影をひらめかし、母衣(ほろ:注6)の裾は一瞬たりとも静止する事も無し。

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(訳者注6)矢を防ぐために背負う布袋
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櫛の歯を引くがごとく、諸国からの早馬が次々と鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ到着しては、急を告げる。これを聞いて、時勢の変化を洞察できぬ者たちは、嘲り笑っていわく、

A あぁ、まったくもう、なんて騒々しいんだろうねぇ。

B これくらいの事で、いったいどうして、そんなに大騒ぎするんだぁ?

C 中国やインドから攻めてきたってわけじゃぁ、ねぇんでやんしょ? そんな事になったら、そりゃぁ大変だろけどさぁ。

D しょせん、日本国内での反乱ですもん、どうってこたぁないですよ。北条家にタテつこうだなんて、まぁ言ってみりゃぁ、カマキリがハサミかざして戦車に立ち向かうようなもんじゃぁないですかぁ、ハハハ・・・。

E あるいは、かの精衛鳥(せいえいちょう)が、山の木や石をくわえて運んでって、海を埋めようとしてるようなもの?

一同 ワハハハ・・・。

かたや、物事をよく見極る眼力を持った人々の間では、危機感がいや増しに高まっている。

H これは大変な事になったわよぉ!

I ほんとに・・・中国地方や首都圏方面の騒動が未だに静まらないっていうのにねぇ、またまた大敵が・・・。

J それも、関東の中から・・・幕府のお膝元じゃないのよぉ!

K その昔、中国の名臣・伍子胥(ごししょ)がね、呉王(ごおう)・夫差(ふさ)を諌めたって言うわよね、「晋(しん)国は、傷痕(きずあと)のようなもの、越(えつ)国は、腹中あるいは心臓中の病ともいうべきもの、越国こそは、わが呉国の最大の脅威」ってね。「今まさに身近に潜む危機」というのが、一番コワイのよ。

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「京都への討伐軍派遣は、ここではひとまずおいといて、まずは、新田退治を先行」と、鎌倉幕府は決定。

同月9日の作戦会議の決定を受けて、翌10日午前10時、金澤貞将(かなざわさだまさ)が、5万余騎を率いて利根川流域方面に出動。これは、上総および下総の軍勢を配下に組み入れ、倒幕軍の背後をつこうとのねらいである。

一方、櫻田貞国(さくらださだくに)を大将とし、長崎高重(ながさきたかしげ)、長崎孫四郎左衛門(まごしろうざえもん)、加治二郎左衛門(かじじろうざえもん)を副将にそえて、武蔵・上野両国の6万余騎を率いさせて、鎌倉街道経由で入間川(いるまがわ:埼玉県)方面へ進軍。こちらの軍団には、入間川辺に軍を展開した後、倒幕軍の渡河の瞬間を突かせよう、との作戦である。

承久の乱(じょうきゅうのらん)よりこの方、関東地方には平和の日々が続き、みんな弓矢の事も忘れたかのごとくであったのに、久しぶりに兵を動かす事とあいなった。武士たちはみな、「まさに今この時こそは、我が晴舞台!」とばかりに、仰々しく装って出陣していく・・・馬、鎧、太刀、刀・・・武具はみなキラキラと照り輝いている・・・一世一代の見物というべきか。

進軍途中、2夜の逗留(とうりゅう)の後、5月11日午前8時、幕府軍は、小手差原(こてさしばら:埼玉県・所沢市)に到着。

遥かかなたに展開する倒幕軍側の陣営を見渡すに、その軍勢は雲霞(うんか)のごとく、兵力はいったい幾千万あるものやら、さっぱり見当もつかない。櫻田・長崎両人はこれを見て、当初の予測が大きく外れてしまったゆえか、進軍をストップしてしまった。

新田義貞の指揮の下、倒幕軍サイドはたちまち、入間川の渡河を完了、トキの声を上げて前進、矢合わせの鏑矢(かぶらや)が、両軍の頭上を飛び交いはじめた。幕府軍サイドもトキの声を合わせ、軍旗を戦場へ進める。

最初のうちは、双方射手を前面に押し出し、激しい矢戦を展開。しかし、戦場は馬を掛けるには絶好の足場、両軍とも関東育ちの武士ぞろい、そのままじっとしているわけがない。太刀(たち)、長刀(なぎなた)の切っ先揃え、馬の口縄(くちなわ)を並べて次々と突撃開始。200騎、300騎、1,000騎、2,000騎・・・騎馬軍団どうしの激突が、戦場のそこかしこに展開されていく。

このようにして戦いを交えること30余回、戦死者、倒幕軍側300余人、幕府軍側500余人。日は既に暮れ、人馬共に、疲労の極限に。

「この戦の続きは、また明日に」と約して双方分かれ、義貞は3里退却して入間川辺に陣を取り、幕府軍も3里退却して久米川(くめがわ:東京都・東村山市)に布陣。両軍の間隔はおよそ30余町たらずである。

双方ともに陣営内にて、今日の合戦について話しあい、人馬ともに休息を取り、かがり火を焚きながら、夜明けの到来をひたすら待つ。

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夜明けとともに、倒幕軍は幕府軍の機先を制さんと、久米川へ向かった。幕府軍サイドはこれを予期、「防御を固めながら待機の後、敵軍襲来と共に、戦闘開始に移行するのが得策であろう」と、馬の腹帯を固め、兜の緒を締め、じりじりと倒幕軍の到着を待ち構えていたのであった。

両軍互いに間隔を縮め、幕府軍側は6万余騎を、倒幕軍側の一点めがけて集中攻撃し、相手を分断しようとする、これを見た倒幕軍側は密集体型を取り、相手側の軍陣中央突破を防ごうとする。これぞまさしく、黄石公(こうせきこう)の「虎を縛(ばく)する手」、張良(ちょうりょう)の「鬼をとりひしぐ術」、いずれも周知の兵法なれば、両軍互いに入り乱れ、破られず囲まれず、ひたすら百戦に命をかけ、一挙に死を争う。

「1000騎がたった1騎になるまでも、敵に後ろを見せない!」と、互いに決死の戦闘を展開したが、やはり時の運というのであろうか、倒幕軍側の損害些少(さしょう)、幕府軍側の戦死者多数という結果となり、加治二郎左衛門と長崎高重の両将は、2度の合戦に完敗を喫した気分の中、分陪河原(ぶばいがわら:注7)めざして退却を開始した。

これに引き続き追い討ちをかけようとした倒幕軍であったが、連日数度の戦闘に人馬ともに疲労激しく、久米川に一夜野営して馬の足を休めた後に、明日を期すこととした。

(訳者注7)東京都府中市、多摩川ぞい。

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「櫻田、加治、長崎ら、12日の戦に敗北して退却」との情報が、鎌倉へ届いた。

北条高時は、弟・泰家を大将に任命、塩田陸奥(しおだむつ)、安保左衛門(あぶさえもん)、城越後守(じょうえちごのかみ)、長崎時光(ながさきときみつ)、左藤左衛門(さとうさえもん)、安東高貞(あんどうたかさだ)、横溝五郎(よこみぞごろう)、南部孫二郎(なんぶまごじろう)、新開左衛門(しんかいさえもん)、三浦氏明(みうらうじあきら)らをそえて、総勢10万余騎の援軍を編成した。

援軍は、5月15日夜半(注8)、分陪河原に到着、それに力を得た幕府軍の士気は大いに回復した。

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(訳者注8)ここは太平記作者の誤りで、正しくは5月14日夜半。
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「幕府側大援軍の到来」という情勢の激変をキャッチできていなかった新田義貞は、15日の夜明け前、全軍に命令を発した。

新田義貞 総攻撃だぁーッ、イケーー!

倒幕軍一同 ウオオオオーーー!

倒幕軍は、分陪河原に押し寄せてトキの声を上げた。

幕府軍はまず、弓の名手3000人を前面に配置、雨の降るごとく矢を放たせる・・・倒幕軍の動きが止った。

幕府軍リーダーX チャンス到来!

幕府軍リーダY 反乱軍を包囲しぃー、殲滅(せんめつ)せよぉーー!

幕府軍一同 ウオオオオーーー!

幕府軍サイドの一斉攻撃が始まった。

義貞率いる勇猛果敢な倒幕軍側武士らは、幕府側の大軍を懸け破っては相手陣の裏へ回りこみ、とって返してはおめいて懸け入り、激しくきらめく雷光のごとく、蜘蛛手(くもで)、輪違い(わたがい)、7度、8度と、幕府軍に襲いかかっていく。しかし、新たに援軍の加わった幕府軍は以前にも増しての大兵力、前日の敗戦の恥をここでイッキにそそがんと、義を専らにして必死に立ち向かってくる。

かくして、義貞はついに敗北し、堀兼(ほりかね:埼玉県狭山市)目指して退却。倒幕軍側は戦死者多数、負傷者に至っては数え切れず、というサンタンたる状態になってしまった。

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幕府軍がその日のうちに追い討ちをかけていたら、義貞の命はここで終わっていたであろう。ところがところが・・・。

幕府軍リーダーX やったやったぁ! 大勝利だぁー!

幕府軍リーダーY 新田を、やっつけてやったぞぉ。

幕府軍リーダーZ もうこうなったら、新田軍、ナニするものぞって感じだよねぇ。

幕府軍リーダーY そのうちきっと、武蔵か上野の誰かが、新田の首もって、やってくるだろうよ。

幕府軍リーダーX じゃぁ、しばらくそれを待つとしようかぁ。

いやはや、なんとのんきな事を・・・かくして、幕府軍の掌中(しょうちゅう)から貴重な時がこぼれ落ちてしまったのであった。

やはり、北条家の命運は尽きる定めと、なっていたようである。

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