太平記 現代語訳 22-1 畑時能の奮戦

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都から越前(えちぜん:福井県東部)に進軍した足利軍は、圧倒的な大兵力をもって、杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)を始め、新田側の城を続々と攻略していった。その結果、越前、加賀(かが:石川県南部)、能登(のと:石川県北部)、越中(えっちゅう:富山県)、若狭(わかさ:福井県西部)5か国中に残された新田側の城は、ほとんど皆無の状態となってしまった。

そのような中に、唯一もちこたえていたのが、畑時能(はたときよし)がたった27人の手勢と共に守る鷹巣城(たかのすじょう:福井県・福井市)であった。さらにそこに、一井氏政(いちのいうじまさ)が合流した。氏政は昨年、杣山城から平泉寺(へいせんじ)へ赴き、その衆徒らを味方に引入れようと様々に工作していたのであったが、越前国中の吉野朝サイド勢力が衰微してしまったとあっては味方につこうとする衆徒など一人もいない。そこで仕方なく、平泉寺から引き上げ、この城にこもったのである。

足利氏・北陸方面軍総大将・斯波高経(しばたかつね)いわく、

斯波高経 越前国中、敵方の城はもうほとんど落ちちゃって、残るは鷹巣城だけ。でも、あそこには、あの二人がこもってやがるんだよなぁ。城内の兵力は極めて少ないとはいえ、畑時能の勇力と一井氏政の智謀は、決してあなどれない。あのまま放っときゃ、またどんな大変な事態になってしまうかもねぇ。

そこで、斯波高経と高師重(こうのもろしげ:注1)は、北陸道7か国の軍勢7,000余騎を率いて、鷹巣城に攻め寄せた。城の周囲をアリの這い出る隙間もないほどビッシリと包囲した上で、30余箇所に、向かい城を設営した。

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(訳者注1)太平記作者のミスであろう。21-7において、北陸地方援軍・大手方面軍大将は、「高師治」となっている。
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この畑時能という人は、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)の住人である。16歳の頃より相撲を好み、やがて関東8か国中、彼にかなうものは一人もいなくなってしまった。

腕の筋肉は隆々、股(もも)の筋肉は劇厚、あの古代の相撲の名人、薩摩(さつま)の氏長(うじなが)をほうふつとさせるような、実に立派な体をしている。

その後、信濃国(しなのこく:長野県)に移住。以来、山野で狩りをし、湖沼河川で漁を営む。馬に乗ったまま急峻な斜面や岩盤をかけ降りていくその様は、あたかも神通力を有しているかのようである。千里のかなたまで車を御しても疲れを見せなかったという、あの古代中国・周王朝の馬術の名人・造父(ぞうほ)でさえも、時能には及ばないのではなかろうか。

水泳も、河神・憑夷(ひょうい)のごとく巧み、黒龍の顎の下にあるという珠玉でさえも、彼ならばきっと奪って来るであろう。弓を引かせれば、古代中国の弓の名人・養由(ようゆう)に匹敵。ひとたび弦を鳴らさば、はるか彼方の樹上の猿をも射落す。

謀略にもたけていて、人心収攬(しゅうらん)の達人。気は健(すこや)かにして、不撓不屈(ふとうふくつ)の心。一度(ひとたび)戦場に臨めば、敵を退け堅陣を破る。まさに、中国漢王朝の名将、樊 噲(はんかい)、周勃(しゅうぼつ)をも、しのぐ。

「類は友を呼ぶ」とはよくいったもの、時能の側には常に、甥の所大夫房快舜(ところのだいぶぼうかいしゅん)という豪勇の僧がいた。さらに、悪八郎(あくはちろう)という大力男も彼の配下にいた。

時能の側にいたのは人間だけではない、「犬獅子(けんじし)」という名の不思議な犬もいた。

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この、畑時能、快舜、悪八郎の三人組は、毎晩密かに鷹巣城を出て行く。ある時は、帽子兜(ぼうしかぶと)に鎖帷子(くさりかたびら)の軽装で、またある時は、大鎧を着て七つ道具を手に持って、というように、様々に武装を変じながら、夜陰に乗じて、足利側が築いた向かい城へ忍び寄っていく。

城に接近したら、まず犬獅子を城内に忍び入らせる。犬は、城内の様子を窺い、警戒が厳重で忍び入る隙が無いと見れば、一声吠え、走り帰って来る。城内が寝入ってしまい夜間の巡回も止んでしまっておれば、城から走り出てきて、尾を振ってそれを知らせる。

そのようにして犬獅子が「ゴーサイン」を出せば、3人は犬獅子の案内を頼りに、塀を乗り越え城内に侵入し、おめき叫んで縦横自在に切って回る。数千の足利軍はパニック状態となってしまい、一斉に向かい城から逃げ出してしまうのである。

「犬は、人間を守護するがゆえに、人間に養われる」という。心無き禽獣(きんじゅう)といえども、報恩酬徳(ほうおんしゅうとく)の精神を有しているのであろうか、犬が重要な戦力となるといったこのような話、古にもその例がある。

古代中国における周王朝の衰微の時代、異民族が反旗を翻し、周王の命に従わなくなってしまった事があった。軍を送って攻めてはみたものの、周国側に戦い利あらず、討たれし者の数30万人、地を奪われること7000余里。ついには、周の国家そのものさえも危機に瀕し、将軍たちは敗北の屈辱を噛み締め、諸侯らはこぞって異民族に降伏するより他無しか、という土壇場まで来てしまった。

周王 あぁ、いかにすればよいのじゃ・・・いかにすれば、わが国体を保つ事ができるのか・・・。わが王朝が異民族の支配に屈する、かような事があってよいものであろうか! あぁ、いかにすべきか、いかにすれば、わが王朝を守りおおせるのか・・・。

周王は、御前にいた犬に魚肉を与え、戯れていわく、

周王 のぉ、そちにもし心有るならばのぉ、わしのこの命を聞け。異民族の国に赴き、すきあらばその王を噛み殺して世の乱れを静めい。しからば、後宮三千人の美女の中の一人を、そちに与えて夫婦(めおと)となし、そちを、かの異民族の王に任命してくれるわ。

犬はこの命令を聞くやいなや、立って3回吠え、王宮から走り去った。

万里の道程を越えてその異民族の国に赴き、密かに王の寝所に忍び入ってたちまち彼を噛み殺し、その首を咥えて周王の御前へ戻ってきた。

周王 おぉ、この首は! でかしたぞ!

犬 ワン! ワン!

周王 わしのあの戯れの命を、そちが忠実に実行するとは、思いもよらぬ事であったわい。しかしのぉ・・・いかに戯れとはいえ、いったん王の口から発した事であるからには、翻す事はあいならぬわい。

王は、後宮の中でも最高の妃一人をこの犬に与えて夫婦とならしめ、さらに、異民族国王の地位を褒賞として与えた。王の命の前には彼女も力無く、寵愛を捨てて犬と共に、泣く泣くかの地へ赴いた。(注2)

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(訳者注2)なんだか、どこかで聞いた話だな・・・そうだ、あの「南総里見八犬伝」の冒頭のストーリー、伏姫と八房の物語。しかしここから後、「八犬伝」の方は、以下に記述の「太平記」の話とは全く異なる展開となっていく。その後、伏姫は城を出て山にこもり・・・いやいや、この話はもうやめておこう、さもないと、「現代語訳・太平記」ではなくて、「現代語訳・八犬伝」になってしまうから。
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やがて、一人の男子が生れた。頭は犬で身体は人間。その後、子孫相続してその国を保った。ゆえにそこを、「犬戎国(けんじゅうこく)」と呼ぶのである。

この古代中国の事例をもってすれば、畑時能の忠犬・犬獅子の働きも、あえて奇とする事もないであろう。

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このようにして、犬獅子が向かい城に忍び込み、タイミングを見計らっては主に知らせ、3人組が城を落す、というパターンが続いていった。逆茂木(さかもぎ)を設置し塀をしつらえた37か所もの向かい城も、夜毎に1城あるいは2城というペースで、落とされていく。城を守っていたメンバーたちは、甲冑を捨て、馬を失い、恥辱の極みである。

ついには、味方に笑われる事を恥じるあまり、畑時能に利を与える結果になるにもかかわらず、彼に対して密かに食料や酒肴を送り、「ねぇねぇ、お願いですからね、わしの守っている城にだけは、夜討ちをかけないでくださいよね」などと、残らず、時能のご機嫌を取りだしはじめた。

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上木家光(うえきいえみつ)は、この鷹巣城の包囲陣の一角に加わっていたのだが、彼についてのあらぬうわさが飛び交いはじめた。

足利軍メンバーA なぁなぁ、聞いてるか、上木のやつ、どうもアヤシイぞってな話。

足利軍メンバーB うん、聞いてるよ。なんでも、「鷹巣城への数百石もの食料の搬入を、見て見ぬフリして通しやがった」って、ウワサだぜ。

足利軍メンバーC あいつはな、もともと新田義貞(にったよしさだ)についてたんだけどな、こっちサイドへ、寝返ってきたんだよ。

足利軍メンバーD 忠実な足利陣営メンバーのような顔しながら、裏では、畑時能と気脈通じてやがんじゃねえのぉ。

足利軍メンバーE きっとそうだよ、そうに決まってらぁ。

やがて、いったい誰のしわざであろうか、大将の斯波高経の陣の前に、こんな高札が立てられた。

 畑をうとうと思うんだったら
 まずは その上の木を 切らなきゃねぇ(注3)

まったく、うまい事を言ったものである。

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(訳者注3)原文:「畑を討(うた)んと思はば、先(まず)上木を伐(きれ)」。「畑を打つ(耕す)」と「畑時能を討つ」とをかけ、「上木(畑の上に伸びている木)を切る」と「上木家光を斬る」をかけているのである。
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これより、斯波高経も上木家光に対して警戒心を抱きはじめ、朋輩(ほうばい)たちも、家光に対してよそよそしい態度を示すようになった。

上木家光 これはミョーな疑いをかけられたもんだ、非常にオモシロクない! よし、この疑い、なんとしてでも晴らしてみせる!

上木家光は、2月27日の早朝、一族郎等200余人に、にわかに武装をかためさせ、彼らを率いて鷹巣城に向かって動きだした。太い竹をひしいで盾の表面に装着し、それを頭上にかざしながら、隊列を組んで城に接近していく。これを見た他のメンバーらは、

足利軍リーダーF おっ、上木が城攻めを始めた!

足利軍リーダーG 鷹巣城のレイアウトをよく知っている上木が、急に城攻めを始めたってことはぁ・・・もしかすると・・・。

足利軍リーダーH 何か、攻め落すいい方法でも見つけたのかもよぉ。

足利軍リーダーI 上木に手柄を一人占めされちゃ、たまらん。よぉし、行くぞー!

30余箇所の向かい城にこもっていた足利側軍勢7,000人は、取る物も取りあえず、一斉に動きだした。

岩根を伝い、木の根に取り付き、さしも険しい鷹巣城の麓の坂18町を一気に登りきり、城の切り岸の下にたどりついた。

しかしなぜか、鷹巣城内はひっそりと静まりかえっている。

足利軍リーダーF 畑のやつ、またなにか、たくらんでやがんのかい?

足利軍リーダーG まったくもう、あいつだけは、油断ならねえもんなぁ。

足利軍リーダーH おぉい、みんな、用心しながら、慎重に進んでけよぉ、慎重になぁ。

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城の防御壁近くまで足利サイドが迫ったその時、城内からオメキ声が上がった。畑時能、快舜、悪八郎、鶴澤源蔵人(つるさわげんくろうど)、長尾新左衛門(ながおしんざえもん)、児玉五郎左衛門(こだまごろうざえもん)が、甲冑に身をかため、太刀や長刀の切っ先をそろえ、各々名乗りを上げながら襲い掛かってきた。

城の防備を甘くみて不用意な前進をしていた足利サイド数百人は、不意の襲撃に一驚、互いに頼りあって、一個所へギシギシと集中。

これを見た悪八郎は、手に持っていた8、9尺もの大木を脇に挟み、5、60人がかりで押してもびくともしないような巨岩を、足利側に向けて転がした。輪宝(りんぼう)が山を崩すがごとく、大石が卵を押しつぶすがごとく、その巨岩は足利軍を粉砕した。

ひるむ足利軍に対して、時能らは一斉に猛攻、左右に当たって八方を払い、破っては返し、帰っては進み、手当たり次第メチャクチャ切りまくる。足利側の損害は計り知れない。

その後は、城に攻め登ろうとする者は全くいなくなり、足利軍は、山を隔て川を境にして、城から遠く陣を敷くのみであった。

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しかしながら、戦線が膠着状態(こうちゃくじょうたい)になってしまったのでは、畑時能の方も打つ手がなくなり困る。

畑時能 (内心)このまま持久戦に持ち込まれたんじゃ、ヤバイ。ここはいっちょう決戦にうって出て、敵を散らすか敵に散らされるか、二つに一つ、運を天にかけてやってみるしかねぇな。

時能は、城の守備を、一井氏政と11人の武士らに委ね、自らは快舜ら16人を率いて、10月24日夜半、豊原(といはら:福井県・坂井市)の北方、伊地山(いづちやま:福井県勝山市)に登り、中黒の旗を2本立てて、足利軍の来襲を待った。

斯波高経(しばたかつね)は、伊地山の軍勢が、鷹巣城勢の一部がそこに出向いて陣取ったのだとは思いもよらず、

斯波高経 その伊地山に陣取ってるのは、おそらくは豊原方面の勢力か、あるいは平泉寺(へいせんじ:勝山市)の衆徒だろう。あいつら、とうとう新田側のさそいに応じて、反旗を翻しやがったな。とにかく、敵に時間を与えてはいかん、今すぐ、伊地山を攻撃だ。

同月25日午前6時、高経は、3,000余騎を率いて伊地山へ向かった。

最初のうちは、相手の兵力の多寡が分からないので慎重に前進していたが、やがて伊地山に依拠している兵力が極めて少ない事が判明し、恐れる所無く我先にと、進みはじめた。

足利軍が遠くにいる間は、時能は、自分が伊地山を守っている事をわざと明らかにせず、両者の間隔が1、2町ほどに縮まったタイミングにあわせて、陣頭に姿を現わした。

輝かんばかりの畑時能の勇姿・・・鉄製の胴巻の上に火威(ひおどし)の鎧、袖と草摺(くさずり)は敷目模様、同色の5枚しころの兜に鍬形(くわがた)打って緒を締める。顔を、熊野(くまの:和歌山県)地方製の鉄面で覆い、股まで覆う鉄製の脛当てで、脇盾(わきだて)の下あたりまで防御している。4尺3寸の太刀を腰に差し、3尺6寸の長刀(なぎなた)の柄の刃に近い部分を握っている。またがっている馬は塩津黒(しおづぐろ)という名、馬体長5尺3寸、鎖鎧で全身覆われている。その三頭(さんず:注4)のあたりまで、一引両(ひとつひきりょう)に三(みつ)スハマの笠標(かさじるし)がなびいている。

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(訳者注4)後脚のつけ根部分。
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そして、時能の前後左右には、彼に劣らず武芸に秀でた武士が16人。

畑時能 畑将軍はここにいるぜぃ。斯波高経は、いってぇどこにいやがる! さっさと出てきて勝負しろい!

時能らは、大軍の中に懸け入り、追廻し、懸け乱し、八方を払って四方を遮る。この勢いに恐れをなして足利軍はたちまち、蜘蛛の子を散らすように散ってしまい、馬の足の立つ者は一人もいない。

これを見た斯波高経は、鹿草兵庫助(かくさひょうごのすけ)の旗の下に控えて、全軍に対して、指令をひっきりなしに飛ばす。

斯波高経 えぇい、どいつもこいつも、ふがいねぇヤツばかり! たとえ敵が鬼にせよ神にせよ、たったあれだけの小勢にビビッて、オメオメと退却するとはなぁ! 馬を互いに接近させて、魚鱗陣形(ぎょりんじんけい)の密集形態を取れ! 兵を虎韜(ことう)陣形に展開して敵を包囲してしまえ! 一人残らず、敵を殲滅してしまえーい!

大将からのこの厳命に、かろうじて気力を取り戻した足利軍3,000余騎は、時能ら16騎を真ん中に取込め、残らず殲滅せんと、襲いかかっていく。しかし、この大軍勢の猛攻にも、畑時能は動じない。

時能の乗馬は、あの古代中国の英雄・項羽(こうう)が乗っていた騅(すい)にも劣らぬ駿足、足利軍メンバーらは次々と、この馬のアブミの鼻に当て落され、蹄(ひづめ)の下に転落し、たちどころに、時能に首を取られてしまう。

首を取っては馳せ通り、取って返してはサッと陣を破る時能。彼に従う部下たちも、負けず劣らずの猛者ぞろい、目に止まった敵は残らず切って落す。膚を刺されてもたじろがず、目の前に尖った物をつきつけられても瞳をそらす事など決してない彼らの豪勇の前には、いかなる大軍をもってしても歯が立たない。足利軍3,000余は、東西南北に散乱し、河の対岸へ退却していった。

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戦が終わって後、畑時能は陣屋に帰り、再び部下を集めてみた。戦死5人、重傷9人。彼が最も頼りにしていた快舜は、7か所も深傷(ふかで)を負ってしまっており、その日の暮れ方、ついに帰らぬ人となった。

時能も、脛当の外側の部分や小手(こて:注5)で覆っていない部分に、多数の切り傷を負っていた。

少々の負傷など意に介しない時能ではあったが、障子の板(しょうじのいた:注6)の脇から肩先へ付き刺さった一本の白羽の矢が、彼を苦しめた。

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(訳者注5)鎧のうち、腕を覆う部分

(訳者注6)これも鎧の部品の名前。鎧の左右の綿上(わたがみ)に続けてその上に立てる板。首の左右を保護する。
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畑時能 うーん、まいった! 肩に突き刺さったヤジリが、どうしても抜けねぇ・・・うーん・・・抜けねぇ・・・ウーン・・・ウーン・・・。

3日間、苦痛にのたうちまわった末、時能は絶叫の中に死んでいった。

この畑時能という人は、悪逆無道にして、罪のおそれというものを全く知らない人間であった。何の目的もなく僧侶を殺害し、寺院や神社を焼き払い、修善(しゅうぜん)の心など、さらさら無い。

過去になしてきたそのような悪業(あくごう)が、山のごとく積もり積もっていたが故に、勇猛と智謀をあわせ持っていた時能も、ついに天罰を受け、流矢のために悲惨なる最期に至ってしまったのである。

昔、中国において、天に太陽が9個現われた時、舁(げい)は弓を引いて、そのうち8個を射落したという。また、奡(ごう)いう大力の者がいて、巨大な船を押して陸上を前進させたという。しかし、舁はカンサクに殺され、奡は夏后小康(かこうしょうこう)に討たれ、その武名だけを残して空しく命終えていった。

唐王朝の宰相・宋璟(そうえい)は、幼い玄宗皇帝のために、みだりに戦いをすることを恥とし、辺境での戦功を高く評価しなかったというが、まことに智慮ある忠臣と言うべきであろう。人間、武勇一辺倒ではダメなのである。

かくして、畑時能の死の後は、北陸地方の吉野朝勢力は意気消沈、逼塞(ひっそく)状態に陥ってしまった。

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