太平記 現代語訳 16-6 児島高徳、新田義貞に呼応して挙兵す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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備前(びぜん)国の住人・児島高徳(こじまたかのり)は、昨年の冬、四国から攻め上ってきた細川定禅(ほそかわじょうぜん)と、備前、備中で数回戦ったが、毎回敗退した。

その後、高徳は、山林の中に潜伏しながら、なんとかしてその雪辱をと、新田義貞(にったよしさだ)の中国地方への進軍を待っていた。

「新田軍が船坂山(ふなさかやま:兵庫県・赤穂郡・上郡町-岡山県・備前市)を越えられないでいる」、との情報を得た高徳は、義貞のもとへ密使を送ってきた。

(児島高徳よりの)使者 わが主、児島高徳より、新田義貞殿に、以下のように伝えよ、との、ことですわ、

 「船坂山越えのルートを通って、進軍されると聞いたんじゃが、それは、ホンマですけぇの? あそこは要害じゃけん、それほどたやすぅには、攻め破れんよ。」

 「わし、一計を考えついたんじゃ、こないな作戦、どうじゃろう?」

 「来る18日、わしが、備前の熊山(くまやま:岡山県・赤磐市)で兵を上げる。すると、船坂山をかためとる敵軍の連中らはきっと、熊山の方へ押し寄せて来よるじゃろうから、船坂の方の守備が手薄になる。そこをすかさず、新田殿が突くんじゃ。」

 「新田殿の軍勢を二手に分けて、一方を、船坂山へさし向けてな、ここを攻めるぞっちゅう、勢いを示す。そいでもって、もう一方を、三石山(みついしやま:岡山県・備前市)の南方、そこに、木樵(きこり)が通る道があるんでな、そこを密かに進ませて、三石宿(岡山県・備前市)の西へ出す。そうなりゃ、船坂山におる足利側勢力は、前後を挟まれたような形になってしまうけん、逃げ場が無くなってしまうわ。」

 「そういうグアイに、この高徳が備前国中を巻き込んで挙兵して、船坂山の敵陣を破ってしもぉたらの、中国地方の連中は残らず、朝廷側に帰参してきよるじゃろう。」
 
 「この作戦で、やってみんかの?」

新田義貞 いやぁ、これは嬉しい事、言ってくれるじゃぁねぇのぉ。

新田義貞 播磨から西の方、長門に至るまで、みぃんな、足利サイドについてしまっててさぁ、頼りになるような事言ってくれるの、誰もいなかったんだよなぁ。児島殿のこの提案、じつに嬉しいよ。

使者 はい!

新田義貞 児島殿のこの作戦プラン、たしかに了解した。帰ったら、よろしく言っといてくれ。

使者 分かりました!

このように、攻勢に打って出る日取りを決めて、密使を高徳のもとに返した。密使は備前に帰り、義貞よりの伝達事項を、高徳に伝えた。

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4月17日夜半、児島高徳は、自分の館に火を放ち、わずか25騎だけで出陣した。

急な事ゆえ、国境の外にいる一族たちを召集することも出来ず、近隣の親族たちだけに事の次第を告げたところ、今木(いまき)、大富(おおどみ)、和田(わだ)、射越(いのこし)、原(はら)、松崎(まつざき)の者たちが、取るものも取りあえず馳せ参じてきて、間もなく、児島軍の兵力は200余騎にまでなった。

「夜中のうちに熊山へ登り、四方にカガリ火を焚いて、大軍がたてこもっているかのようにカモフラージュしよう」との作戦をたてていたのだが、「馬は! 鎧は!」と準備している間に、短い夏の夜は程なく明けてしまった。「約束の時刻を違えてはなるまい」という事で、児島軍はそのまま熊山へ登った。

高徳の予想通り、三石と船坂に居る足利側勢力は、児島軍決起の報を聞き、「備前国中に敵が増殖していったら、ゆゆしき事になる、他の事はさしおいても、まずは熊山を落とせ」という事になった。さっそく、船坂と三石を守る兵の中から3,000余騎が、熊山へ向かった。

熊山は、高さは比叡山(ひえいざん)と同じくらいで、山の周囲に7本の道がある。いずれの登山ルートも、山麓近辺では少し険しく、頂上付近でなだらかになる。高徳は、わずかの兵力を7方へ分けて、四方から迫り来る足利側勢力を防いだ。

追い落とせば攻め上がり、攻め上がれば追い落とし、終日戦い続けて時間をかせいだ。

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その夜、足利側の石戸彦三郎(いしどひこさぶろう)という、付近の地理に詳しい者が、思いもよらないルートから児島側の守備をかいくぐって熊山に侵入し、山頂の本堂後方の峰で、トキの声を上げた。

児島側は四方の山麓に兵力を分散してしまっていたので、本堂の庭に残るはわずか14、5名だけであった。彼らは、石戸軍200騎の中におめいてかけ入り、火花を散らして戦った。

深山の木々に月光も遮られ、相手が打ちかけてくる太刀スジをも、さだかに見分ける事ができない。

児島高徳 ウッ!

いきなり高徳は、兜の内側を突かれ、馬から逆さまに転落。しめたとばかりに、石戸軍の2人がいっしょになって、首を取らんと迫ってくる。

高徳の甥の松崎範家(まつざきのりいえ)と和田四郎(わだしろう)が、彼らに馳せ合って追い払い、高徳を馬に乗せて、本堂の縁まで運んだ。

高徳は、兜の内側を突かれて重傷を負ってしまった上に、落馬した時に胸を強く踏まれ、目がくらんで意識を失ってしまっていた。本堂に運ばれてからも、彼はただ横たわったままである。

高徳の父・児島範長(こじまのりなが)は、高徳の側に寄りそい、大声で叱咤激励した。

児島範長 おい、高徳、よく聞けよ! 昔、源平合戦時代になぁ、平景政(たいらのかげまさ)は戦っとって、左の目を射抜かれてしもぉたが、それから3日3晩、目から矢も抜かんと、敵に矢を射続けたというでぇ。それに比べて、お前はなんじゃぁ! たったこれしきの傷一つ負っただけで、弱って死んでいくとは、なんとまぁ情けなや。

児島範長 こないな意気地無しのくせして、よぉもまぁ、これほどの一大事、思いついたもんじゃのぉ!

するとなんと、高徳は、たちまち息を吹き返して、ガバと起きあがり、

児島高徳 おい、わしを早ぉ馬に乗せんか! もう一戦して、敵を追い払うんじゃけん。

範長は、大喜び。

児島範長 よぉしよし、これでこいつも死なんじゃろ。さぁみんな、そこらにタムロしとる敵を、追い散らしにかかるとしようや! わしについて来い!

範長はじめ、今木範秀(いまぎのりひで)、その弟・今木範仲(いまぎのりなか)、中西範顕(なかにしのりあき)、和田範氏(わだのりうじ)、松崎範家(まつざきのりいえ)ら主従17人は、石戸軍200騎の中へまっしぐらに突っ込んでいった。

石戸軍は、相手がそれほどの小勢とは気づかなかったのであろう、一戦も交えることなくして、熊山の南側の長い坂を、福岡(ふくおか:岡山県・瀬戸内市)まで退いていった。

かくして、熊山においては、攻める側、守る側、戦を交えず、にらみあいの状態となった。

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例の約束の日となった。

新田軍は、脇屋義助(わきやよしすけ)を大将に、梨原(なしがはら:兵庫県・赤穂郡・上郡町)まで進軍し、そこで2万騎の軍勢を3手に分けた。

第1軍は、江田行義(えだゆきよし)が率いる2,000余騎。杉坂(すぎさか:兵庫県・佐用郡・佐用町-岡山県・美作市)へ進み、菅家(かんけ)、南三郷(みなみさんごう)の者らが守っている所を攻め破り、美作国(みまさかこく:岡山県北東部)へ進まんとする。

第2軍は、大江田氏経(おおえだうじつね)を大将とする菊池と宇都宮の軍勢5,000余騎。船坂山へ向かい、敵勢力をそこで遮り留め、カラメ手方面軍が密かに背後へ回り込むのを助けんとする。

第3軍は、伊東大和守(いとうやまとのかみ)がナビゲイター役(注1)をつとめ、頓宮六郎(とんぐうろくろう)、畑時能(はたときよし)、当国・国司代官・範猷(のりみち)、由良新左衛門(ゆらしんざえもん)、小寺六郎(こでらろくろう)、三津澤山城権守(みつざわやましろごんのかみ)以下、300余騎の、わざと少ない人数で編成されている。

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(訳者注1)原文では「案内者」。
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第3軍メンバーは、轡(くつわ)に紙を巻いて馬の舌根を結わえた後、杉坂方面へ向かった。

杉坂越(すぎさかごえ)の北、三石の南の方に、鹿の通る道が一本あり、彼らはその道へ入っていった。足利側はこの道があることを知らないのであろう、堀も切られず、逆茂木(さかもぎ)も設置されていない。

木が生い茂り、枝が密集している所では、馬から降りて徒歩で行き、極めて険しくて足も止まらぬような急斜面は、馬に乗って駆け下ろす。このようにして、6時間ほどかけて、険しい道をようやく通過し、彼らは三石宿の西へ出た。

はるかかなたに突如出現したこの新田サイド第3軍団を見た足利サイドは、城にこもる勢力も船坂山を守備する者たちも、それがまさか敵軍だとは思いもよらなかった。あまりにも思いがけない方角に出現したからである。「あれはきっと、熊山を攻めていた者らが、帰ってきたのだろう」と考え、驚きもしなかった。

新田サイド第3軍団300余は宿の東方の夷神社(えびすじんじゃ)の前へ押し寄せ、中黒紋の旗を掲げ、東西の民家に放火してトキの声を上げた。

城中の兵力はその殆どを船坂山の守備に割いてしまっている。三石に配置の兵力もみな熊山へ向かってしまっている。足利側には応戦できるだけの兵力はもはや残っておらず、新田側の進出を防ぐ事は不可能であった。

一方、船坂山に配備された軍勢は前後を新田軍に挟まれ、もはや、なすすべも無く、馬や鎧を捨て、城に連なる山の上へ何とかして逃げ登ろうと、大慌てである。

これを見た新田軍は、大手、カラメ手一斉に、「残らずやっつけてしまえ!」と、攻撃にかかった。逃げ場を失った足利サイドメンバーは、ここにかしこに行き詰まってしまい、自害する者100余人、生け捕られる者50余人、という状態になった。

備前(びぜん)国の一の宮・吉備津神社(きびつじんじゃ)の在庁官人(ざいちょうかんじん:注2)、美濃権介助重(みののごんのすけ・すけしげ)は、逃げ場を失って、今まさに腹を切ろうとしていたが、

美濃権介助重 うん、そうじゃ!

助重は、脱いだ鎧をもう一度身に着け、捨てた馬にうち乗って、向かってくる相手軍メンバーの中を推し分けて、播磨国(はりまこく)の方を目指して進んだ。

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(訳者注2)国司庁に在勤して事務を行う在地の役人。
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助重の行く手を、船坂方面より進んできた新田軍の武士らが遮った。

新田軍メンバーA おい、そこのぉ、いってぇ何者だぁ!

美濃権介助重 わしは、新田軍・カラメテ方面軍のナビゲイター役をおおせつかった者じゃ。戦況を詳しく、新田殿へ報告しようと思ぉてのぉ。

新田軍メンバーB おぉ、そっちの方も大勝利だそうじゃないか。

新田軍メンバーC まことに、めでたい事だなぁ。

新田軍メンバーA さ、早く、新田殿のとこへ行け!

新田軍メンバーらは、道を開いて、助重を通してやった。

やがて助重は、新田義貞の参謀・長浜の前に行き、彼の前にひざまずいて、

美濃権介助重 備前国の住人、美濃権介助重、三石城より降参して参りました。

これを聞いた新田義貞は、

新田義貞 それは殊勝な。

ということで、すぐに、着到(ちゃくとう:注3)に、助重の名が書き加えられた。

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(訳者注3)将軍の出征に従軍するメンバーの名字を記録する事を「着到」と言う。
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このようにして、助重は多くの人を出し抜いて、命拾いした。これも、とっさの智謀と言うべきであろう。

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船坂山の足利サイド守備陣が破れた後、江田行義(えだゆきよし)は、3,000余騎を率いて美作(みまさか)国へ進み、奈義能山(なぎのせ)、菩提寺(ぼだいじ)の2か所の城を包囲した。守備していた者たちはなすすべも無く、馬や鎧を捨てて、城に連なる上方の山へ逃げ登って行った。

一方、脇屋義助(わきやよしすけ)は、5,000余騎を率いて三石城を攻め、大江田氏経(おおえだうじつね)は2000余騎を率いて備中(びっちゅう)国へ進軍し、福山(ふくやま:岡山県・総社市)の城に陣を取った。

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