太平記 現代語訳 38-6 細川清氏、死す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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四国の讃岐(さぬき:香川県)においては、細川氏どうしの戦が始まった。

細川清氏(ほそかわきようじ)・対・細川頼之(よりゆき)の数か月間の戦の末、清氏はついに討たれ、四国に平和が回復した。

その一連の経緯を伝え聞くに、詳細は以下の通りである。

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「細川清氏が、四国全域を制圧し、再度、京都を奪取、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)を亡ぼしてしまおうと企て、堺浦(さかいうら:大阪府・堺市)から船に乗り、讃岐へ渡ってきた」(注1)との情報に、その親族たちは、続々と彼の旗の下に参集してきた。

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(訳者注1)細川清氏が四国へ移動した事については、37-4 に記述がある。
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まず、清氏のいとこの氏春(うじはる)が、淡路(あわじ:淡路島)の勢力300余騎を率いて、馳せ参じてきた。

さらに、氏春の弟・信氏(うじのぶ)も、讃岐の勢力500余騎を率いてやってきた。

小笠原宮内大輔(おがさわらくないだいふ)は、阿波(あわ:徳島県)の勢力300余騎を率いてやってきた。

かくして程なく、細川清氏の兵力は、5,000余騎にまで膨張した。

細川頼之はその時、山陽地方における吉野朝側勢力の蜂起を鎮圧せんがために、備中(びっちゅう:岡山県西部)に駐屯していたが、この情報をキャッチし、清氏に対抗すべく、備中、備前(びぜん:岡山県東部)両国の勢力1,000余騎を率いて、讃岐へ渡った。

この時もし、清氏が、頼之の軍の上陸するタイミングを狙って馳せ向かい、戦を仕掛けていたら、緒戦をものにすることができていたかもしれない。

しかし、事がそのように展開していかなかった裏には、頼之の巧みなる策謀があった。彼はまさに、機に臨み、変化に応じて様々に、自由自在に策略を立てていける人であった。

讃岐への上陸の直後に、頼之は、今は禅宗の尼僧となっている母を使者として、清氏のもとへ送った。

細川清氏 (笑顔で)いやぁ、これはこれは・・・お久しぶりですなぁ。

頼之母・禅尼 (笑顔で)まぁまぁ、清氏さまも、まことにご健勝のご様子、この尼、心よりのお喜びを申し上げますわ・・・まぁまぁ、それにしましても・・・清氏様もねぇ・・・こちらへ来られるまで、いろいろと大変でしたよねぇ。

細川清氏 (苦笑い)うん、まぁねぇ・・・いろいろと、ありましてねぇ。

頼之母・禅尼 それにしてもねぇ、清氏様への将軍様のあのなさりよう、誰が聞いたってそりゃぁ、ちょっとどうかと思いますわよねぇ・・・いやね、そんなふうに思ってるの、あたくしだけじゃございませんことよ、うちのせがれだって・・・。

細川清氏 ほぉ・・・頼之殿が?

頼之母・禅尼 えぇ、そりゃぁもう! こないだも、こう言っておりましたわよ、

 「とにかくね、将軍様の取り巻き連中が、諸悪の根源なんですよ。あぁいった群小のゴマスリ連中、朝から晩まで人の悪口ばっかし言って、有能な人をおとしめようとたくらんでるような連中、ああいったヤツラをこそ、まずは、正していかなきゃぁいかんのです。」
 
 「なのに、将軍様は、全く何の咎もない清氏殿を刑罰に処せられた! あんまりですよ! あんな仕打ちされたんじゃぁ、清氏殿だってそりゃぁもう、立つ瀬が無いってもんでしょう。将軍様に対して何の言い訳もできゃしない・・・自分の事を讒言した相手に対して、清氏殿が恨を含まれるの、そりゃぁもっともな事だと思いますよぉ。」

細川清氏 ほぉ・・・頼之殿が、そんな事をねぇ・・・。

頼之母・禅尼 はい・・・実はね、今日あたくし、せがれから頼まれて、おうかがいしたんですわ。「清氏殿に、自分の気持ちはこうだってこと、なんとか伝えてほしい」って、せっつかれましてね、それで・・・。

細川清氏 はぁ・・・。

頼之母・禅尼 せがれからは、他にもいろいろと、申しつかっておりましてよ、

 「清氏殿の腹立ち、まことにもっとも。しかしながら、故・左大臣様(注2)は、ご遺言の中に、次のようにおおせられました、『今後とも、将軍家は代々、仁木(にっき)、細川両家を、自らの手足のごとく信頼・活用しながら、国家統治の実績を積み上げ、日本の歴史の上に、わが足利家の光輝を増幅していくように』、と。」

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(訳者注2)足利尊氏の事。
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 「細川家も、そのルーツをたどれば足利家に帰着するわけでして、細川も足利ファミリーの一員です。その一族のよしみを離れて、清氏殿は敵方の南方朝廷に降り、多年にわたる忠義を捨てて、将軍様と戦われるような事になってしまった・・・あぁ、なんという、嘆かわしい事・・・死者の恨みは苔の下に深くわだかまり、不義のそしりは世の末までも、朽ちる事なく、続いていく事になりましょう。」

 「こういった事を考えるにつけても、私は到底、清氏殿と戦をしようなどという気には、なれません。昔の人の言葉にも、『往者(いんじゃ)とがめず』とあります。どうか、清氏殿、憤りの念はこの際、きれいさっぱり忘却してしまわれませ。そして、将軍様の下へ帰参なされませ。そうそう簡単には、納得いかないでしょう、けど、そこを曲げてでも。」

 「清氏殿の領国については、私から将軍様に、『全て前のまま、一切何の変更も無し』とするように、お願いしますから。」

 「それでも気がすまない、どうしても、天下をひっくり返してしまわないことには、気がすまない、というのでしたら・・・仕方が無い、頼之は四国を捨てて、備中に帰るしかないでしょうねぇ。」

頼之母・禅尼 とまぁ、このように伝えてくれと、せがれから言われましてねぇ。

細川頼之 ・・・。

このように、言葉やわらげ、礼を厚くして、しきりに和睦を請うてきたので、清氏は、深く考える事もなしに、この策略にひっかかってしまった。

清氏との和平交渉をして時間かせぎをしている間に、頼之サイドは、中国地方からの援軍が続々到着して兵力は増強、城郭の防備も堅固なものとなった。

細川頼之 よし、もういいな・・・和平交渉ストップだ。

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清氏の陣は白峯(しらみね:香川県・坂出市)の山麓、頼之の陣は歌津(うたつ:香川県・綾歌郡・宇多津町)、その間わずか2里。

自分の方から先に攻撃をしかけるべきか、それとも、相手が攻撃をしかけてくるのを待ち受けて戦うべきかと、互いに機を窺(うかが)いながら、数日が経過。

頼之サイド・メンバーの大半は、四国より遠隔の地からやってきていたので、食料難に陥った。

この分では、細川頼之も早晩、讃岐よりの撤退を余儀なくされるか、と思われた。

さらに、備前の飽浦信胤(あくらのぶたね)が、吉野朝側に寝返って海上に軍船を浮かべ、小笠原美濃守(おがさわらみののかみ)もまた、細川清氏と心を通じてしまった。

その結果、頼之サイドの生命線ともいうべき、本州・四国間の渡海ルートは、完全に封鎖されてしまった。

情勢は決定的に、頼之サイド不利となり、彼の陣営からは日々、兵力が減じていく。一方、清氏サイドは、讃岐の周辺諸国にまで、その影響力を拡大していく。

まさに、かの中国・三国時代、魏(ぎ)の将軍・司馬仲達(しばちゅうだつ)が蜀(しょく)の遠征軍に対抗し、戦わずして勝利を収めたその戦略に、相似している。(注3)

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(訳者注3)諸葛孔明が率いる蜀軍の何度もの遠征に対して、魏の将軍・司馬仲達は毎回、正面衝突を回避しながら、あの手この手を駆使して、蜀軍の侵攻を食い止めた。最終的には、五丈原の戦陣中の孔明の死により、蜀のこの対魏・侵攻作戦は、失敗に終わった。
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7月23日朝、陣幕の中から出てきた細川頼之は、新開真行(しんがいさねゆき)を近くに招き寄せて、

細川頼之 あのさぁ・・・こちらとあちら双方の態勢を見るにだ、敵兵力は日々増強、わが方はだんだん減っていってしまってるよなぁ。

新開真行 はい。

細川頼之 このまま、何も手ぇ打たずにいっちゃったら・・・あと数日で、もうとても合戦どころの話じゃなくなってしまう。

新開真行 おっしゃる通り。

細川頼之 で、だ・・・そろそろ、仕掛けようと思ってんだが・・・。

新開真行 作戦は?

細川頼之 うん・・・西長尾(にしながお:香川県・仲多度郡・まんのう町)ってとこにさぁ、あっち側の大将が一人、城を構えてがんばってるだろ? ほら、中院源少将(なかのいんのげんしょうしょう)。

新開真行 えぇ、おりますね。

細川頼之 オヌシに数100騎ほど、つけてやっからさぁ・・・いっちょ、西長尾、攻めてみてよ。

新開真行 はい・・・で?

細川頼之 うん・・・オヌシがあの城を攻めるぞって気配見せつけてやったらな、清氏はきっと兵力、割(さ)いてさぁ、西長尾城の救援に送り込むだろうよ。

細川頼之 で、だな、オヌシはぜったい、城、攻めちゃ、だめよぉ。城を攻めるぞって気配だけ、見せとくんだよね。

新開真行 はい。

細川頼之 向かい城くらいは、築いときなよ・・・で、だ、夜になったら、そこにカガリ火をたくさん焼く・・・で、もって、進軍の時とは別ルートで、そっから、速やかに引き上げる。

新開真行 で?

細川頼之 で、だ・・・そのまま、清氏がいる城へ押し寄せる・・・大手方面からこっそりとね。

新開真行 フンフーン・・・(ニヤリ)。

細川頼之 それにタイミングあわせて、だ・・・おれは、カラメ手方面から城に向かう。城に着いたら、まず、おれの側から小勢を繰り出し、城にちょっかい出してやる・・・フェイント(feint)だよ、フェイント。

新開真行 ムフフフ・・・。

細川頼之 オヌシも知っての通り、清氏って、あぁいう性格の男だろ? ぜったぁい、ひっかかってくるぞぉ。自分一騎だけでも、城から飛び出してくるよ、ぜったいにな。

新開真行 出てきますよねぇ。

細川頼之 そこへ、オヌシがおそいかかる・・・これが、一挙に敵の大軍をシマツしてしまう作戦だ。

新開真行 了解です!

頼之は、四国・中国地方の勢力500余騎を新開真行に与え、作戦決行を命じた。

新開軍は、道中の民家に放火しながら、西長尾へ向かった。

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清氏は、この作戦にひっかかってしまった。

細川清氏 敵は、西長尾の城を攻め落として、我らの背後へ回りこもうってこんたんだ。このままほうっとくわけにはいかん、中院殿を応援せねば!

清氏は、弟の頼和(よりかず)といとこの氏春を大将に任命し、1,000余騎をもって、西長尾城の救援に向かわせた。

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新開真行は、もとより、西長尾城を攻めようという気は、さらさらない。わざと時間を費やすために、足軽部隊少々を差し向け、城の麓の方々の民家に放火してまわらせ、向かい陣を築いた。

西長尾城内の人々は、新開軍よりも兵力面において勝っているから、余裕しゃくしゃくである。

中院源少将 あわれ、新開とやら、かかってきたいんやったら、どうぞ好き勝手に、かかってきなはれぇ。

中院軍リーダーA そうやそうや、どんどん、かかってこいやぁ。

中院軍リーダーB まずは、矢の雨降らして、歓迎しちゃるけんねぇ。

中院軍リーダーC そいでもって、負傷者少々出たとこへ、今度は城からうって出て、怒涛のごとき一斉攻撃やぁ。

中院軍リーダーD 一人残らず討ち取ったるけん、まぁ見とれやぁ。

その深夜、

新開真行 カガリ火、燃やしたか?!

新開軍メンバー一同 ヘーイ!

新開真行 よぉし、全軍、移動開始!

新開軍メンバー一同 ホイサー!

新開軍は、山越えの直ルートをたどって西長尾から去り、白峯の山麓にある細川清氏の城の前へ、押し寄せていった。

かねてからの作戦通り、24日午前8時、細川頼之も、500余騎を率いて、その城のカラメ手方面へまわりこんだ。

大手とカラメ手双方から同時に、新開軍と頼之軍のトキの声が上がった。

白峯の城は、鳥の飛翔さえも困難という難所に築かれていたから、たとえいかなる大軍をもって攻められようとも、10日や20日間では、たやすく攻め落とせるようなものではなかった。

新開軍が西長尾城から引き返した事を見て取れば、救援の為にそこへ赴いていた頼和と氏春は、遅かれ早かれ、兵を引き連れて戻ってくるであろう。そうなれば、清氏側にとって、極めて有利な態勢となる。城の内外双方からの挟撃を受けて、頼之側は、戦場から一掃されてしまうであろう。

従って、清氏は、単に城の中にじっとこもり、時の経過をただ待ってさえおれば、よかったのである。

しかし、人間の性格というものは、そうそう簡単に変わるものではない。清氏は常に、他人を遙かに越えたる自らの武勇を誇っており、その用兵は、極めてせっかちな傾向のものであった。

細川頼之サイドの旗が山麓に翻るのを、見るやいなや、

細川清氏 攻めてきたぞ! 鎧持ってこい、馬引け、二の木戸開けろ!

手足を守る防具もつけないまま、あわせの小袖の上に鎧だけ着し、馬にまたがった。

馬上で、上帯を締めるやいなや、

細川清氏 行くぞー!

たった一人で、城からかけ出した。

あわてて付き従った30人ほどの武士は、あまりにも突然の事に、防備を整えているひまもなかった。ある者は、鉄面だけ着して兜をつけず、ある者は、小手だけ着して鎧を着ていない。

そのような、お粗末な武装のまま、ひしめきあっている細川頼之軍1,000余騎のど真ん中へ、突入していったのである。

「あぁ、まさに剛(ごう)の者」とは見えながらも、よくよく考えてみれば、横紙破(よこがみやぶ)りの猪武者(いのししむしゃ)、猪突猛進の愚かさかげん、ここに極まれり、といったかんじである。

とはいいながらも・・・細川清氏、常に敵をモノともせず、というのも、道理である・・・その強い事、強い事・・・寄せ手1,000余騎の武士たちは、清氏たった一人に、ひっかき回されてしまっている。魚鱗(ぎょりん)にも鶴翼(かくよく)にも陣形を保ちえずに、こちらの塚の上、あちらの岡の上に逃げ上り、人馬ともに、フゥフゥいっている。

つい先ほど、鞍の前輪に引き付けてねじり切りに取った野木備前次郎(のぎびぜんのじろう)と柿原孫四郎(かきはらまごしろう)の首二つを、太刀の切っ先に貫き、それを高々とかざしながら、清氏は叫ぶ、

細川清氏 あぁ、中国、インド、南海、モンゴル帝国、そういったとこの事は、遠い国だから、まだよくは知らん。けどなぁ、この日本列島・秋津島(あきつしま)の中に生れた人間のうち、おれよりも強いヤツがもしいるんだったら、一度お目にかかってみたいもんだぁ、わっはっはぁ!

細川清氏 おまえら、おれの敵だけどなぁ、ここで会ったのも何かの縁だろうから、おまえらの為に、いっちょ、言っておいてやる。

細川清氏 「旅の恥はかき捨て」っていうけど、戦場では、そうはいかないよ。キタナイまねなどしようもんなら、後で、なに言われるかわからんぞぉ! おまえら、世間の笑いものになるような戦しちゃぁいかんぞぉ! 正々堂々と、かかってこぉい!

清氏は、このように相手を恥ずかしめた後、なおも、ただ一人で、大軍の中に懸け入った。

乗馬は超強力にして、それに乗る人は武芸の達人、逃げる敵を追い立て追い立て、切って落とす。その切っ先に回ってしまった者は、あるいは、馬もろとも尻もちついて討ちすえられ、あるいは、兜の鉢を胸板まで割られ、深泥の地は、死骸を敷き詰めた大地へと様相を一変。

備中国の住人・真壁孫四郎(まかべまごしろう)と備前国の住人・伊賀掃部助(いがかもんのすけ)は、田の中の細道を、しずしずと退いていた。

清氏はこれに目をつけ、追いついて切ってすてようと、左右同時に馬に鐙を入れて、全速力で走らせた。

清氏が猛スピードで馬を飛ばしてやってくるのを見て、陶山(すやま)家の一人の中間が、一計を案じた。

陶山家中間E (内心)この、わきの溝の中に潜んどって、あいつの来るのを待つ・・・目の前をあいつが通過するその瞬間を狙って、あの馬を一突き・・・どうじゃろ・・・うまく行くじゃろか・・・よし、やってみよ!

陶山家中間E ・・・。(溝の底に身を潜める)

細川清氏 ヘヤァー、ヘヤァー、ヘヤァー、ヘヤァー!

清氏の乗馬 ドドドッ、ドドドッ、ドドドッ、ドドドッ・・・。

陶山家中間E (内心)よぉし、カウントダウン、スタート! トゥェンティナイン(29)、トゥェンティエイト(28)、トゥェンティセブン(27)・・・。

清氏の乗馬 ババババッ、ババババッ・・・。

陶山家中間Aの心臓 ドック、ドック、ドック・・・。

陶山家中間A (内心)フィフティーン(15)、フォーティーン(14)、サーティーン(13)・・・。

細川清氏 ヘヤァー、ヘヤァー、ヘヤァー、ヘヤァー!

清氏の乗馬 ドバババッ、ドバババッ、ドバババッ、ドバババッ・・・。

陶山家中間Aの心臓 ドックドク、ドックドク、ドックドク・・・。

陶山家中間A (内心)エイトゥ(8)、セブン(7)、シックス(6)、ファイヴ(5)、フォー(4)、スリー(3)、トゥー(2)、ワン(1)、ゼロォゥ!(0)(渾身の力を込めて、槍を突き出す)

槍 グワシッ!

清氏の乗馬 ギュヒィーーーン!

槍は、清氏の乗馬・鬼鹿毛(おにかげ)の脚先を突いた。

馬はすくんで、そこに立ちつくしてしまった・・・強力な瞬間接着剤が、その駿足なる四肢を、大地にしっかと繋ぎ留めてしまったかのようであった。

人間の肉眼をもってしては認知不可能な、「運命の見えざる手」が、今この時、清氏の乗馬の前進を止めてしまった。

真壁孫四郎 (内心)しめた!

真壁孫四郎は、馬をUターンさせ、細川清氏に馳せ寄っていく。

細川清氏 (内心)あいつの馬を、奪ってやろう。

清氏は、負傷した風を装い、馬の右側に降り、太刀を逆さまにつきながら、立った。

真壁孫四郎 細川殿、お首、いただきますでぇ! エェーイ!(馬上で太刀を振り下ろす)

細川清氏 (太刀をかいくぐり、真壁孫四郎のすぐ側に、走り寄る)そのセリフ、100年早いな!

清氏の両手 ガバッ!

細川清氏 ・・・(孫四郎の身体を両手で掴み、馬上からひきずり落とす)

真壁孫四郎 ア、ア、ア・・・。

細川清氏 (両手で、孫四郎の身体を頭上にさし上げながら)(内心)さて、どうやって殺す? ネジリ首? それとも、人体砲丸投げ?(注4)

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(訳者注4)原文では、「ネヂ頸にやする、人龍礫にや打つと思案したる様にて、中に差上てぞ立れたる。」
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伊賀掃部助は、襲いかかってきた清氏サイドのメンバー2人を切って落し、鎧にかかった相手の血液を笠標(かさじるし)で拭いながら、

伊賀掃部助 (内心)細川清氏殿は、いったいどこに?(左右に目を配る)

彼の目に、真壁孫四郎を中空に差上げながら、孫四郎の乗馬に乗らんとしている一人の武人の姿が、とびこんできた。

伊賀掃部助 (内心)うわぁ、あの武士、すごいわ。そんじょそこらのヤツには見えん、きっとあれが、細川殿やろう。こりゃまさに、願ってもない幸運よ。

掃部助は、畑の中を斜めに馬を進めた。

伊賀掃部助 (内心)この馬、進め、進め、もっと速く、もっと速く! 細川殿が、行ってしまわんうちに!

伊賀掃部助 そこのお人ぉ! 細川清氏殿と、お見うけしたぁ! エェイ!(清氏にムズと組み、引き寄せる)

細川清氏 なにを、こしゃくな!

清氏は、真壁孫四郎を、右手にひっつかんでポーンと投げ捨て、伊賀掃部助を、左手の鎧の袖の下に押さえ込んだ。そして、左手で押さえ込んだまま彼の首をかこうと、上帯が伸びて背後に回ってしまった腰刀を、右手で引き寄せた。

機敏この上ない伊賀掃部助は、清氏に組み付いて押さえこまれるやいなや、刀を抜き、清氏の鎧の草ずりをはねあげ、上向きに3回突いた。

細川清氏 ウウウ・・・。

刀に刺されて力弱った清氏の手をはねのけ、掃部助は、彼を押さえ込み、ついにその首を取った。

伊賀掃部助 やったぁ、やったでぇ! 敵の大将、細川清氏殿の首、おれが取ったでぇー!

周囲にいた細川頼之軍・メンバー一同 ウォー!

メンバーたちの手 パチパチパチパチ・・・。

さしもの猛将勇士・細川清氏も、ついに、運尽きて討たれてしまった。

清氏がまさに討たれんとしている事に気付いた者は、誰もいなかったので、彼を助けようとする者も、なかった。清氏と所を一つにして死んでいったのは、森次郎左衛門(もりじろうざえもん)と鈴木行長(すずきゆきなが)だけであった。

清氏の身体は、深田の泥の土にまみれ、首は、相手方の太刀の切っ先に貫かれる事となってしまった。

まさに、元暦(げんりゃく)年間の昔、木曽義仲(きそよしなか)が粟津の原(あわづのはら:滋賀県・大津市)にて討たれ、京都朝年号・暦応(りゃくおう)元年(1338)(注5)の初秋、新田義貞(にったよしさだ)が足羽の縄手(あすはのなわて)にて討たれた、その最期の様と同様である。

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(訳者注5)原文には、「暦応2年」となっているが、「元年」が正しい。新田義貞の最期については、20-6 ~ 20-9 を参照。
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24日の夜明け後、西長尾城の救援に出向いていた細川頼和は、新開真行が率いる軍が、陣地を引き払ってしまっているのを見て、

細川頼和 敵のワナだった! 兄上の軍勢をこちらへ割かせ、そのすきに入れ替って、あっちの城へ寄せようって作戦だったんだ。今ごろ、もう戦が始まってるだろう、早く戻って戦わなきゃ!

彼らは、馬に両鐙を入れ、千里を一足にと、馳せ帰っていった。

新開真行は、それを途中に待ち受け、難所に引き寄せ、開けた場所に開き合わせ、入れかわり立ちかわり、戦った。

互いに討ちつ討たれつ、東西に地を変え、南北に遭いつ別れつ、戦い続けること4時間、新開側はついに敗北、細川頼和と細川氏春は、全軍に勝ちどきを3声あげさせ、意気軒昂(いきけんこう)の中に、白峯城への帰路の途についた。

その道中、笠標をかなぐり捨て、鎧、兜に矢を数本たてた敗残の武士2、30人のグループに遭遇した。

細川頼和 おい、おまえら、いったいどうしたんだ? 白峯で、いったい何があった?

敗残の武士たち一同 (涙)清氏殿は、もう、討たれてしまいましたよ。

細川頼和 なんだってぇ?!

細川氏春 いったいどうなってんだ、城は?

遥かに城を見上げてみれば、既に、相手方が城を占領してしまったものと見え、見慣れない紋の旗が、木戸や櫓の上に、はためいている。

細川頼和 ・・・。

細川氏春 ・・・。

再び戦うだけの力もなく、どこかにたてこもろうにも、もはや城も失ってしまった・・・頼和と氏春は仕方なく、逃げ行く軍勢を率いて、淡路(あわじ:淡路島)へ落ちていった。

しかし、淡路島においても、情勢が一変していた。かつては彼らに心寄せていた者たちも、清氏戦死の報に、いつしか皆、心変りしてしまっていた。

結局、淡路にも留まる事ができず、彼らは、小船一隻に乗り、和泉(いずみ:大阪府南部)へ逃げ落ちた。

本拠地が落ちてしまったとあっては、西長尾城が落ちるのも、もはや時間の問題。攻められる先に、城は落ちてしまった。

かくして、四国全域は、あっという間に静穏となり、有力者全てが、細川頼之に靡(なび)き従うようになった。

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