太平記 現代語訳 14-2 新田義貞、足利追討軍を率いて関東へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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11月8日、新田義貞(にったよしさだ)は兵を率いて御所へ参内し、朝敵追討命令を後醍醐天皇(ごだいごてんのう)から賜った。

義貞らの乗馬や武具はまことに爽やかに輝きわたり、宮中の階下に、左大臣、右大臣、納言、参議、八省の官僚たちが勢揃いする中、節度(せつど:注1)付与の儀式が執行された。治承(じしょう)4年に、源頼朝(みなもとのよりとも)追討の為に平惟盛(たいらのこれもり)を東下させた時に、節度として駅鈴(えきれい:注2)だけ渡してすませた、という過去の不吉の例(注3)を避けて、今回は、天慶・承平(てんぎょう・しょうへい)年間の例(注4)にのっとった形で、儀式は行われた。

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(訳者注1)天皇から出陣を命じられたということの証拠物。

(訳者注2)これを持っていると、遠征の道中で人夫や馬を強制調達することができる。

(訳者注3)平惟盛は、その目的を達成することができなかった。

(訳者注4)平将門(たいらのまさかど)を追討した時の前例。
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節度付与の儀式終了の後、新田軍は二条河原(にじょうがわら)へうって出て、軍の勢揃いを行った。

その後、まず二条高倉(にじょうたかくら:京都市・中京区)の足利尊氏(あしかがたかうじ)邸へ、舟田義昌(ふなだよしまさ)を差し向けた。

舟田軍は、トキの声を3度上げ、カブラ矢3本を射た後に、足利邸の中門の柱を切って落とした。これは、嘉承(かしょう)3年に、平正盛(たいらのまさもり)が、源義親(みなもとのよしちか)追討の為に出羽国(でわこく:東北地方西部)へ出陣した際の前例にならって、やってみせたということである。

その後、足利(あしかが)追討軍・総指令・尊良(たかよし)親王も、500余騎に守られて三条河原(さんじょうがわら)へうって出た。

ところが、天皇から賜った[錦のみ旗]を掲げたちょうどその時、にわかに強風が吹いて、旗に打ちつけてあった金銀製の日月の紋が、旗から離れて地面に落ちるという、まことに不思議な事が起こった。これを目撃した者らはみな一様に、

目撃した者・全員 (内心)こらあかんわ、今度の戦、うまいこといかんで。

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同日正午、新田義貞は、京都を出発した。

元弘(げんこう)年間の初め、この人はあの大敵・北条(ほうじょう)氏を滅ぼし、その功績は他を越えている。にもかかわらず、後醍醐天皇のお側にぴったりとはりついている足利尊氏(あしかがたかうじ)にその功を奪われ、働きに見合うだけの恩賞を、与えられてはいなかった。

しかし、彼の積んだ隠徳もついに世に露(あらわ)れ、今や、「新田殿こそは日本国一の武将!」と、人々から仰ぎ見られる存在となった。これを見て、源氏の家系に連なる者たちも、他家の家系の者たちも、従来の偏見を完全に棄て去り、残らず、彼に従うようになった。

その軍を構成するメンバーは、

大手方面軍、新田一族メンバーは以下の通りである、

義貞の弟・脇屋義助(わきやよしすけ)、義助の子・脇屋義治(わきやよしはる)、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、錦折刑部少輔(にしきおりぎょうぶしょうゆう)、里見伊賀守(さとみいがのかみ)、里見大膳亮(さとみだいぜんのすけ)、桃井遠江守(もものいとおとおみのかみ)、鳥山修理亮(とりやましゅりのすけ)、細屋右馬助(ほそやうまのすけ)、大井田式部大輔(おおいだしきぶたいふ)、大嶋讃岐守(おおしまさぬきのかみ)、岩松民部大輔(いわまつみんぶたいふ)、籠澤入道(こもりざわにゅうどう)、額田掃部助(ぬかだかもんのすけ)、金谷治部少輔(かなやじぶしょうゆう)、世良田兵庫助(せらだひょうごのすけ)、羽川備中守(はねかわびっちゅうのかみ)、一井兵部大輔(いちのいひょうぶたいふ)、堤宮内卿律師(つつみくないきょうりっし)、田井蔵人大夫(たいくろうどのたいふ)、他、源氏末流30余人、彼らが率いる7,000余騎が、大将・新田義貞の前後を、びっしりと守り囲む。

新田一族以外の有力武士メンバーは、以下の通りである。

千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)、菊池武重(きくちたけしげ)、大友貞載(おおともさだとし)、厚東駿河守(こうとうするがのかみ)、大内弘直(おおうちひろなお)、塩治高貞(えんやたかさだ)、加地源太左衛門(かじげんたさえもん)、熱田摂津大宮司(あつたのせっつのだいぐうじ)、愛曽伊勢三郎(あそのいせのさぶろう)、遠山加藤五郎(とおやまかとうごろう)、武田甲斐守(たけだかいのかみ)、小笠原貞宗(おがさわらさだむね)、高山遠江守(たかやまとおとおみのかみ)、河越三河守(かわごえみかわのかみ)、児玉庄左衛門(こだましょうざえもん)、杉原下総守(すぎはらしもふさのかみ)、高田義遠(たかだよしとお)、藤田三郎左衛門(ふじたさぶろうさえもん)、難波備前守(なんばびぜんのかみ)、田中三郎衛門(たなかさぶろうざえもん)、舟田義昌、舟田経政(ふなだつねまさ)、由良三郎左衛門(ゆらさぶろうざえもん)、由良美作守(ゆらみまさかのかみ)、長浜六郎左衛門(ながはまろくろうざえもん)、山上六郎左衛門(やまがみろくろうざえもん)、波多野三郎(はだのさぶろう)、高梨、小国(おぐに)、河内(かわち)、池、風間(かざま)、延暦寺(えんりゃくじ)からは、道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)。

これら主要メンバーの他、諸国の有力武士ら320余人、軍勢合計67,000余騎。前陣はすでに尾張国の熱田(あつた:名古屋市・熱田区)に到着というのに、後陣は未だに、逢坂関(おうさかのせき:滋賀県・大津市)、四宮河原(しのみやがわら:京都市・山科区)のあたりを行軍している。

からめ手方面の東山道(とうさんどう)を進む軍は、義貞の軍から3日遅れで京都を出発した。軍を率いる大将は:

大智院宮(だいちいんのみや)、弾正尹宮(だんじょうのいんのみや)、洞院実世(とういんさねよ)、持明院兵衛督入道・道応(じみょういんひょうえのかみにゅうどう・どうおう)、園基隆(そのもとたか)、二条為冬(にじょうためふゆ)。

侍大将は:

江田行義(えだゆきよし)、大館氏義(おおたちうじよし)、嶋津上総入道(しまづかずさのにゅうどう)、嶋津筑後前司(しまづちくごのぜんじ)、饗庭(あいば)、石谷(いしがえ)、猿子(ましこ)、落合(おちあい)、仁科(にしな)、伊木(いぎ)、津志(つし)、中村(なかむら)、村上(むらかみ)、纐纈(こうけつ)、高梨(たかなし)、志賀(しが)、真壁十郎(まかべじゅうろう)、美濃権介助重(みののごんのすけすけしげ)。

これらを主要メンバーとして、合計5,000余騎。黒田宿(くろだじゅく:愛知県・一宮市)から東山道経由で、信濃国(しなのこく:長野県)へ進んで行く。信濃国国司・堀河中納言の軍勢2,000余騎がそれに合流した後、合計1万余騎の軍勢は、大井(おおい:岐阜県・恵那市)の城を攻略の後、大手とからめ手同時に鎌倉へ寄せようということになり、そこで、大手方面軍からの合図を待った。

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「追討軍、京都を出発!」との情報が、しきりに鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ伝わってくる。足利直義(あしかがただよし)と、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、高(こう)、上杉(うえすぎ)らの足利家臣たちは、尊氏のもとに集まった。

家臣A 殿、ご一家を滅ぼすための大軍が編成された、との情報が来ておりますよ!

家臣B 新田義貞が率いる軍勢が、既に京都を出発してて、東海・東山の両道より、こちらに攻め寄せてきてるようです!

家臣C 重要な防衛ポイントをね、先に敵に超えられちまうと、もうどうしようも無くなっちまいますからね、急いで、矢作川(やはぎがわ:愛知県・岡崎市)か薩埵峠(さったとうげ:静岡県・静岡市)あたりまで進んで、敵を食い止めるようにしては、どうでしょう?

家臣A 殿、さ、早く、ご指示を!

家臣一同 ご指示を!

足利尊氏 ・・・。

足利直義と家臣一同 ・・・(ジリジリ)。

長い沈黙の後、尊氏はようやく口を開いた。

足利尊氏 私はなぁ、代々弓矢取る家に生まれ、かろうじて、源氏直系としての家名を保ってきた・・・。

一同 ・・・。

足利尊氏 源氏の直系とはいうものの・・・承久の乱以降、わが足利家は、北条家の恩顧の下にただただひれ伏し、家名を汚し、先祖の名をはずかしめ続けるばかり。その怨みは、先祖代々深く、積もり積もってきた。

一同 ・・・。

足利尊氏 今になってやっと、その怨みを晴らすことができたんだ。

足利尊氏 源氏の手から離れて久しい、征夷大将軍の職にも就任できた、従三位(じゅさんみ)の高い位にまでも、上りつめる事ができた。私のわずかな功績に対して、陛下から大きな御恩を頂いてなぁ・・・。

足利尊氏 その頂いた御恩を忘れる、なんて事では、いかんだろう。それは、人間の踏むべき道じゃないだろう。

足利尊氏 陛下がお怒りになっておられるのは、護良親王を殺害したこと、それと、諸国に軍勢催促の将軍命令書を出した事、この2点だろう? これはなぁ・・・これは、私がやった事じゃ、ないんだから!

一同 ・・・(互いに目と目を合わせあう)。

足利尊氏 朝廷に対して、このへんの事を詳しく申し開きをすればな、私の汚名もやがては消えてな、陛下のお怒りも静まるだろうよ。

足利尊氏 君らはな、各々の考える所に従って、自分の進退を決めたらいいよ。私は、陛下に対して、弓を引き、矢を放つような事は絶対しない!

足利尊氏 それでも、罪を逃れられないとなったら、頭を丸め、墨染めの衣に着替えて、陛下に対して逆らう意志は全くありません、ということを示すとしよう。そうするのが、我が家の子孫にとってもベストだろ!

吐き棄てるように言うやいなや、尊氏は背後の室に入り、障子をピシャンと締めてしまった。

甲冑に身をかため、意気込んで集まっていたメンバーらは、あっけに取られてしまった。

(家臣一同、肩を落として、退出しながら)

家臣A (小声で)なんだよぉ、あれはぁ。

家臣B (小声で)あんな展開になるなんて、思っても見なかったぜ。

家臣C (小声で)殿、いったい、どうしちゃったんだろ?

家臣D (小声で)あんな事言われちゃ、ガックリ来ちゃうよなぁ。

家臣E (小声で)おい、これからイッテェ、どうすりゃぁいぃんだぁ、おれたち!

家臣F (小声で)まいったぜ、ったくぅ!

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このようにして2日が経過。

家臣A おいおい! 敵軍がな、三河(みかわ:愛知県東部)、遠江(とおとおみ:静岡県中部)まで進んで来たってよぉ! 大将は、尊良親王だそうだ。

家臣B 来たかぁ。

家臣C なんとかしなきゃ!

足利側は騒然としてきた。さっそく、上杉憲房(うえすぎのりふさ)、細川和氏(ほそかわかずうじ)、佐々木道誉(ささきどうよ)が、足利直義の所に集まって、今後の策を検討しはじめた。

上杉憲房 尊氏様がおっしゃってる事にも、たしかに一面の道理はあるんだけどぉ、でも、今のように、公家が政権を握ってる世の中が続いていく限り、国中の武士どもは、浮かばれねぇですよ、つまんねぇ公家の連中らに、ヒイコラヒイコラ、奴婢僕従(ぬひぼくじゅう)のごとく、こき使われていくしかねぇんだもん!

細川和氏 そうだ、そうだ! 日本国中の地頭や御家人たちは、憤懣と絶望の日々を過ごしてんだぁ!

佐々木道誉 みんなじいっと、我慢してな、心ならずも、公家たちに従ってるのさ。なんせ、武士たちを率いて、リーダーになってくれるような人が、今までいなかったんだもん。

佐々木道誉 だからな、「武士たちの為に、足利家、立つ!」という事になったら、いったいどうなる? それ聞いたら、武士たち残らず、こっちサイドに馳せ参じて来るだろう。

細川和氏 いいですね、それ! それでこそ、足利家の運も、これから開けていくってもんだ。

佐々木道誉 将軍殿も、一応の理屈を考えて、あんな事言ってるんだろう、でもまぁ、見ててご覧なさいってぇ、自分の頭の上に危険が迫ってきちゃったら、あんな風にオサまりかえってるわけには、いかなくなるよ。

上杉憲房 とにかく、ここで、アァダコォダと、時間使って議論してるヒマなんか、もうありません。そんな事してるうちに、新田軍は防衛ポイント、越えてしまいます。そうなってからじゃぁ、いくら後悔しても、どうしようもない。尊氏様は、仕方がないから、鎌倉に残したまま、直義様、一刻も早く、出陣してください!

細川和氏 是非とも、そうしてください!

佐々木道誉 我々も各自、直義殿の指揮に従って、伊豆(いず:静岡県東部)か駿河(するが:静岡県中部)のあたりに、防衛ラインを敷いてだな、敵と一線交えて、自らの運を見定めるとしようや。

足利直義 (ガバと立ち上がり)みんな、よくぞ言ってくれたぁ! よぉし、やってやろうじゃぁねぇの!

メンバー一同 (一斉に立ち上がり)おう!

かくして、足利直義率いる軍は、鎌倉を出立、夜を日に継いで、西へと急いだ。

直義に従う人々はといえば、まず足利一族では:

吉良満義(きらみつよし)、吉良三河守(くらみかわのかみ)、その子息・吉良三河三郎(きらみかわのさぶろう)、石塔義房(いしどうよしふさ)、その子息・石塔頼房(いしどうよりふさ)、石塔義基(いしどうよしもと)、桃井義盛(もののいよしもり)、上杉重能(うえすぎしげよし)、上杉憲顕(うえすぎのりあき)、細川顕氏(ほそかわあきうじ)、細川頼春(ほそかわよりはる)、細川繁氏(ほそかわしげうじ)、畠山国清(はたけやまくにきよ)、畠山国頼(はたけやまくにより)、斯波高経(しばたかつね)、その弟・斯波時家(しばときいえ)、仁木頼章(にっきよりあきら)、その弟・仁木義長(にっきよしなが)、今川氏兼(いまがわうじかね)、岩松頼有(いわまつらいう)、高師直(こうのもろなお)、高師泰(こうのもろやす)、高豊前守(こうのぶぜんのかみ)、南宗継(みなみむねつぐ)、南師幸(みなみもろゆき)、南師茂(みなみもろしげ)、大高重成(だいこうしげなり)。

足利家以外では:

小山判官(おやまのはんがん)、佐々木道誉、その弟・佐々木貞満(ささきさだみつ)、三浦貞連(みうらさだつら)、土岐頼遠(ときよりとお)、その弟・土岐道謙(ときどうけん)、宇都宮貞泰(うつのみやさだやす)、佐竹義敦(さたけよしあつ)、その弟・佐竹義春(さたけよしはる)、小田中務大輔(おたなかつかさのたいふ)、武田甲斐守(たけだかいのかみ:注5)、河越三河守(かわごえみかわのかみ:注5)、狩野新介(かののしんすけ)、高坂七郎(こうさかしちろう)、松田(まつだ)、河村(かわむら)、土肥(とひ)、土屋(つちや)、関東八平氏、武蔵七党をはじめ、その軍勢、207,000余騎。

11月20日に鎌倉を発った足利軍は、同月24日、三河の矢作の東宿(やはぎのひがしじゅく)に到着した。

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(訳者注5)[武田甲斐守]と[河越三河守]は、足利討伐軍のメンバーリスト(上記)にも、名前があがっている。このようになった事情はよく分からない。太平記作者のミスかも。
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