太平記 現代語訳 25-5 楠正行、住吉において、再び足利幕府軍を撃破

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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さる9月17日の河内国(かわちこく:大阪府東部)藤井寺(ふじいでら:大阪府・藤井寺市)での戦いにおいて、細川顕氏(ほそかわあきうじ)率いる足利幕府軍は無惨な敗北を喫し、京都への退却を余儀無くされた。

それ以降、楠正行(くすのきまさつら)は勢いに乗り、首都圏辺境にしばしば侵入しては物資を奪い、というような状況になっていた。

11月23日の足利幕府の作戦会議の様子は、以下の通り。

幕府首脳A このまま、のさばらせておくわけにはいかんぞ・・・。楠一党に対しては、早急に手を打たねばな。

幕府首脳B えぇっとぉ・・・たしか、こないだの作戦会議では、「年内の出兵は見合わせよう」ってな結論じゃ、なかったでしたっけ?

幕府首脳C そう、そうでしたよ。「この年内は寒気が厳しいから、へたな出兵をしちゃダメ、兵がみんな凍傷にかかって指を落しちゃう。手もかじかんじゃって満足に戦えやしないからな」って事でしたよねぇ?

幕府首脳A うーん・・・かと言ってだなぁ・・・。

幕府首脳D これはやっぱし、年内にシマツをつけとくべきじゃぁないでしょうかねぇ? 出兵を後にずらせばずらすほど、楠側にはどんどん勢いがついてしまうじゃ、ありませんか。

幕府首脳E 「今年やれることは、今年のうちにやってしまえ、明年に先送りにしちゃあいかん」ってなことわざ、無かったでしたっけ?

幕府首脳A ・・・それはたしか・・・「今年やれることは」じゃぁなくて、「今日できることを」だよ・・・よし、出兵だ。

というわけで、山名時氏(やまなときうじ)と細川顕氏の二人を大将に任命し、幕府軍6,000余騎を率いさせて、「11月25日、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ出兵」ということになった。

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細川顕氏 (内心)こないだ9月の合戦の時には、楠正行にボロ負けしちまってよぉ、世間のモノワライのネタにされちまったぜ。まったくもって、一生の恥だよな。

顕氏は、四国地方出身の武士たちを集めていわく、

細川顕氏 いいか、おまえら、よく聞けよ! 今度の合戦で、またこないだみたいにボロ負けして、ブザマな姿さらして京都へ帰ってきたら、また、みんなに笑われちまわぁ。だからな、今度という今度こそは、めいめい心して身命を軽んじて、こないだの恥をそそぐんだぞ! いいか、わかったな!

細川軍メンバー一同 おう!

顕氏の言葉に、配下の者たちは大いに勇みたち、励まされた。彼ら坂東(ばんどう)、坂西(ばんせい)、藤原(ふじわら)、橘(たちばな)、大伴(おおとも)流の者たちは、500騎ずつのグループに分かれ、各グループ内で一揆(いっき)を結んだ(注1)。大旗、小旗、下濃(すそご)の旗3本を立てて3手に分かれ、「一度戦場に臨んだら最後、一歩も後には退かず討死にすべし」との覚悟の中に、神水を飲み、戦場に向けて発った(注2)。まことにすさまじいその覚悟、思い切ったその心、まずはすがすがしく見えたのである。

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(訳者注1)運命を共にすることを誓いあう。

(訳者注2)神前で水を酌み交わせして誓うこと。
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楠軍リーダーF またまた、足利のレンチュウらが、チョッカイ出しにきよったでぇ。

楠軍リーダーG もぉ、うっとぉしいのぉ!

楠軍リーダーH ほんーまに、コリひんやっちゃ。

楠正行 敵軍の配置は、どないや?

楠軍リーダーF 大手方面軍の大将は、山名時氏や。1,000余騎率いて、住吉大社(すみよしたいしゃ:大阪市住吉区)のへんに陣取っとるわいな。

楠軍リーダーG カラメ手方面軍の大将は、細川顕氏やで。こっちは、天王寺(てんのうじ:大阪市天王寺区)近辺に陣取っとるぞ。

楠正行 敵軍があこらへんにゆっくり腰を落ち着けよって、住吉大社と天王寺を要塞化してしまいよったら・・・そないなったら、おれらには不利な展開になってしまうわな。

楠軍リーダーH そら、いったいなんでぇな?

楠正行 そないなったらな、おれらは神社とお寺を攻めんならんわ。神に向かって、仏に向かって、弓を引き矢を放つことに、なってしまうやんけ。

楠軍リーダーH なるほど・・・そらまぁ、そやわなぁ。

楠軍リーダーI で、いったいどないするんや、タイショウ?

楠正行 決まっとるやんけ、急襲、急襲やぁ! 敵が腰落ちつけてしまわんうちに不意打ちして、まず住吉の敵をおっ払う。逃げる敵を攻めて攻めて攻めまくる。おれらの急追におそれをなして、天王寺にいよるレンチュウらは、戦意を失うて退却や。

楠軍リーダーF なるほど!

楠軍リーダー一同 よっしゃぁ!

同月26日早暁、楠正行は500余騎を率い、まずは住吉に布陣する敵を追いだそうと、石津(いしづ:大阪府・堺市)付近の民家に火をかけ、瓜生野(うりうの:住吉区)の北から攻め寄せた。

山名時氏はこれを見て、

山名時氏 敵はまさか、一方向だけから攻めてきてんじゃないだろうよ。ここは、兵力を分けて戦うべきだな。

時氏は、赤松貞範(あかまつさだのり)に摂津(せっつ:大阪府北東部+兵庫県南東部)、播磨(はりま:兵庫県西南部)両国の軍勢を与え、住吉海岸の南方に陣取らせた。さらに、土岐周済房(ときしゅさいぼう)、明智兵庫助(あけちひょうごのすけ)、佐々木四郎左衛門(ささきしろうざえもん)に3,000余騎を与えて、阿倍野(あべの:大阪市・阿倍野区)の東西に陣取らせた。

カラメ手方面軍の大将・細川顕氏は、自らの手勢に四国勢5,000余騎を合わせ、あえて本陣を離れず、いざというときに大手方面軍に加勢できるように、天王寺にそのまま留まった。

山名時氏 さぁ、いくぞ!

山名時氏、その弟・山名兼義(かねよし)、原四郎太郎(はらのしろうたろう)、原四郎次郎(はらのしろうじろう)、原四郎三郎(はらのしろうさぶろう)は、1,000余騎を率い、今まさに馬煙(注3)を上げながら進んでくる楠軍の先鋒を迎え撃たんと、瓜生野の東方に馬を走らせる。

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(訳者注3)馬の足がかき立てる土煙。
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足利軍側の馬煙を観察して、各軍の動きを把握した楠正行は、

楠正行 (内心)フフーン・・・敵は4箇所に分散しとるな・・・。兵力の少ないわが軍を分散して、それぞれの敵に当たらせたんでは、かえって不利になる。

正行は、それまで5手に分けていた自軍を一手に集め、瓜生野に進んだ。

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東西南北に広がった瓜生野の両端に、楠軍と山名軍が姿を現した。

両軍互いに射手を前面に進め、トキの声を一声あげるや、双方6,000余騎が一度にサッと掛け合い激突、思い思いにあい戦う。

1時間ほど経過の後、互いに勝ちどきをあげ、4、5町ほど両方へ引き分かれた。双方、見渡せば、過半数が戦死しており、死者が戦場に充満している。

大将・山名時氏は、刀傷や矢傷を7か所も負ってしまった。配下の者らがその前に立ちふさがって彼を守り、山名時氏は傷を吸い、血を拭いはじめた。

時氏の注意が戦場からそれて自らの傷に転じてしまったその時、楠軍の中から、年の頃20ほどの若武者が飛び出してきた。

和田賢秀(わだけんしゅう) おれはなぁ、和田賢秀(わだけんしゅう)や! そこのタイショウ、これから命もらいに行くから、待っとれやー!

賢秀は、洗い皮の鎧に長短2本の太刀を穿き、6尺余りの長刀を小脇に挟み、小うたを歌いながらしずしずと馬を歩ませていく。

続いてもう一人、進み出てきた。僧形(そうぎょう)で、その身長は7尺余りもあろうか。

阿間了願 おともさせてもらおうじゃん! おれの名は、阿間了願(あまのりょうがん)!

唐草威しの鎧に小太刀を穿き、柄の長さ1丈ほどの槍を馬の額の上に起き、いささかのためらいもなく、山名軍の方へ向かって懸け出した。

二人とも、その威勢といい体格といい、とても尋常の者とは思えない。しかし、その後に続く者が一人もいないので、山名軍側は「あれよあれよ」と言うばかりで、さほど驚いた様子もない。

二人はツッと、山名の大軍中に懸け入り、前後左右を突きまくる。その狙いは、小手(こて)の外れ、脛当(すねあて)の余り、兜の頂、兜の内側、ちょっとでも膚が露出している箇所をいささかも外さない。たちどころに36人を突き落し、大将の山名時氏に接近しようと、目をランランと輝かせている。

山名兼義 (内心)これはいかん、おっそろしく強いやつら! あいつらと一騎打ちの勝負したんじゃ、とても勝ち目はない。

山名兼義 おおぜいでもって、とり囲め!

兼義の命令に応じて、140、50騎ほどの武士たちが、横合いから二人に攻めかかった。

これを見た正行は、

楠正行 賢秀、死なしたらあかんぞ! 賢秀に続け!

双方またしても激突。太刀の鍔(つば)音は天に響き、汗馬(かんば)の足音は地を揺るがす。互いに味方を励まして、「引くな、進め!」と叫ぶ声に、退く者は一人もいない。

しかしながら、大将・山名時氏はすでに負傷し、それに入れ替わって戦おうとする友軍はどこにもいない。ついに進退窮まってしまい、馬から下りた武士たちは、山名時氏の馬の口を引き、後陣の友軍に合流しようと、天王寺をさして退きはじめた。

楠正行 行けぇ、行けぇ、ガンガン攻めぇー!

いよいよ勢いに乗った楠軍は、追撃、追撃、攻めまくる。山名軍側は続々と倒れていく・・・山名兼義、原四郎太郎、原四郎次郎の兄弟、犬飼六郎(いぬかいろくろう)主従3騎と、反撃を試みるも、あいついで戦死。

第2陣の土岐周斉房と佐々木六郎左衛門は、300余騎を率いて阿倍野の南に駆け出し、しばしの間、楠軍の進撃を食い止めた。しかし、目賀田(めかだ)、馬渕の一族の者ら38騎が一所にて討たれ、この軍もまた破れて、天王寺へ敗走を開始。

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第1陣と第2陣がこのような状態になってしまったので、大阪湾岸付近に布陣の幕府サイドの軍、さらには、天王寺に布陣の細川軍も、パニック状態に陥ってしまった。

細川軍メンバーJ 前陣の山名軍、崩壊してしまいよったぞぉ。

細川軍メンバーK おれたちの背後には、大きな川がある・・・(注4)。

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(訳者注4)淀川。
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細川軍メンバーL こりゃあかん・・・敵に後ろに回りこまれたら、橋、壊されてしまうぞな。

細川軍メンバーM そんな事になっちまったら、生きて帰れるもんは一人もいねぇや。

細川軍メンバーN 橋や、橋を守らんと!

全軍、渡辺橋(わたなべばし:位地不明)をさして、一斉に退却開始。

大軍が退却する時の常として、一度も反攻に転じることができない。

やがて、狭い橋の上に、大量の人馬がひしめきあいだした。

細川軍メンバーL (内心)あぁ、次から次へと、人が川に落ちていきよる。

細川軍メンバーM (内心)でもな、他人のことなんか、もうかまってらんねぇや。

細川軍メンバーN (内心)我が身、助かりたい一心じゃぁ。

ようやく渡部橋にたどりついた山名時氏は、橋の上の状況に愕然(がくぜん)。

山名時氏 (内心)なんてこったぁ・・・。もうだめだぁ・・・。おれは重傷を負ってしまってるし、馬も尻の方を2箇所も切られて、完全に弱ってしまってる・・・敵はなおも、執拗に襲いかかってくる・・・。もうだめだ・・・もうだめだ・・・とても逃げられやしない・・・。えぇい、ここの橋詰めで、腹を切ってしまえ!

思いつめた時氏の姿を見た河村山城守(かわむらやましろのかみ)がただ一人とって返し、迫りくる楠軍に立ち向かった。彼が楠軍の武士2人を切っておとし、3人に負傷を負わせ、そこをしばらく支えている間に、安田弾正(やすだだんじょう)が時氏の側に走り寄り、

安田弾正 殿、こんなトコで、いったいナニを!

山名時氏 もう腹切る!

安田弾正 なんちゅうことを! 全軍の大将が腹切って、どうする!

弾正は、自分の6尺3寸の太刀を腰から抜き、背中に負った。

安田弾正 さ、殿、ここへ! 早く!

弾正は、太刀の上に時氏を座らせた。

安田弾正 行くぞぉー!

弾正は、時氏をかついだまま、橋の上を全速力で駆け抜けた。

安田弾正の太刀 バシッ!

細川軍メンバーO うぁー!

安田弾正の太刀 ブシッ!

細川軍メンバーP あああ・・・。

左右に広がった弾正の太刀にせき落されて、橋から落ちて水に溺れる者は、その数知らずであった。

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播磨国住人・小松原刑部左衛門(こまつばらぎょうぶざえもん)は、主君の山名兼義が戦死した事を知らないまま、天神の松原(てんじんのまつばら:大阪市・西成区)まで敗走したのであったが、

小松原刑部左衛門 あっ! あの馬は・・・。

山名兼義の乗馬がそこにいた。馬は頭部に2箇所の傷を負っており、主のないままに放たれている。

小松原刑部左衛門 あぁ・・・殿は討たれてしまわれたんか・・・。殿、殿ぉ!(涙)

小松原刑部左衛門 こないなったら、おれ一人逃げおおせて、生きながらえたとて、それでいったいどないなるっちゅうんや! よし!

彼はただ一人で、天神の松原からとって返し、向かいくる楠軍に矢2本を射掛けた後、腹を切って死んでいった。

足利幕府軍のその他の者たちは、ひたすら、京都を目指して敗走していく。親が討たれようとも子は知らず、主が討死にすれども郎従はこれを助けず、鎧を脱ぎ捨て、弓を杖がわりに突きながら・・・。

ま夜中になってようやく、京都にたどりついた敗残の足利幕府軍、まことに見苦しい様であった。

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