太平記 現代語訳 31-4 笛吹峠の戦い

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田義宗(にったよしむね)は、足利尊氏(あしかがたかうじ)の強運の前に、石浜(いしはま:位置不明)で本意を遂げる事ができずに、ついに撤退、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)を前にして越後(えちご:新潟県)と信濃(しなの:長野県)を後ろに見る笛吹峠(ふえふきとうげ:位置不明)に陣を取った。

「新田義宗、笛吹峠にあり」との情報をキャッチして、方々から、反尊氏勢力が続々と参集してきた、そのメンバーは以下の通りである:

大江田氏経(おおえだうじつね)、上杉憲顕(うえすぎのりあき)、その子息・上杉憲将(のりまさ)、中條入道(なかじょうにゅうどう)、その子息・中條佐渡守(さどのかみ)、田中氏政(たなかうじまさ)、堀口近江守(ほりぐちおうみのかみ)、羽川時房(はねかわときふさ)、荻野遠江守(おぎのとおとうみのかみ)、酒匂左衛門四郎(さかわさえもんしろう)、屋澤八郎(やざわはちろう)、風間信濃入道(かざましなののにゅうどう)、その弟・村岡三郎(むらおかさぶろう)、掘兵庫助(ほりひょうごのすけ)、蒲屋美濃守(かまやみののかみ)、

長尾右衛門(ながおうえもん)、その弟・長尾弾正忠(だんじょうのちゅう)、仁科兵庫助(にしなひょうごのすけ)、高梨越前守(たかなしえちぜんのかみ)、大田瀧口(おおたたきぐち)、干屋左衛門太夫(ほしやさえもんだいう)、矢倉三郎(やくらさぶろう)、藤崎四郎(ふじさきしろう)、瓶尻十郎(みかじりじゅうろう)、五十嵐文四(いがらしぶんし)、五十嵐文五(ぶんご)、

高橋大五郎(たかはしだいごろう)、高橋大三郎(だいざぶろう)、友野十郎(とものじゅうろう)、繁野八郎(しげのはちろう)、禰津小二郎(ねづこじろう)、その弟・禰津修理亮(しゅりのすけ)、諏訪上社祝(すわかみしゃのはふり)一族33人、繁野(しげの)一族21人、

以上の主要メンバーをはじめ、総勢2万余騎。

彼らは、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の第2皇子・宗良親王(むねよししんのう)を大将にかついで、笛吹峠に集合した。

一方、「将軍様は、小手差原(こてさしはら)の合戦で無事、現在、石浜におられる。」との報に、足利尊氏の方にも、続々援軍が駆けつけてきた。そのメンバーは、以下の通りである:

千葉氏胤(ちばうじたね)、小山氏政(おやまうじまさ)、小田治久(おだはるひさ)、宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)、常陸大丞(ひたちのだいじょう)、

佐竹義篤(さたけよしあつ)、佐竹刑部大輔(ぎょうぶだいう)、白河権少輔(しらかわごんしょうゆう)、結城判官(ゆうきはんがん)、長沼判官(ながぬまはんがん)、川越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ)、高坂刑部大輔(こうさかぎょうぶだいう)、

江戸(えど)、豊島(としま)、古尾谷兵部大輔(ふるおやひょうぶだいう)、三田常陸守(みたひたちのかみ)、土肥兵衛入道(とひひょうえのにゅうどう)、

土屋備前前司(つちやびぜんのぜんじ)、土屋修理亮(しゅりのすけ)、土屋出雲守(いずものかみ)、下條小三郎(しもじょうこさぶろう)、

二宮近江守(にのみやおうみのかみ)、二宮河内守(かわちのかみ)、二宮但馬守(たじまのかみ)、二宮能登守(のとんかみ)、

曽我上野守(そがこうずけのかみ)、海老名四郎左衛門(えびなしろうざえもん)、本間(ほんま)、渋谷(しぶや)、

曽我三河守(そがみかわのかみ)、曽我周防守(すおうのかみ)、曽我但馬守(たじまのかみ)、曽我石見守(いわみのかみ)、

石浜上野守(いしはまこうづけのかみ)、武田陸奥守(たけだむつのかみ)、その子息・武田安芸守(あきのかみ)、武田薩摩守(さつまのかみ)、武田弾正少弼(だんじょうしょうひつ)、

小笠原(おがさわら)、坂西(はんぜい)、一条三郎(いちじょうさぶろう)、板垣三郎左衛門(いたがみさぶろうざえもん)、逸見美濃守(へんみみののかみ)、白洲上野守(しらすこうづけのかみ)、

天野三河守(あまのみかわのかみ)、天野和泉守(いずみのかみ)、狩野介(かののすけ)、長峯勘解由左衛門(ながみねかげゆざえもん)、

以上の主要メンバーをはじめ、総勢8万余騎。

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足利尊氏 鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)には、新田義興(にったよしおき)と脇屋義治(わきやよしはる)の軍勢7,000余騎。しかも、続々と兵が集まっているという・・・かたや、武蔵には、新田義宗と上杉憲顕か・・・えぇっと、そちらの兵力は?

足利軍リーダーA 2万余騎ですね。

足利尊氏 ・・・うーん・・・2万・・・2万・・・7,000・・・はてさて・・・いったいどちらを・・・先に叩くべきか・・・。

足利軍リーダーB そりゃぁやっぱし、武蔵の方の敵軍でしょう。

足利軍リーダーC その理由は?

足利軍リーダーB こっから鎌倉へ軍を動かしてたんじゃ、みんな疲れちゃいますからねぇ。まずは、近くにいる大敵を叩いて打ち負かしちゃう、そうすりゃぁ、鎌倉の小勢なんか、一戦もせぬ前に、退散しちまいまさぁ。

足利軍リーダー一同 なぁるほど!

足利尊氏 ・・・う・・・じゃ・・・そのセンで行くか。

2月25日、足利尊氏は、全軍を率いて石浜を出発、武蔵の国府(こくふ:東京都・府中市)に到着した。

そこにさらに、以下のメンバーが馳せ加わってきた:

甲斐国(かいこく:山梨県)の源氏(げんじ)集団、武田信武(たけだのぶたけ)、武田氏信(うじのぶ)、その子息・武田修理亮(しゅりのすけ)、武田上野守(こうづけのかみ)、武田甲斐前司(かいのぜんじ)、武田安芸守(あきのかみ)、武田弾正少弼(だんじょうしょうひつ)、その弟・武田薩摩守(さつまのかみ)、

小笠原近江守(おがさわらおうみのかみ)、小笠原三河守(みかわのかみ)、その弟・小笠原越後守(えちごのかみ)、

一條四郎(いちじょうしろう)、板垣四郎(いたがきしろう)、逸見入道(へんみにゅうどう)、逸見美濃守(みののかみ)、その弟・逸見下野守(しもつけのかみ)、南部常陸守(なんぶひたちのかみ)、下山十郎左衛門(しもやまじゅうろうざえもん)をはじめ、合計2,000余騎。

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2月28日、尊氏は、全軍を率いて、笛吹峠へ押し寄せた。

新田・上杉連合軍は、小松が生い茂る山の南側斜面上に、流れる小川を前にして、陣を取っている。峯には、錦の御旗を打ち立てて、山麓には、白旗(しらはた)、中黒(なかぐろ)、棕櫚葉(しゅろのは)、梶葉(かじのは)の紋を描いた各家や武士団の軍旗が満ち満ちている。

いよいよ、戦闘開始。

尊氏側の一番手には、新手(あらて)で戦場一帯の地理に通じているから、ということで、甲斐国・源氏集団3,000余が当てられた。

新田義宗軍と戦って約1時間、逸見入道以下の主な甲斐国源氏集団100余騎が戦死し、退却。

尊氏側の二番手は、千葉、宇都宮、小山、佐竹、合計7,000余騎。上杉憲顕軍の陣へ押し寄せ、入り乱れ、入り乱れ、戦う。その結果、上杉軍側は信濃勢200余騎が戦死、尊氏側も300余騎が戦死、左右にサッと別れた。

引けば入れ替わって、両軍、追いつ返しつの激戦、午前11時頃から午後7時頃まで、少しの休む間も無く、戦闘が続いた。

少勢をもってして大敵と戦うには、「鳥雲(ちょううん)の陣形」がベストである。この陣形は、山を背後にし、左右に水を境にして、敵を平野に見下ろして陣を取る、というものである。このように構えると、我が方の兵力の程を敵に覚られる事なく、勇将猛卒(ゆうしょうもうそつ)が、かわるがわる最前線に射手を進めて戦えるのである。

新田・上杉連合軍側が取った陣形は、まさにこの鳥雲の陣そのものであった。故に、じっと待ってさえいれば、そのうち勝機は廻(めぐ)ってくるのである。

しかし、新田義宗は、やはり経験不足の若武者、何度も何度も広みに出てしまっては、尊氏側の大軍に包囲されてしまう。百度戦い千度懸け破るとも、尊氏側は圧倒的な大兵力、ついに、新田・上杉連合軍は、戦に負け、笛吹峠への撤退を余儀無くされた。

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上杉憲顕軍の中に、長尾弾正(ながおだんじょう)、根津小次郎(ねづこじろう)という、二人の大力・剛の者がいた。

長尾弾正 えぇい、おもしろくねぇ!

根津小次郎 やられちまったなぁ。

長尾弾正 おいら、とてもこのまま、引き下がってらんねぇな。このまま負けたんじゃ、一世一大のハジじゃんかよぉ!

根津小次郎 ほんと、ほんと。どうだい、おれとおまえと、二人してさ、この恥、晴らそうじゃん。

長尾弾正 いってぇ、どうやってぇ? なんか、いい作戦でもあんのかよぉ?

根津小次郎 敵に紛れてな、あっちの陣に入り込むんだよ・・・将軍の側近くまで近づいてな・・・そいから・・・ブスッ!

長尾弾正 おもしれぇ、やってやろうじゃぁん!

二人は急いで、自らの笠標(かさじるし)を二両引(ふたつりょうびき)の足利家のそれに替えた。

根津小次郎 おれたち、あっちの連中に、顔知られちまってるからよぉ、うまく変装しなきゃなぁ。

長尾弾正 (乱れ髪を、顔に振り掛け)これで、どうだ?

根津小次郎 ウハハハ・・・それじゃ、誰にも分かりっこねぇやなぁ。じゃぁ、おいらはもうちょっとハデにやってやっかなぁ・・・オウッ(小刀で、自らの額を突き切る)。

長尾弾正 おぉ、そこまでやるかぁ! 顔面、血シブキじゃぁん。

根津小次郎 (切って落した尊氏軍所属の武士の頭を、太刀の先に貫き)どうだ、これなら、誰にも気付かんねぇだろう?

長尾弾正 ハハハハ・・・ジュウブン(十分)、ジュウブン。

彼らはたった二人で、尊氏軍数万の中に懸け入っていった。

尊氏軍メンバーD こらこら、待て! 止まれ!

尊氏軍メンバーE テメェら、いったいどこの家中のもんだ?!

長尾弾正 なんだとぉ! おれを誰だと思ってやがんでぃ! テメエらみてぇな下っ端レンチュウに、検問されて、たまるかぁ!

根津小次郎 おれたちゃなぁ、他ならぬ将軍様のお御内(みうち)のモンだぞ! 分かってんのかぁ!

尊氏軍メンバーD (ドキッ)・・・。

長尾弾正 ついさっきまで、新田のレンチュウらとチャンチャンバラバラやりあってよぉ、あっちのリーダークラスのやつ、組み討ちにしてやったんだ。そいだもんで、これから将軍様の御前へ行ってだなぁ、首実検(くびじっけん)してもらおぅってんだよぉ!

根津小次郎 オラオラ、ナニしてやがんでぃ! 早いとこ、道、開(あ)けやがれぃ!

尊氏軍メンバーD いやいや、こりゃぁ、どうも失礼しやした。

尊氏軍メンバーE それはそれは、おめでとうござんす。

こうなっては、誰も二人を咎めだてする者は無い。

長尾弾正 将軍様は、いったいどちらにおられるんだい?

尊氏軍メンバーG (尊氏の陣を指差し)ほらほら、あちら、ほら、あそこ。

馬の上に伸び上って、指差された方向を見ると、そこにはたしかに、尊氏の姿が見えた。二人が今いる所からの距離は、ちょうど、弓の射程距離くらいであろうか。

長尾弾正 (内心)ラッキー!

根津小次郎 (内心)よぉし、ただの一太刀で、

長尾弾正 (内心)切って落してやらぁ!

根津小次郎 (内心)将軍様、待ってなせぇよぉ、そこ、動きなさんなよぉ!

二人は、キッと目配(めくば)せを交わし、尊氏の方に、馬を静かに歩ませていった。

しかし、またしても、尊氏はその強運に助けられた。

尊氏軍メンバーH おい、てぇへん(大変)だ! 将軍様、危ねぇぞ!

尊氏軍メンバー一同 (ビクッ)

尊氏軍メンバーH その二人に、気ぃつけろ、狙ってるぞ! 将軍様、狙ってるぞ!

尊氏軍メンバー一同 なにぃ!

尊氏軍メンバーH そいつら、上杉の配下だよ、長尾弾正と根津小次郎だ! おれ、そいつらの顔、よく知ってんだから。だまされんなよ、将軍様に近づけちゃ、だめだぞ!

武蔵と相模の武士ら300余騎が、たちまち左右から殺到してきて、二人と尊氏との間を隔ててしまった。

長尾弾正 チェッ、バレちまったか。

根津小次郎 (太刀の先に貫いた首を投げ捨て)こうなりゃ、トコトンやってやらぁ!

長尾弾正 (乱れ髪を振り上げ)よぉし、行くぜぃ!

二人は、300騎の集団の中に、突入した。

根津小次郎 エーイ!

小次郎の太刀 ドシャッ!

長尾弾正 ヤァー!

弾正の太刀 ブス!

二人の太刀の切っ先に回った者は、兜の鉢から胸板まで真っ二つに割られたり、腰の関節を切られたりして、馬上から次々と落ちていく。

しかしながら、しょせん多勢に無勢、たった二人では、限界というものがある。弾正と小次郎は、十方を包囲され、矢の雨を浴びせられ始めた。

長尾弾正 (内心)こりゃぁ、ちょっとムリかなぁ。

根津小次郎 (内心)惜っしいなぁ、もうちょっとのトコだったのにぃ!

長尾弾正 ウハハハ・・・いやぁ、それにしても、運の強い足利殿。

根津小次郎 じゃ、またなぁ、バイバーイ!

二人はしずしずと、上杉軍の陣へ引き上げていった。

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夜になって、両軍共に引き退き、各陣、思い思いに、かがりびを焚(た)きはじめた。

尊氏軍側を見渡せば、かがり火は周囲四方5、6里にも及び、あたかも、銀河高く澄む夜空に星を連ねるかのようである。それにひきかえ、笛吹峠の新田・上杉連合軍側のかがり火は、月の明かりに消され行く蛍火(ほたるび)が山陰(やまかげ)に残っているようなもの。

これを見て、新田義宗は、

新田義宗 一日中の合戦で、こちら側のメンバーが、大勢やられちまった、それはたしかに、そうだろうよ。けどなぁ、このかがり火、いってぇどうなってんだぁ? これほど陣が、スケスケになっちまうはず、無(ね)ぇだろうがぁ!

新田軍リーダー一同 ・・・。

新田義宗 きっと、逃亡者がいるに違(ちげ)ぇねぇ。よぉし、逃げれねぇようにな、道々に関、構えろ。

というわけで、上田山(うえだやま:新潟県・南魚沼市)と信濃路(しなのじ)に、厳しく関を据えた。

新田義宗 (内心)「士卒が将を疑う時は、戦い利あらず」って事があるからな・・・。目の前には勝利に乗ってる大敵、背後には味方の国ときちゃぁ、そりゃぁ、みんな疑うだろうよ、「今夜にでも、新田は、越後、信濃へ撤退しちまうんじゃなかろうか」ってなぁ。

新田義宗 (内心)こういう時には、不退転の姿勢を示すのが一番なのさ。「舟を沈め、食料を捨てて、再び帰らじの心を示すは、良将の謀(はかりごと)なり」って言うからな。

新田義宗 おい、みんな! 馬の鞍、降ろせ。鎧、脱げ。おれたちゃ絶対、ここから撤退しねぇぞって心意気、みんなに見せつけてやるんだ。

義宗自ら、鎧を脱いたので、士卒ことごとく、鞍を下ろして馬を休ませた。

宵のうちは、全員心を静めて落ち着いていたが、夜半を過ぎる頃ともなると、尊氏陣営側のおびただしく連なっている松明(たいまつ)に、どうしても目が行ってしまう。

「明日の戦も、負け戦になること必定(ひつじょう)」と、思ったのであろうか、ついに、上杉憲顕が脱落してしまった。憲顕は、カガリ火を陣中に燃やしたまま、信濃へ撤退。

新田義宗も、止む無く、翌暁、越後へ撤退した。

大将2人が撤退してしまったとなっては、もはや、新田・上杉連合軍は、総崩れ。たった今まで、新田、上杉に付き従っていた武蔵、上野の武士たちも、いずこへともなく、霧散霧消(うさんむしょう)。

この戦の結果を日和見(ひよりみ)していた上総(かずさ:千葉県中部)、下総(しもうさ:千葉県北部)の武士たちは、我先にと尊氏のもとへ馳せ参じていったので、やがてその兵力は百倍して、ついに総勢80万騎にまで膨張した。

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6,000余騎を率いて鎌倉を制圧している、新田義興(にったよしおき)と脇屋義治(わきやよしはる)の、何よりの関心事は、笛吹峠の戦の結果であった。

新田軍使者 報告、申し上げます、笛吹峠の戦い、わが方、利あらず、上杉殿は信濃へ、義宗様は越後へ撤退!

新田義興 えぇっ!

脇屋義治 ハァー・・・(溜息)だめだったかぁ!

新田軍使者 足利尊氏は、関東8か国の勢力を率いて、こちら、鎌倉へ向かっております。

新田軍リーダーI 殿、どうします?

新田義興 決まってるだろ、ここで、討死にするだけさ、なぁ?

脇屋義治 その通り! もともと、その覚悟で、やってきたんだもんね。

松田(まつだ)家リーダーJ いやいや、そぉそぉ早まっちゃぁ、いけません!

松田家リーダーK そうだよ! ここは、シンボウが大切。

河村(かわむら)家リーダーL おれたちんちや、松田んちの領土はね、相模川(さがみがわ)の上流、山奥深いとこにあるんです。(注1)

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(訳者注1)原文には「松田、河村の者共、「それがしらが所領のうち、相模河の河上に屈竟の深山候へば、只それへ先引籠らせ給て・・・」。とあるが、これは太平記作者のミスであろう。「相模川上流」の「屈竟の深山」となると、山梨県上野原町よりもさらに上流となってしまい、松田、河村の本拠地からはるか彼方に離れてしまう。ゆえにここは、「相模川上流」ではなくて、「酒匂川上流」とするのが正しいようだ。
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河村家リーダーM 守りをかためて、たてこもるにゃ、絶好の場所だい。

松田家リーダーJ まずは、そこへたてこもってね、そいから、勢力挽回の努力でさぁね。

松田家リーダーK 京都の様子を見ながら、

河村家リーダーL 越後や信濃に撤退された新田の大将方とも、連絡、密に取り合って、

河村家リーダーM 天下の形勢を、じっとうかがい、

松田家リーダーJ チャンスと見れば、再び諸国から兵を集めて、

松田家リーダーK 再度、合戦!

新田義興 ウーン・・・どう思う?

脇屋義治 ・・・。

松田、河村両家リーダーたちの強いいさめを、ついに二人は聞き入れた。

3月4日、新田義興と脇屋義治は、石塔(いしどう)、小俣(おまた)、二階堂(にかいどう)、葦名(あしな)、三浦(みうら)、松田、河村、酒匂(さかわ)以下6000余騎を率いて、鎌倉より撤退し、国府津山(こうづやま:位地不明:注2)の奥にたてこもった。

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(訳者注2)これを、現在の神奈川県・小田原市の国府津の付近と見るのは、相当、無理がある。国府津は相模湾沿岸だから、「相模川(あるいは、酒匂側)上流の屈竟の深山」の地ではない。
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