太平記 現代語訳 32-3 山名父子、幕府に反旗をひるがえし、吉野朝側勢力となる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)での対・吉野朝・戦において、大いなる戦功を上げた山名師義(やまなもろよし)は(注1)、一人ほくそえんでいた。

山名師義 (内心)いやぁ、ウハハハ・・・今度の褒賞はきっと、オレが一番だわな・・・ウハハハ・・・。

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(訳者注1)山名師義の八幡山戦への参戦については、31-5 を参照。
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山名師義 (内心)さて、そこでだ・・・問題は、どこを恩賞に願い出るかだが・・・そりゃぁもう、あそこ、あそこに決まってるわな、若狭(わかさ:福井県西部)の今富庄(いまとみしょう:福井県・小浜市)だわ。

山名師義 (内心)あそこは、先年、拝領したんだが、まだ、実効支配できてない。だからこの際、あそこを完全に、かためきってしまうべきだわな。

山名師義 (内心)となると、対幕府ロビー活動が、ちょっとばかし、必要になってくるんだが・・・いったい、どのルートを使うべきか・・・そうだなぁ、やっぱし、佐々木道誉(ささきどうよ)かな・・・ヤツに、口ききしてもらうのがベストだわ。

というわけで、師義は、佐々木邸へせっせと日参しはじめた。しかし、訪問する度に、

佐々木邸門番A 殿は、今日はお留守です。連歌の御会席に出かけられました。

佐々木邸門番B あいにく、殿は今、茶会のまっ最中でして・・・。

行けども行けども、門前に数時間立ち続け、日が暮れるまで待たされたあげく、何の成果も無く帰宅。

このような事が度重なり、ついに、師義は怒り心頭に達してしまった。

山名師義 (小声で)おいおい、あの佐々木道誉ってヤツ、いったいナニ考えてる!

山名師義 (小声で)古代中国・周(しゅう)王朝の時代、かの周公旦(しゅうこう・たん)は、文王(ぶんおう)の子、武王(ぶおう)の弟という身分でありながら、髪を洗っている最中に嘆願者が来たら、髪を握ってそれに面会し、飯を食っている時に賓客(ひんきゃく)が来れば、口から飯を吐き出して、それに対面したっていうじゃないか。

山名師義 (小声で)そりゃぁ、オレはな、才能も何も無い男さ、でもな、これでも、将軍様の一門に連なってる人間なんだぞ。礼儀というものを、少しでもわきまえてるんなら、履(くつ)を逆さまに履いてでも庭に出迎え、袴(はかま)の腰紐を結びながらでも、急いでオレに対面すべきだろうが!

山名師義 (小声で)なのに、こんな無礼な振舞いをされるとは・・・まったくもって、恨めしいヤツ!

山名師義 (小声で)いったいなんで、こんな事になってしまうんだ? それはだな、しょせん、実現不可能な事を願い出ていくからだわ。

山名師義 (小声で)そういう事をするから、諂(へつら)う必要もないようなヤツにまで、ペコペコ頭を下げなきゃならんのだわ!

山名師義 (小声で)よぉし、見てろよ、今夜のうちに京都を発って、伯耆(ほうき:鳥取県西部)へ下り、すぐに謀反を起して、天下ひっくり返してやっから! 無礼なヤツラに、とことん思い知らせてやるんだわ!

このように、ブツブツと一人言をつぶやきながら館へ帰るやいなや、郎等達には何も言わずに、京都朝年号・文和(ぶんわ)元年(1352)8月26日夜、山名師義はたった一人で、伯耆めざして京都を発った。

これを伝え聞いた郎等たち700余騎は、急ぎ、彼の後を追った。

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伯耆に到着した師義は、直ちに、父・時氏(ときうじ)のもとへ行って、

師義の身体 ドタ!(時氏の前の床に座る音)

山名師義 えぇいもう! 京都で完全に面目つぶされて、帰ってきましたわ。

山名時氏 なんだ、なんだぁ、いったい、どうしったってんだぁ?

山名師義 今の幕府の政治は、もうメチャクチャだぁ!

山名時氏 まぁまぁ、そう怒るな・・・あのな、人間あまりに憤怒のストレスが蓄積しすぎると、そのうち、体に悪影響きちゃうんだわな。まぁまぁ、とにかく・・・いったい、ナニがあった?

山名師義 こないだの、対吉野朝作戦での、わが山名軍の一大戦功、幕府から完全に無視されちゃいましてね、もう、アッタマきちゃったもんだから、将軍に暇(いとも)も何も申し上げずに、黙って帰ってきましたわ!

山名時氏 なにぃ! あれほどの戦功をあげながらか!

山名師義 はい! 完全無視、無視、恩賞ゼロ! 恩賞ゼロですよぉ!

山名時氏 (激怒)えぇい、幕府の連中は、いったいナニ考えてる! ふざけるなよ!

このようなわけで、山名時氏は、吉野朝側に寝返り、打倒・足利幕府の旗揚げをした。

時氏はまず、出雲国(いずもこく:島根県東部)駐在の佐々木道誉の代官・吉田秀仲(よしだひでなか)を現地から追い出し、決起文を一帯の武士たちに回した。

その結果、富田判官(とんだのはんがん)をはじめ、伊田(いだ)、波多野(はだの)、矢部(やべ)、小幡(おばた)ら、出雲国の武士たち全員が、時氏に心を通じるようになった。

かくして、出雲、伯耆、隠岐(おき:島根県隠岐諸島)、因幡(いなば:鳥取県東部)4か国が、あっという間に、山名時氏の勢力圏と化した。

山名時氏 よし、この結果を直ちに、南の朝廷へ報告。

時氏からの報告を受けた吉野朝廷は、「そちらが山陰道を攻め上るならば、こっちからも出兵して、両者同時に京都攻めと行こか!」との返答を送った。

山名時氏 よぉし、やるぞぉ!

山名師義 イェーイ!

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吉野朝廷という大きな後ろ盾を得て、覇気リンリンの山名時氏は、京都朝年号・文和(ぶんわ)2年(1353)5月7日に、伯耆を出発、但馬(たじま:兵庫県北部)、丹後(たんご:京都府北部)の勢力3,000余騎を率い、丹波路を経て京都へ攻め上っていった。

時氏と吉野朝との事前の合意通りに、吉野朝からは、四条隆俊(しじょうたかとし)を総大将に、法性寺康長(ほうしょうじやすなが)、和田正武(わだまさたけ)、楠正儀(くすのきまさのり)、原(はら)、蜂屋(はちや)、赤松氏範(あかまつうじのり:注2)、湯浅(ゆあさ)、貴志(きし)、藤波(ふじなみ)はじめ、河内(かわち)、和泉(いずみ)、大和(やまと)、紀伊(きい)の諸国から選抜の武士3,000余騎が進軍。

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(訳者注2)赤松円心の子、赤松則祐の弟。
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京都の南方の淀(よど:伏見区)、鳥羽(とば:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、大渡(おおわたり:位置不詳)、あるいは、京都西方の梅津(うめづ:右京区)、桂の里(かつらのさと:西京区)、谷堂(たにのどう:西京区)、峯堂(みねのどう:西京区)、嵐山(あらしやま:右京区)一帯にくまなく陣を敷く。連なり燃える吉野朝軍の篝火(かがりび)は、幾千万とその数知れず。

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「山名・吉野朝連合軍、京都目指して、怒濤(どとう)のごとき進撃!」との情報に、足利義詮(あしかがよしあきら)周辺の、土岐(とき)家、佐々木(ささき)家のメンバーたちは、戦々恐々(せんせんきょうきょう)である。

土岐氏リーダーC 将軍様は、まだ鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)におられるし、京都を守る兵は少ないし・・・。

土岐氏リーダーD これじゃぁ、あまりにも多勢に無勢だで。

土岐氏リーダーE ヘタな戦して、敵に勢いつけてしまってもなぁ・・・。

佐々木氏リーダーF ここはひとまず、近江(おうみ:滋賀県)へ退避(たいひ)、という事にしては?

佐々木氏リーダーG 瀬田川(せたがわ:滋賀県・大津市)の東岸に陣を敷いて、そこで敵を待ちましょう。

足利義詮 ハァー・・・(溜息)。

土岐氏・佐々木氏リーダー一同 ・・・。

足利義詮 またまた、そんな弱気な事を・・・ハァー・・・(溜息)・・・いくら敵が大軍と聞いたからって、ただの一度も戦せずに、逃げ出しちゃって・・・そんなんでいいのぉ?

土岐氏・佐々木氏リーダー一同 ・・・。

義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を坂本(さかもと:滋賀県大津市)へ移した後、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、土岐、佐々木家の兵3,000余騎を一箇所に集め、鹿が谷(ししがたに:左京区)を背にし、吉野朝軍の来襲を待ち受けた。

結果としては、前に川あり、背後に山そびえたち、といった陣形を取った事になる。決して、逃げ退こうという思いが先行しているわけではないのだが、あの古代中国の韓信(かんしん)が兵法書の内容を完全に無視して背水の陣を敷いたのとは、だいぶ話が違うようである。

吉野朝軍リーダーH 足利側が敷いたあの陣、あのすぐ背後は、近江の地や。

吉野朝軍リーダーI 近江いうたら、佐々木の本拠地やわなぁ。

吉野朝軍リーダーJ その近江の東は、美濃(みの:岐阜県南部)、ここは土岐の本拠地や。

吉野朝軍リーダーK 京都を守りきれへんかったら、すぐに東へ退いて、自分らの本拠地で一休み。

吉野朝軍リーダーL まぁ、あいつらの考えとる事いうたら、その程度のもんやろぉて。

吉野朝軍リーダー一同 ハハハハ・・・敵の魂胆(こんたん)、ミエミエやぁ。

このように、未だ戦わざる前に、相手に心を見透かされてしまっている、足利幕府軍であった。

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文和2年6月9日午前6時、吉野朝側の、吉良満貞(きらみつさだ)、石塔頼房(いしとうよりふさ)、和田正武、楠正儀、原、蜂屋、赤松氏範率いる3,000余騎は、八条、九条一帯の民家に放火し、合図の煙を上げた。

それに呼応して、山陰道から攻め上ってきた山名時氏、山名師義、伊田、波多野ら5,000余騎は、梅津、桂、嵯峨(さが:右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)、西七条(にししちじょう:下京区)に放火し、京都中心部へ攻め入った。

京都中心部には、彼らに抵抗する動きは全く無かった。

吉野朝軍と山名軍は合流し、くつばみを並べて、四条河原(しじょうがわら:下京区)に布陣した。

かるか彼方の相手陣営を見れば、鹿が谷、神楽岡(かぐらおか:左京区)の南北一帯に、各家の旗が2、300本翻っている。中でも目立つのが、真如堂(しんにょどう:左京区)の前に立っている四ツ目結(よつめゆわい:注3)の旗一本。全軍、山中に身を潜め、木陰に待機し、その兵力の多寡(たか)も判別しがたい。

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(訳者注3)佐々木氏の紋。
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和田正武と楠正儀は、法勝寺(ほっしょうじ:左京区)の西門の前を通って、河原に兵を展開した。そして、相手をおびき出して兵力を確かめんがために、射撃隊500人を、馬から下ろした。

彼らは、持盾、つき盾を地に突きながら、しずしずと田の畦を進み、次第に幕府軍との距離を縮めていく。

この挑発に、山内定詮(やまのうちさだのり)率いる近江国の地頭や有力武士ら500余騎が応じた。

彼らはエビラを叩き、トキの声を上げ、楠軍に襲いかかった。

(この当時、佐々木氏の統領・佐々木氏頼(ささきうじより)は出家して西山(にしやま:注4)に隠棲(いんせい)し、その弟の山内定詮が彼に代って実務を執行し、近江国守護の任を果たしていた。)

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(訳者注4)西京区から向日市にかけての丘陵地帯。
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楠軍は、陽に開き陰に囲み、さんざんに矢を射る。山内軍はこれにいささかもひるむ事なく、兜のシコロを傾け、鎧の袖をかざして突撃していく。

両軍激突の様をじっと注視し、介入のタイミングを見計らっていた山名家執事(やまなけしつじ)・小林右京亮(こばやしうきょうのすけ)は、

小林右京亮 よし今だ、行ケーッ!

小林軍メンバー一同 オーーッ!

小林右京亮が率いる700余騎は、山内軍の側面を突いた。

思いがけないこの突然の攻撃に、山内軍は被害甚大、「これはとても叶わない」と、神楽岡(かぐらおか:左京区)へ退却した。

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緒戦(しょせん)をモノにして、大いに意気あがる、吉野朝・山名連合軍である。

小林右京亮 オオッ! あれはどこの軍やぁ?

東の方を見やれば、水色の旗を差し上げ、大鍬型(おおくわがた)を夕日に輝かし、魚鱗(ぎょりん)形に陣を連ねた6、700騎ほどの軍が控えている。

小林右京亮 やぁ、土岐(とき)んチの、桔梗一揆(ききょういっき)か。よぉし、行ケーッ!

小林軍一同 オーーッ!

小林右京亮は、人馬に息も継がせず、土岐軍に襲いかかろうと馬を走らせた。

これを見た山名師義は、扇を揚げて小林を制止した。

山名師義 待て待て! ここは、おれにまかせて、おまえは、ちょっと休んでろ!

師義は、新手の兵1,000余騎を率いて、土岐軍に迫っていった。

土岐軍、山名軍、双方共にしずしずと、馬を歩ませながら接近。

矢を射交わすやいなや、全員一斉に左右の鐙(あぶみ)をあおって、双方激突。

両軍合計2,000余騎は、一度にさっと入り乱れ、右側に遭って左側に背き、1時間ほど死闘を展開。馬がかき立てる土煙は、空に立ち上り、突風がほこりを舞い上げたかのよう、太刀のツバ音、トキの声は、大山を崩し、大地をも揺るがす。

激戦の末に、山名サイドが勝利を得た。

鞍の上に無人の馬4、500匹が、川より西方向へ走り出てきた。山名軍各メンバーの掲げる太刀の切っ先上には、土岐軍の人々の首があった。

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細川清氏(ほそかわきようじ)は、味方の土岐軍のこの惨敗を見ても、なおも戦意を失わなかった。

細川清氏 いやいやぁ、戦はこれからだよぉ!

清氏は勇み立ち、最前線へ自軍を進めた。

細川軍の前に、吉良満貞、石塔頼房、原、蜂屋、宇都宮民部少輔(うつのみやみんぶしょうゆう)、海東(かいとう)、和田正武、楠正儀らが、立ちはだかった。

彼らの軍メンバーは全員新手ゆえ、終始、押し気味に戦いを展開、細川軍を川から西へ追い渡し、真如堂の前を東へ追い立て、2時間ほど戦い続けた。

細川清氏 ここは断じて、退かんぞ! たとえ、1,000騎が1騎になろうともな!

しかしながら、今や、幕府軍側は各軍散り散りバラバラの状態、細川軍と後方に位置するグループとの間隔が大きく開いてしまっている。何の援護もないままに、細川軍もついに戦い破れ、戦場から退却して比叡山・四明岳(しめいがたけ)上へ逃れた。

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吉野朝・山名連合軍側メンバーの赤松氏範(あかまつうじのり)は、常に、他家の者を交えた混成軍での戦いを好まなかった。今日もまた、自分の手勢のみ5、60騎を率い、反撃に出てくる相手を追い立て追い立て、切って落しながら、前へ前へと馬を進めていく。

赤松氏範 あーあ、どこの誰とも知れんような敵、何百人切ってみたとこで、しゃぁないわなぁ。これはっちゅうような敵に、何とかして、であいたいもんや。

氏範は、北白川(きたしらかわ:左京区)から今道(いまみち)超えルート方向に、馬を歩ませていった。

赤松氏範 オッ! 居(い)とぉ、居とぉ!

はるか彼方に、洗い皮の鎧を着した一人の武士の姿が見えた。

鎧の袖と草ずりの端だけは、別色で威してある。龍頭(りゅうず)の兜の緒を閉め、腰には5尺ほどの太刀を2本佩(は)き、刃渡り8寸ほどの大鉞(おおまさかり)を振りかざし、近づく敵あらば、ただの一打ちでしとめてしまおうと、尻目に敵を睨みながら、しずしずと馬を進めて撤退していく。

赤松氏範 (内心)あれはきっと、人のうわさに聞く、長山遠江守(ながやまとおとうみのかみ)やな。あいつやったら、相手にとって不足無い。よぉし、組みついて討ってもたれ!

氏範は、左右のあぶみを打って乗馬を全速力で駆けさせ、その武士に追い着いた。

赤松氏範 おいおい、そこの洗い皮の鎧着たお人! あんたは長山殿と見たが、これはオレの人違いかな? 敵に後ろを見せるなんて、キタナイやないかぁい!

そのからかいの言葉に、武士はキッと振り返り、氏範の姿を認めるやいなや、カラカラと笑っていわく、

長山遠江守 ワハハハ・・・ナニをホザクか・・・。そういうおまえこそ、いったいどこの誰?

赤松氏範 赤松弾正少弼氏範(あかまつだんじょうしょうひつうじのり)よ!

長山遠江守 おぉ、これはこれはぁ。相手にとって不足無しだなぁ。だけんどなぁ、いきなりただの一打ちで殺してしまっちゃぁ、かわいそうってぇもんだろう、少し時間やっからな、念仏唱えて西を向けぇ!

長山は、少し体を引いて、赤松との間合いを取った。次の瞬間、

長山遠江守 ドェーイ!

例の大鉞でもって、氏範の兜の鉢めがけ、割れよ砕けよと、渾身(こんしん)の力を込めて激打。

長山の大鉞 ヴューッ!

赤松氏範 なんのぉ!

氏範は、太刀を横に払って、その鉞の打撃をそらした。

氏範の太刀 ヴァシーン!

氏範の左腕 グァシ!(鉞の柄を、捕捉)

氏範は、鉞の柄をそのまま左の小脇に挟みながら、片手でグイグイと引き寄せる。

赤松氏範 エーイ! エーイ!

氏範の猛力に引き寄せられて、双方の馬は至近距離にまで接近、両者互いに、太刀を使えなくなってしまった。

赤松氏範 (内心)この鉞さえ奪(と)ってしもたら、こっちのモンや!(鉞をグイグイ引っぱる)

長山遠江守 (内心)奪られてたまるか!(鉞をグイグイ引っぱる)

両者、しばらくもみ合っているうちに、

長山の大鉞の柄 パキーン!

藤で巻いた樫(かし)の木製の柄が、まっ二つに断裂してしまった。手元の方は長山の手に残り、刃の付いた方が氏範の左脇に留まった。

長山遠江守 (内心)今の今まで、オレ以上の大力のヤツは、この世にはいねぇと思ってたが・・・世間は広いもんだな、こんなすげぇヤツがいたのかよ・・・。こりゃぁ、とてもかなわねぇや。

長山は、氏範の猛力に勇を挫(くじ)かれ、馬の足を速めてひたすら逃げていく。氏範は大いに口惜しがり、

赤松氏範 あぁ、しもたぁ! クダラン力くらべなんかしてるもんやから、組んで討つべき長山を、討ちもらしてしもたやないかぁ・・・あぁ、しもたぁ!

赤松氏範 よぉし、こうなったら、相手が誰やろうと、敵である事に変りないわい。一人でもよぉけ、討ちとってしもたれぇ。

氏範は、長山から奪い取った鉞を使い、逃げいく敵を追いつめ追いつめ、その背後から猛打を浴びせる。その打撃を受けた者はことごとく、兜の鉢を前面まで破られてしまい、鉞は流れる血を浴びて、柄も朽ちてしまうかと思われるほどであった。

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戦いは終わった。幕府軍側の惨敗であった。

美濃(みの:岐阜県南部)勢は、土岐七郎(ときしちろう)をはじめ、桔梗一揆97騎が討死。

近江(おうみ:滋賀県)勢は、伊庭八郎(いばはちろう)、蒲生将監(がもうしょうげん)、川曲三郎(かわぐまさぶろう)、蜂屋将監(はちやしょうげん)、多賀中務(たがのなかづかさ)、平井孫八郎(ひらいまごはちろう)、儀俄知秀(ぎがともひで)以下、38騎が戦死。

その他、粟飯原氏光(あいはらうじみつ)、疋田能登守(ひきだのとのかみ)も戦死、後藤貞重(ごとうさだしげ)は生け捕りの身になってしまった。

生き残りの者たちも、負傷したり、矢を射尽くしてしまったりで、再戦は到底不可能と思われた。

やむなく、足利義詮(あしかがよしあきら)は、日没と共に京都から撤退し、坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ逃げた。

細川清氏は、なおも戦場に踏みとどまり、人馬に息を継がせながら自陣を維持していた。

細川清氏 (内心)合流してくる味方がいるなら、もう一戦してみよう。潔く勝負を挑んで、雌雄を決するまで、とことん、やってみるんだ!

清氏は、西坂本(にしさかもと:注5)まで退き、その夜はそこでねばり続けた。(注6)

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(訳者注5)比叡山の西側山麓、左京区の一乗寺のあたり。

(訳者注6)ここは原文では、「是までもなお細河相模守清氏は元の陣を引き退かず、人馬に息を継がせて、我に同ずる御方あらば、今一度快く挑み戦って雌雄をここに決せんとて、西坂本に引き、その夜はついに落ち給わず」とあるのだが、先の「比叡山・四明岳上に撤退した(原文:「細河ついに打ち負けて、四明の峯へ引き上がる」)」との記述と矛盾している。
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翌朝夜明け頃、足利義詮のもとから、伝令がやってきた。

伝令 「再度、作戦会議を行いたい。まずは、東坂本(ひがしさかもと:注7)まで来い。」との仰せでした。

細川清氏 うん・・・。

細川清氏 (内心)こうなったら、自分一人だけここでがんばってても、どうにもならないよなぁ・・・あーあ。

というわけで、翌早朝、細川清氏も、ついに京都を撤退し、東坂本へ落ち延びた。

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(訳者注7)こちらの「坂本」は、比叡山東山麓の大津市・坂本である。
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山名軍団リーダーM これで、京都は完全に制圧できたわなぁ。

山名軍団リーダーN いやいやぁ、まだ残ってるわなぁ、西山に。

山名軍団リーダーM 西山?

山名軍団リーダーN そう。西山の善峯寺(よしみねでら)。阿保忠実(あぶただざね:注8)と荻野朝忠(おぎのともただ:注9)が、たてこもってる。

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(訳者注8)29-2 に登場。

(訳者注9)8-7 に登場。そこでは「荻野彦六」という名前で登場しているが、この人のフルネームは「荻野彦六朝忠」である。
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山名軍団リーダーO 聞くところによるとなぁ、今は亡き高師直(こうのもろなお)の愛人が産んだ、高師詮(こうのもろあきら)って男がなぁ、例の騒動の後、片田舎に潜伏してたのをだなぁ、阿保と荻野らが、にわかに大将にかつぎあげてなぁ。

山名軍団リーダーN 方々から、ケッコウ集まってきてるらしいぞ。

山名軍団リーダーM 兵力、いくらくらいだ?。

山名軍団リーダーN 丹波(たんば)、丹後(たんご)、但馬(たじま)3か国の勢力、総勢3,000余騎だと。

山名軍団リーダーP たった3000かぁ、そんなのチョロイもんだわなぁ。

山名軍団リーダー一同 ま、そういう事だわな。

京都の大敵さえも、たやすく撃退して、勇気凛凛(ゆうきりんりん)の山名軍、少しの猶予(ゆうよ)もするものではない、6月11日曙(注10)、善峯寺へ押し寄せた。

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(訳者注10)史実では、6月12日。
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矢の一本も放たずに、全員一斉に切り上がる。

阿保・荻野側はてきびしく攻め立てられ、一たまりも無く、谷底へ懸け落されてしまった。

久下五郎(くげごろう)をはじめ、討たれた者は40余人、負傷者に至っては数え切れない。かろうじて逃げ延びたわずかの者も、弓矢、太刀、長刀を遺棄し、鎧も捨てて赤裸で逃げて行く。何とも見苦しい有様である。

高師詮は、2町ほどは落ち延びたが、阿保忠実と荻野朝忠は、後方から追いすがる山名勢を見て、

阿保忠実 もはやこれまで。

荻野朝忠 自害なされませ。

二人の勧めに従って、高師詮は馬上で腹を切り、逆さまに落ちて死んだ。

彼の首を取ろうと、山名軍メンバー全員が、そこに殺到してきた。

沼田小太郎(ぬまたこたろう)ただ一人、返し合わせて戦ったが、相手は大勢、自分に続く者は一人も無し、とてもかなわないと思ったのであろう、彼もまた同じく腹を切り、高師詮の死骸を枕にして、伏した。

その間に、阿保忠実と荻野朝忠は、そこから遠くへ落ち延び、救い甲斐のない命を保った。

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