太平記 現代語訳 35-3 吉野朝サイド、再び攻勢に

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝(よしのちょう)サイド使者A 京都において、幕府側に内紛勃発(ぼっぱつ)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)に押し寄せてきとった足利(あしかが)軍はみな、京都へ引っ返していきよりましたでぇ!

吉野朝サイド勢力・メンバー一同 よっしゃぁ!

大和(やまと:奈良県)・和泉(いずみ:大阪府南部)・紀伊(きい:和歌山県)の吉野朝サイド勢力は、再び元気を取り戻し、山々峯々にかがり日をたき、津々浦々に船を集めた。

これを見た足利幕府サイドの城々にこもる武士たちは、集まり散じながら、ささやき交わす。

足利軍メンバーB こないだの戦の時にゃぁ、日本国中の軍勢が集まって攻めたんだ、和田(わだ)と楠(くすのき)をなぁ。

足利軍メンバーC でも、結局、退治できなかった。

足利軍メンバーD そんな連中らに、この城、包囲されちゃぁ、たまったもんじゃねぇぜ。

足利軍メンバーE 生きて故郷に帰れるの、一人もいねぇだろうなぁ・・・。

というわけで、まず、和泉守護職に任じられていた細川業氏(ほそかわなりうじ)が、未だ敵が攻めかかってきてもいないのに、城から逃げ出してしまった。

紀伊国の湯浅(ゆあさ)一族も、船に乗り、兵庫(ひょうご:兵庫県・神戸市・兵庫区)をめざして落ちていった。

河内(かわち:大阪府東部)国の守護代・杉原周防入道(すぎはらすおうにゅうどう)は、誉田城(こんだじょう:大阪府・羽曳野市)を出て、水走城(みずはやじょう:大阪府・東大阪市)にたてこもり、ここでしばらく篭城(ろうじょう)して、京都からの援軍を待とうとした。

しかし、楠正儀(くすのきまさのり)は、大軍をもって、息も継がせずにこの城を攻め続けた。一日一夜の抵抗の後、杉原周防入道は、奈良(なら:奈良県奈・良市)方面へ落ちていった。

根来寺(ねごろじ:和歌山県・岩出市)の衆徒たちは、このような足利サイド防衛ラインの全面的崩壊を知らないままに、味方する武士らと共に300余人、紀伊国の春日山城(かすがやまじょう:和歌山県・紀の川市)にたてこもり、二引両(ふたつびきりょう)マークの旗(注1)を1本立てていた。

しかし、恩地(おんぢ)、贄川(にえかわ)が、3,700余騎の軍勢を率いて押し寄せ、城の四方を包囲して、衆徒たちを一人残らず討ち取ってしまった。

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(訳者注1)「二引両」は、足利家の家紋である。
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熊野(くまの)地方においては、湯川庄司(ゆかわのしょうじ)が足利サイドにつき、鹿の瀬(ししのせ:和歌山県・日高郡・日高町ー和歌山県・有田郡・広川町)、蕪坂(かぶらざか:和歌山県・海草郡・下津町-和歌山県・有田市)に陣取って、阿瀬川(あぜがわ:和歌山県・有田郡・有田川町)の湯浅宗藤(ゆあさむねふじ)の城(注2)を攻めようとしたが、宗藤と山本判官(やまもとはんがん)、田辺別当(たなべのべっとう)が、2,000余騎を率いてこれを攻撃、湯川軍を四方八方へ追い散らし、333人の首を取り、田辺宿(たなべじゅく:和歌山県・田辺市)にさらした。

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(訳者注2)阿瀬川城についての記述は、34-6 にある。
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世間の声F (ササヤキ声で)「翡翠(かわせみ)と蛤(はまぐり)、互いにあい争いし時、烏(からす)、すなわちその弊(へい)に乗って、利を得る(注3)」とは、まさに、こないな事を言うんでっしゃろなぁ。

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(訳者注3)原文:「鷸蚌相挟則烏乗其弊」。「カワセミとハマグリ争そう」とは、中国の古典[戦国策]中の[漁夫の利]の逸話。戦国策においては、「利を得るのは漁夫」という事になっており、烏ではない。
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世間の声G (ササヤキ声で)「仁木義長(にっきよしなが)め、ついに、京都から出ていってまいよったぁ」言うて、都中、みな大喜びしたはりますけどなぁ。

世間の声H (ササヤキ声で)近畿地方、あるいは遠国の南方の朝廷サイド勢力、これに乗じて、またまた蜂起したって、いうじゃぁないの。

世間の声I (ササヤキ声で)あーあ、ほんまによぉ言わんわぁ・・・またまたムチャクチャの、戦乱の世に、逆戻りどすかいなぁ・・・。

いったい誰のしわざであろうか、ある日、京都・五条(ごじょう)の橋詰に高札が立った。そこには、二首の和歌が。

 将軍の 敵の種蒔く 畠山 そろそろ打たれて ひっくり返され

 (原文)御敵(おんてき)の 種(たね)を蒔置(まきおく) 畠山(はたけやま) 打返(うちかえ)すべき 世(よ)とは知(しら)ずや(注4)

 どれくらい 豆まいたら気がすむ? 畠山 日本まるごと 味噌にする気かい

 (原文)何程(なにほど)の 豆を蒔(まき)てか 畠山 日本国(にほんこく)をば 味噌(みそ)になすらん(注5)

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(訳者注4)「種蒔く」と「畠」とを、さらに「畠」と「打返す」とをかけてある。「畠山」は、畠山国清を指しているのであろう。

「御敵の種」は、「将軍(=足利義詮)の敵の種」という意味だろうが、これをどう解釈すべきか、訳者には分からない。「敵勢力側(吉野朝側)が蒔こうと狙っている、足利幕府の権力を弱体化させる種を、畠山が、吉野朝側に代って蒔いてしまっている」という解釈がよいのか、あるいは、「様々な人(例えば、仁木義長)を、義詮の敵にしてしまうような紛争の種を、畠山が蒔いている」と解釈すべきか?

(訳者注5)「豆まく」と「畠山」を、さらに、「豆」と「味噌」をかけている(言うまでもなく、味噌は大豆から作られる)。「豆」は「災いの豆」の意味だろうか。
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「これは明らかに、仁木びいきの人間が書いたもの」と、思われるような和歌もあった、六角堂(ろっかくどう:京都市・中京区)の門の扉には、次のように。

 すばらしい 源氏の日記 失(うしの)ぉて 伊勢物語 せぇへん人無し

 (原文)いしかりし 源氏(げんじ)の日記(にっき) 失ひて 伊勢物語(いせものがたり) せぬ人もなし(注6)

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(訳者注6)「いしかりし」は、「美(い)しかり」の意味だろう。「美(い)し=よい、すぐれている、すばらしい。

「日記(にっき)」と「仁木(にっき)」とをかけている。

「源氏」と「伊勢」が、キーワードであろう。仁木家は足利一族だから、源氏に所属している。さらに当時、仁木義長は、伊勢の守護職についていた。故に、[源氏]も[伊勢]も、[仁木義長]を指し示す[シンボル]の役割を果たす語となっている。

そこにさらに、日本の古典文学のキーワードたる、「源氏物語」、「紫式部日記」、「伊勢物語」という3つの固有名詞が、重層的にかぶさっている。「伊勢物語する」は「伊勢地方についての話しをする」の意味にも取れよう。すなわち、「京都を去ってしまって、今は伊勢にいる仁木義長の事をしのんで、人々は、彼の事を話しているよ」、という意味を、この和歌から汲み取れるのだ。とてもイキ(粋)な和歌だなぁ、とは、訳者の感想。
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当時、畠山国清(はたけやまくにきよ)は、常に狐皮の腰当てを付けて、人に対面していた。これをブザマと感じた人が読んだのであろうか、こんな歌もあった・・・。

 畠山 狐の皮の 腰当てや バ(化)ケの皮ついに 現(あらわ)しよったで

 (原文)畠山 狐の皮の 腰当(こしあて)に ばけの程(ほど)こそ 顕(あらわ)れにけれ

また、湯川荘司の館の前には、「芋瀬(いもせ)の荘司(注7) この歌を詠める」とのただし書き付きで、次のような和歌が。

 吉野汁 ほのかに香った ゆず(柚子)のかわ(皮) 京都についたら 何の香もせんわい

 (原文)宮方(みやがた)の 鴨頭(こうと)になりし 湯川(ゆのかわ)は 都(みやこ)に入(いり)て 何(なん)の香(か)もせず(注8)

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(訳者注7)湯川荘司も芋瀬荘司も共に、奈良県吉野郡の豪族であった。

(訳者注8)[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注に、「鴨頭は香頭とも書く。吸物の中に入れる柚子の皮の薬味」とある。「湯川」と「柚(ゆ)の皮」とをかけている。「宮方」は「吉野朝側についている」の意。「都に入る」は「京都朝=幕府側に寝返る」の意。
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このように、「今回の紛争は全て、畠山の行為に原因あり」と、落書にも書かれ、和歌にも詠まれ、風呂屋の女や子供らからまでも、嘲笑されるに至っては、さすがの畠山国清(はたけやまくにきよ)も、面目失墜してしまったのであろう、しばらくは仮病を使って、幕府への出仕をストップしていた。

畠山国清 (内心)ヤベェな・・・このまま京都にいたんじゃ、そのうち、国中の禍が、わしの上に降りかかってきちまわぁ・・・。

8月4日夜、国清は、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)への暇乞い(いとまごい)も無しに、密かに京都を脱出し、関東を目指して東へ進んだ。

ところが、三河国(みかわこく:愛知県東部)まで来て、そこから先へ一歩も進めなくなってしまった。

そこは、仁木義長(にっきよしなが)が長年守護をつとめてきた国(注9)、守護代の西郷弾正左衛門尉(さいごうだんじょうさえもんのじょう)が、500余騎を率いて矢作川(やはぎがわ:愛知県・岡崎市)沿いに布陣し、道を塞いでしまったのである。

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(訳者注9)三河国は、仁木氏の出身地でもある。三河には足利一族の出身地が多くあり、彼らはその地名をそのまま名字とした。(吉良(きら)、仁木、細川、一色(いっしき)、今川)。
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畠山国清 (内心)あーぁ、まいったなぁ。ここで足止め食らってから、もう何日目だぁ? ずるずると、日が過ぎていっちまうじゃねぇかよぉ。

畠山国清 (内心)いってぇ、この先どうするべぇ? このまま、ここで、じっと止まっているべきか・・・それとも、ここから中山道(なかせんどう)へ入って、あっちルート経由で、関東へ戻るべきか? それとも、いっそのこと、京都へ引っ返しちまおうか・・・。

そうこうしているうちに、国清は、背後をも塞がれてしまった。尾張国(おわりこく:愛知県西部)の小川中務(おがわなかつかさ)が、仁木義長に呼応し、国清に叛旗を翻したのである。

関東からやってきた軍勢は、畠山はじめ、白旗一揆(しらはたいっき)武士団、平一揆(へいいっき)武士団、佐竹(さたけ)、宇都宮(うつのみや)に至るまで、みな困りはててしまった。前と後から敵対勢力に塞がれ、前進もできない、後戻りもできない、ただ呆然と立ちつくすのみである。

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首都圏での思いもかけない異変の勃発は、山陰地方(さんいんちほう)にまでも、その影響を及ぼしつつあった。

「関東からの遠征軍、南方朝廷サイド勢力に決定的ダメージを与えた後、首都に凱旋(がいせん)」との情報に、山名時氏(やまなときうじ)は、「次は、自分が攻められる番だ」と思い、城を構え、鏃(やじり)を磨いて、防衛の準備怠り無かったが、

山名時氏 ほんと、世の中、わからんもんだわなぁ・・・京都において不慮の事変が勃発、あげくのはてに、あの仁木義長が、南方朝廷サイドに寝返ってしまうとは・・・ハァー。(注10)

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(訳者注10)[日本の歴史9 南北朝の動乱 佐藤進一 中央公論社刊]の333ページに、以下のようにある:

「仁木は兵をまとめて、分国の伊勢に下り、長野城にこもって幕府の追討軍に抵抗したが、やがて康安元年(1361)二月、南朝にくだった。」
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山名時氏 それに乗じて、和田と楠は、またまた勢力を回復、金剛山の奥から打って出てるって言うわな。よぉし、このチャンス、逃してたまるか!

時氏は、3,000余騎を自ら率いて出陣、全軍を二手に分け、因幡(いなば:鳥取県東部)・美作(みまさか:岡山県北部)国境に配置した。

山名軍は、赤松貞範(あかまつさだのり)と赤松則祐(のりすけ)に従属している方々の城に対して、一斉に攻めかかった。草木(くさぎ:鳥取県・八頭郡・智頭町)、揉尾(もみお:智頭町)、景石(かげいし:鳥取県・鳥取市)、塔尾(とうのお:位置不明)、新宮(しんぐう:鳥取県・岩美郡岩・美町)、神楽尾(かぐらお:岡山県・津山市)の各城を守っている者たちは一たまりもなく、山名側に寝返って味方を攻め始める者もあり、逃走して行方不明になってしまう者もありの、大混乱状態となった。

「仮に、唇が無くなってしまったとしたならば、寒さを、歯にまともに感じるようになるであろう」という言葉があるが、まさに、今の赤松サイドにぴったりあてはまる言葉である。仲間の城が次々と落ちてしまうと、心細さがつのってきてしまうものである。

また、「魯(ろ)の酒が薄かったせいで、趙(ちょう)の首都・邯鄲(かんたん)が包囲されてしまった(注11)」という逸話もあるが、これも、今回の成り行きにフィットしていると、言えよう、京都での事件が思いもかけず、遠く山陰地方にまで影響してしまったと、いうのであるから。

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(訳者注11)「荘子」に書いてある話。

古代中国・春秋時代、中国に多くの国があった時代の事である。

梁(りょう)国の王 わしは趙国を攻めたい。しかし、それは不可能じゃ。もし趙を攻めたら、楚国が必ず、趙の救援に出てくるであろうからな。

ところが、楚と魯との間に紛争が起こってしまった。楚国の王に対して、魯が薄い酒を饗応したというので、楚国の王が激怒、魯を攻め始めたのである。

梁国の王 シメシメ、好機到来じゃ。楚は魯を攻めるにせいっぱいじゃから、とても、趙を助ける余裕などない。よし、安心して趙を攻めれるぞよ!

かくして、梁国の軍隊は、趙国の領土に侵入、その首都・邯鄲を包囲した。

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