太平記 現代語訳 18-6 金崎城、落城

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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金崎城にこもっている新田軍メンバーたちは、杣山城からの援軍をひたすら待ち続けていたのであったが、

新田軍リーダーA なに! わが方、敗戦、多くの者が討死だとぉ!

新田軍リーダーB うーん・・・(内心)ついに、最後の頼みの綱も切れてしまったか。

新田軍リーダーC (内心)心細くなってきたなぁ。

食料は日々に乏しくなっていき、入り江に出て魚を釣って飢えをしのぎ、磯に生える海草を採取して食料に当てる、というような毎日になってしまった。

しばらくは、そのようにしてなんとかしのぎながら、戦闘も続けていたのだが、ついには、馬に手をつけざるをえない時がやってきた。親王の乗馬を始め、軍のリーダーたちの秘蔵の馬をも、毎日2匹づつ差し殺し、それを朝夕の食事に充てる。

新田軍リーダーA もう、どうしようもありません。どっかから援軍が来てくれねぇことには、この城、あと10日ももちませんよ。

新田軍リーダーB 殿、義助殿といっしょにこの城を密かに脱出され、杣山城にお入りになられては?

新田義貞(にったよしさだ) なんて事を言う! おまえらをここに残して、おれたちだけが。

新田軍リーダーC いや、それがいいですって。

新田軍リーダーD そうですよ。殿と義助殿のお二人で、まずはいったん杣山城に入られてね、そこで援軍を集められてから、再びこの城へ戻り、城を包囲してる連中を追っ払って下さいよ!

新田義貞 あのなぁ!

新田軍リーダーA ぜひともそうしてください!

新田軍リーダーB 殿、お願いです! 義助殿といっしょに、すぐにこの城を!

新田軍リーダー全員 そうしてください!

新田義貞 ・・・。

脇屋義助 ・・・。

というわけで、新田義貞、脇屋義助(わきやよしすけ)、洞院実世(とういんさねよ)ら7人は、河島惟頼(かわしまこれより)に道案内をさせて、2月5日の夜半、密かに金崎城を脱出して杣山城へ入った。

二人を迎え入れた瓜生や宇都宮らは大喜び、さっそく、「再度、金崎へ向かい、前回の敗戦の恥をそそぎ、城中の者らに蘇生の喜びを至らしめよう」と、様々に作戦を考えはじめた。

しかし、既に季節は春、温かく穏やかな風が吹き始め、山道の雪もまだら模様に消え始め、諸国から足利側の援軍が続々と到着、その兵力は約10万騎となった。

一方、新田義貞が動かせる兵力はといえば、たったの500余人しかない。心ばかりは猛るのだが、馬や鎧の支給さえ、ままならない。

あぁしようか、こうしようかと、杣山城側が身を揉みながら20日余りを過ごす中に、金崎城側はついに、

新田軍メンバーE (内心)あぁ・・・もう、馬、みんな食べちゃった・・・。

新田軍メンバーF (内心)この10日間ほど、何も食べてねえよなぁ。

新田軍メンバーG (内心)もう、手も動かねぇ、足も立たねぇよぉ。

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金崎城の大手方面の攻め口に配備されている武士らが、高師泰(こうのもろやす)の前にやってきていわく、

足利軍リーダーH あのね、城の中じゃ食料が底突いてしまっててね、ついに、馬もみんな食いつぶしちまったようですぜぃ。

高師泰 ほぉ。

足利軍リーダーI あの城に連中らがたてこもった当初は・・・そうですねぇ・・・馬、4、50匹くらいはいたんじゃないでしょうか。湯で馬の体を洗ったり、水辺を駆けさせたりしてるの、よく見かけたもんですよ。でも最近は、一匹も見かけねぇです。

足利軍リーダーJ どうでしょうね、ここらでイッパツ、城攻めをかけてみては?

足利軍リーダー一同 やりましょうや!

高師泰 よぉし!

3月6日午前10時、足利軍10万騎は、大手カラメ手、一斉に総攻撃を開始。あっという間に、城の切岸の下まで詰め寄り、塀に迫った。

城中の者らはこれを防ぐべく、木戸のあたりまでよろめきながら出ていった。しかし、もはや太刀を振る力も無く、弓を引く事もできない。ただただ、櫓の上に登り、塀の陰に集まって、苦しそうに息をつくばかり。

高師泰 さては、城内のヤツラ、完全に弱り切ってるな。よぉし、今日中に、城を落とすんだぁ!

足利軍は、乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)を取り除き、塀を打ち破っていく。三重に構えてある木戸であったが、まず一番外側の木戸が破られてしまった。

由良具滋(ゆらともしげ)と長浜顕覚(ながはまけんがく)が、新田義顕(にったよしあき)の前にきていわく、

由良具滋 若殿、もうだめ! 城の中の連中ら、戦う力ない! 矢の一本さえも、まともに射れねぇ。

長浜顕覚 一の木戸はもう破られちゃった。二の木戸も時間の問題。敵はどんどん迫ってる! もうだめ、もうだめ! 早く皇太子殿下を小舟に乗せてね、どこかの海岸へ!

由良具滋 他の人らは、みんな一個所に集まって自害だな!

長浜顕覚 みんなが自害してる間、おれたちは敵の攻め口へ走って、しばらくは侵入、食い止めるから。

由良具滋 敵に見られてハズカシイような物は、残らず海にほうり込むんだよ!

二人は立ち上がり、二の木戸へ向かった。

長浜顕覚 それにしてもなぁ、腹ぁヘッテ、足もまともに立たねぇや。

由良具滋 しようがねぇ、あれ食うか?

長浜顕覚 ・・・うん・・・。

彼らは、二の木戸の脇に射殺されて転がっている死者のまたの肉を切り取った。

由良具滋 おまえらも、食うかぁ?

その場にいた20余人はそれを分けて食べて、戦闘能力を回復した。

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河野(こうの)備後守は、カラメ手方面の足利軍を防いで1時間ほど戦い続けたが、もはや精も魂も尽き果て、重傷数箇所。32人はそこを一歩も退かず、一斉に腹を切って同じ枕に伏した。

新田義顕は、尊良親王(たかよししんのう)の御前にきて、

新田義顕 殿下、この城、もはやこれまで。おれたちには、もうなすすべがありません。

尊良親王 あぁ、ついに・・・。

新田義顕 おれは武家の家に生れた人間ですからね、家の名を汚さないように自害します。殿下は、ここにこのままいらしてください。たとえ敵につかまったとしても、足利は、殿下の命を奪いはしないでしょう。

尊良親王 (晴れ晴れとした顔で)義顕、なに言うてんねん。

新田義顕 ・・・。

尊良親王 なぁ、義顕、天皇陛下が比叡山を去られた時の事、おぼえてるやろ?(遠くを見るような面持ちで)

新田義顕 はい。

尊良親王 あの時、陛下はなぁ、京都へお還りになられる前に、この私をみんなのトップに、そして、おまえを、私の股肱の臣(ここうのしん)と、しはったんやないか。

新田義顕 はい。

尊良親王 股肱無くして、トップがつとまるもんかいな。おまえといっしょに行く。

新田義顕 ・・・。

尊良親王 刃(やいば)の上に我が命を絶って、私もあの世に行く・・・あの世に行ってからな、この恨みを晴らす!

新田義顕 殿下!(涙)

尊良親王 なぁ、自害っちゅうのん、いったいどないな風にしたら、えぇんや?

新田義顕 (感涙を押さえながら)・・・殿下、自害とはね、このようにするものなんです!

義顕は、刀を抜いて逆手に持ち、自らの左の脇腹に、

新田義顕 エイ!

右の小脇のアバラ骨2、3本をかき破った後、義顕は刀を抜いて親王の前に置き、そのまま倒れ伏した。

親王は、刀を手に取ってしげしげと見つめた。

尊良親王 つかに、血がべったりやなぁ。これでは、手が滑って失敗するかもしれん。

親王は、衣の袖で刀の柄(つか)をキリキリと巻き、雪のような白い膚をあらわにした。

尊良親王 義顕、今いくからな、冥土の辻でちょっと待っててくれよ・・・エイッ!

親王は、心臓のあたりに刀を突き立て、義顕に重なって倒れ伏した。

藤原行房(ふじわらゆきふさ)、里見時義(さとみときよし)、武田興一(たけだこういち)、気比氏治(けひうじはる)、大田賢覚(おおたけんがく)以下、御前にいた人々も、「では、我らも殿下のお伴を」と、口をそろえて念仏を唱え、一斉に腹を切った。これを見た周囲の武士ら300余も、互いに刺し違えながらその場に重なり伏していった。

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気比大宮司斉晴(けひのだいぐうじなりはる)は、皇太子・恒良親王(つねよししんのう)を城から連れ出し、小舟に乗せた。

気比斉晴 うーん・・・櫂が無い・・・よぉし。

斉晴は、人なみ外れた水泳の達人であった。舟と自分の腰を綱で結び、海上へ出ていった。

斉晴はそのまま舟を引きながら、30里余の海上を泳ぎ渡り、甲楽(かぶらき:福井県・南条郡・南越前町)の海岸にたどり着いた。

誰にも気づかれてなかったので、そのまま杣山城に入ることも容易であったが、

気比斉晴 (内心)尊良親王はじめ、城中の人は一人残らず自害した。なのに、自分一人だけが逃げて命を繋ぐなんてことでは、世間の物笑いになってまうわ。

斉晴は、恒良親王をみすぼらしい漁師の家に預け、漁師に対して、

気比斉晴 このお方はな、やがて、日本国の主になられるお方や。おまえ、何としてでも、このお方を、杣山城へお連れ申し上げるんやで!

そして斉晴は、甲楽浜から引き返し、再び海上を泳ぎ渡って金崎城へ帰ってきた。そして、気比弥三郎(けひのやさぶろう)の遺体を見つけた。

気比斉晴 わしも、ここでいっしょに自害するぞ。

斉晴は、自ら首をかき落として片手に引っ提げ、もろ膚脱ぎのまま、その場に倒れた。

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土岐頼勝(ときよりかつ)、栗生左衛門(くりふさえもん)、矢嶋安崇(やじまやすたか)は、「3人いっしょに腹を切ろう」と、岩の上に立ち並んでいた。そこへ、船田経政(ふなだつねまさ)がやってきた。

船田経政 新田家の運が完全に尽き果てたってんならな、おれたち、みな残らず自害するまでよ。でも、そうじゃねぇだろう? 殿と義助殿は、杣山城におられるじゃぁねぇか。公家の方々だって3、4人、あちらにおられるだろうが。一人でも多く生き残って新田ご兄弟の今後のお役に立ってこそ、真の忠節ってもんだろう。

3人 ・・・。

船田経政 なぁ(何)もせんと自害しちゃって、敵に利を与えて、いったいどうなるってんだ? さぁ、いっしょに来いよ。助かるかもしれん、どっかへ隠れてみようぜ!

3人は、経政の後について、遠浅の波を分けながら、磯のはるか彼方へ歩いて行った。

半町ほど行った所で、波に打たれて大きな穴があいた岩を見つけた。

船田経政 しめた、こりゃ絶好の隠れ場だ。

4人はその後、3日3夜、その穴の中に隠れ通した。彼らの心中、いかばかりであったろうか。

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由良具滋と長浜顕覚は、木戸を守って戦い続けていた。自分の傷口から流れ落ちる血を飲んで、のどの渇きをいやし、力が落ちてきたら、前に倒れている死者の肉を切って食う。

由良具滋 (内心)全員の自害が終わるまで、ここでなんとか食いとめなきゃ・・・。

そこへ、安間利勝(あまのとしかつ)が走り寄ってきていわく、

安間利勝 おまえら、いつまで戦うつもりだぁ? 義顕様は、もう自害なさったぞ。

由良具滋 そうか、じゃ、そろそろおれも。

長浜顕覚 待て待て、どうせ死ぬんだったらな、敵の大将を道連れにしてやろうや。

由良具滋 そうだなぁ、大将らしきヤツの近くに紛れ込んで、そいつと刺し違えてやるか。

50余人は、三の木戸から一斉にうって出て、足利軍3,000余人を追いまくり、その中に紛れ込んで、高師泰の陣に接近していった。

その心意気は猛々しいのだが、長い籠城ゆえに、彼らはみな、やせこけて憔悴しきっており、尋常の姿ではない。足利側の兵らは容易にそれを見分け、彼らと高師泰との間に立ちふさがった。良き敵と刃を交えることもできないまま、彼らは次々と倒されていった。

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戦いは終わった。

金崎城にこもっていた者の総数は160人。うち、降伏して命助かった者は12人、岩の中に隠れて遁れた者4人、残りの者はすべて自害し、戦場の土となった。

地元の人K 今なお、彼らの怨霊(おんりょう)は、あそこに留まっとるようやでぇ。

地元の人L そうやで。月が曇って雨降る暗い夜にはな、あのあたり一帯にはな、泣き叫ぶ声、飢えを訴えるもの悲しい声が、響きわたるんや。

地元の人M わしもその声、聞いた事あるわ。まったくなぁ、ゾォットして、鳥肌立ってきたよぉ。

 匈奴(きょうど)民族掃討のために 我が身を顧みず 郷里を出発してはるか何万里
 兵士ら五千人よ あなたたちは 辺土の土となってしまった
 あぁ憐れなるかな 無定河のほとりに転がる あなたたちの遺骨
 夫の死も知らずに 帰りをひたすら待ち続ける妻は
 春の閨の中に 愛する人の夢を今もなお見る

(原文)誓掃匈奴不顧身 五千貂錦喪胡塵 可憐無定河辺骨 猶是春閨夢裡人

中国唐時代の己亥(きがい)の年の乱に際して、陳陶(ちんとう)が作ったこの「隴西行(ろうせいこう)の詩」の心、ここに思い知られる。

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