太平記 現代語訳 32-8 神南の戦い
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「将軍様は、天皇を守護しつつ、近江国の四十九院(しじゅうくいん:滋賀県・犬上郡・豊郷町)に滞在中。義詮(よしあきら)殿は、中国地方から進軍してくる敵を食い止めるために、播磨の鵤(いかるが)庄(兵庫県・揖保郡・太子町)に、駐留しておられる」との情報を聞いて、土岐(とき)、佐々木、仁木義長(にっきよしなが)が、3,000余騎を率いて、四十九院に馳せ参じてきた。さらに、四国地方と中国地方の武士ら2万余騎が、鵤へ馳せ集まってきた。
関東地方に駐留している畠山国清(はたけやまくにきよ)からも、「関東8か国の勢力を率いて、今日、明日にでも、応援の為に上洛いたします!」とのメッセージを携えた急使が、何度も送られてくる。
このような情勢なので、尊氏・義詮父子サイドの勢は、天に飛翔して雲を起こす龍のごとし、山に寄りかかって風を生じさせる虎のごとし、である。
四十九院と鵤庄との間に使者を走らせて、合戦の日を定めた後に、2月4日、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、3万余騎を率いて坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に到着。足利義詮も同日早朝、7,000余騎を率いて、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)の西、神南(こうない:大阪府・高槻市:注1)の北方の峯に陣を取った。
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(訳者注1)現在では、[高槻市 神内]の地名になっている。
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足利直冬(あしかがただふゆ)陣営側は当初、「大津(おおつ:滋賀県・大津市)、松本(まつもと:大津市)付近にまで兵を進めて、尊氏軍を迎撃しよう」との作戦をかためていた。しかし、「延暦寺(えんりゃくじ:大津市)と園城寺(おんじょうじ:大津市)の衆徒は皆、尊氏に気脈を通じている」との情報をキャッチし、「このまま京都に留まって、東西からの敵襲を受け止めよう」と、作戦を変更(注2)、京都全体に防衛陣を敷いた。
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(訳者注2)大津まで兵を進めた後に、延暦寺、園城寺、坂本の尊氏軍によって三方向から一斉攻撃を仕掛けられたならば、直冬側は極めて不利になる。
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第1陣は、足利直冬を大将とし、斯波高経(しばたかつね)、その子・斯波氏頼(うじより)、桃井直常(もものいなおつね)、土岐(とき)、原(はら)、蜂屋(はちや)、赤松氏範(あかまつうじのり)らが率いる総勢6,000余騎によって構成。東寺(とうじ:南区)を最後の防衛拠点とし、七条(しちじょう)から南、九条(くじょう)まで、家々、小路に充満。
第2陣は、山名時氏(やまなときうじ)とその子・山名師義(もろよし)を大将とし、伊田(いだ)、波多野(はたの)、石原(いしはら)、足立(あだち)、河村(かわむら)、久世(くぜ)、土屋(つちや)、福依(ふくより)、野田(のだ)、首藤(すどう)、澤(さわ)、浅沼(あさぬま)、大庭(おおにわ)、福間(ふくま)、宇多河(うだがわ)、海老名和泉守(えびないずみのかみ)、吉岡安芸守(よしおかあきのかみ)、小幡出羽守(おばたでわのかみ)、楯又太郎(たてのまたたろう)、加地三郎(かぢさぶろう)、後藤壱岐四郎(ごとういきのしろう)、倭久修理亮(わくしゅりのすけ)、長門山城守(ながとやましろのかみ)、土師右京亮(とじうきょうのすけ)、毛利因幡守(もうりいなばのかみ)、佐治但馬守(さじたじまのすけ)、塩見源太郎(しおみげんたろう)以下、総勢5,000余騎。陣の前面には深田をあて、左方は河を境に、淀(よど:伏見区)、鳥羽(とば:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、大渡(おおわたり:位置不明)一帯に分散して陣を取る。
淀川(よどがわ)南岸には、四条隆俊(しじょうたかとし)、法性寺康長(ほうしょうじやすなが)を大将として、吉良満貞(きらみつさだ)、石塔頼房(いしとうよりふさ)、原、蜂屋、赤松氏範(注3)、和田(わだ)、楠(くすのき)、真木(まき)、佐和(さわ)、秋山(あきやま)、酒邊(さかへ)、宇野(うの)、崎山(さきやま)、佐美(さみ)、陶器(すえ)、岩郡(いわくり)、河野邊(かわのへ)、福塚(ふくづか)、橋本(はしもと)ら、吉野朝(よしのちょう)勢力3,000余騎が、八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)の下に陣を取る。
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(訳者注3)原、蜂屋、赤松氏範(原文では「赤松弾正少弼」)が第1陣のメンバーリストと重複している。太平記作者のミス、あるいは写本の段階のミスであろう。
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第2陣中の山名師義の軍は当初、「敵の来るのを待ち受けてじっと待機、仕掛けてきたら迎撃しよう」との作戦であった。しかし、「神南の北方山中に陣取っている足利義詮の手持ち兵力は、それほど多くはないぞ」と見透かした結果、作戦を急遽(きゅうきょ)変更、八幡に陣取る吉野朝軍と一つに合した後、まずは神内宿(注4)へと進軍。楯の板を締め、馬の腹帯を固めて、二の尾根から攻め上がって行った。
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(訳者注4)注1に記したように、[神南]と[神内]は、同じ場所である。
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これに対して、足利義詮側は、3箇所に分散して陣を取っていた。
西の尾根先をかためているのは、赤松則祐(あかまつそくゆう)、赤松師範(もろのり)、赤松直頼(なおより)、赤松範実(のりざね)、赤松朝範(とものり)、そして、佐々木道誉(ささきどうよ)の家臣からなる黄旗一揆(きはたいいっき)武士団、総勢2,000余騎である。
南の尾根先を守っているのは、細川頼之(ほそかわよりゆき)、細川繁氏(しげうじ)が率いる四国地方、中国地方の勢力2,000余騎である。
そして、北方の峯には、大将・義詮の本陣。佐々木道誉、赤松則祐(注3)以下の老武者、引付頭人(ひきつけとうにん)、評定衆(ひょうじょうしゅう)、奉行人(ぶぎょうにん)ら、総勢3,000余騎、油幕(ゆばく:注4)の中に敷き皮を並べ、鎧の袖を連ねて並び居る。
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(訳者注3)西の尾根先の布陣と、だぶってしまっている。
(訳者注4)雨露を防ぐために油を引いた天幕。
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険しい山中に陣を置いている時には、えてして、はるか遠方の事はよく見えるのであるが、自らの足もと、すなわち山麓の情勢は把握しにくいものである。
「さてさて、山名軍はまっ先に、いったいどこの陣へ、攻めかかってくるのであろうか」と、義詮軍側は全員、じっと目をこらして遠くを眺めていた。
突然、思いもかけない西の尾根先から、トキの声がドッと一斉に上がった。山名師義を先頭に、出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)の勢力2,000余騎が、イッキにそこまで懸け上がってきたのである。
二つの峯に挟まれた狭隘(きょうあい)なエリア中に、大量の人馬がいきなり乱入してきたのである。人も馬も、互いに身をギシギシと摺り寄せるような大混雑、両軍互いに射る矢は、一本も外れる事が無い。
義詮軍中に、播磨国の住人・後藤基明(ごとうもとあきら)という名の、強弓を引く武士がいた。
基明は、一段高くなった岩の上に駆け上り、そこからビュンビュンと矢を連射した。3人張(さんにんばり)の弓に14束(そく)3伏(ぶせ)の矢を次々とつがえ、これでもか、これでもか、と射放つ。楯も鎧もこれにはたまらず、山名軍は前進を阻止され、少々ひるみぎみになってしまった。
これに利を得て、佐々木家・黄旗一揆武士団中から、3人の武士が前面に出てきた。彼らは大鍬型(おおくわがた)に母衣(ほろ)をひっかけて前傾姿勢を取り(注5)、自ら結わえた陣前の鹿垣(ししがき)を切って押し破り、陣の外へ出てきた。
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(訳者注5)「鍬型」とは、兜の前に立っている2本の棒状の飾りの事。「母衣」は矢を防ぐための布製のもの。「母衣」を兜の上から被り、前傾姿勢を取って、矢に当たりにくくなるようにしたのである。
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江見勘解由左衛門尉(えみ・かげゆさえもんのじょう) わしらは、日本一の大剛(だいごう)の武士、近江国の住人やぞぉ! わしの名は、江見勘解由左衛門尉!
蓑浦四郎左衛門(みのうらしろうざえもん) 同じく、蓑浦四郎左衛門!
馬渕新左衛門(まぶちしんざえもん) 同じく、馬渕新左衛門!
江見勘解由左衛門尉 みんなのまっ先かけて、討死にするぞぉ!
蓑浦四郎左衛門 この中に、生き残ったもんがおったらな、
馬渕新左衛門 わしらの事を語って、子孫に名を伝えてくれよぉ!
三人は、声々に名乗りを上げて山名陣中に突入、次々と討ち死にしていった。
さらに、後藤基明、一宮有種(いちのみやありたね)、粟飯原彦五郎(あいはらひこごろう)、海老名新左衛門(えびなしんざえもん)の4人が、前線に進み出た。
彼らは、声高らかに名乗りを上げ、川を渡って山名軍中へ突入していった。
後藤基明 合戦先駆けの栄誉に輝くの、普通だったら、一人だけなんだけどなぁ。
一宮有種 こんなに狭い場所での戦だもん、いったい誰が一番乗りなんだか、サッパリわかりゃしねえや。
粟飯原彦五郎 ようは、敵と真っ先に太刀交わしたもんが、先駆けってことになるんだろう。
海老名新左衛門 お味方の衆、一人でも生き残ったもんがいたらな、おれたちが先駆けしたってこと、証人になってくれよなぁ!
彼らは、たった4人でもって、山名軍数万の中へ切り込んでいく。
山名師義 (大声で)前陣が、疲れてきたようだわな、後陣メンバー、前陣と入れ替わって、あの敵を討て!
その命令を聞いて、伊田家、波多野家の若武者ら20余人が、馬から飛び降り、勇み立って一斉突撃。
山名軍後陣数万人 おれたち、続いてる、退(ひ)くなよ!
伊田家&波多野家の若武者たち一同 ウオォーー!
両軍の最前線で、50余人の乱戦切り合いが始まった。太刀の鍔音(つばおと)、鎧突(よろいづき:注6)の音が、山にコダマして響き、しばしも止む間がない。周囲の山岳も崩れて、川や谷を埋めてしまうかと思われるほどの凄さである。
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(訳者注6)鎧に隙間ができないように、鎧を揺する動作。
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やがて、後藤基明以下、両軍の最前線で戦った武士50余人が、討ち死にしてしまった。
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義詮陣営側の南尾根は、細川頼之、細川繁氏を大将に、四国地方、中国地方の勢力2,000余騎がかためていた。彼らは、「地形が急峻(きゅうしゅん)で、谷は深く切れているから、とてもここまで、敵は上がってはこれんだろう」と、思っていた。
ところが、山名時氏を先頭に、小林重長(こばやししげなが)、小幡、浅沼、和田、楠らをはじめ、和泉(いずみ:大阪府南部)、河内(かわち:大阪府東部)、但馬(たじま:兵庫県北部)、丹後(たんご:京都府北部)、因幡(いなば:鳥取県東部)の武士ら3,000余騎が、さしも険しき山道を、ツヅラ折りに攻め上ってきた。
この陣は、未だに鹿垣を一重も結んでいなかったので、双方トキの声を合わせ、矢を一本づつ射交わすやいなや、たちまち、太刀を振るっての白兵戦に突入していった。
全軍の先頭きって戦っていた四国勢の中、まず、秋間兵庫助(あきまひょうごのすけ)の兄弟3人、生稲四郎左衛門(いなふしろうざえもん)の一族12人が、前線から一歩も退かずに討死。これを見て、坂東(ばんとう)地方、坂西(ばんせい)地方の藤原流武士たち、橘流(たちばなりゅう)武士たちに、少しのひるみが生じた。
備前国(びぜんこく:岡山県東部)住人・須々木三郎左衛門(すずきさぶろうざえもん)父子兄弟6人が、彼らに入れ替って戦闘を続行、しかし、後続の味方は皆無、全員一所にて討死。
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このように、義詮陣営側は西の尾根先、南の尾根先の両方面にわたって、崩壊の気配が漂いだし、メンバー全員に、動揺が走り始めた。
山名軍側の小林重長は、勢いに乗って、義詮陣営側をイッキに壊滅せしめようと、ここぞとばかりに、猛攻に次ぐ猛攻を繰り出していった。
義詮陣営側の四国勢・中国勢3,000余騎は、山から北方へ追い立てられ、深い谷に、人間なだれをうって落ち込んでいく。
そのようなわけで、この方面の義詮陣営内においては、敵と戦って討死にした者の数は少なく、自分の太刀や長刀に貫かれて死んでしまった者が多かった。
これを見て、ますます勢いづいた山名師義は、全軍の先頭駆けて、前へ前へと突き進んでいく。大将のこの勇姿を見ては、それに従う者、誰ためらうはずがあろうか、「我、まっ先に敵と闘わん!」とばかりに、全員、先を争って前進していく。
中でも、山名家郎等・因幡国の住人・福間三郎(ふくまさぶろう)は、その名を世に知られた大力の持ち主。
彼の使う太刀は、幅広でその長さは7尺3寸、鍔元から3尺ほどの部分は、膨らみを持たせて打ってある。鎧の威(おどし)は白、黄、ブルーの三色混合、「山の字」形の鍬型打った兜を、首が隠れるほどまで深くかぶり、小躍りしながら、片手打ちの払い切り、坂をズンズン上っていく。その太刀の刃に当たった人間は、胴中、モロ膝かけて落され、太刀の峯に当たったものは、あるいはズンッと宙に打ち上げられ、あるいはドサッと地上に打ち倒されて尻餅をつき、血を吐いて死んでいく。
かくして、義詮陣営側の前線は、西の尾根、南の尾根とも全面的に崩壊、メンバーたちは全員、パニック状態に陥り、大将・義詮の本陣に何とかして合流しようと、雪崩を打って退いていく。
山名軍側の伊田、波多野両家メンバーたちは、「全員、残らずやっつけろ!」と、おめき叫ぶながら、彼らを追撃していく。
石や岩は、苔滑らかにして敗走する人々の足を取り、棘(いばら)が、彼らの前を塞ぐ。もはや、退こうにも退きようが無し、返し合わせる者は、ことごとく討たれていく。
赤松師範、赤松直頼、赤松範実は、その場に踏みとどまって叫ぶ、
赤松師範 ここで踏みとどまらんと退いたかて、生き残れるモンは、一人もおらんぞぉ!
赤松直頼 命惜しかったら、返せや、おまえら!
赤松範実 返せ、返せ、みんなぁ、返せ!
このように、他の人々を恥かしめ、ののしって、何とかその場に踏みとどまらせようとするのであったが、踏みとどまる者は誰もおらず、小国播磨守(おくにはりまのかみ)、伊勢左衛門太郎(いせさえもんたろう)、疋壇藤六(ひきだとうろく)、魚角太夫房(うおすみたゆうぼう)、佐々木壇正忠(ささきだんじょうのちゅう)、佐々木能登権守(ささきのとのごんのかみ)、新谷入道(にいのやにゅうどう)、薦田壇正左衛門(こもだだんじょうざえもん)、河匂彌七(こうわやしち)、瓶尻兵庫助(かめじりひょうごのすけ)、粟生田左衛門次郎(あわふださえもんじろう)だけが、返しあわせて、討たれていった。
河原重行(かわはらしげゆき)は、「今度の戦に負けたら、絶対に討死にしてしまおう!」と、かねてから決意していたのであろうか、山名軍が方々から打ち寄せてくるのを見て、
河原重行 今日の戦は、おれ一人の喜びに、なってしまったなぁ。
河原重行 あの、元暦(げんりゃく)年間の古(いにしえ)、一谷(いちのたに)の合戦の時、平家側の防衛ライン・生田森(いくたのもり:神戸市・中央区)の一の木戸(きど)の前で、おれのご先祖様の河原太郎(かわはらたろう)、河原次郎(じろう)のお二人は、木戸を乗り越えて平家陣中へ突入、見事に討死にしていかれた。今と同じ、二月の事よ。
河原重行 一谷は、摂津(せっつ:大阪府北部+兵庫県南東部)の国にある。今日の戦場も、摂津の中だ。国も月も、ご先祖様のあの時と、まったく同じさぁね。おれもまた、ご先祖様と同じように、今日この場で討死にして、ご先祖様の高名を、ますます輝かかしいものにしていこう。そうすりゃ、冥土黄泉(めいどこうせん)の道の岐(ちまた)ででくわした時に、ご先祖様もさぞかし、喜んでくれるだろうぜ。(涙)
その言葉に少しも違わず、重行は、数万人の相手の中にたった一人で懸け入って、ついに討死を遂げた。まことに哀れな事である。
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赤松朝範(あかまつとものり)は、自分が守っている陣がまっさきに破られてしまった事を、我が身の恥と思い、袖につけた笠印(かさじるし)を外して隠し、山名軍中に紛れ込んだ。
赤松朝範 (内心)なんとかして、相手にとって不足のない敵に出会うて、打ち違えて死んだろ!
朝範は、周囲を窺(うかが)いながら、馬を進めていった。
やがて、朝範の左手前方に、リーダー格と思われる一人の武将がやってきた。その武将は、逃げいく義詮軍を追いかけている。
山名師義 敵に、ちょっとでも、足を止めさせちゃいかんぞ、どこまでも、追いつめ、追いつめろ! とことん追いつめて、討ち取れ! 前へ進め、ガンガン進めぇー!
赤松朝範 (内心)オァッ、あいつ、山名師義やんか! なんとまぁ、こらラッキー。あんなオオモノに、出会えるとはなぁ。
朝範は、師義の側まで馬を走らせ、通り過ぎざまに、師義の兜を、割れよとばかりに打った。
赤松朝範の太刀 ヴァシッーーン!
山名師義 うっ!
師義は、キッと振り返り、朝範を見つめた。
とっさに、山名家の若党3人が、二人の間に割って入った。
彼らは、朝範の兜をメッタ打ちにしたので、兜が脱げ落ちてしまった。
落ちた兜を拾おうとして、うつぶせになった所を、鬢(びん)の外れの小耳の上に、3回切り付けられた。
流れる血に目がくらんで、朝範は、ドッと倒れ臥した。
山名家の若党たちは、朝範を押さえ込み、トドメを刺した。そして、彼をそのまま放置した。
朝範には、死なねばならぬ前世の業報が、未だに到来してはいなかったのであろうか、山名家の者たちは、彼の首を取らなかったのである。
戦い終わって後、朝範は、草の陰で息を吹き返し、命拾いをした。まことに不思議な事であったとしか、言いようがない。
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かくして、足利義詮(あしかがよしあきら)陣営側は、西の尾根先、南の尾根先の両方面ともに、前線ラインを、あっという間に攻め破られてしまった。
山名軍側は、ますます勢いに乗って攻めたてていく。
峯々に布陣している方々の地方からの寄せ集めの義詮陣営側勢力は、未だ一戦もせずして我先にと、馬にむち当てて、逃げ出していく。
ついに、義詮の本陣は、わずか100騎ばかりになってしまった。
しかし、佐々木道誉と赤松則祐は、いささかも気を屈する事なく、敷皮の上に居直っていわく、
佐々木道誉 他の連中はいざしらず、わしは、逃げも隠れもしませんぞ!
赤松則祐 わたしら二人が討死にするのん、見届けてから、自害しはったらよろしぃわ、義詮様。
このように言い放ち、ますます勇み立って見える二人である。
義詮の本陣がスケスケになってしまった中に、四目結(よつめゆわい)の旗一流が立っているのを見て、山名師義は大いに喜んで、
山名師義 そもそも、おれがこの反乱を起したのは、何も天下を傾け、将軍を滅ぼそうと思っての事じゃぁない。ただただ、佐々木道誉が、おれに無礼な振舞いをしたのが、憎かったからよ。
山名師義 見ろよ、あそこにひるがえってるあの旗! 四目結の紋どころ、まぎれも無い、佐々木家の旗だ!
山名師義 まさに、天が与えたもうたチャンス! おまえら、他の敵には目もくれるなよ! 道誉の首を取って、おれに見せろ!
師義は、歯を食いしばって前進していく。山名軍6,000余騎も、我先にと勇み進んで、義詮の本陣へ迫っていく。
両者の間隔が2町ほどにまで縮まった時、赤松則祐は、幕をさっと打ち挙げ、大音声をもって叫ぶ、
赤松則祐 天下の勝負、まさにこの一戦にあり! この戦場に命かけいで、他にどこで、命捨てるんや! 名将の御前(おんまえ)で堂々と討死にして、後世の書物に、我が名を止めようやぁ!
7人の武士 よぉし!
則祐の激励にこたえて、7人の武士が声を上げた。平塚次郎(ひらつかじろう)、内藤興次(ないとうおきつぐ)、近藤大蔵丞(こんどうおおくらのじょう)、今村宗五郎(いまむらそうごろう)、湯浅新兵衛尉(ゆあさしんひょうえのじょう)、大塩次郎(おおしおじろう)、曽禰四郎左衛門(そねしろうざえもん)らである。
彼らは、足利義詮の前を走り抜け、山名軍に立ち向かっていった。
山名軍側には、射手は一人もいない。
向かってくる相手を、味方の射手に射すくめさせながら、7人の武士たちは、鎧の左袖を揺すって隙間を塞ぎ、山名軍に、跳りかかり、跳りかかり・・・7本の太刀の鍔本からは火花が飛び散り、切っ先に血をそそぎ、切ってまわり、切ってまわり・・・あっという間に、山名軍側の先鋒4人が討たれ、30人が重傷を負った。
その光景を目前に見て、後続の山名軍300余人の前進の足が、ピタッと止まってしまった。
これを見た義詮陣営側・所属メンバー、平井景範(ひらいかげのり)、櫛橋三郎左衛門尉(くしはしさぶろうさえもんのじょう)、櫻田俊秀(さくらだとしひで)、大野氏永(おおのうじなが)は、声々に、
4人の武士 後ろから、オレたち続いてるからな、退くなよぉ!
7人を力づけながら、彼らもおめいて、山名軍に襲いかかっていく。
思いも寄らぬ頑強な抵抗に遭遇し、しかも、全員徒歩の山名軍、にわかに形勢は逆転。
新手の騎馬武者たちに懸け破られて、山名軍メンバーたちは、みるみる逃げ足になってしまい、両方の谷へ、なだれを打って落ちていく。
その形勢の急変を見て、義詮陣営の前線に位置しならが、緒戦の段階で蹴散らされてしまっていた四国・中国勢メンバーたちが、続々と、戦場に復帰してきた。そして、義詮の本陣は、あっという間に、その兵力を1,000余にまで回復した。
山名師義は、なおも、後続の部隊をさしまねいて、義詮軍の陣中にかけ入らんと、四方を見渡したが、
山名師義 なんだぁ!
なんとなんと、後方に控えていた吉野朝軍1,000余騎が、別にどうといった理由も無いのに、陣を崩して、退却をし始めているではないか!
山名師義 あぁぁ・・・あいつらぁ!
矢を射尽くしてしまい、気力も使い果たしてしまっていた山名軍メンバーたちは、闘志だけは失ってはいなかったものの、既に総崩れ状態になってしまった味方たちに巻き込まれてしまい、心ならずも、山崎を目指して、撤退を開始した。
両軍の形勢は、今や完全に逆転、今度は、義詮軍側が勢いに乗じ始めた。
方々の峯々谷々から、500騎、300騎と現れてきては、山名軍を側面から脅かしたり、前面に立ちふさがったり、蜘蛛手(くもで)、十文字(じゅうもんじ)に懸け立てる。
内海範秀(うつみのりひで)は、敗走する山名軍に追いすがり、相手かまわず、兜の鉢、鎧のあげまきにと、切り付け切り付け、進んでいるうちに、太刀が鍔本から折れてしまった。
馬も疲れきってしまっていたので、範秀は馬から下りた。
右手の方をキッと見ると、美しい鎧を着た一人の武士の姿が目に止まった。目の前を走り抜けていくその武士の、三引両(みつびきりょう)の笠標を見て、
内海範秀 (内心)お! あれは、山名家のヤツ。敵にとって申し分無し。
範秀は、その馬の側に走り寄り、背中にヒラリと飛び乗った。範秀とその武士とが、馬に二人乗りになった格好である。
武士は、「味方の人間が、馬に飛び乗ってきたのであろう」と、勘違いして、
山名軍武士A あんたはいったい、どこの誰だい? 負傷してんだったら、おいらの腰に、しっかりつかまってろ、助けてやっから。
内海範秀 いやぁ、ありがとよ!
言うやいなや、範秀は、刀を抜いて目の前の相手の首をかき落した。そしてそのまま、その馬に乗ってなおも、逃げ行く山名軍を追撃した。
山名軍メンバーたちは、因幡を出発した時から、「今度の戦では必ず、京都に、わが屍(しかばね)をさらすんだ!」との覚悟を固めて、やってきていた。
故に、伊田(いだ)、波多野(はたの)、多賀谷(たがたに)、浅沼(あさぬま)、藤山(ふじやま)、土屋(つちや)、福依(ふくより)、石原(いしはら)、久世(くぜ)、竹中(たけなか)、足立(あだち)、河村(かわむら)、首藤(すどう)、大庭(おおにわ)、福塚(ふくづか)、佐野(さの)、火作(こつくり)、歌(うだ)、河澤(かわざわ)、敷美(しきみ)以下、主要メンバー84人、その一族郎等263人は、退却の道中4、5町ほどの中、随所において、返し合わせ返し合わせては、全員討死にしていった。
山名師義は、後方に踏みとどまって防ぎ矢を射ている小林重長を死なせまいと、たった7騎で取って返し、迫り来る義詮サイドの大軍中に懸け入り、脇目も振らず戦い続けた。
と、その時、
矢 ビューン、ブシュッ!
山名師義 ウッ!
飛び来った矢は、師義の左目に刺さり、耳の根本まで達した。
師義は、目がくらみ、肝がつぶれてしまった。
山名師義 ウーン・・・。
師義は、太刀を地上に逆さまに突き立て、その場で、かろうじて持ちこたえ、自らの心中に残っているあらん限りの気力を、振り絞った。
相手陣からは、豪雨のごとく矢が浴びせかけられる。師義の乗馬は、太腹と胸先に5本の矢を受け、膝を折って、ドウと伏してしまった。
観念した師義は、馬から下りて、鎧の草ずりをたたみ上げ、腰の刀を抜いて自害しようとした。
それを見て、河村弾正(かわむらだんじょう)が、馳せ寄ってきた。
彼は、馬から飛び下り、師義をその馬上に乗せた。
河村弾正 誰か、誰か、いないか!(周囲を見回す)お、オォイ、オォイ!
岩の上に、福間三郎が座っていた。彼は、戦い疲れて、そこで休息を取っていたのである。
河村弾正 こっちへ! 早く!
福間三郎 おぉ!
駆け寄ってきた福間三郎に、馬のたずなを持たせ、
河村弾正 それ行け! 大将を頼むぞ!
福間三郎 よぉし!
河村弾正は、追いすがってくる義詮軍メンバーに走り懸かり走り懸かり、何とかして山名師義を逃がそうと奮戦、ついに、討死にしていった。
馬上に揺られていくうちに、師義の意識は、徐々に回復してきた。
山名師義 (内心)・・・なんだ? おれはいったい? ここはどこだ?
師義は、状況を確認しようと思い、周囲を見回した。しかし、流れる血が目に入り、東西の方角を区別することさえ不可能な状態である。
山名師義 おぉい、この馬の近くに、誰かいるか! 馬の首を、敵の方へ向けろ! 敵ん中、懸け入って、河村の死骸の上で、おれも討死にするんだぁ!
勇み立つ師義に対して、福間三郎は、
福間三郎 はいはい、今、敵の方に、向こぉとりますよ。
三郎は、馬の首を下げ、その左側の七寸(みぞつき:注1)付近をしっかりと握りしめながら、ひたすら走った。このようにして、小砂混じりの笹原を3町ほど逃走の末に、ようやく、味方勢に合流する事ができた。
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(訳者注1)たずなの先を結びつける穴。
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義詮軍も、もはやここまでは追って来ない。
このようにして、最終的には、山名軍敗走で、神南の戦は終結した。
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淀(よど:京都市・伏見区)へ帰着の後、山名師義は、今回の戦で討死した者全員の名字を、一人ずつ書き記して、因幡・岩常谷(いわつねだに:鳥取県・岩美郡・岩美町)の満願寺(まんがんじ)へ送り、彼らの菩提(ぼだい)を弔(とむら)わせた。
中でも、河村弾正は、わが命に代って討たれた者ゆえ、獄門にかけられていた彼の首を、義詮陣営側から乞い受けた。
今は空しくなってしまった弾正の顔を一目見るなり、師義は、涙を流して、
山名師義 (涙)そうだよなぁ・・・おれがこの乱を起して天下をくつがえそうとした、その最初の時から、おまえは、おれを、父のように頼み、おれも、おまえを、我が子のように思ってたんだわなぁ・・・。
山名師義 (涙)戦場に臨むたんびに・・・おまえが生きてんなら、おれも生きてよう、おまえが討死にしてしまったならば、おれも死のうって、約束してたんだよなぁ・・・。
山名師義 (涙)なのに・・・おまえは、義に殉じておれの為に死に・・・・おれは、命を助けられて、おまえの跡に生き残ってる・・・あぁ、なんて、恥ずかしい事なんだろう。
山名師義 (涙)苔(こけ)の下、草の陰(かげ)・・・おまえが、いったいどこにいるんか、おれには分からないけど・・・でもきっと・・・おれが、約束破ってしまった事、さぞかし、無念に思ってるだろうよなぁ。
山名師義 (涙)でもなぁ、いいかぁ、どのみち、おれも、いつかはそっちへ行くんだわ・・・木の枝に結んだ露みたいなもんよ・・・先の方に結んだのは先に消え、本の方に結んだのは遅れて消えてく・・・いつかは消えるんだわ・・・おまえと、また会える日は、必ず来るんだわ・・・そうさ、極楽浄土の世界で、またきっと、会えるんだわなぁ・・・(河村弾正の頭髪を、かきなでながら)・・・待っててくれよな、なぁ、なぁ、・・・(涙)
その後、師義は、一人の僧侶を請じて、秘蔵の白瓦毛(しろかわらげ)の馬と白い鞍、白い太刀一本を布施として与え、討死にした河村弾正の菩提を弔わせた。
この、河村弾正に向ける山名師義の心情、まことに、すばらしいではないか。
古代中国・唐(とう)王朝時代、太宗(たいそう)皇帝は兵を大切にし、負傷者の傷を癒(いや)す為に、自らその傷口を吸って、その血を口に含んだのみならず、戦死者の遺骸を、帛(はく)を散らして収めたという。何やら、その逸話を思い起させるような、山名師義のこの行為に対しては、大いに心打たれるものがある。
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