「塩を送る」とは、聞いているが、「水を送る」とは?

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2024.7.28 presented in [note] ( //note.com/runningWater/]

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1 [おみずとり] と [おみずおくり]

奈良の東大寺に、[二月堂]という建物がある。

[おみずとり]は、ここで毎年、修される。この修行の本名は、[修二会]といい、これが、この堂の名前の由来になっているのだと、東大寺の公式サイトに、記されている。

[二月堂]の下の方に、[閼伽井屋(あかいや)]という建物が、ある。その中には、[若狭井]というものが、あるのだそうだ。

若狭井戸 奈良のむかしばなし 第三十三話(県民だより奈良) 山崎しげ子

に、この井戸に関する話がある。

[若狭国の遠敷明神]が、この井戸に、水を送った、という話なのだが、この[若狭国の遠敷明神]は、現在、いったいどこで祀られているのか?

若狭彦神社 下社(若狭姫神社)

であると、している説がある。

その住所には、[福井県小浜市遠敷]の文字列がある。

小浜市には、[お水送り]という行事が、あるのだそうだ。下記には、

 「お水を送る約束から始まったのが小浜の「お水送り」で、若狭から送られたお水を汲み上げるのが東大寺の「お水取り」というわけです。」
 
と、ある。 

若狭に 春を告げる神事 お水送り まるっとおばま 小浜市公式 若狭おばま観光サイト

これと、水銀とを関連づけて論じている説があるようだ。以下の事柄に、もとづいているという。

 [辰砂]という、水銀を採取するための鉱物が、あるそうなのだが、日本では古来、これが、「丹(に)」 と呼ばれてきた。
 小浜市では、辰砂の採掘跡が発見されている。
 小浜市では、かつて、「遠敷」は「小丹生(おにゅう)」と書かれていた。

日本海沿岸の若狭の地から、遠敷明神が送りだす水が、いったい、どのような、[時空のひずみ・回廊]を経由して、東大寺の若狭井に、到達していたのか、それは、私の想像の閾値を、はるかに越えている事象、というほかはない。

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2 別の地にも、[おみずおくり]が

そして、私は知っている、日本にはもう一か所、[水送り]が行われている場所がある、ということを。
そちらの方は、年中無休・24時間稼働だ。

かつて、私は、東海道新幹線に乗って、三島駅で下車、そこから徒歩の旅に出たことがある。

以前から、三島市(静岡県)には、関心があった。

 三島には、きれいな水が流れている場所があると、聞いている
 源頼朝に関係がある所らしい
 江戸時代、東海道の宿場になった所である
 (広重の東海道五十三次の絵の中にも、三島のある場所を描いたものがある。私は、広重は三島には、行っていないのだろうと、思うが)

三島駅で下車した後、下記の場所を、巡っていった。

[菰池(こもいけ)公園]

[菰池]から、南南西方向に流れ出ている川があったので、その川べりの道を、歩いていった。その先にあったのが、

[白滝公園]

美しい水辺の風景が、そこには、あった。水は澄んでいた。

[水の苑緑地]

ここでも、美しい水のながめを、満喫、この緑地の中を流れる[源兵衛川]の水にも、出会えた。

[源兵衛川]は、灌漑のための人口水路であり、[寺尾源兵衛]によって開削されたのだそうだ。

[水の苑緑地]の付近の川の中に、美しい藻があり、白い花が開いていた。これが、もしかしたら、[ミシマバイカモ]だったのかも。

[水の苑緑地]から、歩いて、

[境川・清住緑地] へ。

[境川]という川ぞいに形成された緑地だ。

池や、野原、田など、多様性に富んでいて、とても興味深い場所だった。

[三島梅花藻の里]を運営しておられる、[グラウンドワーク三島]
が、この場所の再生に、取り組まれたようだ。

グラウンドワーク三島
のサイト中の[境川・清住緑地]の項には、以下のような記述がある。

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 「静岡県沼津土木事務所からの要請を受け、グラウンドワーク三島が自然観察会の開催や住民参加のワークショップを開催し、地域住民の意見やアイデアを収集した地域固有の生態空間を再生しました。」
 「今では地域住民が主体となった境川・清住緑地愛護会が、住民行政からの維持管理を委託されるまでになり、豊かな生態系が回復しています。」
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[境川]は、三島市と清水町の境に位置するので、そのような名前で呼ばれるようになったのかと思ったのだが、調べてみたら、そうではない事が分かった。

[しずおか河川ナビゲーション](静岡県交通基盤部河川砂防局河川企画課により作成)というサイトがあり、その中の

[狩野川水系][境川]の項の中に、以下のように記述されている。

 「また、境川の名は、かつてこの川と大場川の上流部が「伊豆」と「駿河」の境となっていたことに由来します。」

そして、そこから歩いて、

[柿田川公園]
へ。

ここは、[静岡県 駿東郡 清水町]の公園であるようで、[国道・1号]沿いにある。

園内の第1展望台と第2展望台に行って、[柿田川]の水源であるところの水が、ダイナミックに、地中から湧き出てくる様を、じっくりと、見ることができた。

これらの、私が訪ね歩いた地に共通しているのが、[水]だ。

三島市内の上記各所や、柿田川公園の、その[水]は、
[三島溶岩流]というものが作り出した、
 地下の導水ライン
を経由して、
 富士山から、
   やってくるのだ
と、いうことのようだ。

まさに、富士山からの贈りもの、富士山からの水送り、まことに、ありがたい。

[三島溶岩と地下水の関係についての一考察,山本玄珠]
[富士山 噴火 三島溶岩流 三島湧水]
等でネット検索すれば、三島溶岩流に関する情報を、得ることができるかもしれない。

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3 [三嶋大社]にも行った

神社の境内には、大きい樹齢値を持つ樹木があった。[キンモクセイ]なのだそうだ。

[腰掛石]もあった、(以前から、これを見たいと思っていた)

この石については、下記のような言い伝えがある。

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1180年(治承4年)に、[源頼朝]は、[三嶋大社]に百日間の日参を行い、源氏の再興を祈願した。その際に、この石に座って休息した。左側の石に頼朝が、右側の石に北条政子(頼朝の妻)が座した。
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1180年という年は、日本の中世史において、大きな意味を持つ年だ。

この年、以仁王(後白河法皇の皇子)が、平氏追討を命ずる令旨を、様々な源氏の家系に連なる人々に対して送り、頼朝のもとにも、それが届けられた。

頼朝の父・源義朝は、清和源氏の大リーダーであり、平清盛に対抗しうる人と目されていたのだが、平治の乱において、義朝は敗戦し、尾張で死亡。

頼朝は、源義朝の三男だったが、兄の義平、朝長は、平治の乱の後、共に死去。

頼朝は、平氏によって捕えられ、京都へ送られたが、池禅尼(平清盛の継母)の助命嘆願などによって、死刑を免れ、伊豆国への流刑となった。

そのような、流刑人の境遇にある時に、平氏追討を命ずる令旨が、頼朝のもとにやってきた。そして、頼朝は決起して、挙兵。

頼朝の妻・政子の実家は、[北条氏]。[北条氏]の根拠地は、[北条](静岡県・伊豆の国市)だった。(ここへも、過去に行ったことがある)

その場所の位置は、ネット地図で、[伊豆の国市 北条]で検索したら、分かると思う。

頼朝と政子の最初の出会いは、どこで、どのような感じだったのか、興味深いのだが、それを明らかにするような確かな史料があるのかどうかまでは、分からない。

挙兵後、頼朝は、石橋山の戦いに敗れ、山中に潜入せざるをえなくなった。

この時、もしも、頼朝が平氏側勢力によって捕縛されていたならば、おそらく、頼朝の生涯はここまで、ということになっていただろうから、三嶋大社の腰掛石は、頼朝と政子の悲しい運命の跡、となっていたかもしれない。

この社に深い関係を持つ、とされてきた絵がある。歌川広重が描いた絵だ。

[広重 東海道五十三次 保永堂 三島]でネット検索すれば、この絵の画像を含んだコンテンツを見ることが、できるかもしれない。

江戸時代、東海道は、この絵にあるように、[三嶋大社]の鳥居の前を、通っていたのだろうか?

ネット地図で、[三嶋大社]で検索してみると、この神社の南側に、広い道があることが分かるだろう。[その道]の南側から、[三嶋大社]の現在の鳥居が、見える。

ネット地図で調べてみると、この道は、[国道・1号](江戸時代の東海道にほぼ沿って作られた)では、ないようだ。

[旧東海道 地図 三島] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て調べ、[三嶋大社]が、江戸時代の東海道の北側の場所にある事が分かった。すなわち、上記中の、[その道]は、江戸時代の東海道であったようである。

このあたりでは、[江戸時代の東海道]と、[国道・1号]は、別ルートになっているようだ。

江戸時代に鳥居があった位置と、現在の鳥居がある位置とが、同じなのかどうか、ということまでは、分かりない。

その付近の店で、いなりずし(だったか?)を食べた、という、記憶があるのだが、どうも、今となっては、だいぶ、ふたしかだ。食べながら、それを撮影をしておけば、よかったのだ・・・。

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