[関ヶ原の戦]で、本当にあったことは?

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2024.7.27 presented in [note] ( //note.com/runningWater/]
2024.7.28 rewritten

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それまで、いわゆる「関ヶ原合戦」についての、深い知識や関心もないままに、一応、これくらいは知っておきたいなぁ、というくらいのスタンスで、様々なコンテンツ(書物、テレビ番組等)に触れてきた私にとって、下記の書物は、一大衝撃をもたらすものであった。

 [新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い 白峰 旬 (著) 宮帯出版社 2014年 発行]
(以降、これを、[文献1]と記することにする。)

以下のような様々の、時代劇・名場面や解説図が、この書においては、著者によって、

 それは、史実に基づくものではない、後世のフィクション、作り話だ

と、されているのである。

 [小山評定] 小山(栃木県)で、東軍側の武将たちが会議する、というシーン
 [問鉄砲] なかなか踏ん切りを付けれない小早川秀秋の陣めがけて、家康の命により、鉄砲が撃ちこまれる、というシーン
 [関ヶ原合戦の布陣図] ここに、石田三成の陣が、ここに小西行長の陣が、というような配置図

(話のついでに言うが、[クレメンス・メッケル]という人が、この図を見て、「西軍勝利」と言った、というような話も、フィクションだ、という説も、最近、ある。)

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さぁ、本題に入ろう。

いわゆる「関ヶ原合戦」があったのは、旧暦・慶長5年9月15日、西暦1600年10月21日 だ。

[文献1]の著者・[白峰 旬]は、この日近くのタイミングで作成された一次史料に注目して、様々な考察を行っている。それに基づいて、白峰は、

[文献1] 39P - 41P において、

 「関ヶ原合戦」という名称は、正しいのか?

という問題提起を、行っている。

白峰が考察の手がかりとして用いた一次史料は、下記の書状、すなわち、手紙だ。(各項の先頭にある史料の記号は、私が付与したものである)

 [史料・徳川] Date:慶長5年9月15日 From:徳川家康 To:伊達政宗
  [文献1] 39P - 40P で紹介・引用されている。家康から政宗への書状だ。

 [史料・保科] Date:慶長5年9月19日 From:保科正光 To:松沢喜右衛門尉、他2名
  [文献1] 40P で紹介・引用されている。保科正光から松沢喜右衛門尉らへの書状だ。

 [史料・吉川] Date:慶長5年9月17日 From:吉川広家 To:?
  [文献1] 40P で、「吉川広家自筆書状案(慶長五年九月十七日)」として紹介・引用されている。
 
 [史料・石川and彦坂] Date:慶長5年9月17日 From:石川康通、彦坂元正 To:松平家乗
  [文献1] 40P - 41P で紹介・引用されている。石川康通、彦坂元正から松平家乗への書状だ。
   
 [史料・生駒] Date:? From:生駒利豊 To:坪内定次
  [文献1] 48P - 65P で紹介・引用されている。当日の戦闘に参加していた、[生駒利豊]という人が、後になってから、当時の事を回想して書いた書状なのだそうだ。
 
白峰の調査結果は、以下のようになったのだそうだ。

 [史料・徳川]、[史料・保科]の中には、
  「山中」という所において、戦闘が行われた、という趣旨の事が記されている。
  ([文献1] 39P - 40P)

 [史料・吉川] の中には、
  「関ヶ原」という地名は全く記されておらず、「山中」という地名が頻出し、「山中合戦」、「山中之合戦」と記されている。
  ([文献1] 40P)

 [史料・石川and彦坂] の中に、
  「関か原へ出陣して一戦に及んだ」との記述がある。
  ([文献1] 40P - 41P)

 [史料・生駒] の中に、
  「関ヶ原」という場所において、戦闘が開始された、と記されている。

[文献1] 51P - 55P には、下記のように[史料・生駒] からの引用が行われている。 (白峰により、現代語訳されている)

 「(前略)関ヶ原にて、大夫殿(福島正則)の先手の者が(宇喜多秀家隊と)鉄砲を撃ちあった。・・・」

[文献1] 52P - 53P に、その書状の現物を撮影した画像が掲載されており、その最初の方に、私には、「原」という文字であろうかと思われるような、字がある。

[文献1] 78P - 79P に、[史料・吉川]中の、下記のような内容の部分が引用されている。(白峰により、現代語訳されている)

 「(前略)小早川秀秋は逆意が早くもはっきりする状況になったので、大垣衆(大垣城にいた諸将)は、山中の大谷吉継の陣は心元なくなったということで、(大垣城から)引き取った(移動した)。これは、佐和山への「二重引」をする覚悟と見える(後略)」

上記中には、「山中」の文字がある。しかし、大垣衆(石田三成や宇喜多秀家らが、その中に含まれているのだろう)が、「山中」へ移動した、というような事は、書かれていない。大谷吉継が「山中」にいたであろうことが、読み取れるだけである。

[文献1] 81P - 82P には、[史料・石川and彦坂]中の、下記のような内容の部分が記されている。(白峰により、現代語訳されている)

 「石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の四人は、(九月)十四日の夜五ツ(午後八時頃)時分に大垣(城)の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一緒に押し寄せた。この地の衆(尾張衆)・井伊直政・福島正則が先手となり、そのほか(の諸将が)すべて次々と続き、敵が切所(要害の地)を守っているところへ出陣して、戦いをまじえた時(開戦した時)・・・」

上記中には、[関ヶ原]とある。

このように、白峰によって紹介・引用されている当時の一次史料の中においては、戦場となった場所に関しては、

 [関ヶ原] と記されているものもあり、
 [山中] と記されているものもあり、

という状態であるようだ。

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[山中] とはいったい、どのあたりにあるのだろう?

ネット地図にアクセスし、[岐阜県 関ヶ原町 山中]で検索して、現在、[山中]と呼ばれているエリアが、岐阜県・関ヶ原町の中にあることが分かった。

その位置は、これまで、「ここが石田三成陣跡である」とされてきた地点、「ここが小西行長陣跡である」とされてきた地点からは、南西方向に離れた地のようである。

(東海道新幹線、JR東海道本線が、このあたりを通っているようなので、車窓からその地を見ることができるかもしれない。)

しかしここにきて、疑問点が続々、湧き上がってきてしまった。以下に、それを記そう。

(1) 当時の「山中」エリアは、現在の[山中]エリアと、同じなのか?

現在、[山中]とされているエリア、すなわち、[岐阜県 関ヶ原町 山中]と、1600年当時に、「山中」と呼ばれていたエリアが、同一なのかどうか?

1600年当時、現地の人々が「山中」と呼んでいたエリアは、もしかしたら、現在の[岐阜県 関ヶ原町 山中]よりも、もっと広い範囲のエリアであったかもしれない。

もしかしたら、その「山中」エリアの中には、「関ヶ原」も、含まれていたのかもしれない。

もしもそうであるならば、
戦闘が行われた、と想定される場所を、
 現在、[岐阜県 関ヶ原町 山中] と、呼ばれているエリア
 の内
 に、限定する必要は、なくなるだろう。
 (当時の)「山中」エリア
 に含まれる
  地・「関ヶ原」
においても、戦闘が行われていたのかも、しれないのだから。

(2) 「山中」 と 「関ヶ原」 が、きっちりと区分して、把握されていたのかどうか?

1600年当時、現地の人々は、
 ここからここまでが、「山中」であり、
 ここからここまでが、「関ヶ原」である、
 「山中」
 と
 「関ヶ原」
 とは、異なるエリアである、
というような、明確な地理的区分を持っていたのだろうか?

仮にそうだとしてみても、次の疑問が生じる。

徳川家康、吉川広家は共に、当時、関ヶ原の地を支配していたわけではない。もっと遠くの場所を支配してたのだ。だから、現地の地理に、それほど詳しかったとは、思えない。

彼らの頭の中において、「関ヶ原」と「山中」とが、異なるエリアを表す地名として、明確に区別できていたのかどうか、疑問だ。

家臣たちから聞いた、「山中」という地名を、あまり深く考えずに、そのまま、手紙に書いたのかもしれない。

これまで、小早川秀秋が陣を置いたのは、[松尾山]であると、されてきたようだ。

その[松尾山]の近くに、[岐阜県 関ヶ原町 山中](現在、そのように呼ばれているエリア)は、ある。
よって、
[岐阜県 関ヶ原町 山中]が、
 複数あった戦場のうちの一つ
になった可能性は、あるだろう。

よって、その地で戦闘を行った人が、東軍の中に、いたかもしれない。

そのような人が、戦いが終わった後に、
 「おまえは、どこで戦っていたか?」
と、問われたならば、
 「はい、
  [山中]
  と、いう所で戦っておりました。」
と、答えるだろう。

その報告をもとに、家康が、「・・・濃州の山中において一戦に及んだ」と手紙に書いた、というような事も、考えられるかもしれない。

戦後、数日経過の段階で、書いた手紙だから、あまり細かい事(「山中」か「関ヶ原」か)に、こだわって書くような余裕は、無かっただろう。

(3)[岐阜県 関ヶ原町 山中]は、大軍を展開するには適していない地であるように思えるのだが

[地理院地図]にアクセスし、[関ケ原町 山中]で検索して、[岐阜県 関ヶ原町 山中]の付近の等高線より、そこの地形を想像することができる。

そこはまさに、山の中の地、南北にある山の谷間というような地形の場所であるようだ。

このような、狭い場所で、東西双方の大軍がひしめきあい、激闘し、というような情景が、どうにも、私の頭には、浮かんでこないのだ。

ここは、野戦の戦場というよりは、むしろ、防備に適した地、と言った方が、よいように、思える。この谷に兵士を配置したら、敵の大軍の通過を、効果的に妨げることができそうに思えるのだ。

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さすがに、このセンはないだろうとは思うのだが、一応、言っておこう。

[史料・徳川]にある文書を、おそらく、家康は、祐筆に書かせていたのだろうけど、その時、彼は、「山中」を、どのように発音していたのであろうか?

 「やまなか」だったのか? それとも、「さんちゅう」だったのか?

もしも後者であったのなら、戦場の特定は、不可能になるだろう。

 「美濃のさんちゅう(山中)で、戦いが・・・」

ということになれば、それがいったい、美濃のどこだったのか、全く分からなくなる。「美濃のさんちゅう」と呼んでよいような所は、美濃の国中、いたるところにあるだろうから。

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関ヶ原の戦、とても有名なのに、その実態は、何も分かっていない、これが、関ヶ原に関する知見の現状、ということに、なるのだろう。だから、この地を話題に出すに当たっては、事前の綿密な考証が、必要となるのでは、ないだろうか。

そのような例が、美濃の隣の尾張にも、ある。

愛知県内に、「ここが、桶狭間の戦場である」と、言われている所が、二か所(豊明市と、名古屋市)、あるようだ。

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