太平記 現代語訳 8-6 赤松軍、再び京都へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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先月12日の合戦において、赤松(あかまつ)軍サイドは利あらずして京都から撤退、六波羅(ろくはら)庁軍サイドはノリにノッテ、敵を討ち取ること数千人。

六波羅庁リーダーA とは言いながらもなぁ・・・天下の騒乱は、一向におさまりゃぁしないじゃないの。

六波羅庁リーダーB さらに悪い事には、あの延暦寺(えんりゃくじ)までもが、敵方に回っちゃってぇ。

六波羅庁リーダーC 比叡(ひえい)山頂にかがり火焚いて、衆徒たちは修学院(しゅがくいん:左京区)に集結、なおも六波羅庁を攻めようって、虎視耽々(こしたんたん)のようですぜぃ。

六波羅庁リーダーB やっぱし、あそこの寺を敵に回してはまずい! ゼッタイにまずいんだ。

というわけで、比叡山上の衆徒らを懐柔(かいじゅう)する為に、六波羅庁から延暦寺に対して、大荘園13か所の寄付が行われた。さらに、衆徒の主要メンバーたちに、一等地12か所を、「祈祷のお礼」との名目でもって、恩賞として与えた。

さぁこうなると、延暦寺の衆徒たちの結束もバラバラ、六波羅庁側に心を傾ける者も多く出てきた。

かたや、赤松軍はといえば・・・依然として、八幡(やわた:京都府・八幡市)・山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)の戦線を維持しながら、なんとか踏ん張ってはいる。しかし、先ごろの京都での合戦において多数の戦死者・負傷者を出した結果、その兵力の大半を失ってしまい、今はわずかに1万騎にも満たない状態である。

しかしなおも赤松軍は、「六波羅庁軍サイドの軍勢配置、京都の形勢、恐れるに足らず」と看破(かんぱ)し、7,000余騎を2手に分け、4月3日午前6時、再び京都へ押し寄せていった。

第1軍団は、殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)と中院定平(なかのいんさだひら)を両大将とし、伊東(いとう)、松田(まつだ)、頓宮(はやみ)、富田(とんだ)の一党、さらに、真木(まき:大阪府・枚方市)、葛葉(くずは:枚方市)あたりのアウトロー集団を加え、総勢3,000余騎、伏見(ふしみ:京都市・伏見区)、木幡(こわた:京都府・宇治市)あたりに放火した後、鳥羽(とば:伏見区)、竹田(たけだ:伏見区)から、京都中心部めがけて攻め寄せていく。

第2軍団は、赤松円心(あかまつえんしん)をはじめ、宇野(うの)、柏原(かしわばら)、佐用(さよ)、真嶋(ましま)、得平(とくひら)、衣笠(きぬがさ)、菅家(かんけ)の一党、合計3,500余騎、川島(かわしま:京都市・西京区)、桂(かつら:西京区)一帯に放火し、西七条(にししちじょう:京都市・下京区)から攻め寄せていく。

これを迎え撃つ六波羅庁軍サイドは、最近のあいつぐ勝利に全員の士気はますます高く、自軍の兵力を数えてみれば3万余騎という膨大な数。ゆえに、「赤松軍接近す!」との情報にも、六波羅庁の南北両長官は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)。六条河原(ろくじょうがわら)に勢揃いした全軍に対し、粛々(しゅくしゅく)と、その配分・配置を決定。

北条時益(ほうじょうときます) 問題はやっぱし、延暦寺だよ。今はこちらに志を通じるようになったとはいってもなぁ、いつなんどき、寝返りをうつかもしれん。

北条仲時(ほうじょうなかとき) 油断大敵、備えあれば憂い無し、さね。

というわけで、佐々木時信(ささきときのぶ)、小田時知(おだときとも)、長井秀正(ながいひでまさ)に3,000余騎をつけて糺河原(ただすのがわら:注1)に布陣させ、延暦寺からの奇襲に対して備えた。

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(訳者注1)左京区・下鴨神社近くの高野川と賀茂川の合流点付近。
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北条仲時 なぁ、どうだろう? 先月の12日の合戦の時と同じ方角からの攻め口にしてみたら? あの時の作戦、ものすごくうまくいったじゃん?

北条時益 ハハハ、柳の下のドジョウ狙いの、エンギかつぎといくかい。

というわけで、河野通治(こうのみちはる)と陶山次郎(すやまじろう)に5,000騎をつけ、法性寺大路(ほっしょうじおおじ)方面へ向かわせた。

さらに、富樫(とがし)、林(はやし)一族、島津(しまづ)、小早川(こばやかわ)両家の勢力に、諸国の武士6,000余騎をそえて、八条の東寺(とうじ:京都市・南区)付近へ向かわせた。

一方、厚東加賀守(こうとうかがのかみ)、加冶源太左衛門尉(かじのげんたさえもんのじょう)、隅田(すみだ)、高橋(たかはし)、糟谷(かすや)、土屋(つちや)、小笠原(おがさわら)には7,000余騎をそえて、西七条口(にししちじょうぐち:京都市・下京区)へ向かわせた。

残りの兵力1,000余騎は、予備軍として六波羅庁に残留させた。

午前10時、3方面同時に戦闘開始。

戦い疲れた者たちを新手の者に入れ替えさし替えしながら、双方必死に戦う。

赤松軍サイドは、騎馬の者が少なく歩兵射手が多いので、小路(こうじ)小路を塞(ふさ)ぎ、鏃(やじり)をそろえて散々に射る。六波羅庁軍サイドは、歩兵は少なく騎馬兵が多いので、馬を駆け違い駆け違い、相手を包囲せんと試みる。

孫氏(そんし)の千反(せんぺん)の謀(はかりごと)、呉氏(ごし)の八陣(はちじん)の法、両軍サイド共に、知り尽くした道であれば、ともに破られず、ともに囲まれず、ただただ一命を賭しての死闘の連続・・・一向に勝敗のつく気配も見えない。

一日中戦い続け、すでに日も暮れようかというまさにその時、河野軍団、陶山軍団、一体に合し、馬の首を並べて300余騎での突撃敢行、木幡方面から進んできた赤松軍サイドの軍団は一気に潰(つい)え、宇治(うじ:京都府宇治市)の方角目指して敗走。

陶山と河野は敗走する敵を追わず、竹田河原(たけだがわら)を斜め方向につっきり、鳥羽離宮(とばりきゅう:京都市・伏見区)北門の前を回って作道(つくりみち)に出て、東寺前に展開している赤松軍の背後に回り込もうとした。作道の沿道18町に充満の赤松軍はこれを見て、「とてもかなわない」と思ったのであろう、羅城門(らじょうもん:南区)の西方から寺戸(てらど:京都府向日市)の方角目指して敗走。

東寺前に展開していたその赤松軍と相対していたのは、小早川と島津である。つい先ほどまで、互いに追いつ返しつの戦いを続けていたのだったが、

小早川 なんじゃ、なんじゃぁ! 河野と陶山が、敵を一気に追い払ってしまいよったがなぁ。

島津 んもぅ! またあいつらに、手柄かっさらわれちまった。

小早川 シカタねぇ、西七条へんに寄せてきよったヤツラでも、相手にするけぇのぉ。

島津 よぉし、華々しぅ一戦、やらかしちゃるでよぉ!

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島津と小早川の軍団は西八条を北上し、西朱雀(にしすざく:京都市・下京区)へ移動した。

そこには、赤松軍の総帥・赤松円心(あかまつえんしん)がいた。

選りすぐりの屈強の兵3,000余騎をもってかためており、そうそう簡単に破れるとは思えない。しかし、島津と小早川が横合いから攻めかかってくるのを見て、戦い疲れた六波羅庁軍は再び勢いを盛り返し、3方向から、赤松円心軍団に対して攻撃を展開した。赤松軍サイドはたちまち左右に開きなびき、分断されてしまった。

赤松軍の中から4人の武者が、最前線に進み出てきた。彼らは数千の六波羅庁軍の方へ向かって歩を進めていく。決然たるその様、かの古代中国の英雄・樊噲(はんかい)、項羽(こうう)がその憤怒の頂点に達したとて、これほどまでに凄くはないだろう。

彼らが六波羅庁軍に接近してくるにつれて、次第にその風貌が明瞭に見えてきた。

先頭に立つ男は身長7尺ほど、髭が左右に分かれ生えており、眦(まなじり)が逆さまに裂けている。鎖帷子(くさりかたびら)の上に鎧を重ね着し、鉄製のすね当てと膝鎧を装着、竜頭(りゅうず)の飾りのついた兜の前を高く上げて、面を露わにしている。腰には5尺余りの太刀を帯(は)き、手には8尺余りの鉄棒を軽々とひっさげている。棒の断面は八角形、手元2尺ほどは握り部分で丸くなっており、そこから先にはイボイボがついている。

数千の六波羅庁軍は4人の威容にたじたじとなり、戦わずして三方へ分かれ退いた。

4人は立ち止まり、六波羅庁軍に対して手招きしながら、大音声で名乗りを上げた。

頓宮又二郎 わしはなぁ、備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)の住人、頓宮又二郎(はやみまたじろう)や!

頓宮孫三郎 その子息、頓宮孫三郎(まごさぶろう)!

田中盛兼 わしは、田中盛兼(たなかもりかね)!

田中盛泰 その弟、田中盛泰(もりやす)!

頓宮又二郎 わしら、父子兄弟はなぁ、少年の頃に国からお咎めを受けて、アウトローになってからっちゅうもん、山賊稼業して、楽しい日々を送っとったんじゃ。ところが、ナンとラッキーな事に、きょうび(今日)のこの天下のおお(大)騒動、でもって、ありがたい事にゃぁ、天子様の軍勢に加えてもろぉたとな、まぁこういうわけじゃ。

頓宮又二郎 ところがところが、こないだの合戦、大した戦(いくさ)らしい戦もせんうちに、こっちの負けになってしもぉたけん、ほんにもう、悔しいやら、恥かしいやら。じゃけん、今日っちゅう今日こそはなぁ、たとえ味方のモンらが退却してまっても、わしらぁ絶対に退却せんでな! お前らがなんぼ強いゆぅたかて、絶対に後ろ見せんでぇ!

頓宮又二郎 今からな、そっちの陣のド真ん中ブチ破って、通っちゃるけん。そこ通って、六波羅庁の長官殿に直々の対面してみようかいのぉ、ワハハハ・・・。

頓宮又二郎はこのように広言を吐き、六波羅庁軍の眼前に仁王立ちになった。

島津は、二人の子息と家臣たちにいわく、

島津 ははぁん、前からうわさに聞いてた、「中国地方一のマッチョ(大力)」とは、さてはあいつの事だったかぁ。

島津の家臣 はいなぁー。

島津 あいつらをシトめるにゃ、大勢でかかってっても無理だろよ。お前らはしばらく、ここから少し離れてな、他の敵を相手に戦ってろって。

島津の家臣 で、殿はぁー?

島津 おれとセガレら3人でもって、あの4人の相手してみっから。進んだり退いたりしながら、適当にあしらってりゃぁ、きっとそのうち、討ち取ってしまえるだろうよぉ。

島津家家臣一同 分かりましたぁー。

島津 あの4人、いくら力が強いからって、やっぱしそこはナマミの人間、身体に矢が立たないってこともないだろうしな。いくら速く走れるからったってなぁ、こっちは馬なんだぞ、追いつけるわけねぇよ。

島津の家臣K ごもっともぉー。

島津 なぁがねん(長年)修練を積みし、馬上射撃の我がテクニックぅ、今この場に用いずして、いったいいつの日にぃー! よぉし、ではいよいよ、手に汗握る一大スペクタクルの、はぁじ(始)まり始まり、みなさま、よくよくご覧下さりませぇぃー! 行くぜーぃ!

島津家家臣一同 オーゥ・・・。

島津父子3騎は、馬を駆って陣の前に進み出た。これを見た田中盛兼は、嘲笑いつつ、例の鉄棒を振り回しながら、静かに歩み寄ってくる。

田中盛兼 そこの命知らず、どこの誰かは知らんけど、なんとも勇猛果敢なその心意気。どうせならばオマエを生け捕りにして、わしの味方にして戦わせたいもんじゃのぉ。

島津は、黙って静々と馬を進ませる。

田中の身体が射程距離内に入ったと見るや、島津はやにわに、3人張りの弓に12束3伏の矢をつがえ、ギリギリギリとひきしぼってから、パアッと放つ。その矢は狙い過たず、田中盛兼の兜に命中、矢の半分ほどが菱縫(ひしぬい)の板を貫いて、右頬から頭部に入った。

田中盛兼 ウウウ・・・。

急所の痛手に弱りはて、さすが大力の田中も目がくらみ、その場に立ちつくしてしまった。

田中盛泰 アニキ!

田中盛泰は、兄の側に走り寄り、頬からその矢を抜き捨てた。

田中盛泰 アニキ! アニキ! しっかりしろ!

田中盛兼 ・・・(ドタッ)

田中盛泰 ううう・・・エェィ、クソッ!

盛泰は、盛兼が落した鉄棒を拾い上げて手に持ち、島津に迫った。

田中盛泰 陛下の敵は六波羅庁、兄の仇はオマエじゃぁ! えぇい、みな殺しにしてくれるで!

頓宮父子も各々、5尺2寸の太刀に手をかけ、小躍りしてそれに続く。

島津はもとより、馬上の戦名人で、連射技術にたけた人、いささかも動じない。盛泰が切りかかってくれば、馬に鞭を入れて走り去り、ヒョイとふりかえりざまに、矢をヒュッと射る。盛泰が右手に回れば、左手に回り込みながら、矢をバシッと射る。

かたや、中国地方で名高い剣術の名人、対するは、北陸地方一の馬上戦闘の達人、追いつ返しつ懸け違い、余人を交えぬ見事な戦い、まさに前代未聞の、みものである。

ついに島津は矢を使い果たし、刀を使っての勝負に移らんとする。

小早川 ありゃ、とてもムリだ! 島津が危ない! 行け! 加勢しろ!

朱雀(すざく)の地蔵堂(じぞうどう)北方に控えていた小早川軍200騎が、おめいて突撃をし掛ける。この勢いに押され、田中たちの後方にいる軍勢は一斉に退いた。

後に残った田中兄弟、頓宮父子4人の、鎧の隙間や兜の内に矢の雨が降りそそぐ。突き立った矢は20本ないし30本、4人は太刀を杖がわりに地面に突きたて、立ち尽くしたまま、死んでいった。

4人のこの戦いぶりを見た人、聞いた人はみな、後世までも、彼らの武勇を褒め称えた。

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美作国(みまさかこく:岡山県北東部)の住人、菅家(かんけ)の一族は、300余騎にて、四条猪熊(しじょういのくま:注2)まで攻め入り、武田兵庫助(たけだひょうごのすけ)、糟谷(かすや)、高橋(たかはし)の1,000余騎と、2時間ほど騎馬戦を展開。しかし、いつの間にか、後方の赤松軍は退却してしまい、彼らは孤立してしまった。

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(訳者注2)四条通りと猪熊通りとの交差点。
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たとえどのような状況に陥ろうとも、絶対に退却するまいと、彼らはみな、戦場に臨む前に心に決していたのであろうか、あるいは、敵に背中を見せるのを恥としたのであろうか、有元菅佐弘(ありもとかんすけひろ)、有元菅佐光(すけみつ)、有元菅佐吉(すけよし)の3兄弟は、向かいくる六波羅庁軍の武者に馳せ並び、引き組んで、もろともに落馬。

佐弘は、今朝の戦闘で膝に切り傷を負ってしまったため、力が弱っていたのであろうか、武田七郎に押え込まれ、首をかっ切られてしまった。一方、佐光は、武田二郎の首を取った。佐吉は、武田の郎等と刺し違えて共に死んだ。

菅、武田、双方共に、兄弟のうち一方が死んでしまった今、

菅佐光 (内心)兄弟が死んでしもぉたのに、自分一人だけ生き残って、どないなるっちゅうんじゃ!

武田七郎 (内心)さぁ勝負、勝負!

有元菅佐光と武田七郎は、手に持った首を左右へ投げ捨て、互いに組み合って差し違える。これを見て、福光佐長(ふくみつすけなが)、殖月重佐(うえつきしげすけ)、原田佐秀(はらだすけひで)、鷹取種佐(たかとりたねすけ)も、共に馬を返して六波羅庁軍に立ち向かい、ムンズと組んではドオと落ち、引き組んでは刺し違え・・・27人の者たちはこのようにして、一所にて全員討たれていった。

かくして、その方面においても、赤松軍サイドの敗北となった。

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この戦いに参加していた播磨国(はりまこく:兵庫県西部)住人の妻鹿長宗(めがながむね)という人は、薩摩氏長(さつまうじなが:注3)の子孫であり、力は人に勝れ、器量は世を越えていた。

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(訳者注3)古代の相撲の名人。
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12歳になった年の春の頃から、好んで相撲を取り始め、ついには、日本60余国の誰を相手に、たとえ片手で相撲をとったとしても決して負けないようなレベルにまで、達してしまった。

人間は、似た者同士が自然と寄り集まるものである。彼といっしょにこの戦場にやってきた一族17人も全員、その力は、尋常の人間のレベルをはるかに越える者ばかりであった。ゆえに彼らは、他家の者たちを交えずに最前線を突進し、六条坊門大宮(ろくじょうぼうもんおおみや:注4)付近まで進出した。しかし、東寺(とうじ:京都市・南区)、竹田(たけだ:京都市・伏見区)付近から帰還途中の六波羅庁軍3,000余騎に包囲されてしまい、一族17人すべて討ち取られてしまった。

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(訳者注4)六条坊門通り(五条と六条の間)と大宮通りとの交差点。
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今や生き残っているのは、妻鹿長宗たった一人だけ。

妻鹿長宗 こないなってもぉたら、もう、生き残っててもシカタのない命や・・・いっそのこと・・・いやいや、いったいおれは、ナニ考えとぉねん・・・天下の大事な局面は、今日のこの時だけとちゃうやん。自分一人だけでも生き残って、この先、陛下のお役に立っていったら、それでえぇんやん!

このようにつぶやきながらたった一騎、西朱雀を目指して退却する彼の後を、印具駿河守(いぐするがのかみ)の軍勢50余騎が追っていく。

その集団の中から、年のころ20歳ほどの若武者がただ一騎、走り出た。彼は、敗走する妻鹿長宗に組みつかんと、ぐんぐん間合いを縮めていく。

若武者 えぇい、逃がさんぞ!

若武者は、妻鹿長宗の鎧の袖にヒシと取り付いた。

妻鹿長宗 フフン。

長宗は、これをものともせず、腕を伸ばして相手の鎧の背中に付いている紐をつかみ、若武者を軽々と宙づりにしてしまった。

若武者 えぇい、放せ、放せ! くそぉ、えぇい!

妻鹿長宗 なんのなんのぉ。

長宗は、若武者をつかんだまま、馬を3町ばかり走らせた。

この若武者は、身分の高い人の親族だったのであろうか、

印具軍団メンバーX わかーっ、わかーっ!

印具軍団メンバーY わかを死なせてはいかん!

印具軍団メンバー一同 待てぇー!

50余騎の武者が、長宗の後を必死に追う。長宗は、彼らを流し目に睨みつけながら叫んだ。

妻鹿長宗 オマエラなぁ、相手をよぉ選んでから、かかってこい! わしを、どこの誰やと思とぉねん! 一騎でもわしに近づいてみぃ、後悔さしたるぞぉ!

印具軍団メンバー一同 (タジタジ)・・・。

妻鹿長宗 そないに、このワカゾウが欲しいんやったら、くれたるわい、ほれ、ちゃぁんと、受け取れよぉ!

長宗は、左の手に引っさげた若武者を右の手に持ち替え、ポーンと放り投げた。

若武者の体は、印具軍団メンバー6人の頭上を越えて、深田の泥の中に落下し、全身ズボっと泥の中に入ってしまった。これを見て、妻鹿長宗の怪力に恐れをなした印具軍団メンバー一同は一斉に馬を返し、全速力で逃げ去っていった。

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赤松円心 あー、あかぁん・・・あっちゃもこっちゃも、ボロ負けやぁ。

頼りにしていた一族の武士たちは、方々の戦場で800余人も討たれてしまった。さすがの円心も、気(き)疲(つか)れ、力(ちから)落(お)ちはててしまった。

彼は、残存兵力をまとめ、八幡・山崎の陣へ引きあげていった。

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