太平記 現代語訳 38-4 九州において、菊池武光、大いに武威を振るう

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「足利幕府・九州庁長官・斯波氏経(しばうじつね)、大友(おおとも)の館に入る」との情報をキャッチした、菊池武光(きくちたけみつ)は、

菊池武光 敵サイドに、勢いばぁつかんうちに、打っ散らしてしもぉたれぇ。

武光は、弟・武義(たけよし)を大将に任命し、城隆顕(じょうのたかあき:注1)、宇都宮(うつのみや)、岩野(いわの)、鹿子木民部大輔(かのこぎみんぶたいふ)、下田帯刀(しもたたてはき)以下、精鋭5,000余騎を、彼の配下とした。

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(訳者注1)36-4 に登場。
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斯波氏経を攻略せんが為に、9月23日、菊池武義らは、豊後国(ぶんごこく:大分県)に向けて、肥後(ひご:熊本県)・菊池郷(熊本県・菊池市)を発った。

この情報をキャッチして、斯波氏経は、

斯波氏経 (内心)そもそも今回、おれがここへ派遣されてきたのは、九州全域を静謐(せいひつ)ならしめんがためだ。なのに、敵側の城へこっちが寄せていくよりも前に、逆に、敵に寄せられたとあっちゃ、そりゃぁまずいよな。京都まで、こんな事が聞こえてったら、「なんという武略の足らぬ事だ」ってな、不評を買ってしまう事に、なるだろう。

斯波氏経 この城にじっとたてこもって、敵が来るのを待ってるって法はない。途中まで出向いて、迎撃するのがベストだ。

氏経は、未だ幼い当年11歳の、自分の息子・松王丸(まつおうまる)を大将とし、その下に、小弐(しょうに)、その弟・小弐筑後二郎(ちくごのじろう)、小弐新左衛門尉(しんざえもんのじょう)、宗像大宮司(むなかたのだいぐうじ)、松浦党武士団(まつらとうぶしだん)ら、総勢7,000余騎をつけ、筑前国(ちくぜんこく:福岡県)の長者原(ちょうじゃばる:福岡県・糟屋郡・粕屋町)という所に、馳せ向かわせた。

彼らは、道を塞ぎ、菊池軍の到来を待った。

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9月27日、菊池武義は、5,000余騎を二手に分けて、長者原へ押し寄せ、小弐たちと戦いを交えた。

菊池側は苦戦し、岩野、鹿子木将監(かのこぎしょうげん)、下田帯刀以下、主要精鋭メンバー300余騎が討死、大将の菊池武義も3箇所を負傷。

菊池軍は、20余町ほど退いた。

「菊池軍、いよいよ敗北か」と思われた所に、城隆顕が、500余騎を率いて入れ替わり、戦線を維持。

小弐筑後二郎と小弐新左衛門尉が、二人共に一所にて討死。

その他、松浦党、宗像大宮司の一族・若党400余人が戦死。

かくして、斯波氏経・小弐・大友・連合軍は、対菊池戦の二回目にも敗退し(注2)、全軍、散りぢりばらばらになってしまった。

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(注2)1回目の戦は、36-4 に記述の戦を差している。
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緒戦に勝利を収め、菊池サイドは、いよいよ意気上がる。

菊池武光 九州庁長官・斯波氏経か・・・フフン、九州庁なんて、権威のカケラも無かとよ! そんなもん、おそれるに足らずよねぇ。

菊池武光は、新手の兵3,000余騎を率い、弟・武義の軍と合体、豊後国府(ぶんごこくふ:大分県・大分市)目指して、進軍を開始。

この時点で、斯波氏経、小弐、大友、松浦党、宗像大宮司サイドは、なおも、兵力7,000余騎をキープしていたが、菊池サイドに、完全に気を呑まれてしまった。

広い場所での騎馬戦では、とても勝ち目が無い、と思ったのであろう、斯波氏経と大友は、豊後の高崎城へ引きこもり、小弐は、岡城(おかじょう:場所不明)にたてこもり、宗像大宮司は、宗像城(むなかたじょう:福岡県・宗像市)にこもり、城周囲の険阻な地形に一縷(いちる)の望みをつないだ。

それからというもの、菊池武光は、豊後国府にどっかと腰を据え、三方の敵対勢力をものともせずに、三つの城の間を押し隔て、その後3年間も、相手方に対して、遠攻めを継続した。

大兵力を有する小弐と大友は、城にこもり、兵力面において劣勢の菊池が、これを囲む。いったい何ゆえ、常識では想像しがたい、かくのごとき形勢に、なってしまったのであろうか?

それはなにも、自らの本拠地の城の防備が堅固ならざるがゆえに、菊池がこのような、「敵地での包囲戦」という戦略を選んだからではない。

では、小弐・大友軍を構成しているメンバーたちが、臆病者ぞろいであったからか? いやいや、決して、そうでもない。

原因はただ一つ、士卒の剛臆(ごうおく)は、大将の心に依存するがゆえに。

かくして、足利幕府・中央の期待も空しく、九州は、吉野朝サイドの黄金地帯となってしまった。

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