太平記 現代語訳 8-1 赤松軍、六波羅庁軍を撃破

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘3年(1333)の、船上山(せんじょうざん)における名和(なわ)軍の大勝利の後、風雲、急を告げだした。出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)方面からの早馬がひっきりなしに京都へやってきて、六波羅庁(ろくはらちょう)へ急を告げる。

使者 先帝が船上山にたてこもり、それを攻めた隠岐島(おきとう)長官・佐々木清高(ささききよたか)殿が、合戦に敗北した後は、こっちら方面の武士どもはみいんな、先帝の下に続々、馳せ参じとりますわな!

これはエライ事になったと、六波羅庁の人々は、報告を聞くたびに青くなっている。

六波羅庁リーダーA 船上山も気にはなってるんだけどさぁ、とにもかくにも、京都からあんなに近い所に、敵サイドが拠点を持ってしまってるってのが、どうもねぇ・・・。

六波羅庁リーダーB 摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)の摩耶山(まやさん:神戸市)、あれ、なんとか始末してしまわなきゃぁ、まずいよなぁ。

六波羅庁リーダーC 遠方の出雲や伯耆のことは、おいといて、まずは、あそこにこもってる赤松(あかまつ)勢を、退治しちまいましょうよ。

六波羅庁リーダーA よし、佐々木時信(ささきときのぶ)殿と小田時知(おだときとも)殿に、京都市中48か所警護所の連中を添えて、摩耶山攻めを決行だ。

六波羅庁リーダーB 在京の武士どもも応援に加わらせようよ・・・それに、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)の衆徒らも。

かくして、園城寺の衆徒300余人も加わっての六波羅庁軍5,000余騎が、摩耶山へ向かう事となった。

閏(うるう)2月5日に京都を出立、同月11日午前6時、南山麓の求塚(もとめづか:神戸市・灘区)、八幡林(やわたばやし:神戸市・灘区)のあたりから、摩耶山に攻め上り始めた。

これを迎え撃つ赤松軍の総帥(そうすい)・赤松円心(あかまつえんしん)は、幕府軍を難所におびき寄せるために、足軽の射手100ないし200人ほどを山麓へ下ろし、遠矢を少しばかり射させた後、山上に後退させた。

六波羅庁軍は、逃げいく相手を追いかけながら、急峻な摩耶山の南側斜面を、人馬に息をも継がせずに激しく攻め上っていく。

しかし、この登り道の途中には「七曲がり」という険しく細い難所があり、六波羅庁軍の進撃の足はそこで止まってしまった。そこをすかさず、赤松則祐(あかまつのりすけ)と飽間光泰(あくまみつやす)は、南方の尾根先まで下り、

赤松則祐 それぇっ、一斉射撃じゃー! バンバンやれぇ!

赤松則祐部隊は、六波羅庁軍の頭上に、雨あられと矢を浴びせかける。

この猛攻にたじたじとなった六波羅庁軍メンバーたちは、隣の者を盾がわりにせんものと、互いに相手の陰に隠れようとする。

大混乱に陥った六波羅庁軍の形勢を見てとった赤松円心(あかまつえんしん)の子息・赤松範資(あかまつのりすけ)は、

赤松範資 よぉし、攻めるんなら今や! 突撃ィー! あいつらを山から、追い落としてしもたれぇー!

赤松軍一同 ウオーー!

円心の二人の子息、赤松範資、赤松貞範(あかまつさだのり)に加え、作用(さよ)、上月(こうづき)、小寺(こでら)、頓宮(はやみ)の一党500余人が、太刀の切っ先を並べ、大山の崩れるがごとく、山腹から下方に向かって突撃を開始。

おそれをなした六波羅庁軍は、後陣の方から退却し始めた。

佐々木時信 こら! 退くな! 戦え! 踏みとどまれ!

将の言葉も全く耳に入らず、みんな我先に逃げはじめる。こちらでは深田に馬の膝まで没してしまい、あちらでは棘(いばら)が茂る細道に迷いこんでしまい、退却しようにも退却できず、敵を防ごうにも防げず、といった状態。

かくして、摩耶山麓から武庫川(むこがわ:兵庫県・西宮市と尼崎市の境界を流れる)西岸まで3里ほどの間には、六波羅庁軍側の死した人馬があい重なり、道を行くにもそれを避けてはとても通れないような惨状となってしまった。

「5,000余騎で出ていった六波羅庁軍、わずか1,000足らずになって退却!」との報に、京都中の人々は狼狽し、六波羅庁の面々も動揺している。

六波羅庁リーダーA まぁ、でもいいさ。赤松軍が反旗を翻して以降、それに馳せ参じた近畿地方の勢力、それほど多くはないんだもんな。

六波羅庁リーダーB 1回や2回、敵に勝利させたとて、それでどうなるってもんでもなし。

六波羅庁リーダーC 赤松軍の兵力なんて、知れたもんじゃぁないですかぁ。

六波羅庁リーダーD たとえ、やつらが京都まで押し寄せてきよったとしても、まぁ、どうっちゅうことも、ないでしょぉ。

六波羅庁リーダーE 京都まで来れるもんなら、来てみろってんだ!

六波羅庁リーダー一同 ワハハハ・・・。

このように、いったんは退却を余儀なくされながらも、六波羅庁側の士気は衰えを見せない。

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しかし、またまた、六波羅庁にとっては悪い情報が飛び込んできた。

使者 備前国(びぜんんこく:岡山県東部)の地頭と御家人の大半が、敵側に回ってしまいよりましたけん!

六波羅庁リーダーA ナァニィ!

六波羅庁リーダーB 備前までもぉ?!

六波羅庁リーダーA いかんなぁ。

六波羅庁リーダーC 備前といやぁ、赤松の根拠地、播磨国のすぐ西ですぜぃ。摩耶山の赤松軍に、加勢に回る連中が現れるかもねぇ。

六波羅庁リーダーD あっちの兵力が増大せんうちに、再度、攻撃をしかけた方がえぇんでは?

ということで、同月28日、再び、1万余騎の六波羅庁軍が摩耶山へ押し寄せた。

「六波羅庁軍、再度来襲!」との情報に、

赤松円心 勝ち戦をするにはな、まずは相手の虚をついて謀略をパシっと決めて、敵の気力をそぐ。その後、自軍の布陣を機敏に変化させ、常に先手、先手と攻めまくる、これが一番なんやて。

円心は、3,000余騎を率いて摩耶山を下り、久々智(くくち:兵庫県・尼崎市)、酒部(さかべ:尼崎市)に陣どって、六波羅庁軍を待ち構えた。

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3月10日、「六波羅庁軍、瀬川(せがわ:大阪府・箕面市)に到着」との情報に、

赤松円心 ふふぅん・・・このチョウシやったら、合戦は明日になるわなぁ。あいにくのにわか雨やしな、ちょっとばかし雨宿り、濡れた鎧でも乾かすとしょうかいのぉ。

円心の心中に、少しばかりの油断が生じてしまった。

その付近にわずかにある家々に入って、雨の止むのを待っている所へ、突如、大軍が襲いかかってきた。尼崎(あまがさき)湊から上陸してきた阿波国(あわこく:徳島県)の小笠原(おがさわら)率いる3000余騎の軍団である。

この時、円心の周囲にはわずか50余騎のみ。彼らは、小笠原の大軍団のまっただ中に突入し、面も振り向かずに戦い続けた。しかし、圧倒的な相手の兵力の前には如何(いかん)ともしがたく、47騎までもが討たれてしまい、残るは、赤松父子6人のみとなってしまった。

彼らは、兜につけた赤松家の笠標(かさじるし)をかなぐり棄てて小笠原軍中に紛れ込み、あちらこちらと敵の目をかわしながら駆け回る。

小笠原軍の人々が赤松家メンバーをしかと捕捉できないでいるうちに、まさに天の助け、小屋野(こやの:兵庫県・伊丹市)宿の西方に布陣していた赤松軍3,000余騎の中に、6人全員無事に逃げ込むことができた。かくして赤松一族は、からくも虎口を逃れえたのであった。

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先日の戦で相手の力を思い知り、「赤松軍、小勢といえどもあなどりがたし」ということで、六波羅庁軍は瀬川宿に停滞して、全く進軍してこない。赤松軍側も、再び敗軍の士卒に召集をかけ、次々とやってくる後続の者らの到着を待ちながら、布陣を続ける。双方、互いに陣を隔てて戦をしかけようとせず、決戦の火蓋はなかなか切られない。

赤松軍リ-ダーG 殿、わしらいったいいつまで、ここにじぃっとしとぉんやぁ?

赤松軍リ-ダーH このままここで、ナァ(何)もせんとおったんでは、みんなの士気、ゆるんでしまうでぇ。

赤松軍リ-ダーI そうやでぇ。ダラケきってしもぉとぉとこ、敵に突かれたら、ひとたまりもないやん。

赤松円心 うん・・・それもそうやなぁ。よぉし、ここらでいっちょ攻めに出て、相手の出方を見てみよか。

3月11日、赤松軍3000余騎は、進軍開始。瀬川宿付近にまで迫り、六波羅庁軍の様子をうかがってみた。宿場の東西には六波羅庁軍を構成する各家の旗2、300本ほどが立ち並び、梢を渡る風に翻っている。

赤松貞範 あのかんじやったら、敵側は2、3万騎はおるやろか。兵力数で見たら、あっちの100に対してこっちは1か2くらいの勘定ということになる。そやけどなぁ、戦わずして勝利は得られへん。よぉし、討死に覚悟で出撃やぁ!

赤松貞範、佐用範家(さよのりいえ)、宇野国頼(うのくにより)、中山光能(なかやまみつよし)、飽間光泰(あくまみつやす)、赤松家郎等(ろうどう)らは、たった7騎で、竹薮の陰から南方の山へ打って出た。

これを見て、六波羅庁軍側の盾の列の端が、少し揺らいだ。

佐用範家 おっ、きよるぞ!

宇野国頼 いや・・・攻撃をしかけてくるような風にも見えん・・・逆に、なにか、ビビットルみたいやで。

赤松貞範 よし、こっから矢を放て!

7人は馬から飛び降り、一叢(ひとむら)茂った竹林を盾がわりにして、差しつめ引きつめ散々に矢を射続けた。

瀬川宿の南北30余町の間に、沓(くつ)の子を打ったごとく、びっしりと密集展開している六波羅庁軍、矢が外れるはずがない。たちまち、最前列の25騎ほどがまっさかさまに落馬して即死。これを見て、最前列に位地する者たちは、他人を盾がわりにして飛び来る矢から馬を守ろうと大慌て。六波羅庁軍側は大混乱に陥ってしまった。

これを見た赤松軍側の平野(ひらの)、佐用(さよ)、上月(こうづき)、田中(たなか)、小寺(こでら)、八木(やぎ)、衣笠(きぬがさ)各家の若党たちは、

赤松サイドの若党たち 敵は浮き足だっとぉ! ここが攻め所や! 行くぞー!

エビラを叩き、勝ちドキをあげながら、700余騎は馬の轡(くつわ)を並べ、六波羅庁軍めがけて突撃を敢行。

赤松サイドの若党たち ウオオオーーー!

六波羅庁軍前衛一同 アワワワ・・・。

大軍団の退却時の例に違わず、六波羅庁軍側は前衛軍が退却を開始し、後づめ軍はその逆に前へ進もうとして、退却口がスムースに開けない。

六波羅庁軍リーダーK こらぁ、なにをグチャグチャしとる!

六波羅庁軍リーダーM おまえら、もっとマトモに退けぇ!

もはや、リーダーの命令も士卒の耳には少しも入っていかない。子は親を捨て、家来は主を忘れて我先にと逃走。六波羅庁軍はその大半を失って、京都へ帰ってきた。

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円心は、六波羅庁軍側の負傷者と捕虜の首300余を、宿川原(しゅくがわら:大阪府・茨木市)にさらした。

赤松円心 さぁ、摩耶山へ引き返すとしよか。

すると、則祐が膝を進めていわく、

赤松則祐 勝利を得るには、勝ちに乗じて、逃げる敵を追いかけるのがベスト。

赤松円心 うん・・・。

赤松則祐 今回の戦にやってきよった六波羅庁軍側のメンバーの名字を見てみたらな、京都中の武士のほとんどが参加しとぉ。連中、遠路はるばるやってきた末にこの敗北、きっと、落ち込んでしもとぉやろぉて。ここ4、5日ほどは、人も馬も、ものの用に立たへんのんちゃいます?

赤松円心 ・・・。

赤松則祐 あいつらに臆病神がとりついとぉ今のうちに、たて続けに攻めていくのが、えぇんでは? この調子で行ったら六波羅庁かて、ただの一戦で攻め落とせる!

赤松円心 うーん!

赤松則祐 大公望(たいこうぼう:注1)の兵法書、漢の張良(ちょうりょう:注2)の秘密の戦略集、そういったもんに照らし合わせてみても、「立ち直りの余裕を敵に与えず、追撃、また追撃」というこの作戦が、ベスト!

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(訳者注1)中国の周王朝の宰相。

(訳者注2)中国の漢王朝建国の功臣。すぐれた戦略を用いて高祖を助けた。
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赤松軍リーダー一同 その作戦に賛成!

赤松円心 よぉし!

かくして、赤松軍はその夜すぐに、宿川原を出立。

道中、家々に火を放ってその光を松明がわりにして、敗走する六波羅庁軍を追撃しながら、京都へ向かって進んでいく。(注3)

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(訳者注3)以上のように、太平記においては、赤松軍の進軍ルートを、[小屋野(昆陽野)(伊丹市)]、[瀬川(箕面市)]、[宿川原(茨木市)]を経由して京都へ、としている。これはいわゆる、[西国街道]、現在の国道171号線ぞいのルートである。
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