太平記 現代語訳 34-5 第1次・ 龍門山戦

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「吉野朝(よしのちょう)側のリーダー、四条隆俊(しじょうたかとし)が、紀伊国(きいこく:和歌山県)の勢力3,000余騎を率いて、紀伊国・最初峯(さいしょがみね:和歌山県・和歌山市)に陣取っている」との情報をキャッチし、4月3日、畠山国清(はたけやまくにきよ)の弟・畠山義深(よしふか)を大将に、白旗一揆(しらはたいっき)武士団、平一揆(へいいっき)武士団、諏訪祝部(すわのはふり)、千葉(ちば)一族、杉原(すぎはら)一族ら、合計3万余騎が、最初峯へ向かった。

現地に到着の後、彼らは直ちに、敵陣に相対する和佐山(わさやま:和歌山市)に登り、そこに3日間留まった。まずは自陣の守りをかためた後に、最初峯を攻めようとの作戦の下、塀をしつらえ、櫓(やぐら)を建て始めた。

これを見た吉野朝側の侍大将・塩谷伊勢守(しおのやいせのかみ)は、畠山軍を罠にはめてやろうと思い、自軍の兵を集めて最初峯から退き、龍門山(りゅうもんざん:和歌山県・紀の川市)にたてこもった。

これを見た畠山家執事(しつじ)・遊佐勘解由左衛門(ゆさかげゆざえもん)は、

遊佐勘解由左衛門 ヤヤァ! 敵め、退きやがったぞぉ! よぉし、どこまでも追いかけて、討ち取っちまえぃ!

畠山軍メンバー一同 ウォッスゥ!

命令一下、畠山軍は、龍門山に馳せ向かった。

盾を用意する事も無く、軍勢配置も何も無し、「勝ちに乗じて、敵を追撃」と言えばとてもカッコ良く聞こえるが、それにしても、あまりにも慌てすぎである。

龍門山は、岩は龍の顎(あご)のごとく重層し、道は羊腸(ようちょう)のごとく曲がりくねり、といった地形の所である。高所には、松や柏(かしわ)が生い茂り、吹きすさぶ強風の音が、まるでトキの声のように聞こえてくる。崖の下には、一面に小笹が生い茂り、結ぶ露に滑って、馬の蹄も立たない。

このような難所ではあるが、山麓まで下りてきて抵抗する敵もいないので、畠山軍メンバー一同は、勇む心を力にして、山の中腹あたりまで、一気に懸け上がっていった。

少し平らになった所までようやくたどりつけたので、そこで馬を休めて小休止を取ろう、という事になった。

弓や太刀を杖がわりについて、ホッと一息ついているまさにその時、

矢 ビュンビュンビュンビュン・・・。

畠山軍メンバー一同 ウワッ!

超軽量一枚板の盾を持ち、ウツボに一杯矢を背負った野伏(のぶせり)集団1,000余人が、東西の尾根先に現れ、畠山軍めがけて、雨のごとく矢を降らしてきた。

わずかに開けた谷底に3万余もの軍勢がびっしりと集中している所へ、上から見下ろしざまに矢を浴びせかけるのであるからして、その効果は絶大である。人間から外れても馬に当たり、馬を外しても人間に命中する。一本の矢によって二人の人間を倒す事はあっても、的を外してしまう無効矢は、一本も無い。

敵陣向けて歩を進め、懸け散らしてしまおうとしても、岩石が前を塞ぎ、懸け上がるすべもない。左右に開いて敵と戦おうと思っても、南北の谷は深く切り立たっていて、梯子(はしご)でも使わない限り、移動は不可能である。

畠山軍メンバーは、全員背中をすくめ、ただただ、うろたえるばかり・・・。

畠山軍メンバーA (内心)いってぇ、どうすりゃいいんだよぉ、どうすりゃ!

畠山軍メンバーB (内心)これじゃ、一歩も身動き取れねぇ。

畠山軍メンバーC (内心)あぁん、ニッチもサッチも行かんくなっちまったぁ。

畠山軍メンバーD (内心)退くべきか、踏み留まるべきか、それが問題だ。

畠山軍メンバーE (内心)どうしよう、いったいどうしよう! どしたらいいのぉ!

パニック状態に陥っている彼らの眼前に、一人の武士が現われた。

黄瓦毛(きかわらけ)の太くたくましい馬にまたがり、新品の紺糸威(こんいとおどし)の鎧(注1)を着している。背中には濃紅色(こきくれないいろ)の母衣(ほろ)をかけ、刃渡り4尺ほどの長刀の真ん中を握りしめて馬の首に添えて持ち、大声で名乗りを上げる。

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(訳者注1)原文では、「紺糸の鎧のまだ巳の刻なるを著たる武者」。
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塩谷伊勢守 おぉい、そこの関東武士ら、よぉ聞け! わしの名は、塩谷伊勢守! おまえら、コテンパンに、イてもたるわい! 行くぞー!

塩谷軍メンバー一同 ウオー!

塩谷伊勢守を先頭に、野上(のがみ)、山東(さんとう)、貴志(きし)、山本(やまもと)、恩地(おんぢ)、贄川(にえかわ)、志宇津(しうつ)、禿(かぶろ)の武士ら2,000余騎が、大山が崩れ雷鳴が落ちるかのごとく、おめき叫んで襲いかかってきた。

畠山軍メンバーA ウワッ、たまんねえ。

畠山軍メンバーB アワワ・・・。

畠山軍メンバー一同 ウグググ・・・。

もとより、吉野朝側の猛攻に圧倒されて弱気になっていた畠山軍、もはや、一歩も踏みとどまることができない。負傷者を助けようともせず、親や子が討たれるのも顧みず、馬を捨て鎧を脱ぎ捨て、険しい笹原を滑るともなく転がるともなく、潰走(かいそう)すること30余町。

塩谷伊勢守は、畠山軍を余りに深追いしすぎてしまい、乗馬に矢を3本立てられ、槍で2箇所突かれてしまった。

馬は、弱って足が立たなくなってしまい、険阻な所からまっ逆さまに転落、伊勢守も、崖から5丈ほど下に落下してしまった。

打撲のショックで目がくらみ、体のバランスが保てなくなってしまいながらも、何とかして起き上がろうと、彼は、残る力を振り絞った。

しかし、そこには、踏みとどまった畠山軍メンバー多数がいた。

彼らは、伊勢守の鎧の周囲や兜の内側めがけて、矢を一杯に射込んだ。

救援にかけつけてくる味方もおらず、ついに、塩谷伊勢守は討たれてしまった。

戦闘は、1時間ほどで終結、畠山軍側はさんざんな結果であった。生け捕りになってしまった者が67人、戦死者は273人もいたそうである。戦場に遺棄(いき)してきた馬、鎧、弓矢、太刀、刀に至っては、その数幾千万になるのか、さっぱり見当も付かない。

遺棄された物の中には、あのうわさの、「遊佐勘解由左衛門の3尺8寸の太刀」も含まれていた。今度の上洛に際して、天下の耳目(じもく)を驚かしてやろうと、金100両をもってして作らせた太刀である。

「これぞ、日本第一の太刀」との評判高い、あの「禰津小次郎(ねづこじろう)の6尺3寸の丸鞘の太刀」も、戦場に捨てられた。

大力の人といえども、高名を輝かすも不覚を取るも、まことに、時の運次第である。

禰津小次郎は、いつも次のように自慢していた。

禰津小次郎 戦場において、このオレの名前を知らずに、馳せ合わせて太刀を交わすんならいざ知らず、自分の相手を禰津小次郎と知った上で、オレと勝負しようなんてヤツぁ、関東8か国中、一人もいやしねぇぜぃ。

それほどの大力の剛の者でありながら、その力の割にはパットするような働きも何も無いままに、禰津小次郎は、真っ先切って、戦場から逃走してしまったのである。

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