太平記 現代語訳 5-1 光厳天皇の政権、着々と地盤固め

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘2年(1332)3月22日、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)の第1御子が、19歳で天皇に即位された(注1)。

新帝の母君は、西園寺公衡(さいおんじきんひら)の娘・寧子、後に、廣義門院(こうぎもんいん)と呼ばれることになる方である。

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(訳者注1)光厳(こうごん)天皇。持明院統に所属。
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新帝のもと、同年10月28日に、鴨(かも)の河原で禊(みそ)ぎの行が、11月13日に、初の新嘗祭(にいなめさい:注2)が執行された。

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(訳者注2)天皇が行う収穫祭。
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新政権の関白(かんぱく)には、鷹司冬教(たかつかさふゆのり)が、首都圏知事(注3)には、日野資名(ひのすけな)が就任した。

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(訳者注3)原文では「別当」。検非違使長(けびいしのちょう)を指す。[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注では、この時の別当は源通冬であり、日野資名とするのは誤りである、としている。
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光厳天皇に仕えてきた人々は、あっという間に出世の望みが達せられ、彼らの邸宅の門前市を成し、堂上花のごとき様である。

天皇の弟君・尊胤法親王(そんいんほっしんのう)は、天台座主(てんだいざす:注4)に就任、大塔(おおとう)・梨本(なしもと)双方の門跡(もんぜき)位をも兼任、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を統括されることになった。延暦寺の衆徒は、一山(いっさん)こぞって尊胤法親王の根元中堂へのお参りに参加、礼拝の儀式は荘重な中に執行された。

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(訳者注4)延暦寺のトップ。
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さらには、御室(おむろ:注5)におられる法親王は、仁和寺(にんなじ)の門跡に就任され、真言宗・東寺(とうじ:京都市南区)に連綿と伝えられる法流を受け継ぎ(注6)、天皇の聖運を日々祈るお立場に就かれた。

これらの方々は全て、後伏見上皇のお子様方、すなわち、光厳天皇のご兄弟である。

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(訳者注5)京都市右京区御室にある仁和寺(にんなじ)のことである。宇多天皇によって建立

(訳者注6)釈尊以来の伝統仏教の脈流につながることを、「法流を受け継ぐ」と言う。「法」とは「仏法」を指す。
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