太平記 現代語訳 33-10 新田義興の最期

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利尊氏(あしかがたかうじ)死去の後、九州地方は先に述べたように大混戦状態になってしまったが、関東地方においては静謐(せいひつ)が保たれていた。しかし、風雲の種が皆無の状態であったわけではない。

新田家(にったけ)・第2世代の3人のリーダー、すなわち、故・新田義貞(にったよしさだ)の子息・新田義興(よしおき)、その弟・新田義宗(よしむね)、故・脇屋義助(わきやよしすけ)の子息・脇屋義治(よしはる)は、ここ3、4年間、越後国(えちごこく:新潟県)内に城郭を構え、国の半ばを支配下に収めていた。

そこへ、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、上野(こうづけ:群馬県)の一部の勢力から連名でもって、「二心無く、忠節を尽くしたし」との趣旨をしたためた起請文を添えて、以下のような手紙が送られてきた。

 「お三方のうち、お一人だけ、関東へおこし下さいませ。大将に奉じたてまつり、義兵をあげたく存じます。」

新田義宗 ハァー(溜息)、まったくもって、近頃の人間、ほんと、心変わり激しいんだもんなぁ。

脇屋義治 ヤツラの言う事なんか、あてになるもんかよ。

義宗と義治は思慮深い性格であったから、相手にしなかった。

ところが、新田義興は、非常に性急なパーソナリティーを有していた上に、その心中には常に、「忠功においては、人よりも先に!」との思いがあった。

新田義興 なにぃ、「関東へ来て、大将になってくれ」だってぇ! 願ってもないチャンスだ、行くぞ、おれは! いざ関東へ!

深謀遠慮をめぐらす事も全くないままに、義興は、わずか郎従100余人だけを引き連れ、旅人の集団を装って、密かに武蔵国へ入った。

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義興のもとへは、多くの人々から、内通の意志が寄せられた。新田一族に昔から縁の深い者は言うまでもなく、かつて、父・義貞に対して忠功あった者、さらには、足利幕府・鎌倉府(あしかがばくふ・かまくらふ)のナンバー2・畠山国清(はたけやまくにきよ:注1)に対して恨みを含んでいる者。

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(訳者注1)当時の足利幕府・鎌倉府のナンバー1は、尊氏の息子・基氏。畠山国清は、その執事職にあった。
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彼らは、密かに義興に音信を通じ、しきりに媚びを入れては、彼からの軍勢催促に応ずる旨のメッセージを送ってきた。

このようにして、義興も今は身を寄せる所も多くなり、上野と武蔵両国の中に、彼の武威は、ようやくその萌芽の兆しを見せ始めた。

「天に耳無しといえども、天は、人間の耳を借りて、何もかも知ってしまう」という。

上野、武蔵の人々と新田義興は互いに隠密裏に事を進めているのではあるが、やはり、そこには限界というものがある。兄は弟に語り、子は親に知らせているうちに、彼らの動向はついに、鎌倉府の足利基氏(あしかがもとうじ)と畠山国清の知る所となった。

畠山国清 (内心)うわぁ、こりゃぁ、えれぇ事になっちまったぞぉ!

国清は心配でたまらない。食事の間も寝ている間も、新田義興の事が、頭から離れない。

義興の居場所をつきとめ、大軍を差し向けても、その情報はあっという間に伝わってしまい、彼の行くえはサッパリ分からなくなってしまう。また、500騎、300騎の軍勢を差し向けて、道中で待ち伏せしたり夜討ちをかけたりしても、義興はいささかも意に介さず、群がる軍勢を蹴散らしては道を通り、打ち破(わ)っては包囲を脱出。

畠山国清の部下A まったくもってぇ、新田義興ってぇのは、トンデモネェやろうですわ。

畠山国清の部下B 今ここにいるかと思えば、次の瞬間、もうあちらに。

畠山国清の部下C もしかしたら、ヤツって、エスパー(超能力者)?

畠山国清の部下D テレポーテーション(瞬間的遠隔移動)ってぇ、やつかい?

畠山国清の部下E こう出てくるかと思えば、あぁ出てくる。

畠山国清の部下F まさに、千変万化(せんぺんばんか)、とても、人間わざとは思えませんや。

畠山国清の部下C もしかして、ヤツって、宇宙人?

畠山国清 ヤイヤイ、なにバカな事言ってやがんでぃ、ザケンジャァねぇ!

畠山国清の部下一同 ・・・。

畠山国清 (内心)うーん・・・ったくもう、どうしようもねぇなぁ。手に余るヤロウだぜぃ。

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畠山国清 (内心)うーん・・・マイッタなぁ・・・でも、とにかく、なんとかしなきゃな・・・うーん・・・いってぇ、どうしたらいいんだ、どうしたらぁ! エェーン、何か名案は、ねぇのかよぉ、名案はぁ! うーん・・・。

国清は昼夜、新田義興・対策を考え続けた。そんなある日、

畠山国清 そうだ!(両手を打ちあわせる)

国清の両の掌 パチン!

畠山国清 アイツを使うんだよ、アイツを・・・うん、こりゃぁ、うまくいくかもしんねぇぞぉ。

ある夜、国清は密かに、竹澤右京亮(たけざわうきょうのすけ)を自邸に呼び寄せた。

竹澤右京亮 いってぇ、何のご用でしょう?

畠山国清 まぁまぁ・・・さ、イッパイやれや。(ニヤニヤ)

竹澤右京亮 はぁ・・・。(盃を傾ける)

畠山国清 ・・・。

竹澤右京亮 ・・・。(盃を傾ける)

畠山国清 あのなぁ・・・例の武蔵野(むさしの)の合戦(注2)の時にさぁ、アンタたしか、あの新田義興の配下にいたんだっけなぁ?

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(訳者注2)31-2 を参照。
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竹澤右京亮 (ドキッ)・・・。

畠山国清 ・・・新田に対して、随分と、忠節尽くしてたっていうじゃぁねぇか。

竹澤右京亮 それは過去の事です! 今は、公方(くぼう)様(注3)に、固く固く、忠誠を誓っとりまさぁね!

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(訳者注3)鎌倉府のトップ、すなわち、足利基氏。
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畠山国清 グフフフ・・・まぁまぁ、そうムキになるなって。わかってるよぉ、わかってるってばぁ。

竹澤右京亮 ・・・。

畠山国清 義興もきっと、あんたとの古いよしみ、忘れちゃぁいねぇだろぅよ・・・そこでだ、そんなアンタを見込んでだ、ひとつ、頼みがあんだけんどなぁ・・・。

竹澤右京亮 ・・・。

畠山国清 ヤツをだまくらかして、討っちまう・・・あんたほどの適任者、他には、いねぇやなぁ。

竹澤右京亮 ・・・。

畠山国清 どんな謀略使ってもいいから、なんとかして新田義興、討ってよ。ヤツの首、基氏様にお見せしようじゃねぇか。

竹澤右京亮 ・・・。

畠山国清 そうなりゃ、恩賞は、あんたの望みのままだもんなぁ。

竹澤右京亮 (眼ギラギラ)・・・。

畠山国清 なぁ、どうだい?

右京亮は元来、欲の深い性格、世間の人々の嘲りをものともせず、古のよしみを顧慮(こりょ)する事も無い、情けのヒトカケラもない男である。

竹澤右京亮 ・・・わぁかりやした、やりやしょう。

畠山国清 おぉ!

竹澤右京亮 まずは、わしに対する義興殿の疑惑を消さなきゃ・・・そうでねぇと、接近できませんもんねぇ・・・。

畠山国清 そうだなぁ。

竹澤右京亮 畠山殿、こうしません? まずは、わしがわざと、法律に触れるような事をしでかす。で、畠山殿から勘気(かんき)をこうむり、追放の身になった、という事にして、領地へ帰る。その後、わしは義興殿に接近する・・・と、まぁ、こんなカンジでどうです?

畠山国清 いいねぇ!

このように、綿密にしめしあわせた後に、竹澤右京亮は自邸へ戻った。

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翌日、竹澤右京亮は、「工作」を開始した。

あちらこちらの宿場からキレイドコロ数十人を自宅に呼び寄せ、連日連夜のドンチャン騒ぎ。さらには、とりまき連中2、30人を呼び集め、10余日間、昼夜ぶっとおしで、賭博(とばく)をやらかした。

ある人が、彼のこの行状を、国清に知らせた。

畠山国清 (激怒)竹澤め、ケシカランやつだぁ! ヤツが犯してる法律、一つや二つじゃぁ、キカねぇぞ!

畠山国清 たとえ道理から外れた法律であったとしても、その法律を破ってもいぃってぇ道理なんかね(無)ぇんだよ。ましてや、人倫(じんりん)の道にのっとって制定された法律を破ったとあっちゃぁ、もう、タダじゃぁすまされねぇぞぉ!

畠山国清 人間一人の罪を戒むるは、万人を助けんがため。今この時、ゆるい処罰をしてたんじゃぁ、世間にシメシがつかねぇ!

国清はそく、右京亮の領地を没収し、鎌倉府から彼を追放した。

それに対して、右京亮は一言の弁明をすることもなく、

竹澤右京亮 てやんでぇぃ! 基氏殿に仕えなくたってぇ、この身一つ食わせていくことくらい、ラァクラク(楽々)できらぁな!

このように、声高らかにうそぶきながら、右京亮は自分の領地へ帰っていった。

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数日後、右京亮は、新田義興のもとへ密書を送った。

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私の親、竹澤入道は、殿の御父君であらせられます故・新田義貞殿の配下に属して、忘れもしないあの元弘(げんこう)年間の、打倒・鎌倉幕府戦を、戦い抜きました。その際の忠功は、抜群のものがありました。

私もまた先年、武蔵野合戦において、殿のお味方に馳せ参じ、忠戦致しました事、よもや、殿はお忘れではございませんでしょう。

その後、世の転変度々に及び、殿のご所在も分からなくなってしまいました。いたしかたなく、しばらくは、この命を保って、再び殿が活躍される日の来たるのを待とうと思い、以来、私は、畠山国清の配下に所属しておりました。

ところが、私のこの心中に秘めた志、どういうわけか、表面化してしまい、さしたる罪科とも思えない事に対して、畠山からケチをつけられ、一所懸命(いっしょけんめい:注4)のわが領地を、没収されるに至りました。

このままでは早晩(そうばん)、討たれてしまうだろうと思いましたので、すぐに、武蔵の畠山陣営から逃亡して、今は、深山幽谷(しんざんゆうこく)に潜伏(せんぷく)しておる次第(しだい)です。

私のこれまでの、殿に対する不義の行為をお許しいただけますならば、私は直ちに、殿の直参(じきさん)の家来となりまして、いざという時には、殿のおん為に、わが命を投げ出す所存(しょぞん)です。

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(訳者注4)「わが命が懸かっている所」の意味。武士階級の人々の生活の頼みはまさに、「わが領地」であった。
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このように、右京亮から、ねんごろに言ってきたのであったが、

新田義興 うーん・・・どうも信用できねぇなぁ。

というわけで、義興は右京亮に会おうともせず、秘密の相談を持ち掛ける事もなかった。

竹澤右京亮 (内心)この程度じゃぁ、だめかぁ・・・よぉし。

さらに、心中の偽らざる所を顕わして、義興に接近しようと思い、右京亮は、京都へ部下を派遣した。

部下は、ある皇族の家から、周囲から「少将殿(しょうしょうどの)」と呼ばれている年齢16、7歳の上級女房をもらいうけ、武蔵に連れ帰ってきた。

竹澤右京亮 うわぁ、こりゃぁいいねぇ。容色類(ようしょくたぐい)まれ、心様(こころさま)も優(ゆう)にやさしく・・・ゼッタイ、義興、いかれちまうぜぃ。

右京亮は、彼女を自分の養女にし、装束(しょうぞく)や召し使いなど様々に整えた上で、義興のもとへ彼女を送った。

義興は元来、好色の心深い人、少将殿とメロメロに、思い通わしてしまった。

新田義興 (内心)あぁ・・・たった一晩、彼女と離れているだけでも、千年も経ってしまったようなキモチする・・・はぁ・・・。

いきおい、隠れ家を変える事もしなくなり、少々、気も緩みがちになってきた。

新田義興 (内心)竹澤は、信用ならんヤツだ。そして、彼女は、その竹澤の養女・・・でも、養女ったってな、ついこないだ、養子縁組みしたばかりなんだろう? 大丈夫、彼女は、信用していいよ。

警戒すべき竹澤であるならば、それとわずかの縁しか無い者に対しても、やはり、警戒を怠ってはならないのに・・・。

「褒姒(ほうじ)ひとたび笑(え)んで、幽王(ゆうおう)国を傾け、楊貴妃(ようきひ)傍らに媚(こ)びて、玄宗(げんそう)世を失う」とは、まさに、このような事を言うのであろうか。

かの太公望(たいこうぼう)いわく、

 利を好む者には 珍財(ちんざい)を与えて 迷(まよ)わせよ
 色を好む者には 美女(びじょ)を与えて 惑(まよ)わせよ

 (原文)
 好利者興財珍迷之
 好色者興美女惑之

このように、敵を陥れる謀略の手口を、太公望がわざわざ示してくれているというのに、それを知らないとは、義興も愚かなものである。

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竹澤右京亮の工作は、ついに効を奏した。

「あなたのお味方になりたい」との切々たる訴えに、義興もついに心を許し、右京亮に面会した。

右京亮は、鞍を置いた馬3匹に新品の鎧3領を添え、お召し替用の馬として、義興に贈った。さらに、越後から義興と共にやってきて、そこかしこに潜伏している武士たちに対して、酒宴のもてなしを行い、馬、鎧、衣装、太刀、刀に至るまで、様々の品物をとりそろえて与えた。

その結果、義興は右京亮に対して、格別の信頼を置くようになり、義興の周囲の人々も皆、「こんなに役に立つ人は、他にはいないな」と、大いに喜んだ。

このように、朝に夕にと、義興に対して犬馬(けんば)の労を積み、昼となく夜となく、自分に二心無い事を顕わし続けていくこと半年、右京亮に対する義興の警戒心は、完全に消滅してしまった。

何かにつけて、右京亮に心おきなく接するようになり、打倒・鎌倉府の計略、自分に味方する者の数等、何一つ隠すことなく、残らず、右京亮にうちあけるようになってしまった。あぁ、なんという事であろうか。

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今宵は9月の13日、仲秋の明月の日。暮天(ぼてん)と共に、雲は晴れ、明月の名にふさわしく、月もきっと光り輝くことであろう。

竹澤右京亮は、信頼のおける一族若党300余人を、集めていわく、

竹澤右京亮 このようにな、皆に集まってもらったのは、他でもねぇ、今夜、一大重大事を、決行するからでぇぃ。

竹澤一族若党・メンバー一同 ・・・。

竹澤右京亮 今宵、月見の会に事よせて、新田義興をこの館へ招き入れる・・・で、宴たけなわとなったその時・・・。

竹澤一族若党・メンバー一同 ・・・。

竹澤右京亮 義興をヤっちまうんだ!

竹澤一族若党・メンバー一同 !(一斉にうなずく)

竹澤右京亮 おまえら全員、館の近くに、待機してろ。義興が館に入るのを見届けて、館内へ入ってこい。で、オレが合図したら、そく、客殿へ突入しろ!

竹澤一族若党・メンバー一同 !(一斉にうなずく)

やがて、日が暮れた。

竹澤右京亮 さぁてと・・・。

右京亮は、義興のもとに赴いていわく、

竹澤右京亮 義興様、今宵は、仲秋の明月じゃぁごぜぇませんか。おそれながら、私のオソマツな館へいらっしゃって、草深き庭の上に輝く月を、どうぞ、ご覧あそばせな。

新田義興 うーん、いいなぁ。

竹澤右京亮 ご家来衆の方々も、どうぞ、ごいっしょに。キレェドコロも、少々、呼んでおりますぜぃ。

新田義興・部下A うっひょー!

新田義興・部下B うれしいねぇ。

新田義興・部下C 今夜は愉快に遊べそう。

新田義興・部下一同 行こう、行こう!

すぐに、馬に鞍を置かせ、郎従達を集めて、まさに竹澤邸へ向かおうとしたその時、少将の局からの手紙が届いた。

新田義興 う? いったいなんだぁ?

手紙 パサパサ・・・(開かれる音)

手紙には、次のように。

 「うち(私)、ゆうべ(昨夜)、ものすごい悪い夢みましたんどす。ものすごい気になるもんやから、夢占い師に相談してみましたんどす。そしたら、なんとまぁ、「厳重なる慎みが必要です、7日間、門から一歩も出たらいけません!」言うやおへんか・・・。殿、どうぞ、むちゃな事、絶対に、せんとくれやしや。」

これを見て、義興は、執事(しつじ)の井弾正忠(いのだんじょうのちゅう)を側に招いて、

新田義興 なぁ、少将が、こんな事、言ってきたんだけど・・・どう思う?

井弾正忠 はい・・・(手紙を読んで)・・・うーん、やっぱしねぇ、凶事の予言を聞いたとあっちゃぁ、外出は慎むべきですよ。とにかく、今夜の宴には行かない方がいいと思います。

新田義興 うん、わかった、そうする。

義興は、「急に風邪ぎみになってきたので、今夜の宴会への出席は見合わせる」と言って、右京亮を帰らせた。

竹澤右京亮 (内心)うーん、残念! もうちょっと、という所だったのになぁ・・・。

竹澤右京亮 (内心)どうも、あの女からの手紙を見て、宴会欠席という事になったらしい・・・という事はだぞ・・・おそらく、あの女、おれのこの企みに感づきやがった・・・で、義興に注進に及んだ・・・そうに違いない・・・。

竹澤右京亮 (内心)ヤバイ! あの女を生かしといちゃ、ヤバイ!

翌夜、右京亮は、密かに少将の局の住居を訪れ、彼女を門口まで呼び出した。

少将の局 はいはい・・・あのぉ、なにか・・・。

竹澤右京亮 エヤ!

少将の局 アァ!

右京亮は、少将の局を刺し殺し、掘の中へ沈めた。

あぁ、いたわしきかな、少将の局。

戦乱のうち続く京都ゆえに、皇族方の家でさえも、困窮の度は増すばかり、長年仕えてきた者たちは、秋の木の葉のごとく、散りぢりに去っていく。皆、自分の体一つ養うだけでせいいっぱい、頼りになる人は誰もいなくなってしまい、浮き草のごとき日々を送る。

そのような状態であったからこそ、この竹澤右京亮という人に、自分の運命を託し、彼の養女となったのであった。

なのに、わけも何もわからないままに、あっという間に殺されて、秋の霜の下に伏し、深い淵の中に身体を沈められるとは・・・彼女のこの最期、思いやるだに哀れ、涙が出る。

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竹澤右京亮 (内心)新田義興討伐、オレ一人の力じゃ、到底、むりだなぁ。

というわけで、右京亮は、畠山国清に手紙を送った。

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 「ついに、新田義興の潜伏先を、きっちりと把握いたしました。しかし、わが竹澤家の者だけで彼を襲っていったのでは、なにせ小勢ですから、討ち漏らしてしまう可能性が大きいです。」

 「つきましては、私の親類である江戸遠江守(えどとおとうみのかみ)と江戸下野守(しもつけのかみ)を、こちらに派遣してくださいませ。彼らと、よくよく作戦を練った上で、必ず、新田義興を討ちとりますから。」
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国清は大いに喜び、すぐに、江戸遠江守とその甥・江戸下野守を、現地に送る事にした。

畠山国清 (内心)いや待った! ただ単に、ヤツラを送り込むだけじゃぁダメだ。その情報をキャッチしたら、義興は、またまた潜伏場所を変えて、こっちの手の届かない所に行っちまうかもしれんからな・・・うーん、いったい、どうするべい?

畠山国清 (内心)よし、こうしよう。

国清は、江戸たちとしめし合わせた上で、彼らの領地の稲毛庄(いなげしょう:神奈川県・川崎市)12郷を没収し、自らの代官を置いた。

江戸たちは、偽って大いに怒り、すぐに稲毛庄へ馳せ下った。そして、国清が送り込んできた代官を追い出し、城郭を構え、一族以下500余騎を招集した。

江戸遠江守 こうなったら、もうトコトン、やってやるからな!

江戸下野守 畠山に向かって、矢の一本でも射てから、討死にしてやらぁ!

それから程無く、江戸遠江守は、竹澤右京亮を介して、新田義興に手紙を送った。

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わが一族の一所懸命の領地を、無法にも畠山に没収され、我ら江戸氏、叔父も甥も、共にボロボロの状態になってしまいました。

このままでは、もうどうしようもないので、一族を率いて、鎌倉府の足利基氏(あしかがもとうじ)殿の御陣に馳せ向かい、あのにっくき畠山国清に、一矢射てやろうと思っております。

ただし、問題は兵力です。しかるべき人を、大将として仰がなければなりません、でないと、誰も我々に加勢してはくれんでしょう。

そこで、新田義興殿にお願いします、なにとぞ、我々の大将となって、全軍の指揮を取って下さいませんでしょうか。

この提案をお受け頂けるのでしたら、まず、お忍びで、鎌倉へいらしてくださいませ。あそこには、当家の一族、少なめに見積もっても、2、3,000騎はおりますから、イッキに鎌倉を制圧できましょう。

鎌倉制圧の後は、相模(さがみ:神奈川県)一国を打ち従え、関東8か国を平定。その後は、足利氏の天下を覆してしまう謀を、どうぞ、めぐらしてくださいませ。
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このように、いとも簡単に事が成るかのように、書き記して送った。

江戸からの手紙を読んで、義興は、

新田義興 あの、忠誠心深い竹澤が、仲を取り持って言ってきたんだもんな、これは信頼してもいいだろう。

新田義興 よぉし、行くぞ! いざ、鎌倉!

義興は直ちに、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、上野(こうずけ:群馬県)、常陸(ひたち:茨城県)、下総(しもうさ:千葉県北部)中の、自分に内々、志を通じてくれている人々に対して、この計画を通知した。

10月10日の暁、義興は、隠密裏に鎌倉へ向かった。

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江戸と竹澤は、新田義興・殺害計画を着々と整え、矢口渡(やぐちのわたし:位置不明)で、彼を待ちかまえた。

渡し舟には、前もって仕掛けが施されていた。底部に2箇所、穴が開けられており、その穴は、桧(ひのき)の内皮を砕いて作った詰め物を押し込んで、ふさがれていた。

川の対岸は、宵の頃より、江戸遠江守と江戸下野守率いる300余騎で、ビッシリとかためられた。全員、完全武装で、木の陰や岩の下に待機。生き残った者がいたら、確実にしとめてしまおうと、用意万端、怠りない。

川のこちら岸には、竹澤右京亮が、えりすぐりの弓射の達人150人を率いて待機。義興が引き返してくるような事があれば、遠矢を浴びせて射殺そう、とのたくらみである。

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「大勢で行ったのでは、あやしまれるから」というので、新田義興は、郎従たちを小出しに鎌倉へ送っており、彼の周囲には、わずかの人数しかいなかった。

義興は、世良田右馬助(せらだうまのすけ)、井弾正忠、大島周防守(おおしますおうのかみ)、土肥三郎左衛門(とひさぶろうざえもん)、市河五郎(いちかわごろう)、由良兵庫助(ゆらひょうごのすけ)、由良新左衛門(ゆらしんざえもん)、南瀬口六郎(みなせくちろくろう)ら、わずか13人だけを従え、他のメンバーは一切交えずに、矢口の渡しに到着した。

彼らは、例の渡し舟に乗り込んだ。

舟は、川の中へ漕ぎ出した。

今、眼下を流れいくその河が、まさに死出の旅路に渡る三途の川であるとは、到底、思い知るすべもなし、あぁ哀れなるかな、舟上の人々・・・。

この状況をたとえるならば、無常(むじょう)の虎に追われて煩悩(ぼんのう)の大河をようやく渡り終えたと思うやいなや、眼前に三毒(さんどく)の大蛇が浮かび出て、我を呑まんと舌を延べる。大蛇の害から逃れんと欲して、岸に生える草の根に命を懸けてしがみつけば、黒白2匹の鼠が忽然(こつぜん)と出現し、その草の根をかじり始める・・・まさに、あの無常のたとえに他ならない、もはや絶望的としか、いう他はない。

この矢口渡、川幅は4町余り、波険しくして、河底は深い。

船頭は、ひたすら櫓(ろ)を押し続け、舟は川の中ほどに達した。

と、その時、

船頭 あ、しまったぁ!

櫓 ボシャン!

ミスって手から滑り落してしまったかのように装いつつ、船頭は、櫓を河に落した。

次の瞬間、二人の水夫が、例の二個所の穴から、詰め物を同時に抜き放つやいなや、河中へ身を躍らせた。

あっという間の出来事であった。

船頭や水夫たちは、悠々と浅瀬に泳ぎ着いて逃亡。後に残されたのは、みるみる浸水していく舟に取り残された、義興と13人のメンバーのみ。

対岸に、江戸が率いるメンバー4、500騎が現れて、トキをどっと作る。

江戸サイド・リーダー ヤッタァー、ヤッタァー、

江戸サイド・メンバー一同 オオオオーーー!

こちら岸からも、それに呼応して、

竹澤サイド・メンバーG やった、やったぁ!

竹澤サイド・メンバーH ウヒャヒャヒャヒャ・・・。

竹澤サイド・メンバーI やつら、まんまとハマリおって!

竹澤サイド・メンバーJ ヌケヌケと、だまされおったわ。

竹澤サイド・メンバーK ザマァ見やがれぃ!

竹澤サイド・メンバー一同 ウッヒャッヒャッヒャッ・・・(パンパンパンパン・・・エビラを叩く)

舟への浸水はどんどん進み、ついに全員、腰まで水につかってしまった。

井弾正忠は、新田義興をだいて、空中に差上げた。

新田義興 (激怒)あぁ、残念無念! 日本最悪の無法モンらに、まんまと、だまされちまったぁ! よぉし、見てろよ、これから7回生まれ変わって、おまえらに、とっついてやっからなぁ! この恨み、晴らさでおくもんかぁー!

激怒の中に、義興は腰から刀を抜き、左の脇から右のアバラ骨の所まで、かき廻しかき廻し、2回切った。

井弾正忠は、自らの腸を引き切って川の中へガバと投げ入れた後、自分の喉を2箇所刺し、自らの髪をひっつかんで首を後ろへ折った。その首骨の折れる音は、2町先までも聞こえたほどである。

世良田右馬助と大嶋周防守は、互いに、刀を柄まで刺し違え、引き組んで川へ飛び込んだ。

由良兵庫助と由良新左衛門は、舟の後方に立ち上がり、刀を逆手に取り直し、共に、自分の首をかき落した。

土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎は、袴の腰を引きちぎって裸になり、太刀を口にくわえて、川へ飛び込んだ。彼らは、水中を潜って対岸にかけ上がり、300騎の中に走り入って1時間ほど切りあった。5人を討ち取り、13人に負傷を負わせた後、共に死んでいった。

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その後、江戸と竹澤は、水泳達者のメンバーを川に入れ、新田義興と彼の家来たちの遺体を捜索させた。その結果、全員の遺体が引き揚げられた。

保存の為に酒に浸された義興と家来たち13人の首を持ち、江戸遠江守、江戸下野守、竹澤右京亮は、500余騎を従えて、足利基氏が駐在しているキャンプ(camp)・入間川(いるまがわ)(埼玉県・狭山市)(注5)へ向かった。

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(訳者注5)原文では、「左馬頭殿の御坐(おわします)武蔵の入間河の陣へ馳参。」
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畠山国清は大喜び、さっそく、小俣宮内少輔(おまたくないしょうゆう)(注6)、松田(まつだ)、河村(かわむら)(注7)を呼び出して、彼らに、その首を見せた。

彼らは全員、「これは、新田義興殿に、まちがいありません」と、認めた。

彼らは、3、4年前のわずか数日間ではあったが、義興の旗の下に馳せ参じた当時の事を語り、涙を流した。

彼らの涙を見て、足利サイドの人々も、喜びの中にもついつい、もらい泣きしてしまうのであった。

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(訳者注6)31-1 に登場。

(訳者注7)31-4 に登場。
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新田義興(幼名:徳寿丸)は、愛人が生んだ子であったので、長男の義顕(よしあき)が死んだ後も、新田義貞(よしさだ)は彼を嫡子には立てず、三男の義宗(よしむね)を、新田家の後継者とした。

わずか6歳にして早くも朝廷での昇殿(しょうでん)を許され、華やかな人生のスタートをきった義宗とは違い、義興の方は、まったく世に出る事もなく、孤児のような状態のままに、新田家の本拠地・上野国(こうずけこく)に捨て置かれていた。

ところが、奥州国司(おうしゅうこくし)・北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、陸奥(むつ:東北地方東部)から鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ攻め上ってきた際に(注8)、新田義貞に心寄せる武蔵(むさし)と上野の武士たちは、この徳寿丸を大将にかつぎ、3万余騎の軍勢でもって北畠軍に合流し、鎌倉を攻め落した後、吉野までやってきた。

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(訳者注8)19-7 参照。
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後醍醐(ごだいご)先帝(当時は天皇)は、徳寿丸を見て、

後醍醐天皇 なんとまぁ、りっぱなもんやないかいな! 武勇に優れてるとこなんか、まさに、父親譲りやわなぁ。

後醍醐天皇 まさに、この子やで、次代の新田家を盛り立てていくのんは・・・。

後醍醐先帝は、御前にて徳寿丸の元服式を上げさせられ、「新田左兵衛佐義興(にったさひょうえのすけ・よしおき)」と命名して、彼を召し使われるようになった。

義興は器量に優れ、軍略においてもまことに巧み、頭の回転も早かった。吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)の武蔵野(むさしの)合戦、鎌倉合戦においても、大軍を破り、万卒を相手に戦った。まことに、古今まれにみる戦上手の人といえよう。

その後、世間の目から隠れ、身辺に2、3人を従えただけで武蔵や上野に潜伏していた時、宇都宮家(うつのみやけ)家臣の清党(せいとう)300余騎の包囲をもってしても、彼を討つ事ができなかった。

「新田義興という人は、まるで天を翔(かけ)り、地を潜る術を身につけているかのようである、まったくもって、驚嘆すべき勇者である」との世間のうわさに、足利幕府・鎌倉府の足利基氏(あしかがもとうじ)も、京都の足利義詮(よしあきら)も、彼を恐れていた。

しかし、ついにその命運も尽き、才覚無き愚かな者たちにだまされ、水に溺れて討たれてしまったのである。

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やがて、「新田義興を討った江戸と竹澤の功績は、抜群である」ということで、数箇所の領地が、彼らに恩賞として与えられた。

「あぁ、武士としての面目躍如(めんもくやくじょ)じゃないか!」と、これを羨む人もあり、「きたねぇ男の振舞いよぉ」と、批判する人もいた。

「なおも、新田に同心した者たちを詮議する為に必要だから」という事で、竹澤右京亮は、キャンプ・入間川に留め置かれた。

一方、江戸家の二人は、足利基氏にいとまごいをして、今回新たに恩賞として下された領地へ赴く事になった。

江戸遠江守は大喜びで、ただちに拝領の地へ下向した。

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10月23日の暮れ方、江戸遠江守は、矢口渡に到着、渡し舟の来るのを待った。

先日、義興が川を渡ろうとした際に、江戸から言われるままに、詰め物を抜いて舟を沈めた例の船頭は、

船頭 なになに、江戸遠江守さまが、恩賞の領地へこれから行かれるんだってぇ? そりゃ、お祝いしなきゃなぁ。

船頭は、種々の酒肴を用意し、迎えの舟を漕ぎ出した。

舟が川の中程に達した時、にわかに、天がかき曇り、雷鳴が轟(とどろき)き始めた。強風が激しく吹きすさび、荒波が舟を翻弄(ほんろう)する。船頭は、あわてて櫓を押し、こぎ戻そうとして舟にUターンをかけた。しかし一瞬の間に、逆巻く波に舟は呑まれ、漕ぎ手も舵取りも、一人残らず水底に没してしまった。

岸にたたずみながら舟の来るのをじっと眺めていた江戸遠江守は、この想像だにしなかった展開を見て、恐怖におののいた。

江戸遠江守 (顔面蒼白)(内心)タタリだ、タタリだぁ! 天の怒り、こりゃ、タダゴトじゃぁねぇぞ!

江戸遠江守 (顔面蒼白)(内心)怨霊(おんりょう)だ、怨霊だ・・・きっと、義興の怨霊だぁ!

彼は、川端から後すざりした。

江戸遠江守 (内心)別の渡しを渡ろう。

20余町ほど上流にある渡しめがけて、遠江守は馬を駆った。

ひっきりなしに、眼前には電光がひらめき、雷鳴は轟音(ごうおん)を発して轟きわたる。付近には民家も無く、日は暮れてしまった。

江戸遠江守 (内心)今にも、雷神に蹴り殺されてしまうかも・・・どうか、お助けを、義興殿・・・。

もはや、渡し場どころではない、手を合わせて虚空を拝し、必死に四方に逃げまわる。

とある山麓の辻堂が目に止り、

江戸遠江守 (内心)よし、あそこまで、なんとか・・・。

馬をあおりにあおる。

その時、黒雲が一群、遠江守の頭上に下りてきた。

思わず首をすくめる遠江守。

その次の瞬間、彼の耳のすぐ側で、轟音がとどろいた。

雷 バリバリバリ!

江戸遠江守 ウァ!(のけぞる)

江戸遠江守 ・・・(恐怖のあまり、後ろをキッとふりかえる)ウアァ!

彼の背後にはなんと、あの新田義興が! 火のような真っ赤な糸で威(おど)した鎧に、龍頭(たつがしら)の5枚かぶとの緒を締め、白栗毛(しろくりげ)の馬・・・よく見ると、馬の額には角が生えている!

江戸遠江守 ウアアアアア・・・(馬に拍車、拍車、拍車、拍車・・・)

江戸遠江守の乗馬の蹄 タタラッ、タタラッ、タタラッ、タタラッ・・・。

新田義興 ・・・。

新田義興の持つ鞭 ビシ! ビシ! ビシ! ビシ!(馬に鞭を当てる音)

新田義興の乗馬の蹄 ドドドッ、ドドドッ、ドドドッ、ドドドッ・・・。

義興の乗馬はたちまち、遠江守の乗馬に追いつき、義興は右側に、遠江守は左側に、二頭は並走状態となった。

新田義興 ・・・(左手に弓を持ち、右手で、長さ約7寸のカリマタ矢をつがえる、そして、身体を左下にグット落とす)

新田義興の弓 ギリギリギリギリ・・・ビュィ!

新田義興の矢 ヒューーーー! ズヴーーーヴァ!(遠江守の肩甲骨を貫通し、乳の下へ鏃が出る)

江戸遠江守 ウア・ア・ア・アー・・・。(落馬)

落馬した江戸遠江守のもとに、家臣らが懸け寄ってきた。

家臣L 殿、殿!

家臣M 気をたしかに!

江戸遠江守 義興殿、義興殿、どうか助けて、命ばかりは、どうか、どうか、フワッ、フワッ・・・。

家臣N えぇっ? 義興殿? いってぇ、ナニ言ってんですか。

家臣L 義興なら、こないだ、やっつけましたじゃん。

江戸遠江守 そこに、義興が・・・真っ赤な鎧・・・フワッ、フワッ・・・。

家臣M だぁれも、いやしませんぜ。なに言ってんですか、もう!

江戸遠江守 いや、いるんだ、そこに・・・見えないか・・・義興が、義興が・・・ウウウ・・・フワッ、フワッ・・・ゲボッ(吐血)。

家臣L いけねぇ、何とかしなきゃ!

家臣M 殿、殿!

江戸遠江守 ・・・(悶絶(もんぜつ))。

家臣N とにかく、お館へ! 早く!

家臣たちは、遠江守を輿に乗せ、やっとの思いで江戸邸へたどりついた。

それから7日間、遠江守は、もだえにもだえ、苦しみ続けた。手足をあがき、水におぼれた時のような動作をしながら、絶叫するのである。

江戸遠江守 ・・・ああ、苦しい、とてもガマンできん・・・助けて・・・助けて・・・どうか・・・。(バタバタバタバタ・・・手足を激しく動かす)

彼は、絶叫の中に息絶えていった。

この世はしょせん、諸行無常(しょぎょうむじょう)、明日をも知れぬ命の中に、わずかの慾にかられ、人道から外れた事を企み行ったその結果、一月もたたない中に、因果応報(いんがおうほう)の理(ことわり)歴然(れきぜん)、たちまち悪報(あくほう)が、その身に下ったのである。これは又、未来永劫(みらいえいごう)、江戸遠江守の成仏を妨げる障害ともなっていくのである。

武士の家に生れ、先祖代々の家業を継いで弓矢を取る事は、世俗の法であるがゆえに、それはそれで仕方が無い事である。しかしながら、このような人の道に外れるような策謀を好み行う、というような事は、人間、決して、やってはならないのである。

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その翌夜、眠りについた畠山国清は、悪夢にうなされた。

翌朝早く、国清は、起床して周囲にいわく、

畠山国清 いやぁ、ゆんべ(昨夜)はよぉ、とんでもねぇ悪ぅい夢、みちゃってなぁ・・・。

畠山家臣O いってぇ、どんな夢ですかね?

畠山国清 いやぁ・・・あのさぁ・・・例の新田義興が、出てきちゃったのぉ。

畠山家臣P んもう・・・エンギでもねぇ。

畠山国清 黒雲の上に突然な、太鼓の音とトキの声がな。いってぇどこのどいつが、攻めてきやがったんだろうなぁってぇ、思ってなぁ、そっちの方をじっと睨んでたんだよ、するとだな、なんと・・・。

畠山家臣一同 ・・・。

畠山国清 ワォ、あれはぁ! マギレもねぇ新田義興! 身長2丈の鬼の姿になっちまってるじゃん・・・牛頭(ごづ)、馬頭(めづ)、阿放(あほう)、羅刹(らせつ)ども10人ほど、前後に従えちゃってぇ・・・火の車、引いちゃってぇ・・・あああ、いかん! 基氏様の陣中へ、入っていきやがるぅ!

畠山国清 いかん、いかん、基氏様を守らなきゃ・・・いかん、いかん、おぉい、馬、馬・・・誰か、誰か、いねぇのかよぉ・・・誰かぁーーー!(ガバッ)

畠山国清 ・・・ってなフゥにな、必死になって叫んでたとこで、夢から覚めたんだ。

畠山家臣一同 ・・・。

その時急に、キャンプ・入間川のエリア一帯に、雷が光り始めた。

雷 ビカビカァ!・・・・ドドドドド、ドシャァーーーン!

畠山家臣一同 ウア!

畠山国清 ウアア!

この落雷により、キャンプ・入間川の付近の民家300戸、神社仏閣数10箇所が、あっという間に焼失してしまった。

怪奇現象は、それだけには止まらなかった。

義興の最期の地となった矢口渡には、その後、夜な夜な、ボォッと光る物体が出現し、往来の人々を悩ますようになった。

近隣の村人たちが集まって、義興の怨霊を静める為に、矢口渡の付近に神社を建立し、彼の亡霊を神として崇め奉った。その社は、「新田大明神(にっただいみょうじん)」と呼ばれ、常盤(ときわ)や堅盤(かたわ)の祭礼が、現在も絶える事なく続いているという。

以上、まことに不可思議なる数々の現象である。

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