太平記 現代語訳 28-5 足利直義、京都から出奔

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利尊氏(あしかがたかうじ)が中国地方へ向けて出発したその前夜、京都では大事件が起こっていた。

謹慎蟄居(きんしんちっきょ)中の足利直義(あしかがただよし)が、石塔頼房(いしどうよりふさ)を伴って京都を出奔(しゅっぽん)、行方不明になってしまったのである。

この情報に、昨今の世相に危機感をつのらせていた人々は、京都のあちらこちらでヒソヒソ話。

世間の声A (ささやき声で)こらぁ、えらいこっちゃでぇ!

世間の声B (ささやき声で)ついに足利直義様、行動開始と来たな。

世間の声C (ささやき声で)またまた国中、戦乱のちまたに、ひきずり込まれる事になるんかいなぁ。

世間の声D (ささやき声で)ムムム・・・高(こう)家一族の、滅亡の日は近づいたゾォ。

突然の出来事に事情がよく分からず、足利直義サイドの男女も、ただただ、うろたえるばかりである。

直義サイドの人E いやまぁほんまに、タイヘンな事に、なってしもたやないかいな!

直義サイドの人F いったいぜんたい、世の中、どないなってしもとんのん?・・・。

直義サイドの人G 直義様はいったいどこへ? 誰が、おともしてるの?

直義サイドの人H 誰も、おともしてやしませんことよ。たったお一人で、失踪なすったようですわ。

直義サイドの人I 馬は全て、厩(うまや)につながれてますがねぇ・・・馬も無しに、いったいどこへ行かれたんでしょうかねぇ?

直義サイドの人G なに言ってんのよ、馬が無けりゃ、どこへも逃げれないじゃないの!

直義サイドの人E あんな、これはきっと、高師直(こうのもろなお)のサシガネでっせぇ。

直義サイドの人F そうやそうや、きっとそうや、師直が誘拐しよったんやわ、今夜中に、こっそり殺されてしまわはるんや。

直義サイドの人G そんな! ひどい、ひどいわ!

直義サイドの人一同 うぁぁ、うぁぁ、うぁぁ・・・(涙)。

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仁木(にっき)家、細川(ほそかわ)家の人々も、血相変えて、高師直の館にかけつけてきた。

仁木家メンバーJ こりゃ、タイヘンな事になっちまった!

仁木家メンバーK うーん・・・直義殿の京都からの逃亡、どうもこりゃぁ、タダじゃぁすまないような気がする・・・。

細川家メンバーL 執事(しつじ)殿、九州行き、しばらく延期されては?

細川家メンバーM うん、それがいいと思う。暫く京都に逗留されてですね、直義殿の居場所をよくよく探索された方が、いいんじゃあ?

高師直 モシモシカメよ、カメさんよ、ナァニをおっしゃるウサギさん。まぁ皆はん、そろぉて、タイソウなフゥに、言うておいやしておくれやすやんかいさぁ。デェジョウブ(大丈夫)、デェジョウブ、たとえ、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)、十津川(とつがわ:奈良県・吉野郡・十津川村)の奥、はたまた、鬼界島(きかいがしま:注1)、朝鮮半島へ逃げちっちとしてもですなぁ、この師直が生きてる限りは、いってぇぜんてぇ、どこのバカヤロウ様が、直義はんに味方しはるって言うんどすかいなぁ? ウワッハッハッハッハァ!

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(訳者注1)平家物語にも出てくるこの「鬼界島」は、現在の奄美群島中の「喜界島」ではなく、鹿児島県・薩摩半島南方の「硫黄島」の事であるようだ。
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一同 ・・・。

高師直 まぁまぁ、どこへなりと、お好きな所へ、お逃げあそばし。いくら逃げたってね、そうさねぇ、せいぜい3日のうちにゃぁ、首を獄門の木の上に曝(さら)し、どこぞの誰かの矢の鏃(やじり)にでもお当たりなすってね、屍(しかばね)となられるこたぁ、確実のジツでござんしょ。(注2)

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(訳者注2)原文では、「首を獄門の木に曝し、尺を匹夫の鏃に止め給はん事、三日が内を出ず可(べから)不(ず)。」
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一同 ・・・。

高師直 あのね、だいいちね、「将軍様、九州へ向けて進発ーーゥ!」ってね、その日程を既に諸国へ大々的に触れまわっちゃってんだよぉ。そのスケジュール狂っちまっちゃぁ、あれやこれやとトラブル続出でしょうにぃ。ダァメダメ、京都に留まって直義殿の行き先を詮索しているヒマなんて、これっぽっちも、ありまっしぇーーーん!

10月13日早朝、高師直は、ついに京都を出発、足利尊氏を先頭に、軍を西へ進める。

道中、方々からの軍勢を糾合(きゅうごう)しつつ、11月19日、備前国(びぜんこく:岡山県東部)の福岡(ふくおか:岡山県・瀬戸内市)に到着。

ここで、四国地方と中国地方からやってくる勢力を待ったが、海上に風波荒れて船は航行できず、山陰道(さんいんどう)には雪が降り積もり、馬の蹄も立たなくなっているので、馳せ参じてくる者の数は少ない。

足利尊氏 仕方がない、年が明けてから、九州へ向かうとしようじゃないか。

というわけで、尊氏は、備前の福岡にて、徒(いたずら)に日を送る事になった。

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