太平記 現代語訳 33-1 足利尊氏、京都奪還を目指す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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伝令 報告、申し上げまぁす! 昨日、神南(こうない:大阪府・高槻市)において、義詮(よしあきら)様、大勝利! 敗北した山名(やまな)軍は、淀(よど:京都市・伏見区)の本陣まで撤退しましたぁ!

足利尊氏(あしかがたかうじ) うん! よぉし!

尊氏の右手 バチン!(右手で右膝を叩く)

尊氏は、比叡山(ひえいざん)から下山し、3万余騎を率いて東山(ひがしやま:京都市東方)に陣を取った。

仁木頼章(にっきよりあきら)も、丹後、丹波勢3,000余騎を率いて上洛、嵐山(あらしやま:京都市・右京区)の上に陣を取った。

その結果、京都南方の淀(よど)、鳥羽(とば:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、八幡(やわた:京都府・八幡市)一帯は、アンチ尊氏連合軍側の陣となり、東山、西山(にしやま:注1)、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)、西岡(にしおか:注2)一帯は全て、尊氏側の陣となった。

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(訳者注1)右京区から西京区にかけての山々。

(訳者注2)向日市、長岡京市一帯の丘陵地帯。
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双方の陣のエリア内においては、ありとあらゆる神社仏閣が破壊され、その材木は、武士たちの詰め所の防御壁と化した。陣中の薪や櫓(やぐら)建設用の建材を得るために、あたり一帯の木々や竹は、残らず切り倒されてしまった。

「敵軍が横合いに懸かってきた時には、見通しが良い方が戦いやすいから」という事で、尊氏側は、東山から日々夜々(にちにちやや)、京都中心部へ寄せてきては、家々を焼き払っていく。

かと思えば、東寺(とうじ:南区)に駐留している足利直冬(あしかがただふゆ)側は、「敵陣付近の建物を残らず焼き払ってしまおう、そうすれば、敵は雨露をしのぐ事もできないようになってしまうから、そのうち、人馬共に疲れきってしまうだろう」と、白河(しらかわ:左京区)エリア一帯に、寄せては放火を繰り返す。

両軍の手がかからないままに、今も無事に残っている所は、といえば、もはや、皇族、妃、里内裏(さとだいり:注3)、大臣、公卿らの館のみである。それらの建物もみな、門戸を閉ざし、その中には人の気配も無く、野狐(やこ)の住処(すみか)と成り果てて、棘(いばら)が扉を被いつくしてしまっている。

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(訳者注3)外戚(がいせき)などの邸宅を、仮の皇居としたもの。
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京都朝年号・文和4年(1355)2月8日、細川清氏(ほそかわきようじ)は、1,000余騎を率いて四条大宮(しじょうおおみや:下京区)に押し寄せ、北陸地方からやってきた軍勢800余騎と激突した。

追いつ返しつ、両軍終日戦い暮らし、左右へサッと引き退くと見るや、紺糸威(こんいとおどし)しの鎧に紫色の母衣(ほろ)をかけ、黒瓦毛(くろかわらげ)の馬に厚総(あつぶさ)かけてまたがった武士が一人、北陸勢の中から前線へ出てきた。年の頃は40歳ほど、ただ1騎、しずしずと馬を歩ませていわく、

武士 今日の戦、そっち側に、とっても目立つ人が一人いたよなぁ。

武士 進む時には士卒に先んじて進み、引く時は士卒に遅れて退いてた・・・おれの見たところ、その人はまぎれもなく、細川清氏殿にちげぇねえ・・・そうだろう?

細川清氏 ・・・。

武士 細川殿、この声を聞いたらさ、おれがどこの誰だか、もう分かってるだろう?

細川清氏 ・・・。

武士 日も落ちて、すっかり暗くなっちまいやがった、相手の顔の見分けも、つきゃしねぇ。こんな時に、つまらん敵と出会って勝負するのも、イヤなもんさなぁ、細川殿よ。

細川清氏 ・・・。

武士 ってなわけでな、改めて、名乗りを上げるとしよう。このたび、北陸道を打ち順(したが)えて京都へ上ってきた桃井播磨守直常(もものいはりまのかみ・なおつね)たぁ、おれの事よ。この際、何とかして細川殿に見参(けんざん)してな、人がうわさしてるあんたの力の程を、じっくり拝見、細川殿も、おれのこの太刀の切れ味、とっぷりと味わってみられちゃぁ、いかがかねぇ? ワッハッハァ・・・。

声高(こわだか)に名乗りを上げ、馬を北に向けて控えている。

細川清氏 (内心)おぉ、おでましだねぇ!

細川清氏は、敵からの挑戦を受けたら、じっとしておれない人である。

細川清氏 ほほぉ・・・そこにおられるのは、他ならぬ桃井殿であったかぁ。相手にとって不足無しだなぁ!

いささかも躊躇(ちゅうちょ)せず、清氏はただ一人、馬をUターンさせて、直常に接近していく。

二人の間の距離は、グイグイと縮まっていく。

「相手はまさに、格好の敵なり、天下の勝負、ただ、我と彼との死生(しせい)に有り、馬をかけ合わせ組み、いざ勝負!」と、両者互いに、相手の鎧の肩の部分をしっかとつかみ、手元に引き寄せ合う。

細川清氏 (内心)なんだぁ、桃井め、あんな大口たたきやがって。意外と、力、ね(無)ぇじゃねぇか。

清氏は、相手の兜を引き切って投げ捨てた。そして、鞍の前輪に相手の頭部を押し当て、その首をかき切って高々と差し上げた。

駆け寄ってきた郎等14、5騎に、取った首と母衣を持たせ、清氏は意気揚々と、尊氏の本陣へ向かった。

細川清氏 やりました! ついにやりましたよ! 桃井直常の首を取ってきました!

足利尊氏 エーッ!

細川清氏 私、今日は、四条大宮方面に向かったのですよ。で、そこでバッタリ、桃井勢と、でくわしましてね・・・。

その時の様子を滔々(とうとう)と説明する清氏の声に、じっと耳を傾けながら、尊氏はその首を見つめている。

細川清氏 ・・・で、ですね、その時、私はですね・・・。

足利尊氏 ・・・。

細川清氏 ・・・いやぁ、もう、とにかく・・・。

足利尊氏 ・・・暗くて、よく見えんな・・・あかりを・・・。

尊氏側近A ハハッ!

直ちに、蝋燭(ろうそく)の数が増やされ、その場に居あわせた全員が、首を凝視した。

足利尊氏 (内心)これは、本当に直常か?・・・年の頃は、たしかにそれらしい・・・でも・・・どうもなぁ・・・こんな顔じゃ無かったけどなぁ・・・北陸に行ってからもう長くなるから、人相も変わってしまったのかなぁ・・・それにしてもなぁ・・・。

足利尊氏 ・・・とにかく・・・誰かに、確認させよう。

尊氏側近B 昨日、降伏してきた、八田左衛門太郎(やださえもんたろう)という者がおりますが・・・彼に確認させてみては、いかがでしょう?

足利尊氏 うん、すぐに呼んで来い。

尊氏側近B ハハッ!

やがて、八田左衛門太郎がやってきた。

尊氏側近B この首、誰だか、分かるか?

八田左衛門太郎は、その首を一目見るなり、ハラハラと涙を流し、

八田左衛門太郎 (涙)あぁ・・・こりゃぁ、越中国(えっちゅうこく:富山県)の住人で二宮兵庫助(にのみやひょうごのすけ)ってもんですよ。

一同 ・・・。

八田左衛門太郎 (涙)先月、越前(えちぜん:福井県北部)の敦賀(つるが:福井県。敦賀市)に着いた時にね、この男は、気比大明神(けひだいみょうじん:敦賀市)のおん前で、誓いを立てよったんですよ(涙)・・・、

 「これから京都へ行って、合戦の場に臨んだ際、もし敵陣に、仁木、細川といったようなオオモノがいあわせたならば、わしは、桃井直常殿の名を名乗って、勝負を挑みます。もしも、この言葉を違えるような事があったならば、今生(こんじょう)においては、永久に武士としての名誉を失わせ、死後の世界においては、無限地獄(むげんじごく)に落としてくださいますように。」

一同 ・・・。

八田左衛門太郎 (涙)二宮はね、社前でそう誓って、起請文(きしょうもん)を一枚書いて、神殿の柱に押し当てとったですよ。その言葉通りの、立派な戦死を遂げよりましたんですなぁ・・・(涙)

足利尊氏 その母衣を・・・。

尊氏側近C ハハッ!(母衣を尊氏に手渡す)

足利尊氏 (母衣をじっと見つめながら)・・・うん・・・確かに書いてあるな、「越中国の住人・二宮兵庫助、屍(かばね)を戦場に曝(さら)し、名を末代(まつだい)に留むる」・・・。

この話を伝え聞いた世間の人々は、

世間の声D かつての源平争乱の時代、あの斎藤実盛(さいとうさねもり)は、白髪頭を黒く染めて自分の年を隠し、敵にあい見(まみ)えたというじゃぁないか。

世間の声E かたや、今の世の二宮兵庫助、名字を変えて命を捨て、ですか・・・。

世間の声F 時代こそ異なってますけど、その志は、おんなじ(同)どすわなぁ。

世間の声G いやぁ、まっこと、リッパな武士たい。

世間の声一同 同感、同感。

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2月15日朝、「将軍サイド、東山から大挙して上京(かみぎょう)エリアへ繰り出し、食料を略奪中」との情報に、「よぉし、イッキに蹴散らしてしまえ!」とばかりに、東寺に駐留の直冬(ただふゆ)サイド陣営から、桃井直信(もものいなおのぶ)、斯波氏頼(しばうじより)が、500余騎を率いて出陣、一条大路(いちじょうおおじ)と二条大路(にじょうおおじ)の間を二手に分かれて前進。

これを見て、細川清氏と佐々木黒田判官(ささきくろだはんがん)が、700余騎を率いて、東山から下りてきた。

彼らは、斯波軍の後陣を進む朝倉高景(あさくらたかかげ:注4)率いる50騎の集団に狙いをつけ、それを背後から攻撃せんとして、六条河原(ろくじょうがわら:注5)から京都中心部へ懸け入った。

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(訳者注4)後に、越前を支配する戦国大名となる朝倉氏の二代目。

(訳者注5)鴨川の河原のうちの、六条通りと交差する付近一帯。
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朝倉軍は、いささかも動揺する事無く、馬の頭を東に向け直して、静かに敵襲を待ち受ける。

細川・佐々木の大軍勢はこれを見て、「敵、あなどりがたし」と思ったのであろうか、朝倉軍との間隔0.5町程の所まで、ジリジリとにじり寄った後に、ドッと一斉にトキの声を上げ、全軍揃って、馬にムチ入れ、攻撃を開始した。

朝倉軍メンバーたちは、少しもひるまず、大軍の中に懸け入り、馬煙を立てて相手に切り結ぶ。

これを見た斯波氏頼は、

斯波氏頼 朝倉を死なせるな! おれに続け!

氏頼は300余騎を率いて取って返し、六条東洞院(ろくじょうひがしのとういん:下京区)から東方へ、烏丸通り(からすまどおり)から西方へと、追いつ返しつ、7度8度と、攻撃を繰り返す。

両軍衝突の度毎に、細川軍は追い立てられるような形勢になってしまった。

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細川軍の中に、南部六郎(なんぶろくろう)という、世にもすぐれた武士がいた。彼はただ一人、戦場に踏みとどまっては戦い、返し合わせては切って落し、四方八方に敵を追い散らして戦い続ける。

六郎の奮戦の結果、斯波軍側は、次第にまばらになっていった。

斯波軍中に、三村首藤衛門(みむらすどうざえもん)、後藤掃部助(ごとうかもんのすけ)、西塔金乗坊(せいとうのこんじょうぼう)ら、常に行動を共にしている5人のグループがあった。

彼らは、互いにキッと目配(めくば)せしあい、南部六郎を組み打ちしてしまおうと、六郎に接近していった。

5人を尻目に見ながら、南部六郎はカラカラと笑った。

南部六郎 ウハハハ・・・なんだなんだぁ?! 5人がかりとは、こりゃまたなんとも、モノモノしい人らだなぁ。

南部六郎 おまえら、それほど、おれのこの太刀に切られたいんかぁ。よぉし、お望み通り、全員、胴切りにしてやらぁ。この太刀の切れ味、たっぷり味わってみろぉい!

六郎は、5尺6寸の太刀を片手に持って打ちまくり、迫り来る5人の攻撃をかわす。

その一瞬のスキをついて、西塔金乗坊が、六郎の至近距離に飛び込んだ。

金乗房 えやっ!(六郎の身体に組み付く)

南部六郎 なんのなんの、てぇやぁ!

金乗房 うあぁ!

六郎は大力の持ち主、金乗房の身体を掴(つか)んで、頭上、高々と差し上げた。しかし、そのまま放り投げて殺傷するには、さすがに金乗坊の体重は重すぎた。かといって、太刀は長いから、手元近くに捉えて切ってしまうわけにもいかない。

南部六郎 (内心)よし、グイグイ押して、殺してしまえ。

六郎は、金乗房の身体を、築地(ついじ)の壁面に押し当てた。

南部六郎 エーイ! エーイ!

金乗房 ウウウ、ウウウ・・・。

その反動で、六郎の乗馬が、尻餅をついて倒れてしまった。

5人のグループ・メンバー一同 (内心)しめたっ!

六郎の鎧草(よろいくさ)ずりの下敷きになってしまった馬を、2人のメンバーが引き据えて、完全に地べたに、はいつくばらせた。さらにそこへ、4人が応援に馳せ寄ってきた。

そしてついに、南部六郎は、討たれてしまった。

金乗房は、六郎の首を取り、それを太刀の切っ先に貫いて、自陣へ戻った。

これにて一戦終了、双方共に退き、京都中心部と白河(しらかわ:左京区)に帰った。

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同日夕方、仁木義長(にっきよしなが)と土岐頼康(ときよりやす)が、3,000余騎を率いて七条河原(しちじょうがわら:東山区)へ押し寄せ、桃井直常、赤松氏範(あかまつうじのり)、原(はら)、蜂屋(はちや)らの軍勢2,000余騎と激突。鴨の河原3町を東西に追いつ返しつ、煙塵をまきあげて戦う事、20余回に及んだ。(注6)

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(訳者注6)この時代の「鴨の河原」は、現在の鴨川の河川敷よりも、はるかに広かったようだ。

[寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民 伊藤 正敏 著 ちくま新書 734 筑摩書房] 42P に、[四条河原]に関して、以下のようにある。なお、文中に登場する「京都劇場」は、現在既に無く、その跡地には「京劇ビル」が建っているようだ。また、「阪急デパート」も「マルイ」の京都店に変わっている。

 「鴨河原といっても、現在の鴨川河川敷を思い浮かべてはいけない。四条河原町は今日、京都随一の繁華街であるが、その名の通り、この場所は本当に「鴨河原の中」なのだ。現在の日本銀行・京都劇場・阪急デパート、東にある木屋町・先斗(ぽんと)町も鴨河原に含まれる。鴨川の氾濫原はずっと東西に広く、東は大和大路、西は東洞院や高倉あたりまでが、洪水危険地域であった。この大和大路は名前の通り、はるか奈良につながる幹線道路である。」
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その結果、桃井軍は、過半数が負傷。

新手と入れ替わって東寺(とうじ:南区)へ引き返す途中、さらに、土岐の桔梗一揆(ききょういっき)100余騎の攻撃を受けた。反撃に出た者は切って落され、東寺へ逃げ込もうとした者は、木戸や逆茂木にさえぎられて、道を塞がれてしまった。

東寺の内部は騒然、全員パニック状態、「足利直冬サイドの本陣も、もはや、これまでか」との雰囲気である。

赤松氏範は、重傷を負って動けなくなってしまった郎等・小牧五郎左衛門(こまきごろうざえもん)を助けようとして、馬上から五郎左衛門の手を引いて、歩ませていた。

そこから遠く隔たった高櫓(たかやぐら)の上から、二人を見た大将・足利直冬は、叫んだ、

足利直冬 赤松殿--ぉ!、早いとこぉ、とって返してぇ、味方を助けてやってくれぇーー!

直冬は、扇を揚げて2度、3度、氏範に向かって叫んだ。

足利直冬 赤松殿--ぉ! 赤松殿--ぉ! 早くーー! 早くーー! 早く、味方をーー!

赤松氏範 よっしゃ、よっしゃぁ! ちょい待ってやぁ!

氏範は、五郎左衛門の身体をひっつかみ、

赤松氏範 ほーい! 頼んだでぇーっ!(五郎左衛門の身体を、木戸の中へ投げ込む)

小牧五郎左衛門の身体 ビューーーン、ドサ!

赤松氏範 よぉーし、いぃくでぇ!

氏範は、5尺7寸の太刀のつば本を持ち直し、ただ1騎、木戸の外で反撃にうって出た。

相手に馳せ並んでは切りかかり、また、馳せ並んでは切りかかる・・・こちらに走っては、兜の鉢から胸板付近までカラ竹割りにまっぷたつ、あちらに走っては、胴の真ん中から瓜(うり)を切るように一刀両断・・・。さしも勇み立っていた土岐軍メンバーも、「こりゃぁ、とても、かなわんでぇ」と思ったのであろう、七条河原へ退却してしまった。

かくして、2月15日の戦は終了。

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3月13日、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、土岐(とき)、佐々木(ささき)、佐竹(さたけ)、武田(たけだ)、小笠原(おがさわら)は、兵力合わせて7,000余騎の軍を編成し、七条西洞院(しちじょうにしのとういん:下京区)へ押し寄せ、その半数が、但馬(たじま)・丹後(たんご)勢と戦い、残りの半数は、斯波高経(しばたかつね)軍と戦いを交えた。

ともすると押され気味の仁木らの様子を見て、尊氏は、那須資藤(なすのすけふじ)のもとに使者を送り、援軍に向かうように命令した。

那須資藤は、今回のこの戦に参加する前に、故郷の老母のもとへ人をつかわして、次のような文面の手紙を送っていた。

 「今度の戦で討死にするような事になったら、私は、親に先立つ身となってしまいますね。草場の陰、苔の下に行ってからも、母上がお嘆きになられてるお姿を、毎日見る事になるのでしょうか・・・そんな事、想像するだけでも、悲しい事でございますよ。」

これを読んだ資藤の母は、涙の中に、次のような返事を書いて送ってきた。

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 「古(いにしえ)より今に至るまで、武士の家に生れた人間は、名を惜しみこそすれ、命を惜しんだ事など、決して、ありませんでしょう?」

 「いよいよこれが最後という時には、誰しもおそらく、妻子に名残(なごり)を惜しみ、父母との別れを悲しんだ事でしょうよ。でも、家名を思い、世間の嘲りを恥じるが故に、この捨て難い自分の命をも捨ててきたのですよ、そうではありませんか?」

 「あなたは、あたくしから、その身体と髪、膚を受け、それを損なう事なく、今日まで生きてきてくれました。それだけでも、もう既に、立派に親孝行を果たしたというものでしょう。更に今また、身を立て、武士の道にまっすぐに沿って行動し、その名を後世に輝かしめる絶好の機会が得られた、というのですから、「親への孝行、これにて完結す」という事に、なるのではないかしら?」

 「ならば、今度の合戦では、心に心していってくださいね。己が身命を軽んじて、ご先祖様のおん名を汚す事など決してないように、よろしくお願いしますよ。」

「同封のこの母衣(ほろ)は、元暦(げんりゃく)の古、わが家が誇るあのご先祖・那須興一資高(なすのよいちすけたか)様が、屋島(やしま:香川県・高松市)の合戦で、あの扇をみごと射当てて大いに名を揚げられた、あの時、お召しになっていた母衣ですよ。」

資藤は、母から送られてきた錦の袋を開いて見た。中には、薄紅色の母衣があった。

ただでさえ、戦場に臨んでは常に命を軽くする那須資藤、ましてや、母からこのように、「義に生きよ」と励まされて、ますます、勇気燃えさかっていた。

そんな所に、将軍・尊氏から特使をもって、「この方面が苦戦に陥っているので、ただちに出向いて敵を払え」とだけ、言って来たのである。資藤は一も二も無く、畏(かしこ)まって、その命令を受けた。

那須資藤 さぁ、行くぞぉー!

那須家一族郎等一同 ウォーー!

資藤は、味方の大軍が、足も立たないほどに攻めまくられている所に、駆けつけた。

勇み立って攻め寄せてくる直冬サイド軍勢のど真ん中へ、名乗りも上げずにしゃにむに突入、兄弟2人一族郎等36人、一歩も退かずに、全員、討死にしていった。

那須家の人々の戦死の後、直冬サイドは、機に乗じ、かさにかかって、猛攻に継ぐ猛攻、「この方面の戦局、尊氏サイド、ますます不利」と思われたその時、佐々木崇永(ささきそうえい)と細川清氏が、軍を合して七条大宮(しちじょうおおみや:下京区)へ懸け抜け、直冬側軍勢を西に受け、東に顧(かえり)みて、入れ替わりたち替わり、戦闘遂行、約1時間。

直冬サイドも、「ここで引き下がっては、後が無し!」と、戒光寺(かいこうじ:南区)の前に垣楯(かいだて)を敷き並べ、火花を散らして戦い続ける。

細川清氏は、軽傷を数箇所に負い、あわや討死にかとまで思われたが、佐々木崇永が、グイグイと軍を進め、清氏を討たせじと奮戦。さらにそこに、土岐・桔梗一揆軍500余騎が駆けつけてきた。

にわかに強化された相手軍を見て、直冬サイドも、新手(あらて)の応援を頼る気になったのであろう、垣楯を一斉に放棄し、0.5町ほど退却した。

佐々木崇永 敵に、息をつがせちゃいかん! 立ち直るスキを与えちゃいかん! 攻めろ、攻めろ、ガンガン攻めろ!

佐々木と土岐は、垣楯の内まで入り込んで、相手陣を完全に占拠してしまおうとの意図である。

佐々木軍の旗手・掘次郎(ほりじろう)は、

掘次郎 (内心)垣楯の左右両側から、回り込んでいったんでは、遅すぎるな、よぉし!

次郎は、旗を棹ごと、垣楯の内部へ投げ入れるやいなや、

掘次郎 ハァッ!

垣楯の上端に手がかかるやいなや、掘次郎の両足は、大地を蹴った。

掘次郎 テヤッ!

次郎の身体は空中に舞い、一瞬の後、

掘次郎の身体 ドス!(垣楯の内部領域に着地する音)

その後、細川・土岐両軍メンバーらが大挙、左右から回り込んで、垣楯の内部領域に殺到してきた。

彼らは、その領域の南方に、自分たちの垣楯を突き並べ、その背後に3,000余騎を配置して、その場を踏み固めた。

まさに、東寺に相対する向かい城が、急に建ち上がったかのような観である。

これを見て、東寺にこもる直冬サイドは、意気屈してしまい、相手に勢いを呑まれ、木戸から外に出てこなくなった。

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このようにして、京都中心部での戦は数日に及び、形勢も日々逆転、勝敗は、全く予断を許さない状態である。

足利幕府の命運が決せられるこの大事な時に、幕府執事(しつじ)・仁木頼章(にっきよりあきら)は、いったい何をしていたのかといえば、桂川(かつらがわ)を東へ越える事も無く、嵐山の上から、はるか彼方、京都中心部を、ただただ、見下ろしているだけ。尊氏側の勝ち戦になれば、伸び上って喜び、敗勢になってくれば、顔面蒼白、逃げ仕度の他、余念無し、といった有様である。

見るに見かねて、同じ陣にいた備中国(びっちゅうこく)守護・飽庭(あいば)のみが、自らの手勢だけを率いて、何度か戦を行った。

しかしながら、「大きい家は、ただ一本の柱だけで支えられているわけではない。」との言葉のごとく、戦においては、双方の陣営の総合力の差異が、勝敗の分かれ目になってくるケースが、ある。

各方面へ配置されている尊氏サイド陣営の総合力が、ジワジワと、効果を現わしはじめた。

山陰道(さんいんどう)方面は、仁木頼章が塞いでいる、山陽道(さんようどう)方面は、足利義詮(あしかがよしあきら)が抑えている、東山(とうさん)、北陸(ほくりく)両道方面は、尊氏の大軍が塞いでいる。

河内(かわち)方面が、京都に、かろうじて繋がっているだけ・・・直冬サイドのロジスティックス・ライン(兵站線)は、完全に切断されてしまった。援軍の来るあてもない。

これまでの所は、双方互角の戦ではあったが、尊氏サイドの兵力は、日に日に、増強されていく。

「このまま行ったのでは、早晩、敗退」との判断の下、3月13日夜、足利直冬とその陣営所属リーダーたちは、共に、東寺、淀(よど:伏見区)、鳥羽(とば:伏見区)の陣を引き払い、八幡(やわた:京都府・八幡市)、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)、堺(さかい:大阪府・堺市)の海岸へ、撤退した。

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