太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「帝(みかど)は笠置寺(かさぎでら)にあり、近隣から軍勢が続々結集!」との情報が、京都へもたらされた。

六波羅庁・リーダーA こりゃぁいかんなぁ・・・こういう情勢になってくると、またまた、延暦寺(えんりゃくじ)の連中らが力を盛り返し、ここへ押し寄せてくる、てなこともありうるぞ。

六波羅庁・リーダーB ここはとにかく、延暦寺の方を最優先にしてだな、速やかに、大津(おおつ:滋賀県大津市)へ軍勢を派遣するってえのが、いいんじゃぁない?

六波羅庁・リーダーA そのメンバーには誰を?

六波羅庁・リーダーC 佐々木時信(ささきときのぶ)をリーダーに、近江国(おうみこく:滋賀県)の軍勢をつけて、ということでどうでしょう?

六波羅庁・リーダー一同 賛成。

さっそく大津へ佐々木時信が派遣されたが、

六波羅庁・リーダーD あれじゃぁ、ちょっと兵力、少なすぎません?

六波羅庁・リーダーC 延暦寺に対抗するのは、ムリがありますよぉ。

そこで、丹波国(たんばこく:京都府中部+兵庫県東部)から、久下(くげ)、長澤(ながさわ)の一族ら800余騎を援軍として送り出し、大津の東西の宿に陣取らせた。

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延暦寺に対しての備えをかためた次は、問題の笠置寺。

9月1日、六波羅庁の局長、糟谷宗秋(かすやのむねあき)と隅田次郎左衛門(すだじろうさえもん)は、500余騎を率いて、宇治(うじ)の平等院(びょうどういん:京都府宇治市)まで出向き、笠置攻めのための兵の到着を記録。その催促も待たずに、諸国から昼夜をとわずひっきりなしに集まってきて、たちまち10万余の兵力となった。

 「明日2日午前10時、笠置へ押し寄せて開戦」

と定まった。

六波羅庁軍の中に、高橋又四郎(たかはしのまたしろう)という者がいた。

高橋又四郎 (内心)よぉし、抜け駆けして、手柄を一人占めにしてやろう!

彼は、一族わずか300余騎をひきつれて、笠置寺へ寄せていった。

笠置寺にたてこもる天皇軍、大軍とは言えずとも、勇気ビンビン、天下の機をうかがってはイッキに体制挽回、との心構え。高橋率いるわずかの小勢を目の前にして、打ってかからぬというテはない。

たちどころに3,000余騎が下山して、木津川(きづがわ:京都府)のほとりに部隊を展開、高橋の軍勢を包囲して一人も残さじ、とばかりに襲いかかってくる。

襲いかかってくる大軍を目にした高橋軍、始めの勢いはどこへやら、ただの一度も戦闘無し、ただただ馬に鞭打って退却するのみ、木津川の逆巻く流れに追い落とされ、死傷者多数。

かろうじて命ばかりは助かった者は、馬も鎧兜もうちすてて、すっぱだかの状態で白昼京都へ逃げ帰ってくる・・・マァ、なんという見苦しいありさま。

これをよしと思わなかった、どこの誰が書きつけたのであろうか、平等院の橋づめに掲げられた歌一首、

 木津川(きづがわ)の 瀬々(せぜ)の岩浪(いわなみ) 早ければ 懸(か)けて程(ほど)なく 落つる高橋(原文のまま)

この高橋軍団の後を追尾していた一軍があった。小早河(こばやかわ)の軍団である。

彼らは、高橋又四郎が抜け駆けしようとしているのを察知し、高橋軍が退却する事があれば、それに入れ替わって、抜け駆けの手柄をかっさらおうと、もくろんでいた。しかし、その小早河軍団も天皇軍に一気に追いたてられ、一回の反撃もならないまま、宇治まで退却せざるをえなかった。

さっそく、札がもう一本立って一首、

 懸(か)けも得(え)ぬ 高橋落ちて 行く水に 憂名(うきな)を流す 小早河かな(原文のまま)

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「昨日の合戦、天皇側勝利」との情報に、六波羅庁軍サイドでは、

六波羅庁軍・リーダーE まずいなぁ、ジツニまずいよ。

六波羅庁軍・リーダーF このまま放置しといたんでは、ますます諸国から天皇側にはせ参じていくモン(者)、増えてしまうわなぁ。

六波羅庁軍・リーダーE そのうち、始末におえなくなってきちゃうよなぁ。

六波羅庁軍・リーダーF 今はとにかく、いたずらに時を過ごしている場合では、ないわいな!

かくして、宇治において、六波羅庁の両局長・糟谷と隅田により全軍の配置が定めれらた後、9月2日、いよいよ笠置寺に向かって進軍開始。その配置、以下の通り。

 笠置寺の南方からは:畿内(きない)5か国の兵にて編成の軍団、7,600余騎。光明山(こうみょうさん:京都府・木津川市)の背後から、からめ手へ回る。

 東方からは:東海道15か国中の伊賀(いが:三重県北西部)・伊勢(いせ:三重県中部)・尾張(おわり:愛知県西部)・三河(みかわ:愛知県東部)・遠江(とおとおみ:静岡県西部)の軍団、25,000余騎。伊賀路(いがじ)を経て、金山越ルートを進む。

 北方からは:山陰道8か国よりの軍団、12,000余騎。梨間(なしま:京都府城陽市)宿の外れから市野辺(いちのべ:京都府城陽市)山麓を回って、笠置寺正面へ。

 西方からは:山陽道8か国よりの軍団、32,000余騎。木津川を上り、岸の上の険阻(けんそ)なる山道を二手に分かれて進軍。

やがて、正面、からめ手、合計75,000余騎が笠置寺を包囲、四方2、3里の山野に寸分の隙(すき)も無く、六波羅庁軍が充満。

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明くる9月3日午前6時、東西南北より六波羅庁軍は、笠置寺に接近してトキの声を上げる。その声は百千の落雷のごとく、天地をも揺さぶらんばかり。

六波羅庁軍・リーダーE エェイエェイ!

六波羅庁軍・メンバー全員 オーゥ!

六波羅庁軍・リーダーE エェイエェイ!

六波羅庁軍・メンバー全員 オーゥ!

六波羅庁軍・リーダーE エェーイエェーイ!

六波羅庁軍・メンバー全員 ウォーーーゥ!

トキの声を3度上げた後、開戦の鏑矢(かぶらや)を寺に向かって射こんでみたが、寺内はシーンと静まりかえっており、トキの声の応対もなし、返答の矢を射返してくる様子もなし。

かの笠置寺のある場所は、山高くして一片の白雲、峯を埋(うず)み、谷深くして、萬仞(ばんじん)の青岩(せいがん)、路を遮(さえぎ)る、という地形である。ツヅラ折りに折れ曲がる道を、めぐり登ること18町、寺の前面には岩を切って堀を築き、石を重ねて塀を積んでいる。たとえ、防ぎ戦う者が皆無の状態でさえ、たやすく登って行けるような所ではない。

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六波羅庁軍・リーダーG なんかヘンやねぇ、上の方、コトリとも音しよらんがな。

六波羅庁軍・リーダーH 人の気配もせんでねぇ、みんなきっと、寺から、逃げ出してしまいよったんやわ。

六波羅庁軍・リーダーI よぉし、とにかく、シャニムニ攻めてみるだわ!

笠置寺の四方を囲む六波羅庁軍・7万5千余騎、掘も崖もかまわず、葛のかずらに取り付き、岩の上をつたい、一の木戸がある付近、仁王堂の前まで押し寄せた。

ここでしばし、息を休め、きっと見上げるとなんと、

そこには錦の旗あり、旗印の金銀の日・月、白日に輝く。

旗の下には、全身隙間無く鎧で身を固めた武者3,000余人、兜の星を輝かし、鎧の袖を連ねて雲霞(うんか)のごとく並び居る。

さらに、櫓(やぐら)の上の狭間(はざま)の向うでは、射手とおぼしき武士たちが、弓の弦を口に含んで湿し、矢束(やたばね)を解いて押し広げ、矢に鼻油を塗り、虎視眈々と、六波羅庁軍を頭上から狙っている。

その決然たる勢いにのまれ、いったいどこから攻めかかっていっていいものやら、攻める側も怖れおののくような雰囲気の中、六波羅庁軍・メンバーは、前進もならず後退もならず、不本意のうちにただただ、立ち尽くすばかり。

そのまましばらく、時間が経過した後、木戸の上の、櫓の矢間の板を開いて、一人の男が声を上げた。

足助重範(あすけしげのり) わしはなぁ、三河の国の住人、足助重範いうもんだで。もったいねぇ事だけんども、天子様に頼まれ申してな、この一の木戸をかためとるんやぁ。

六波羅庁軍・メンバー一同 ・・・。

足助重範 そっちサイドの、そのぉ、前の方に立っとる旗ぁ、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張の人らの旗と見たが、もしかしたらわしの見間違いかのぉ?

六波羅庁軍・メンバー一同 ・・・。

足助重範 ここはなぁ、十善(じゅうぜん)の徳を備えとられる天子様のおわすトコだでね、六波羅庁のみなさま、そのうち、来てみえるやろ、思ぉてなぁ、おもてなしのため、大和(やまと)の鍛冶職人の連中らに鍛えて打たせた鏃(やじり)少々、用意して待っとったでね。一本受けてみてちょぉ!

重範は、三人張りの弓に13束3伏の矢をつがえ、ぎりぎりと引き絞ってチョウッと放つ。

その矢は、はるか谷を越え、木戸から2町余り隔たった六波羅庁軍・陣中の荒尾九郎(あらおくろう)に命中、その鎧の千檀の板から右の小脇に至るまで、深々と射抜いた。

急所を突いた、たった1本のこの矢に、荒尾九郎は馬から転落、即死。

荒尾九郎の弟・弥五郎(やごろう)は、この様を天皇軍側の人々に見せまいと、自陣の盾の間から進み出て、矢のふりそそぐ最前線に立ちはだかって叫ぶ。

荒尾弥五郎 足助殿の弓の威力、以前からウワサに聞いとるほどでは、ねぇだが!

足助重範 ナニ言うかぁ、コシャクなぁ!

荒尾弥五郎 よぉし、今度はな、このわしを射てみろや。あんたの矢一本受けてみて、この鎧の品質チェックでも、してみようかいの。

鎧の腹部を叩いて相手をあざけりながら、弥五郎は立っている。

足助重範 (内心)あいつめ、あぁまで、イケシャァシャァと言うからには、鎧の下に、腹巻きか鎖かたびらでも着込んどるんやろな。だもんで、さっきのおれの矢の威力を見ながら、なおも、「今度はオレを射てみろ」なんてぇ、鎧とデカイくち、たたいとるんやわ。

足助重範 (内心)ウーン・・・あいつの鎧めがけて、まともに射たんでは、鏃が砕けてもて、射とおすことできんかもな。よし、鎧ではのぉて、兜の真っ正面を射てみるとしよか。あこなら、絶対に貫通するやろからな。

エビラから金磁頭(かなじんどう)矢を一本引き取り、鼻油をつけて

足助重範 ならば一矢いくでな、受けてみ!

鎧の高紐を外し、13束3伏の矢を、さきほどよりもさらに引き絞り、気合を込めてハアッと射放つ。

狙い違わずその矢は、荒尾弥五郎の兜の真正面、正面金具の上2寸ばかりのところを貫通、眉間(みけん)の中央に、矢尻巻まで深く突き刺さった。

二言目を言うひまもなく、荒尾弥五郎は兄と一所に枕を並べて討死。

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いよいよ、戦いの火蓋が切って落とされた。

六波羅庁軍サイド・正面軍およびカラメテ軍、それを迎え撃つ天皇軍サイド、双方共におめき叫んで戦闘に突入。矢を射る武者の叫び声、戦闘のトキの声はひっきりなしに響き、大山も崩壊して海に沈み、地軸も折れてたちまち地に沈むかと思われるほど。

その日の夕刻、六波羅庁軍・サイドは兵力を続々投入、盾を持って矢を防ぎながら、じりじりと寺に接近、木戸口のあたりまで前線を進めることに成功。

奈良の般若寺(はんにゃじ)より経典目録を持参してきた使者、本性房(ほんじょうぼう)という大力の律宗僧が、天皇軍サイドにいた。

本性房 おまえら、わしのこのボール、受けてミィ!

僧衣の袖を背後に結びあわせ、常人が100人寄っても動かせないような巨大な岩石を軽々と小脇にかかえ、まるでボールでも扱うかのように、六波羅庁軍に対して20個、30個と連続投石。

岩石 ボーン! ボーン! ボーン! ボーン!

六波羅庁軍サイドの楯 バリッ! バリッ! バリッ! バリッ!

六波羅庁軍・メンバーJ うぎゃあ!

六波羅庁軍・メンバーK こりゃ、たまらん!

六波羅庁軍・メンバーL 逃げろ逃げろ、あんな石に当たったんじゃ、命いくらあっても足らんがね!

数万の六波羅庁軍は、本性房が投げつける岩に、盾をコッパミジンに砕かれ、岩に少しでも接触した者はみな押し倒され、寺の東西の斜面に密集した武士たちは、雪崩をうって人馬乱れ、重なり倒れていく。

かくして、さしも深き笠置寺周辺の二つの谷も、死者で埋まり、という状態に。

戦の後、木津川の流れは血に染まり、紅葉の樹陰を行く水が深い紅色に染まるかのようであった。

これ以降、六波羅庁軍・サイドは、雲霞のごとき大軍でありながら、寺に攻めかかろうとする者は皆無、ただただ、寺の四方を遠巻きに包囲するばかり、となってしまった。

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このように、膠着状態(こうちゃくじょうたい)で日が過ぎていく中に、9月11日、河内(かわち:大阪府東部)から六波羅庁に早馬が!

使者 エライこってすがな。楠正成(くすのきまさしげ)っちゅうヤツが、「わいは天皇陛下の側についたでぇ!」と、旗上げしよりましたわいな。近在の連中ら、野心持っとるもんは、楠の旗の下に集まり、野心ないもんは、そこら中に逃げ出しとりますで。

六波羅庁・リーダーA なにぃっ!

使者 楠グループの連中ら、河内の国中の家に押し入っては、「兵糧(ひょうろう)にもろとくでぇ」いうて、食料、みぃんな、かっさらっていきよりましたがな。してから、自分の館の上の方にある赤坂山(あかさかやま)っちゅうとこに、城構えて(注1)、500騎くらいでたてこもっとりますで。

六波羅庁・リーダーB ウヌヌ・・・。

使者 さっさと楠をシマツせんことには、いろいろとワヤなことも出てきよりますやろ、はよ、軍勢派遣して、鎮圧してぇなぁ。

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(訳者注1)大阪府・南河内郡・千早赤阪村・水分(みまくり)の[下赤阪城]である。
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「これは一大事!」と、大騒ぎしているところに、同月13日の夜、今度は備後国(びんごこく:広島県東部)から早馬が。

使者 櫻山四郎(さくらやましろう)とその一族が天皇方についてな、備後国一宮・吉備津神宮(びんごこくいちのみや・きびつじんぐう:広島県・福山市・新市町)にたてこもり、近辺の連中もそれに加わって、700騎くらいで気勢を上げとりますでぇ。

六波羅庁リーダーA ・・・。

六波羅庁リーダーB ・・・。

使者 備後一国を支配下に収め、更に隣国まで侵入、なんちゅうことまで、企てとるような情勢じゃけぇ、とにかく早いとこ、討伐軍を送りこんでもらわんことにゃぁ、とんでもないことになるじゃろう。ご油断ありませんようにな!

前方においては、笠置の守り堅く、国々から召集した大軍をもってしても未だ落とせず。しかるに今また、背後において、楠、櫻山の逆徒大いに起こり、使者は日々、緊急事態を告げてくる。南蛮(なんばん)、西戎(せいじゅう)、すでに乱を起こし、東夷(とうい)、北狄(ほくてき)もまた、いかがあらん?(注2)

六波羅庁北方長官・常葉範貞(とこはのりさだ:注3)は心休まるひまもなく、毎日早馬を鎌倉へ送っては、ひたすら援軍を請うばかり。

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(訳者注2)昔の中国では、四方の異民族をこのように呼んだ。

(訳者注3)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店] および [新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館] の注によれば、この時の六波羅庁北方長官は、[北条仲時]であり、[常葉範貞]ではない。
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六波羅庁からの急報に、北条高時(ほうじょうたかとき)は大いに驚き、

北条高時 よぉし、早いとこ、大軍団をあっちへ送れい!

かくして、北条家一門と他家より、主要メンバー63人が召集され、軍団を編成することとなった。

大将:大佛貞直(おさらぎさだなお)、大佛遠江守、普恩寺(ふおんじ)相模守、塩田越前守、櫻田三河守、赤橋(あかはし)尾張守、江馬(えま)越前守、糸田左馬頭(さまのかみ)、印具兵庫助(いぐひょうごのすけ)、佐介上総介(さかいかずさのすけ)、名越右馬助(なごやうまのすけ)、金澤貞将(かなざわさだまさ)、阿曽治時(あそはるとき)、足利高氏(あしかがたかうじ:注4)。

侍大将:長崎高貞(ながさきたかさだ:注5)

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(訳者注4)この人はこれから後、太平記中の主要人物となっていく。

(訳者注5)高資の弟。
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それに従う主な武将:三浦介入道(みうらのすけにゅうどう)、武田甲斐次郎左衛門尉(たけだかいじろうさえもんのじょう)、椎名(しいな)孫八郎入道、結城上野(ゆうきこうずけ)入道、小山出羽(おやまでわ)入道、氏家美作守(うじいえみまさかのかみ)、佐竹上総(さたけかずさ)入道、長沼四郎左衛門入道、土屋安芸権守(あきごんのかみ)、那須加賀権守(なすかがごんのかみ)、梶原上野(かじわらこうずけ)太郎左衛門尉、岩城(いわき)次郎入道、佐野安房弥太郎(さののあわのやたろう)、木村次郎左衛門尉、相馬(そうま)右衛門次郎、南部(なんぶ)三郎次郎、毛利丹後前司(もうりたんごのぜんじ)、那波左近大夫将監(なばさこんのたいふしょうげん)、一宮善民部大夫(いぐせみんぶのたいふ)、土肥佐渡(とひさど)前司、宇都宮安芸前司、宇都宮肥後(ひご)権守、葛西三郎兵衛尉(かさいさぶろうひょうえのじょう)、寒河(さんごう)弥四郎、上野七郎三郎、大内山城(おおうちやましろ)前司、長井治部少輔(ながいじぶしょうゆ)、長井備前(ながいびぜん)太郎、長井因幡民部大輔(ながいいなばみんぶたいふ)入道、筑後(ちくご)前司、下総(しもふさ)前司、山城左衛門大夫、宇都宮美濃(みの)入道、岩崎弾正(いささきだんじょう)左衛門尉、高久(こうく)弾正三郎、高久彦三郎、伊達(だて)入道、田村刑部(たむらぎょうぶ)大輔入道、入江蒲原(いりえかんばら)の一族、横山、猪俣(いのまた)の両党。

この他に、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県北東部)、相模(さがみ:神奈川県ほぼ全域)、伊豆(いず:静岡県東部)、駿河(するが:静岡県中部)、上野(こうずけ:群馬県)の5か国の軍勢、合計207,600余騎。

9月20日に鎌倉を発ち、同月末日、前陣は美濃(みの:岐阜県南部)・尾張(おわり:愛知県西部)に到達、後陣はいまだ、高志(たかし:愛知県豊橋市)、二村(ふたむら:愛知県額田郡)の峠付近を行軍。

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さてここに、備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)の住人、陶山義高(すやまよしたか)、小見山次郎(こみやまじろう)という2人の武士がいた。(注6)

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(訳者注6)陶山義高は、岡山県・笠岡市内の地を拠点としていた人のようである。小見山次郎は、岡山県・井原市内の地を拠点としていた人のようである。。
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彼らは、六波羅庁よりの召集に従って笠置寺攻めの軍に加わり、木津川(きづがわ)の対岸に陣取っていたのであるが、「関東よりの大軍、すでに近江国(おうみこく:滋賀県)に到着」との情報をキャッチ、一族若党たちを集めていわく、

陶山義高 なぁ、おめぇら、どがぁに思う?(みんなどう思う?) ここ数日の合戦で、石に撃たれ、遠矢に当たって死んでしもぉた者はいってぇ何千万人か、カウントするのも不可能、いうざまぁねぇで?(ざまじゃないか?)

陶山グループ一同 ・・・。

陶山義高 こぉゆう死に方って、ものすげぇミジメだと、思わねぇか? そがぁな(それほど)大した手柄を立てるでものぉて、あっちゅう間に死んでしもぉて、ゲェコツ(骸骨)いまだ乾かざるに、その名はすぐに消えてしもぉて、というわけじゃ。

陶山グループ一同 ・・・。

陶山義高 じゃけぇ(だから)、どうせ死ぬんじゃったら、みんなの注目がボッケェ(大いに)集るほどの戦、一回でもしてから、死にてぇもんじゃ。そしたらのぉ、我ら陶山グループの名は未来千年にわたって不滅、子々孫々あつい恩賞に預かりっちゅうことになるやろ?

小見山次郎 源平の争乱からこんかた、「大いなる剛(ごう)の者」ゆう名を古今に残しとる人らのこと、よぉ考えてみねぇ(みろ)。いずれもさしたる手柄たぁ思えんよ。

陶山グループ一同 ・・・。

小見山次郎 まずは、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)と平山季重(ひらやますえしげ)の、一ノ谷(いちのたに)の先陣争い、これらぁ、後ろに大軍がおったけぇ、できた事じゃろう?

陶山グループ一同 (うなずく)・・・。

小見山次郎 梶原景時(かじわらかげとき)の2度もん敵陣突撃、これも、息子の源太を助けるためじゃ。

小見山次郎 佐々木盛綱(ささきもりつな)の藤戸渡海(ふじととかい)も、そのへんの地理に詳しい者が道案内してくれたけぇ、できたことだし、佐々木高綱(ささきたかつな)の宇治川(うじがわ)先陣争いも、ようは、イケズキっちゅう馬一頭欲しいがためだけじゃった。

小見山次郎 これっぱかしの事やらかしただけでも、今の世まで語り伝えられて、天下の人々が賞賛するようになるってゆうことじゃぁ。

陶山義高 一方、我らが直面しとる現在の状況はっちゅうにじゃのぉ、日本国中の武士が集まって数日攻めてみても、目の前の寺を落とせんっちゅうわけじゃろ?

陶山義高 その寺をじゃのぉ、わしらのグループだけで攻め落としたとしてみぃ、わしらの名前は古今に並び無く、忠義は万人の上に立つ、ゆうことになるじゃろぉがぁ?

小見山次郎 さぁ、おめぇら! 今夜のこの激しい風雨に紛れて、あの笠置寺の中に忍びこんでじゃのぉ、敵に夜襲をかけて、天下の人々をアァッと言わせて見ようじゃぁねぇか!

陶山グループ一同(50余人) よぉし、やるでぇ!

千に一つも生きて帰れる見込み無し、と全員覚悟を固め、冥土への旅立ちの準備にと、各自、マンダラを描いて身に着けた。

馬の口につける縄を使って10丈ほどのロープを2本作り、それに1尺間隔に結び目を入れ、先端には熊手(くまで:注7)を結び着けた。これは切り立った岩壁を登る際に、木の枝や岩の角にうちかけて使う為である。

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(訳者注7)現在の我々が目にするような竹製のものではもちろんなく、鉄製の爪が出ている道具。
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9月末日の夜、漆黒の暗闇の中、目指す方向さえ不分明、風雨は荒れ狂い、顔を正面向けてはおれないほど。

陶山グループ50余人は、太刀を背に背負い、小刀を腰の後ろに差し、笠置寺北方の断崖、鳥も駆け上がれまいと思われるような高さ数百丈の岩壁にとりつき、登山を開始。

二町ほどは、なんとかかんとかして登ってはみたものの、その上には、さらに険しい断崖がそびえたっているではないか・・・屏風を立てたかのごとく岩石は重なり、古松は枝を垂れ、青苔に覆われた滑りやすい表面。

陶山グループ一同 あぁ・・・。

いかんともしがたく、はるか上方を見あげながら立ちつくす陶山グループの面々・・・。

陶山義高 よし、おれが登ってみるけぇのぉ。

彼は、岩の上をサラサラと走り登り、用意した例の縄を上方の木の枝にかけて、下の方におろした。

陶山グループ一同 おぁ、やったじゃねぇかぁ!

彼らは、陶山義高が垂らしたロープを握り、その一番の難所を易々と登り切ってしまった。

そこから上にはさほど険阻な所もなく、葛の根に取り付き、苔の上をつまさき立ちし、4時間ほどがんばり抜いて、笠置寺の塀際までようやくたどり着いた。

そこで一休みした後、全員その塀を登り越え、寺内に続々と侵入開始。

天皇軍の夜間巡回の兵の後にぴったりとつきながら、寺境内の状態の把握に取りかかった。

正面木戸と西側の坂は、伊賀国(いがこく:三重県北西部)、伊勢国(いせこく:三重県中央部)からやってきた武士1,000余騎が守っている。

からめ手側の出塀(だんべい)(注8)の口は、大和国(やまとこく:奈良県)、河内国の武士らが守っている。

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(訳者注8)崖の上に張り出して造られた砦。下からは非常に攻めにくい。
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南側の坂、仁王堂の前は、和泉(いずみ)国(大阪府南西部)、紀伊(きい)国(和歌山県)の700余騎が守っている。

北方のみ、険しい崖を頼りにしてか、警護の兵を一人もおかず、戦闘能力の無さそうな下部(しもべ)2、3人が、櫓(やぐら)の下に薦(こも)を張り、篝火(かがりび)を燃やして、眠っている。

陶山グループは寺のあちらこちらを巡り、寺内の全貌をあっという間に把握してしまった。

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陶山義高 問題は、天皇の御座所じゃ、いったいどこかのぉ・・・あっちの本堂の中かいのぉ? ちょっと行って調べてみるとするかのぉ。

その時、天皇軍中の一人が彼らに気づいてしまった!

天皇軍メンバーM こらこらぁ! こんな夜中に大勢で足音たてて、こっそりうろついてるやなんて、怪しいやっちゃ! おまえら、いったいどこのナニモン(何者)や!

陶山吉次(すやまよしつぐ) (間髪を入れずに応答)いや、わいら、怪しいもんやないで、大和国(やまとこく:奈良県)から来た一団や。今夜は、風雨メッチャ激しぃて、ブッソウやんかぁ。敵が夜襲でもしかけに忍びこんできてないやろかな、思ぉてな、それで、こないして、夜回りしてるんやがな。

天皇軍メンバーM なるほど、そらぁ、ご苦労なこっちゃ。

これで何事もなくおさまってしまったので、それからはあたりを忍ぶこともなく

陶山グループ一同 おのおのがた、陣中ご用心!

と、声高らかに各陣に声をかけながら、粛々と本堂へ。

陶山義高 あっ、あそこじゃ・・・あそこが、天皇の御座所じゃなぁ。

本堂の中に、ロウソク多く灯し、鈴を振る音がかすかに聞こえてくる一角があった。衣冠正した3、4人が、本堂の広縁に着座し、警護担当の武士たちを問いただしている。

天皇側近の公家 誰か、いるか?

警護担当の武士 はい、X国からきましたYでございます!

武士たちは廊下にぎっしりと並んでいる。

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陶山義高 天皇の御座所の状況も、これで完全に把握できたし、さぁ、そろそろいくかぁ!

陶山グループ一同 よぉし!

彼らは、笠置寺境内の鎮守の社の前で一礼した後、本堂の上方の峰に登り、そこにあった無人の建物に火をかけ、一同そろってトキの声をあげた。

陶山義高 エイ! エイ!

陶山グループ一同 オーーウ!

陶山グループ一同 この寺、もらったでぇ!

寺を包囲している六波羅軍は、このトキの声を聞いてビックリ、

六波羅庁軍・リーダーE やや! あっちサイドに裏切り者が出て、寺に火をかけたようだぞ! よぉし、こっちも彼らにあわせて、トキの声を上げろ!

六波羅庁軍・リーダーE エイ! エイ!

六波羅軍7万余人 オーウ!

その声は天地に響きわたり、8万由旬(ゆじゅん)の高さがあるという須弥山(しゅみせん)も崩れるかと思われるほど。

陶山グループ50余人の頭の中には、寺内のレイアウトは、もう完全に入ってしまっている。

こちらの陣所に火をかけては、あちらに移ってトキの声を上げ、あちらにトキの声を上げれば、こちらの櫓に火を放ち、四方八方に走り回り、寺中に大軍が充満しているかのように見せかける。

各所を堅めていた天皇軍側の武士らは、寺内に敵の大軍が突入してきたものと勘違いし、鎧を脱ぎ捨て、弓矢をかなぐり捨て、崖も掘も乗り越え、倒れ転びながら、逃走していく。

自軍のこの、ブザマな様を見た錦織判官代(にしこりのほうがんだい)は、

錦織 あぁ、どいつもこいつも、なんちゅう情けないやっちゃ! 陛下に頼りにしていただいて、鎌倉幕府を敵に回したほどのもんらが、敵が大勢やからいうて、いっこも戦わんと逃げるんかぁ! ここで命捨てな、どないすんねん!

彼は、向かってくる六波羅軍の面々に走りかかり、上半身もろ肌脱ぎになって戦い続けたが、刀折れ矢尽き、ついに、父子2人とその郎党13人、おのおの腹かっ切り、枕を並べて討死。

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