太平記 現代語訳 32-1 京都朝廷、新天皇を擁立

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)と足利幕府(あしかがばくふ)との和平交渉が破れて戦となった結果、京都朝廷(きょうとちょうてい)は、大きなダメイジを受けた。

光厳上皇(こうごんじょうこう)、光明上皇(こうみょうじょうこう)、崇光天皇(すうこうてんのう)、皇太子・直仁親王(なおひとしんのう)、梶井門跡・尊胤法親王(かじいもんぜき・そんいんほっしんのう)が、吉野朝廷の虜囚(りょしゅう)の身となってしまい、賀名生(あのお:奈良県・五條市)の奥、あるいは金剛山(こんごうさん:奈良県・御所市-大阪府・南河内郡・千早赤阪村)の麓に移されてしまったのである。

かくして、首都・京都には天皇が不在、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)には天台座主(てんだいざす)が不在、という、異常事態になってしまった。

平安京(えいあんきょう)の都、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)、双方共にその始まりを同じくして既に600余年経過、未だかつて、このような事はただの一日も無かったのに・・・やはりこれも、現代が末法(まっぽう)の世になってしまった証拠であろうかと思うと、まことに情けない限りである。

しかしながら、「いつまでもこないな状態では、あいなりませんがな!」という事になり、新たなる人選が行われた。

まず、天台座主には、梶井門跡・尊胤法親王の弟子、承胤親王(じょういんしんのう)が就任した。

この人は、前の座主とはうって変り、遊宴(ゆうえん)や珍奇(ちんき)な事物を愛する事も無く、仏道修行に怠りなく、ただただ延暦寺の興隆(こうりゅう)に専心余念(せんしんよねん)無し、という風であったので、比叡全山の衆徒残らず、すぐにこの人に心服するようになった。

次なる問題は、「いったいどなたを、天皇に?」。

京都朝廷重要メンバーたちの様々の思案の結果、光厳上皇の第2皇子が、即位する事になった。(注1)

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(訳者注1)京都朝廷・後光厳天皇(ごこうごんてんのう)。崇光天皇の弟。
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この方は、内大臣(ないだいじん)・三条公秀(さんじょうきんひで)の娘・三位殿の御局(さんみどののおつぼね)(後に「陽禄門院(ようろくもんいん)とお呼びすることになるお方)を母として生れ、その年齢は15歳である。

もちろん、吉野朝廷はこの皇子にも目をつけていた。「わが方に拉致(らち)して、身柄を確保しておこう」というわけで、春宮権大進(とうぐうごんのたいしん)・日野保光(ひのやすみつ)に、「あの皇子も、確保せよ」と命じていたのであったが、何かと手間取って保光の手が届かないままであった所を、京都朝廷メンバーらが探し求めて、天皇の位に着けたのであった。

ここに、後光厳天皇の即位にまつわる、興味深いウラ話がある。

実は昨年、この方はすんでの所で、出家の身になられるところであったのだ。

継母に当たる宣光門女院(せんこうもんにょいん)のはからいで、「妙法院門跡(みょうほういんもんぜき)に就任を」というセンでの話が、着々と進められていたのである。

そのようなさ中に、後光厳天皇の外祖母(がいそぼ)に当たる廣義門院(こうぎもんいん)は、内々に、北斗堂(ほくとどう:注2)の実筭法印(じつさんほういん)に、この皇子の将来を占わせてみた。

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(訳者注2)清水寺の近くにあったようだ。
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廣義門院 ・・・で、どないどしたんや、占いの結果は?

実筭法印 ・・・。

廣義門院 なにか、気がかりなことでも?

実筭法印 うーん・・・いやいやぁ、こらスゴイですなぁ・・・はぁー・・・。

廣義門院 いったい、なんどす? なにがどう、スゴイんえ?

実筭法印 はい、占いの卦(け)は、こう出ましたわ、「この方は将来、帝位につかせたもうべき御果報(ごかほう)をお持ちである」。

廣義門院 エェェ!

廣義門院 (内心)まさか、そないな事・・・。

というわけで、法印の言葉をストレートには信じがたい廣義門院ではあったが、結局、出家の儀を中止させ、右大弁(うだいべん)・日野時光(ひのときみつ)に皇子を預け置いたのであった。

そしてその翌年、京都朝年号・観応(かんのう)3年(1352)8月27日(注3)、にわかに、「天皇即位の儀式を!」という事になったのである。

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(訳者注3)実際には、8月17日。
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「その占い、ドンピシャ、一寸の狂いも無かった」ということで、実筭法印は、天皇よりの覚えまことにめでたく、たちまちにして、多大の恩賞に預かった。

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