太平記 現代語訳 15-6 楠正成の謀略、功を奏し、足利軍、京都から逃走

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ引き上げた翌朝、楠正成(くすのきまさしげ)は、部下2、30人ほどを律宗(りっしゅう)僧に変装させて、京都の中に送り込んだ。

方々の戦場跡で遺体の捜索をする彼らを見て、不審に思った足利側の人々は、彼らに問うた、

足利側メンバーA おいおい、おめぇらいってぇ、なにしてんだよぉ。

偽装・律宗僧B (悲嘆のソラ涙を流しながら)はい・・・。昨日の戦で、新田義貞(にったよしさだ)殿、北畠顕家(きたばたけあきいえ)殿、楠正成殿の他、朝廷側の主要な方々が、7人も討死にしはりましたので、菩提を弔うために、その遺骸を捜索しとります。

足利側メンバーA エェーッ!

この報告を受けた足利尊氏(あしかがたかうじ)はじめ、高(こう)、上杉(うえすぎ)の人々は、

足利側リーダーC なんと、不思議な事だなぁ。敵の主要メンバーがみんないっぺんに、死んじゃうとは・・・。

足利側リーダーD だから、敵は勝ったのに、京都から撤退しちゃったんだよ。

足利側リーダーE きっと、どこかに、あいつらの首、転がってるだろう。早く探し出して獄門に懸けてから、都の大路を引き回して、見せしめにしてやろうや!

そこで足利側は、敵味方双方の死骸を検分してみたが、それらしい首は見つからない。

足利側メンバーE うーん、だめかぁ。でも、あきらめきれねぇなぁ。

足利側リーダーD うまいテ(方法)が、あるよ。

足利側リーダー一同 え、どんな、どんな?

足利サイドは、敵の大将の顔に似ている首を二つ、獄門の木に懸けて京都の市中に置き、その傍らに、以下のように書き付けた立札を立てた。

 「新田義貞と楠正成の首である!」

するとさっそく、その文言の横に、次のようなコメントが書き加えられた。(足利サイドにとっては、じつににくたらしい輩のしわざ、と言えようが))

 「是(これ)は、ニタ首なり。マサシゲニも書きける虚言(そらごと)哉(かな)」(原文のまま)(注1)

いやはや、まったくもって、秀句と言うべきか・・・。

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(訳者注1)「ニタ」で「似た」と「新田」をかけている。「マサシゲニ」で、「もっともらしく」と「正成(まさしげ)」をかけている。
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同日の夜半ごろ、正成は、部下たちに松明2、3千本ほどを燃やし連ねさせ、大原(おおはら:左京区)、鞍馬(くらま:左京区)方面へ送り込んだ。

これを見た足利サイドは、色めきたった。

足利側リーダーC さては、延暦寺にこもっている敵側の連中、主要メンバーが死んじゃったんで、逃げ出し始めたようですねぇ。

足利側リーダーD 今夜の中に、方々へ逃げ出しちまおうということでしょう。

足利尊氏 きっとそうだろうな。よし、連中を逃亡させないように、方々へ軍勢を差し向けろ。

ということで、鞍馬路へ3,000余騎、大原口へ5,000余騎、瀬田(せた:滋賀県・大津市)へ10,000余騎、宇治(うじ:京都府・宇治市)へ3,000余騎、嵯峨(さが:右京区)と仁和寺(にんなじ:右京区)方面へも、「一人も逃がさぬように、非常線を張れ」と、1,000ないし2,000騎を派遣。このように、方々へ軍勢を差し向け、各方面残らず配置した。

その結果、軍勢の大半が京都周辺部へ出払ってしまい、京都中心部に残された兵力が僅少になってしまった。その上、その残存メンバーたちも、すっかり油断しきってしまっていた。

一方、朝廷軍サイドは、宵頃より比叡山西山麓の道を下り、八瀬(やせ:左京区)、薮里(やぶさと:左京区)、鷺森(さぎのもり:左京区)、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ:左京区)に陣を取った。

29日午前6時、朝廷サイドの各軍は、合流して二条河原へ押し寄せ、あちらこちらに放火し、3か所で同時にトキの声を上げた。

大兵力を擁していた時でさえ、敗退・撤退を重ねていた足利サイド、まして今や、兵力の大半を、京都周辺部に送り出してしまっている。

敵が攻め寄せてくるとは、想像だにもしていなかった足利サイドは、パニック状態になってしまった。丹波路(たんばじ)方面を目指して退却するもあり、山崎(やまざき)方面へ逃亡するもあり、心にもない出家をして、禅宗や律宗の僧に姿を変じる者もいる。

朝廷軍はそれほど深追いをしなかったのに、後に続く友軍を自分たちを追撃してくる朝廷軍であると思い込み、久我畷(くがなわて:伏見区)、桂川(かつらがわ:西京区)のあたりで自害をする者が多数、遺棄された馬や鎧の数は膨大、足の踏み場も無いほどである。

その日、足利尊氏は、丹波の篠村(しのむら:京都府・亀岡市)を通過し、曽地(そち:兵庫県・篠山市)の内藤道勝(ないとうどうしょう)の館に到着した。

一方、足利軍・四国・中国勢は、山崎を過ぎて、芥川(あくたがわ:大阪府・高槻市)に到着した。

足利側メンバーF あぁ・・・親子兄弟血族主従、互いに行方も知れんままに、ただただ、逃げてくるしかしょうがなかったのぉ・・・。

足利側メンバーG あの子はどうなってしもたんやろ、まだ生きとるんやろか・・・。(涙)

足利側メンバーH あいつはもう、討死にしてしまいよったんかいのぉ・・・。(涙)

足利側メンバーI おいおい、みんな! 将軍様はご無事のようじゃ!

足利側メンバーF なになに!

足利側メンバーI 追分宿(おいわけじゅく:亀岡市)を、通過されたんじゃと!

足利側メンバーE それ、確かな情報なんかぁ?

足利側メンバーI 大丈夫じゃ、十分に信頼していい情報じゃけん。

足利側メンバー一同 よおし!

湊川(みなとがわ:神戸市・兵庫区)に集合した軍勢は、尊氏への急使を丹波方面へ送った。

急使 殿、急ぎ、摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)へお越し下さいませ。態勢を立て直した後、再度、京都へ攻め上ぼってくださいませ!

足利尊氏 よし!

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2月2日、尊氏は曽地を発って、摂津国への移動を開始した。

熊野山別当(くまのさんべっとう)・道有(どうゆう)法橋(ほうきょう:注2)は、当時まだ少年で、薬師丸(やくしまる)という名前の稚児(ちご)姿で尊氏につき従っていた。尊氏は、彼を呼び寄せて小声でいわく、

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(訳者注2)僧侶の位。法印(ほういん)の次。
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足利尊氏 今回の京都の戦ではな、我が方は、戦うたんびに、敗けてしまってる・・・これはなぁ、決して、戦い方がまずいからじゃぁないんだよ・・・。

薬師丸 ・・・。

足利尊氏 敗北の原因をよくよく考えてみるにだ・・・ようは、この私が、朝敵であるがゆえにって事なんだ・・・。

薬師丸 ・・・。

足利尊氏 ならば、局面打開の方策はただ一つ・・・天皇が所属されてる大覚寺統(だいかくじとう)のライバル、持明院統(じみょういんとう)に所属されてる先の天皇(注3)から、院宣(いんぜん:注4)を頂くんだ・・・なんとかして・・・朝敵討伐の院宣をな・・・そうすれば、この権力闘争の名目を一変させることができる・・・「君主対逆臣の戦」から「君主対君主の戦」にな。

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(訳者注3)光厳(こうごん)上皇。

(訳者注4)「勅命」が天皇からの命令であるのに対して、上皇からの命令を「院宣」と言う。
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薬師丸 はい!

尊氏 おまえ、たしか、日野資明(ひのすけあきら)殿に縁故があったろう? これからすぐに京都へ帰ってな、院宣の事を日野殿にお願いしてみてくれ。

薬師丸 わかりました!

薬師丸は道中、三草山(みくさやま:兵庫県・加東市)で尊氏に分かれ、京都へ急いだ。

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