太平記 現代語訳 22-6 大館氏明の討死と篠塚伊賀守の豪胆

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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千町原(せんちょうがはら:愛媛県・西条市)での決戦の後、

細川頼春(ほそかわよりはる) 敵軍とわが軍、双方の戦死・負傷者は?

細川軍書記 わが方の戦死と負傷、あわせて700余人。敵側の戦死、200余人です。

細川頼春 こっちサイド、そんなに、やられてたのか・・・うーん・・・。

細川軍リーダーA そやけど、わしらの戦ぉた相手は、敵方の精鋭中の精鋭ですやろ? そういう連中らを200人も討ち取ったんやから、こらぁ大戦果と言えますやろぉ。

細川軍リーダーB わしも、そない思います!

細川軍リーダーC まったく同感ですわ。

細川軍リーダーD わしらは、事実上勝ったようなもんですわ。

細川軍リーダーE どんどん、軍を進めましょうや!

細川頼春 よし・・・。では、次の攻撃目標は、大館氏明(おおたちうじあきら)がたてこもる世田城(せたじょう:西条市)だ。

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8月24日早朝、細川軍は現地に到着。まず、城の背後の山上に登って城内を観察した後、1万余騎を7手に分け、城の周囲に展開して各々陣を構えた。

攻撃態勢をこのようにしっかりとかためた後、四方から一斉に城へ押し寄せた。盾を持って接近して城の前の乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)を除去し、30日間、昼夜ぶっ通しで攻め続けた。

城にこもる大館氏明側の勢いは衰えてきていた。一番頼りにしていた岡部出羽守(おかべでわのかみ)一族40余人が、日比の沖で自害していたし、その他の勇士たちも、千町原の野戦の際に、ほとんど討死にしてしまっていた。

細川軍の猛攻を受け、城内ではもはや、力も食料も尽きてしまい、落城必至の情勢となってきた。

9月3日の暁、意を決した大館氏明主従17騎は、城の一の木戸からうって出て、塀に取り付いていた細川軍500余人を、山麓下まで追い落した後、全員一斉に腹を切り、枕を並べて死んでいった。

防ぎ矢を射ていた他のメンバーたちもこれを見て、「今はもはや、生き続けてもどうしようもない」と覚悟し、細川軍メンバーに襲い掛かって互いに刺し違える者もあり、自らの陣屋に火を放ち、その猛火の中に死んでいく者もあり、目もあてられぬ惨状である。

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このように、次々と自害していく中に、篠塚伊賀守(しのつかいがのかみ)は、城の大手の一の木戸と二の木戸を完全に開き放ち、その奥にただ一人で、立っている。

細川軍メンバーF おぉい、そこのやつ! そんな所に突っ立って、いったいどういうつもりなんじゃぁ?

細川軍メンバーG 降伏するんかい?

篠塚伊賀守 バッキャロゥ!

彼は、紺糸の鎧に鍬型打った兜の緒を締め、4尺3寸の太刀を持ち、8尺余りの棒を脇に挟み、悠然と立っている。大音声でいわく、

篠塚伊賀守 おまえら、いってぇ誰に向かってモノ言ってんのか、全然分かってねぇようだな。とっとと、かかってきやがれぃ! そしたらな、おれがいったいどこの誰だが、ちったぁ思い知るだろうぜ。

細川軍メンバー一同 ・・・。

篠塚伊賀守 畠山重忠(はたけやましげただ)より6代目の子孫にて武蔵(むさし)国の生まれ、新田義貞(にったよしさだ)殿から一騎当千と頼りにしていただいた篠塚伊賀守たぁ、このおれの事よ!

細川軍メンバーF (内心)あやぁ、あいつがあの、篠塚!

細川軍メンバーG (内心)こらまた、えらいヤツと出くわしてもぉた。

篠塚伊賀守 さぁさぁ、おれのこの首、取れるもんなら取ってみて、がっぽり恩賞せしめるがいいぜ! ワハハハ・・・。

篠塚伊賀守は、このように怒声を発しながら、100人ほどの細川軍メンバーらのまっただ中へ突っ込んでいった。

かねてより、彼の武勇と大力の評判を聞いていた上に、今、目の当たりに見るその勇姿と覇気におそれをなして、細川軍側は、誰も彼を遮り止める事ができない。全員左右へサァット退いた後に生じた空間を、篠塚は悠々と駆け抜けていった。

細川軍メンバーF おいおい、あいつは馬にも乗っとらんし、弓矢も持っとらんのやでぇ。しかも、たった一人やないか。よぉ考えたら、そないに恐れる必要も無かったんちゃう?

細川軍メンバーG 接近していったらやられてしまうからな、遠くから矢を射て殺したらえぇんや。

細川軍メンバーH そやけどな、もし反撃してきよったら、どないする?

細川軍メンバーI あっちは徒歩、こっちは馬じゃ。回りを駆けめぐって、あいつを悩まし疲れさせての、そいでもって、やっつけてしまうんじゃ。

細川軍メンバー一同 よぉし!

細川軍メンバー、すなわち、讃岐国(さぬきこく:香川県)の藤原、橘(たちばな)、伴(ばん)の家系の者ら200余騎は、篠塚の後を追った。

篠塚伊賀守 ビンビンビンビン ババントタッタッ バババン ババンバ ドドドバ ビンビン・・・。

篠塚は悠々と、歌を口ずさみながら戦場から去っていく。

細川軍メンバーJ それ、やっつけてしまえー!

篠塚は立ち止まって、例の棒を振り回しながらいわく、

篠塚伊賀守 おいおい、おまえら、おれにあんまり近づくなよ、胴体と頭が、ケンカ別れになっちまうぜぃ・・・フハハハ・・・。さあさあ、最初にこの棒を食らうの、どこのだーれだ? そこのおまえかな、それともそっちのおまえかな? ホイ!ホイ!

棒 ビューン、ビューン。

細川軍メンバーはおそれをなして、蜘蛛の子を散らすようにサッと逃げていく。

今度は、群らがって鏃を揃え、矢を射てみた。

篠塚伊賀守 あのなぁ、ハァー(溜息)、そんなおまえらのヒョロヒョロ矢、いくら射てみたって、俺の鎧には一本も立たねぇやなぁ。それ、ここを射てみろよ、ここ。

篠塚はくるりと向きを変え、細川軍メンバーに背中を向けながら、休息を取りはじめた。細川軍メンバーは、もはや声も出ない。

やがて、篠塚は、再び走り始めた。「あの名高い勇士を、あわよくば討ち取って」との思いに、細川軍メンバーはなおも、彼の後を追う。そのようにして、両者はそのまま6里の道をかけ抜けた。

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その夜半、篠塚伊賀守は、今治浜(いまばりはま:愛媛県・今治市)に到着。

篠塚伊賀守 (内心)さぁてと・・・ここから海を渡って、沖島(おきしま:現在、魚島:愛媛県・越智郡・上島町)へでも逃げるとするか・・・船、ねぇかなぁ・・・。

付近には、細川軍が乗り捨てた船が多数、停泊していた。船上には船員たちだけが残っている。

篠塚伊賀守 (ニヤリ)よぉし。

彼は、鎧を着たまま海に入り、そのまま沖合いの方へ5町ほど泳ぎ(注1)、一隻の船に接近、それにガバッと飛び乗った。

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(訳者注1)「重い鎧を着たまま泳ぐのだから、すごい力の持ち主である」という事を、太平記作者は暗に表現しているのであろう。
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舵取り うわっ!

船頭 あんたはいったい何者じゃぁ?

篠塚伊賀守 まぁまぁ、そんなに騒ぐなってぇ。バケモノが出たわけでもあるめぇ。おれはな、朝廷方の落人(おちうど)、篠塚ってもんよ。急いでこの舟出して、おれを沖島まで送りやがれぃ!

彼は、20余人でもってたぐり下ろす船の碇(いかり)を、一人で楽々と引き上げ、14ないし15尋(ひろ)もある帆柱を、軽々と押し立てた。その後、船室に入り、高枕でいびきをかきはじめた。

舵取り なんちゅう、おそろしいヤツじゃ。

船頭 とても人間わざとは思えんのぉ。

舵取り ここはなぁ、あいつの言う通りにしといた方がえぇんちゃう? さもないと、いったい何されるか分かったもんやないでぇ。

船頭 そうやなぁ。

彼らは篠塚に恐れ入り、順風に帆をかけて沖島まで航行し、彼をそこへ降ろした後、いとまを告げて今治に帰った。

世間の声K 古今東西、様々な勇士の話が残されてはいるんだけどぉ、

世間の声L いやぁ、この篠塚伊賀守ほどすっげぇのは、聞いた事ねぇだが。

世間の声M いやほんと、すごいお人じゃけん。

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