太平記 現代語訳 19-3 新田義貞、再起して、越前国府を攻略す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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金崎落が落ちた後、新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)は、杣山(そまやま:福井県・南条郡・南越前町)の麓、瓜生(うりう)氏の館に潜伏していた。

新田義貞 なぁ、義助。いつまでもここでこうやって、くすぶってるわけにはいかんよな。方々に潜伏している敗軍の兵を集めて、越前国中にうって出ようぜ! それでこそ、吉野におられる天皇陛下も安堵して下さるし、金崎で死んでいったあいつらの恨みだって晴らせるってもんだろう。

脇屋義助 よぉし、行くかぁ!

義貞は、諸国へ秘かに使者を送り、かつての戦友や家臣たちに召集をかけた。

方々に蟄居(ちっきょ)しながら態勢挽回の機をじっと待ち続けていた武士たちは、この義貞の召集を伝え聞いて、

武士A (内心)よしよし、チャンスが、またまためぐってきたぞ。

武士B (内心)龍の鱗にくっつき、鳳(おおとり)の翼にぶら下がって天まで上がり、我が宿望(しゅくぼう)を達成せん、か・・・。

武士C (内心)再チャレンジだぁ!

彼らは続々と義貞の下に参集。立派な馬や鎧は無くとも、その心は中国漢王朝の高祖(こうそ)の功臣、樊噲(はんかい)、周勃(しゅうぼつ)にも劣らず、という義心金鉄(ぎしんきんてつ)の武士ら3,000余騎が杣山城に結集するに至った。

この情報はすぐに京都へ伝わった。

足利尊氏(あしかがたかうじ)はさっそく、斯波高経(しばたかつね)とその弟・家兼(いえかね)を大将とし、北陸道7か国の軍勢6,000余騎を添えて、越前国の国府(注1)へ送り込んだ。

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(訳者注1)各国の行政の中心。任命された国司がそこに駐在、というのが原則であったが、平安時代後期からはその原則が徐々に崩れ、国司の代理が京都から赴いていたようである。越前国の国府は、福井県・越前市にあった。
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それから数ヶ月が経過したが、斯波サイドは大兵力を擁し、一方の新田サイドは難攻不落の杣山城にたてこもり、というわけで、斯波サイドは城へ寄せることができず、新田サイドも越前国府を攻撃することができない。

両軍は、双方の中間地点に位置する大塩(おおしお:福井県・越前市)、松崎(まつざき:越前市)あたりに兵を出して、日々夜々の戦闘を継続していった。

そのような中に、加賀国(かがこく:石川県南部)の住人、敷地伊豆守(しきじいずのかみ)、山岸新左衛門(やまぎししんざえもん)、上木平九郎(うえきへいくろう)らが、畑時能(はたときよし)の調略に応じて新田サイドについた。

彼らは、加賀国と越前国との境にある細呂木(ほそろぎ:福井県・あわら市)のあたりに城を構え、津葉五郎(つばのごろう)の大聖寺(だいしょうじ:石川県・加賀市)城を攻め落とし、加賀国中を制圧してしまった。

斯波サイドに忠誠を誓っていた平泉寺(へいせんじ:福井県・勝山市)の衆徒らも、いったい何の思惑(おもわく)あってか、その過半数が分裂行動をとり始めて、新田サイドに寝返りした。彼らは三峯(みみね:福井県・鯖江市)という所に進出して城を構え、斯波軍に圧力を加え始めた。

さらに、伊自良次郎(いじらじろう)が300余騎を率いてこれに合流。近隣の地頭や御家人たちもこれを防ぎようがなく、自分の館に火をかけ、越前国府にある斯波陣営へ逃げ集まってきた。

このようにして、新田義貞の再起を契機として、北陸地方には一大地殻変動が起こり、馬の足の休まる日は無し、という状態に。

三峯にこもる平泉寺の衆徒らは、杣山城に使者を送り、「大将を一人、こちらへ派遣していただきたい。その人の指揮の下に戦うから。」と要請した。義貞はすぐに、義助に500余を添えて、三峯へ送り込んだ。

加賀国全域にも新田義貞からの挙兵勧誘の使者が回り、敷地、上木、山岸、畑、結城(ゆうき)、江戸(えど)、深町(ふかまち)らが細屋右馬助(ほそやうまのすけ)を大将と仰ぎ、3,000余騎の兵力でもって越前国へ越境。彼らは、長崎(ながさき:福井県・坂井市)、河合(かわい:福井市)、川口(かわぐち:福井県・あわら市)の3か所に城を構え、ジワジワと越前国府へと迫った。

斯波高経は、6,000余騎を従えて越前国府にたてこもっていたが、

斯波高経 (内心)うーん、まずいな。ついに、新田側勢力に、国中を占領されてしまった。このまま国府にこもってたんじゃ、そのうち食糧も尽きてしまう。そうなったら、もうおしまいだぞ・・・うーん・・・ここはどうするべきかなぁ・・・やっぱし、兵力の分散配置をすべきだろうなぁ。

というわけで、兵力6,000のうち3,000を国府に残し、残りの3,000を越前国中に送り、30余箇所に城を構えさせて、こちらに200、あちらに300、というように分散配置した。

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戦場一帯が雪深く、馬の足も立たないような状態の間は、城と城との間に毎日のように戦いが起こっても、しょせん小競合(こぜりあい)の域を出ず、わずか1日ほどの戦闘を行うだけ、決定的な総力戦を行う所までは行かない。

やがて年も改まり、2月中旬に。寒さがようやく和らいできて、武士たちは、手をかじかませずに弓をひけるようになってきた。残雪はまだら模様になりながら徐々に消えていき、馬が楽に地上を走れるようになってきた。

脇屋義助 (内心)やっと、戦いやすい気候になってきた。さぁ、いよいよ出動。越前国府へじわりじわりと接近していって、足利軍が往来する道々に城を構え、国府の四方を塞いでしまうんだ。さぁてと、城を構えるに適当な場所をちょっと検分しに、行ってみようかな。

義助は、わずか140騎ほどを率いただけで、鯖並宿(さばなみじゅく:福井県・南条郡・南越前町)へ向かった。

「脇屋義助が、わずかな手勢を引き連れただけで城を出ていった、脇屋を討つなら今がチャンス。」と、三峯城から斯波サイドに通報した者がいたのであろうか、斯波軍の副将・細川出羽守(ほそかわでわのかみ)は、500余騎を率いて国府からうって出て、鯖並宿へおしよせていった。

細川軍は、脇屋軍を3方から包囲し、一人残らず殲滅せんと、攻めかかっていった。

前と後に敵を受けて、脇屋義助は、もはや逃がれる場所は無し、と覚悟。窮地に陥り、脇屋軍は全員一心となった。

勇気を奮い起こし、高木社(たかぎのやしろ:福井県・越前市)を背後にして瓜生野(うりうの)の中央に陣取り、矢をおしまずさんざんに射る。細川軍の馬の足も立たせず、7度、8度と攻めかかっていく。細川出羽守と鹿草兵庫助(かくさひょうごのすけ)率いる500余騎は小勢の脇屋軍に攻めたてられ、鯖江宿(さばえじゅく:福井県・鯖江市)背後の日野川(ひのがわ)の浅瀬を渡り、対岸へサァット退いていった。

結城上野介(ゆうきこうずけのすけ)、河野通為(こうのみちため)、熊谷直経(くまがいなおつね)、伊東次郎(いとうじろう)、足立新左衛門(あだちしんざえもん)、小嶋越後守(こじまえちごのかみ)、中野藤内左衛門(なかのとうないざえもん)、瓜生次郎左衛門(うりうじろうざえもん)ら8騎が、川の瀬頭(せがしら)に進み、細川軍の後を追って渡河しようとするのを見て、脇屋義助は馬を寄せて彼らを制した。

脇屋義助 おい、いかん! 止まれ! おれたちみたいな小勢でもって、さっきはあんな大軍を退けることができたけどな、これは単なる一時のまぐれ、たまたまラッキーってもんよ。いつまでも勝ちが続くなんてこと、ありっこねぇんだから。

脇屋義助 ほら、よく見てみろよ。ここから先は、攻めるには難しい地形だぞ。このまま敵に向かっていったんじゃ、沢に入りこんじまって身動き取れなくなっちまう。そうなったらがぜん、敵に有利になってしまわぁ。

脇屋義助 まずは援軍、援軍を集めるんだよ。今日の合戦は思いがけないタイミングでいきなり起こっちまったもんだから、遠い所にいる味方の連中、まったく気がついてないだろう。だから、すぐに応援に駆けつけて来てくれないんだろう。だからな、そこらの家に火かけてな、こっちで合戦してるってこと、味方の連中らに知らせるんだ。

さっそく、篠塚五郎左衛門(しのつかごろうざえもん)がそこら中を回って、高木(たかき)、瓜生(うりう)、真柄(まがら)、北村(きたむら)一帯の在家20余箇所に火をかけた。

天を焦がすその火を見て、方々の新田サイド勢力は、「オッ 鯖江のあたりで合戦か! すぐに駆けつけて応援!」

宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)と天野政貞(あまのまささだ)が、300余騎を率いて鯖並宿から駆けつけてきた。一条行実(いちじょうゆきさね)は、200余騎を率いて阿久和(あくわ: 南越前町)からうって出た。瓜生重(うりうしげし)とその弟・照(てらす)は、500余にて妙法寺(みょうほうじ:福井県・越前市)の城から、平泉寺衆徒300余騎は、大塩城(福井県・小浜市)より、河嶋唯頼(かわしまこれより)は300余騎で三峯城から、総大将・新田義貞(にったよしさだ)は、1000余騎を率いて杣山城を出た。

「合戦の合図が発せられたと見えて、方々の新田軍が鯖江宿へ殺到!」との報に、「日野川付近にいる細川軍を見殺しにはできない」と、斯波高経と斯波家兼は、3,000余騎を率いて、国分寺(こくぶんじ:越前市)の北へ進んだ。

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新田と斯波の両軍、川を挟んで互いに隔たること10余町。さほどの大河ではないのだが、折からの雪解け水で増水し、漲る波が岸を浸している。双方互いに浅瀬を探し、適当な渡河地点を探す事に手間取っている。

新田サイド船田経政(ふなだつねまさ)の若党の葛新左衛門(かつらしんざえもん)という者が、川べりに近寄って、

葛新左衛門 この川は、増水すると、急に洲ができてな、勝手を知らねぇヤツが渡ると必ず失敗しちまうんだ。ここはひとつ、オイラが瀬踏みしてやろうじゃねぇかよぉ!

言い放つやいなや、川にザンブと馬を乗り入れた。

葛新左衛門 さぁ行くぜぇ! しっかり泳げよぉ!

白葦毛の馬にまたがり、カシ鳥威しの鎧を着けた葛新左衛門。3尺6寸のカヒシノギの太刀を抜いて兜の真っ向にかざし、波がぶつかりあって盛り上がっている中をただ一騎、白波を立てて馬を泳がせて行く。

悠々と川を渡っていく葛新左衛門を見て、我先に渡河せんものと意気込む新田軍メンバー3,000余騎は、一斉に川に飛び入った。

弓の両端を前後の者どうしで持ち合い、馬の足の立つ所はたずなをゆるめて馬を歩かせ、足の立たない所は馬の頭をたたき上げて泳がせ、一直線に流れをつっきって、対岸へかけ上がった。

新左衛門は、味方の軍勢から2町ほど先行して渡河したので、対岸で孤立してしまい、斯波軍メンバーに馬の足をなで切りにされ、6騎に囲まれて徒歩で戦っていた。あわや討たれてしまうかというその時、宇都宮泰藤の家臣・清為直(せいのためなお)がそこに駆けつけ、2騎を切って落とし、3騎に負傷を負わせて新左衛門を救った。

攻め寄せる新田軍は3,000余騎、守る斯波軍も3,000余騎。双方いずれの大将も、同じ血筋から出た、名を惜しむ清和源氏のリーダーである(注2)。馬の駆け引きも自在の場所とあって、両軍6,000余騎は、前後左右に追いつ返しつ入り乱れ、死闘を展開することおよそ1時間。命の限りに戦い、いつになったら勝負がつくのか分からない。

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(訳者注2)斯波家は足利家一族に所属するので、清和源氏の流れである。新田家ももちろん、清和源氏の流れである。
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その時、

斯波軍メンバーD 殿、あれを! 国府付近から火が!

斯波高経 なにっ! あぁ、しまったぁ!

杣山河原方面からやってきた三峯城からの軍勢と、大塩から下ってきた平泉寺衆徒が、斯波軍の背後へ回り込んで国府に火を放ったのであった。

斯波高経 新田軍を新善光寺城(しんぜんこうじじょう)に入りこませてはならん! 全軍、国府へ退却!

新田軍は、逃げる斯波軍を追って連続攻撃。

城へ逃げ込もうとする斯波軍にとっては皮肉な事に、自分たちが設置した木戸や逆茂木(さかもぎ)が障害となって、入城も容易ではない。仕方なく、新善光寺城の前をそのまま通過し、国府の西方へ退却した。

その後、斯波家兼軍1,000余騎は、若狭国(わかさこく:福井県西部)目指して退却、斯波高経軍2,000余騎は、織田(おだ:福井県・丹生郡・越前町:注3)、大虫(おおむし:越前市)を経由して、足羽城(あすはじょう:福井県・福井市)へ退いた。

「たった一度の戦いで、国府の城が新田軍に攻め落とされた」との情報は越前国中にあっという間に伝わり、新田軍が攻め寄せてもいないのに自ら降伏してしまった城は、国内73か所にも上った。

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(訳者注3)織田氏の発祥の地。
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