太平記 現代語訳 15-7 決定的敗北を喫し、足利兄弟、九州へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「将軍、湊川(みなとがわ:神戸市・兵庫区)にご到着」との情報をキャッチして、敗戦のショックで落ち込んでいた足利軍メンバーらは、気を取り直し、方々から足利尊氏(あしかがたかうじ)のもとへやってきた。その結果、足利軍の兵力は、20万騎にまで回復した。

この勢いをもって、そのまま京都へ攻め上っていたならば、朝廷側は到底、京都に居続けることが出来なかったであろう。しかし、足利軍は、その後3日間も、湊川宿に意味も無く、逗留し続けた。

その間に、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)は500余騎を率いて京都へ帰り、朝廷側に寝返ってしまった。八幡(やわた:京都府・八幡市)に取り残された武田式部大輔(たけだしきぶのたいふ:注1)も、どうしようもなくなり、朝廷側に降伏してしまった。

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(訳者注1)[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注には、「信武。信宗の子。但し、この時降参したのではなく、安芸守護であったから八幡を捨てて安芸へ帰った(天正玄公仏事法語)。」とある。
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ここかしこに潜伏していたその他の武士たちもどんどん、新田義貞(にったよしさだ)の下に集っていき、朝廷側の兵力は増大の一途、まさに龍虎(りゅうこ)の勢いの状態となった。

2月5日、北畠顕家(きたばたけあきいえ)と新田義貞は、10万余騎を率いて京都を出発し、その日のうちに、摂津国・芥川(あくたがわ:大阪府・高槻市)に到着。

この情報をキャッチした尊氏は、対・北畠・新田迎撃戦の遂行を直義(ただよし)に委ね、16万騎をそえて京都方面へ向かわせた。

2月6日午前10時、両軍は、豊島河原(てしまがわら:場所不明)にて思いがけなくも遭遇。互いに旗を張る準備をし、東西に陣を取り、川ぞい南北に軍を展開した。

まず、北畠軍が攻撃を仕掛けた。足利軍に対して2回の攻撃を行ったが、戦い利あらず、退却して息を継ぐ。

それに入れ替わったのが、宇都宮軍。朝廷サイドに対して、いい所を見せておかねばと、攻撃したが、200余騎が討たれて退却。

脇谷義助(わきやよしすけ)率いる2,000余騎が、それに入れ替わる。

足利軍サイドは、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、高(こう)、畠山(はたけやま)が、先日の敗軍の恥を清めようと、命を捨てて戦う。

新田軍サイドは、江田(えだ)、大館(おおたち)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)が、ここを破られてはいずこへ退けようかと、わが身を無きものとして防戦を展開。

両軍互いに、死を軽んじて激闘を繰り広げるも、なかなか雌雄を決しえないままに、時間が過ぎて行く。

戦場に遅れて到着した楠正成(くすのきまさしげ)は、戦況を観察した後に、正面からの攻撃をせずに、神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)方面に迂回してから、北向きに寄せていった。

これを見た足利軍メンバーらは、終日の戦闘に疲れはてている上に、敵に背後に回りこまれてはいけないと思い、楠軍と一戦も交えずに、兵庫(ひょうご:神戸市・兵庫区)を目指して退いた。

新田義貞は、足利軍を追撃して西宮(にしのみや:兵庫県・西宮市)まで軍を進め、足利直義はこれを防ぎ戦いながら、湊川に陣を取った。

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翌2月7日、朝なぎの瀬戸内海のはるか沖合いに、順風に帆を揚げて東を目指して航行していく、大船500余隻が現われた。

足利軍メンバーA あれはいったい、どっちサイドの軍勢なんだろう? 敵か、味方か?

足利軍メンバーB おぉ! 方向転換して、こっちへ来るぜ!

足利軍メンバーC いやいや、帆を突き動かして、そのまま東に行く船もあるよ。

船団のうち、200余隻は兵庫湊へ入り、300余隻は西宮へ漕ぎ寄せた。

500隻の船団は、足利側の応援にやってきた、大友(おおとも)、厚東(こうとう)、大内(おおうち)と、朝廷側を応援するためにやってきた、伊予国(いよこく:愛媛県)の土居(どい)、得能(とくのう)の船であった。昨日までは同じ湊に停泊していたが、今日は双方へ引き分かれ、目指す陣営に属したのである。

新手の大援軍が両方に加わったので、朝廷サイド、足利サイド、双方互いに兵を進め、越水(こしみず:兵庫県・西宮市)のあたりで遭遇した。

足利サイドの兵力は、膨大であったが、

足利軍メンバー一同 (内心)やれやれ、助かった。ここはいっちょう、新手の援軍の連中に戦をお任せしてぇ、おれらはちょっと休ませてもらうとしようかい。戦闘、戦闘で、もうおれ、疲れちゃってるもん。

援軍の厚東・大友軍メンバー一同 (内心)わしらが、この戦の全責任を負わなきゃならん、てなことでもなし・・・まっ、テッキトー(適当)にやっとったら、えぇんじゃろぉ。

かたや、朝廷サイドは、兵力においては足利サイドに大きくひけを取るものの、

朝廷軍メンバー一同 (内心)この戦、他人事と思ってはいかんぞ。我が身の生死にかかわる事なんだからな!(真剣!)

援軍の土居・得能軍メンバー一同 (内心)今日の戦、ぶざまな戦だけは、しとぉない、我ら河野(こうの)一族の名を汚すことになるけんのぉ! やったるでぇ!(気力ビンビン!)

この双方の人心の様相を観察すれば、戦いが行われる前にしてすでに、両軍の安危・勝負は、目に見えたようなものと、言えよう。

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戦が始った。

「まずは、新手が先陣を」との、戦のしきたりに則り、大友、厚東、大内の3,000余騎が、一番手となって旗を進めた。

土居・得能軍は、後方へサァッと移動し、足利直義が布陣している打出宿(うちでじゅく:兵庫県・芦屋市)の西端まで、一気に懸け抜けた。

土居・得能軍リーダーD 木っ葉武者(こっぱむしゃ)には目もくれるなよ! 大将に襲いかかるんじゃ、大将になぁ!

風のごとくに散開し、雲のごとくに集合し、おめいては懸け入り、懸け入っては戦う、戦っては懸け抜ける、土居・得能軍。

土居・得能軍メンバーE おれはゼッタイ、敵に後ろ、見せんでぇ!

土居・得能軍メンバーF おれだって!

土居・得能軍メンバーG 千騎が討たれて一騎だけになろうとも、最後まで戦い続けるんじゃぁ!

土居・得能軍メンバーH ネヴァー・ギブアップゥ!(never give up)

土居・得能軍メンバー一同 ウォーーッ!

足利直義 ウーン・・・いかん・・・引けぇ! 兵庫まで退却だぁ!

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足利直義 兄上、面目ありません・・・。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 (唇を噛む)・・・。

足利尊氏 (内心)何回戦ってみても、何度戦ってみても、我が家臣たちは、見るに耐えないような戦しか、してくれない。正直言って、疲れた、もう、疲れてしまったよ、私は。

そこへ、大友貞宗(おおともさだむね)がやってきていわく、

大友貞宗 このまま、戦ばぁやっとったんでは、もうどうにもならんでしょう。

足利尊氏 ・・・。

大友貞宗 幸いにも、今ここには、船がようき(多数)ありますからな、ここはともかく、こん(この)船ばぁ使ぉて、筑紫(つくし:福岡県)へ転進(てんしん)、ということにされては、いかがでしょう?(注2)。

足利尊氏 ・・・。

大友貞宗 あちらには、小弐妙慧(しょうにみょうえ)も御味方におりますからな、九州勢のほとんどは、足利様の下(もと)に集まってきますやろ。そうなれば、やがては、大軍ばぁ動かして、京都攻める事だって、たやすくできましょうに。

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(訳者注2)原文では、「只先(ただまず)筑紫へ御開(おひら)き候(そうら)へかし」。大友は、「逃亡」という言葉を使うのを憚って「御開き」と言った、という事になっているのであろう。ゆえに、「退却」や「逃避」という語を用いずに、「転進」と訳しておいた。
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足利尊氏 ・・・やむをえんな、そうしよう!

尊氏は、大友の船に乗りこんだ。これを見た足利サイドの武士たちは、騒然。

足利側メンバーI おぉい、大変だぁ! 将軍様が、船で逃亡されるぅ!

足利側メンバー一同 エェーーッ!

みんな大騒ぎし、取る物も取りあえず、船に乗り遅れじとばかりに、慌て騒ぎ立てる。

船はわずかに300余隻、それに乗らんとする人は20万余。2,000人ほど乗り込んた船がまず沈没し、一人残らず溺死。

これを見た他の船は、「あんなにたくさん、人を乗せるわけにはいかん」とばかりに、艫綱(ともづな)を解いて漕ぎ出した。

乗り遅れた者らは、鎧や衣服を脱ぎ捨て、はるか沖合いまで泳いでいって、船にすがりつく。船の上からはそれを、太刀、長刀で斬り殺し、櫂でもって打ち落とす。

船に乗れずに汀に帰った者は、空しく自害、磯超す波に、彼らの遺骸は漂う。

福原(ふくはら:神戸市)から追い落とされ、長い浜を照らす月に心を傷(いたま)しめ、曲がりくねった海岸の波に袖を濡らし、心づくし(注3)に漂泊していくしかない、足利尊氏・・・。

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(訳者注3)「心づくし」とは「心を悩ませ」の意味。「づくし」に「筑紫(つくし)」をかけている。
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かたや、新田義貞は、百戦の功高く、数万の降人を召し具して、天下の士卒の将として、花の都に凱旋していく。

憂いと喜びが、たちまちに相い替わっていくその様、これはいったい夢を見ているのであろうか、それとも、確かな現実の出来事なのであろうか・・・まったくもって、定かならぬ、昨今の社会情勢である。

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(訳者注4)[足利尊氏 高柳光寿 著 春秋社 1955初版 1966改稿]の、479ページに、以下のようにある。

 「尊氏の和歌として歴史事実と結びつくのは、建武3年鎌倉から義貞を追って上洛したが、京都で敗れて丹波に走り、二月三草山を越えて播磨の大蔵谷へ出たときの作である。

 今むかふ かたはあかしの 浦ながら まだ晴れやらぬ わが思ひかな

 これは「風雅和歌集」に見えるもので、あかしは明石のかけ言葉。」

ここにいう「明石」とは、現在の兵庫県・明石市のことである。
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