太平記 現代語訳 7-7 船上山にて名和軍団、幕府側勢力と戦う

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同月29日、隠岐島(おきとう)から、幕府方の軍勢がおしよせてきた。

佐々木清高(ささききよたか)と佐々木昌綱(ささきまさつな)に率いられた3,000余騎の軍勢が、南北両方向から船上山(せんじょうさん)に迫ってくる。

船上山は、北方は大山(だいせん)からの峰続きになっていて高く切り立ち、それ以外の三方は平地から高くそびえ、峰に掛かる白雲は山麓にたなびき、という険阻な地形である。

そこにたてこもる名和軍側の拠点はといえば、にわか作りの城塞ゆえ、未だに堀の一本も掘れず、塀の一重も建てれていない。城塞の周囲に大木を少々切り倒して逆茂木(さかもぎ)とし、僧侶の住む庵の瓦屋根を壊してそれを防壁にしただけ、というような、まことに不安要素の多い備えである。

佐々木軍3,000余騎は、坂の途中まで攻め上がり、城中をキッと見上げた。

佐々木軍リーダーA おいおい、あれ見ろよ。あの旗ぁ!

松や柏(かしわ)が生い茂る深い森のあちらこちらに、名和陣営に属する諸家の旗4、500本が、雲に翻り、陽光に輝いている。

佐々木軍リーダーB うわぁ、ものすごい数だなぁ。敵側の兵力はいったいどれくらい? うーん・・・。

佐々木軍リーダーC きっと、このあたり一帯の連中ら残らず、名和に加担して、あそこに集まってきてやがんだわなぁ。

佐々木軍リーダーD おれたちだけの兵力じゃぁ、こりゃぁちょっと、手が出せないわなぁ。

佐々木軍側は全員おじけがついてしまい、前進がハタと止まってしまった。一方の名和軍側は、自分たちの兵力の少なさを相手に見破られないようにと、あちらこちらの木陰に隠れ伏しながら三々五々、射手を繰り出して遠矢を射させる。

このようにして数日が過ぎた後、戦局が大きく動いた。

佐々木軍側のリーダー・佐々木昌綱は、前線からはるかに隔たった後方に控えていたのだが、どこからともなく飛んできた流れ矢に右の眼を射抜かれ、その場に倒れて死んでしまった。

佐々木昌綱軍団メンバー一同 殿がやられた! 殿がやられた! もうダメだぁーーー!

彼の配下500余騎はパニック状態となり、戦闘不能状態に陥ってしまった。これを見て、800余騎を率いてからめ手側に向かっていた佐々木佐渡前司(ささきさどのぜんじ)は、にわかに旗を巻き兜を脱いで、名和軍に投降してしまった。

からめて側がそのような状態になっているとはつゆ知らない、佐々木清高は、

佐々木清高 きっと今頃は、からめ手側も城に肉薄しているだろう。行けぇ行けぇ、攻めろぉ、攻めろぉ!

一の木戸口を突破せんと、彼は新手を次々と前線に投入しながら、2時間ばかり攻撃を続けた。

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日は既に、西の山に沈もうとしている。

その時、一天にわかにかき曇り、強風が吹きすさび、車軸のごとく太い雨足が、地面を真っ向から激打しはじめた。雷鳴の轟きは山を崩さんばかりである。

突然の天変に、佐々木軍は恐怖におののき、ここかしこの木陰へと集まる。

名和長年(なわながとし) よぉし、反撃のチャンスだ!

名和長重(なわながしげ) まずは、一斉射撃だわなぁ!

名和長生(なわながたか) 射撃隊! 左右に展開の後、一斉射撃!

名和軍射撃隊一同 おう!

名和軍両翼からの一斉射撃に、佐々木軍側の盾の防壁が揺らぎを見せた。

名和長年 それ、今だ! 木戸を開け!

名和長重 突撃ぃーーー!

名和軍一同 うぉぉぉーーー!

名和軍は抜刀し、佐々木軍団めがけて、一斉に突進していく。

佐々木軍団メンバー一同 うああああーーー・・・。

大手方面の佐々木軍1,000余騎は残らず谷底へ追い落とされ、自らの太刀や長刀に貫かれて落命する者は、その数知れず。

佐々木清高のみ、かろうじて一命をとりとめ、小舟1隻に乗って、隠岐島に逃げ帰った。

しかし、隠岐島の情勢は一変していた。

島の武士たちは清高に対して叛意を抱くようになっており、津々浦々の防備を固めて、彼の上陸を許さない。彼は仕方なく、波に任せ風に従って越前国(えちぜんこく:福井県東部)の敦賀(つるが:敦賀市)へ漂着。その後、六波羅庁(ろくはらちょう)の滅亡の折、近江国(おうみこく:滋賀県)番場(ばんば:滋賀県・米原市)の辻堂で切腹して果てた。

世も末になったとはいいながらも、天の理(ことわり)未だ存在す、後醍醐先帝を散々悩ませた隠岐の佐々木清高は30余日の間に滅び果て、その首を軍門の鉾(ほこ)に掛けられるに至ったのである。まことに人間の運命は不可思議としかいう他はない。

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「先帝、隠岐を脱出、船上山に御座あり!」とのニュースに、周辺の武士たちは引きもきらず、先帝の下に続々と馳せ参じてきた。

真っ先にやってきたのが、出雲国(いずもこく:島根県東部)守護・塩冶高貞(えんやたかさだ)。彼は佐々木善綱(ささきよしつな:注1)と共に、1,000余騎を率いて馳せ参じてきた。

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(訳者注1)7-6に登場。
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その後、浅山二郎(あさやまじろう)800余騎、金持(かなもち)党300余騎、大山(だいせん)の衆徒700余騎・・・このように、出雲、伯耆(ほうき:鳥取県西部)、因幡(いなば:鳥取県東部)3か国内の弓矢の道にたずさわる武士という武士が残らず、先帝の下に参集。

のみならず、

石見国(いわみこく:島根県西部)からは、澤(さわ)、三角(みすみ)一族、

安芸国(あきこく:広島県西部)からは、熊谷(くまがい)、小早河(こばやかわ)、

美作国(みまさかこく:岡山県北部)からは、菅家(かんけ)一族、江見(えみ)、方賀(はが)、渋谷(しぶや)、南三郷(みなみさんごう)、

備後国(びんごこく:広島県東部)からは、江田(えだ)、廣澤(ひろさわ)、宮(みや)、三吉(みよし)、

備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)からは、新見(にいみ)、成合(なりあい)、那須(なす)、三村(みむら)、小坂(こさか)、河村(かわむら)、庄(しょう)、真壁(まかべ)、

備前国(びぜんこく:岡山県東部)からは、今木(いまぎ)、太富幸範(おおどみのよしのり)、和田範長(わだののりなが)、知間親経(ちまのちかつね)、藤井(ふじい)、射越範貞(いのこしのりさだ)、小嶋(こじま)、中吉(なかぎり)、美濃権介(みののごんのすけ)、和気季経(わけのすえつね)、石生彦三郎(おしこひこさぶろう)、

この他、四国・九州の武士たちまでもが、ニュースを聞き伝え聞き伝えして、我先にと馳せ参じてきた結果、後醍醐先帝軍の兵力は、船上山エリアの人員収容能力をはるかに突破、ついには、四方の山麓2、3里周囲までも、木の下、草の陰にまで、武士、武士、武士・・・という状態になった。

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