太平記 現代語訳 17-1 足利軍、延暦寺を攻める

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都の東寺(とうじ)において、足利尊氏(あしかがたかうじ)、直義(ただよし)、高(こう)家、上杉(うえすぎ)家メンバーたちは、作戦会議を開いた。

会議メンバーA 皆様もご存じのように、天皇は再び、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)へ行かれました。寺の衆徒たちは、今年の春に勝利したごとく、今回も、天皇にかたく忠誠を誓って擁護しよう、との態勢であります。

会議メンバーB どうやら、比叡山にじっと待機しながら、北陸地方や東北地方からの援軍の到着を待っているようですね。

会議メンバーC このままズルズルと行っちまったんじゃぁ、イカンと思いますよ。新田義貞(にったよしさだ)の兵力が増大してしまっては、まずいのでは?

会議メンバーD 敵サイドの兵力がまだ少ない、今この時ですよ、延暦寺攻撃のタイミングは!

足利尊氏 ・・・よし・・・比叡山に兵を送るとするか。

6月2日、各方面の軍編成決定の後、足利軍50万騎は、大手とカラメ手の2手に分かれて、比叡山へ向かった。

足利・大手方面軍: 吉良(きら)、石塔(いしどう)、渋川(しぶかわ)、畠山(はたけやま)を大将として5万余騎。大津、松本(まつもと)の東西の宿、園城寺(おんじょうじ)の焼け跡、志賀(しが)、唐崎(からさき)、如意が嶽(にょいがたけ)まで充満。(注1)

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(訳者注1)ここに出てくる地名は、最後の「如意が嶽」以外は、滋賀県・大津市内にある。「園城寺の焼け跡」については、15-3を参照。「如意が嶽」は山腹に、送り火行事の「大文字」がある山。
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足利・カラメ手方面軍: 仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、今川(いまがわ)、荒川(あらかわ)を大将として四国・中国方面勢力8万余騎。今道越(いまみちごえ)ルートを通り、三石山麓を経て、無動寺(むどうじ)へ寄せていく。

修学院(しゅがくいん:京都市・左京区)方面へは、高師重(こうのもろしげ)、高師秋(こうのもろあき)、大高重成(だいこうしげなり)、南宗継(みなみむねつぐ)、岩松(いわまつ)、桃井(もものい)らを大将として30万騎。八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、静原(しずはら)、松が崎(まつがさき)、赤山(せきさん)、下り松(さがりまつ)、修学院、北白川(きたしらかわ)まで展開し、音無滝(おとなしのたき)、不動堂(ふどうどう)、白鳥越(しらとりごえ)経由で寄せて行く。

天皇サイドでは、これほどの大軍が押し寄せてくるとは予想もしなかったのであろうか、行く道には警護の者もおらず、木戸(きど)や逆茂木(さかもぎ)も設置されていない。足利サイドの馬は、岩石多い道を行く事にも慣れているので、険しい山道をものともせず、どんどん登っていく。

天皇サイドの主要メンバーは、新田義貞をはじめ、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、土肥(とひ)、得能(とくのう)に至るまで、比叡山の東山麓の坂本(さかもと:大津市)に集まっており、山上には、歩行さえおぼつかない高僧や、窓を閉ざして修行に専念している修学者がいるだけで、まったくの無防備状態であった。

この時、比叡山の西側山麓から寄せていった足利サイドの大軍が、途中瞬時も停滞することなく四明嶽(しめいがたけ:注2)までまっしぐらに突き進んでいたならば、天皇サイドは、比叡山上も坂本も全く防御する事ができず、一気に総崩れになっていたであろう。

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(訳者注2)比叡山中の最高峰。
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しかし、延暦寺を守護する山王(さんおう)のご加護があったのであろうか・・・。

足利・後衛陣メンバーE ありゃりゃぁ、すげぇ朝霧、立ち込めてきたよぉ。

足利・後衛陣メンバーF 一寸先も見えねぇや。

足利・後衛陣メンバーG おいおい、山の上の方で、すげぇでかい叫び声、上がってるぜ。

足利・後衛陣メンバーE うわぁ、声の大きさから思うに、ものすげぇ人数だぞぉ。あれはきっと、敵側の矢の一斉射撃の時の叫び声だよ。

足利・後衛陣リーダーH こりゃ、うかつに前へは進めねぇぞ。よし、とにかくここでいったん、進軍ストップだぁ!

なんの事はない、足利・後衛陣の者らは、自軍の前衛陣の上げるトキの声を、深い霧のせいで敵側の喚声と聞き誤ってしまったのである。このようにして、足利サイドは、時間を空費してしまった。

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大宮(おおみや)まで降りて、「延暦寺3エリア・合同全体会議」に参加していた衆徒たちは、「足利軍急襲!」との報を聞き、急遽、山上にとって返した。

彼らは、将門の和労堂(しょうもんのわろうどう)の周囲に陣を構え、「ここを破られてなるものか!」と、必死に防衛戦を行い、足利軍の先頭を進んでいた武士らはたちどころに300人ほど討死。

これ以降、足利軍は一歩も前進できなくなってしまった。

前衛が進もうとしないので、後衛はなおさらのこと、前進できない。

かくして双方とも、急勾配の坂の木陰に陣を取り、切り通した堀を境として盾を並べ、互いに遠矢を射るだけで、その日は終わった。

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足利・大手方面軍中の志賀、唐崎に配備された10万余騎は、比叡山の西側からトキの声が響き渡ってくるのを聞いて、「いよいよ西側で、闘いが始まったか、よぉし、こっち側も!」ということで、坂本の西方の穴生(あのう)まで押し寄せて、トキの声を上げた。

足利・大手方面軍リーダーI さてさて、敵陣を見渡してみるにだなぁ・・・。

足利・大手方面軍リーダーJ ウーン・・・。

無動寺の山麓から琵琶湖の波打ち際まで、2丈ほどの深さの空堀が延々と続いていて、その所々に橋が懸けられている。堀の向うには、塀、木戸、逆茂木がビッシリ。渡櫓(わたりやぐら)や高櫓(たかやぐら)の数はざっと300余。塀の向うには、ここが大将・新田義貞の本陣であろうか、中黒(なかぐろ)紋の旗30余本が、山を吹き降ろす風に吹かれ、龍蛇(りゅうじゃ)のごとく翻っている。

その旗の下には、陣屋を並べ、油を塗った幕を引き、輝く鎧を装着した武士らが2、3万騎。各陣営とも、後方に馬をつなぎながら、密集して並んでいる。

無動寺の麓、白鳥越(しらとりごえ)のあたりを見渡せば、千葉、宇都宮、土肥、得能をはじめ、四国・中国の武士らがここをかためていると見え、左巴(ひだりともえ)、右巴(みぎともえ)、月に星、片引両(かたひきりょう)、傍折敷(そばおりしき)に三文字等々、各家の紋を描いた旗60余本、木々の梢に翻りはためく。その陰には、兜の緒を締めた兵3万余騎、敵近づかば横合いから攻め下ろせとばかりに、馬を並べて控えている。

琵琶湖上を見下ろせば、四国、北陸、東海道の水上戦を得意とする武士らが、亀甲(きっこう)、下濃(すそご)、瓜紋(うりもん)、連銭(れんぜん)、三星(みつぼし)、四目結(よつめゆい)、赤幡(あかはた)、水色(みずいろ)、三つスハマ等々、各家の紋を描いた旗300余本、淡水の上に姿を現し、漕ぎ並ぶ船々の舷側には、射手とおぼしき武士ら数万人、盾の陰に弓杖(ゆんづえ)を突いて、足利軍に横矢をあびせかけようと、待ち構えている。

さしもの大兵力の足利軍も、相手のこの勢いに機を呑まれ、矢の射程距離域中にまでは前進できず、大津、唐崎、志賀の300余箇所に陣を取り、ただ遠攻めにするしかない。

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6月6日、足利・大手方面軍の一人の大将が、比叡西側山麓方面の足利軍に使者を送った。

使者 西側山麓方面の皆様へ、わが方の大将より、以下のようなメッセージをお伝えに参りました。

 「こちらの坂本方面の敵陣を視察したところ、新田、宇都宮、千葉、河野(こうの)をはじめ、敵側の主要メンバーのほとんどは、こちら側、比叡山の東側の防衛を担当しているようです。となると、山の西側の防衛は、急峻(きゅうしゅん)な地形を頼んで、公家の人々、あるいは、延暦寺衆徒らが担当しているのでしょう。」

 「ですから、ここは一つ、そちら方面からガツーンとイッパツ、攻めてみればどうでしょう? おそらく、敵はまともに抵抗できないしょう。」

 「四明嶽から敵を追い落とされた後、大講堂(だいこうどう)、文殊楼(もんじゅろう)のあたりに移動して、そこで火をあげてください。それを合図に、こちらからも一斉に打って出ますから。こちら側の坂本をかためている敵を一人残らず、湖水に追い落として滅ぼしてやりますよ!」

これを聞いて、足利・西側山麓方面軍の大将・高師重は、全軍に指令を出した。

 「明日、わが足利軍、全方面から延暦寺総攻撃と、決定した。」
 
 「この戦において、一歩たりとも退いた者は、たとえこれから先に抜群の忠功ありといえども、それは一切認められずに所領没収し、その身柄は追放処分となる。」

 「一太刀でも敵と刃を交えて陣を破り、分捕りした者は、凡下(ほんげ:注3)ならば侍(さむらい)に取りたてられる、御家人(ごけにん:注4)ならば、将軍様から直接に恩賞が与えられよう。」

 「かといって、自分一人だけ手柄を立てようと思っての抜け駆けは、絶対にしてはならない。また、仲間の功績をそねんで、相手が危い時に知らん顔をする、などということも、まかりならぬ。互いに力を合わせ、共に志を一つにして、敵が斬りかかってこようと、矢を射てこようと一切かまわず、味方の死骸を乗り越え乗り越え、進むべし!」

 「敵が退いたならば、再び返ってこない間にさらに進み、山上に攻め上がれ。そして、堂舎(どうしゃ)、仏閣(ぶっかく)に火を懸け、比叡全山、一宇(いちう)残らず焼き払い、延暦寺3千の衆徒全員の首を一つ一つ、大講堂の庭にさらして、将軍様のお褒めに預かるとしようではないか!」

このように、全軍を励まして命令した高師重の悪逆のほど、まことにあさましい。(注5)

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(訳者注3)御家人でもない、侍でもない身分。

(訳者注4)将軍直属の家臣。「御家人制度」は源頼朝の時から始まったという。

(訳者注5)数百年後の織田信長の「比叡山焼き討ち」を連想させるようなくだりである。もしかしたら、信長は太平記のここにヒントを得たのかも?
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この命令を聞いて、足利・西側山麓方面軍の将兵は、全員奮い立った。

夜明けとともに、20万騎は、三石、松尾(まつのを)、水呑(みずのみ)の3方面から、太刀、長刀の切っ先を並べ、左手を前にかざしながら、「エイ、エイ」と声を上げながら、山道を登っていった。

彼らはまず、恒良親王(つねよししんのう)の副将軍に任命されていた千種忠顕(ちぐさただあき)と坊門正忠(ぼうもんまさただ)が率いる軍勢に襲いかかった。

忠顕たちは、たった300余騎でもって防戦に努めたが、松尾方面から攻め上ってきた足利軍に後方から攻められ、一人残らず討死にしてしまった。(注6)

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(訳者注6)ここでまた一人、後醍醐天皇側の重要メンバーが舞台から去ってしまった。鎌倉幕府打倒から後醍醐政権樹立前後における千種忠顕に関する太平記の描写に比して、彼の最期を述べたこの部分の記述はまことにあっけない感じがする。
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これを見て、後方に位置して防衛に努めていた、護正院(ごしょういん)、禅智坊(ぜんちぼう)、道場坊(どうじょうぼう)以下の衆徒7,000余人は、一太刀打っては退き登り、暫く支えては引き退いて、徐々に、山上に追い上げられて行く。

足利サイドはますます、それに乗じて追い立て追い立て、相手に一息も継がせる事なく、さしも険しき雲母坂(きららざか)、蛇池(じゃいけ)を左手に見ながら、ついに四明嶽の付近に到達した。

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「比叡山・西山麓方面の防衛線、破れたり!」との知らせは、延暦寺全域を疾風のごとくかけ抜けた。あちらでもこちらでも、急を告げる鐘の激しい連打が鳴り響き、東塔エリア一帯は、パニック状態に陥った。

歩行もおぼつかない高僧たちは、鳩頭の杖をつきつき、根本中堂(こんぽんちゅうどう)や常行堂(じょうぎょうどう)などへ移動して、嘆き悲しむ。

高僧K あぁ・・・わしらみな、ここで死んで行くんかいなぁ。

高僧L ご本尊様といっしょに、死んでいくしかないんやなぁ。

かたや、仏教書の研究に明け暮れる毎日を送ってきた学僧たちは、経典・注釈書を懐深くしまって腹に当て、逃げていく武闘派衆徒たちの太刀や長刀を奪い取り、四郎谷(しろうだに)の南方の箸塚(はしづか)の上に駆け登り、そこを拠点とし、わが命を投げ出して、足利軍に抵抗し続けた。

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ここに、足利軍サイドに加わっていた一人の武士が、大音声を張り上げていわく、

江田泰氏 こらこら! そこのもん(者)ら、よぉ聞きんさい! わしは、備後国の住人・江田泰氏(えだやすうじ)じゃ! これからおまえら、片っ端から切り倒してくれるわ!

泰氏は、洗革(あらいかわ)の鎧に5枚シコロ(注7)の兜を装着し、所々錆びが浮いた血まみれの太刀を振りかざしながら、まっしぐらに坂を駆け登っていった。

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(訳者注7)兜の左右・後方を構成する部品。
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山神定範 よぉし、おれが、おまえの相手したるでぇ!

泰氏の前に立ちふさがるは、杉本(すぎもと)の山神定範(やまかみのじょうはん)という、武勇優れる延暦寺の僧である。定範は、黒糸威(くろいとおどし)の龍頭の兜をかぶり、股まで覆うすね当てを装着、3尺8寸の長刀を短く持って、泰氏に立ち向かっていった。

江田泰氏 えぇい、くらえぃっ!

泰氏の太刀 ヴァシーンッ!

山神定範 なんのなんのぉ!

定範の長刀 グァキッ!

余人を交えぬ二人だけの闘いが展開されていく・・・打ち交わされる刃(やいば)からは火花が飛び散り、二人の足はあちらにこちらにと、激しく大地を踏み締める。

泰氏は、比叡山の長い坂道を登りながら、何度も何度も戦闘を繰り返しながらここまでやって来ており、すでに相当疲労していた。朝、戦闘を開始した時よりも、腕の動きが鈍っており、気力も衰えを見せ始めていて、ややもすると受け太刀になってしまう。

その気配を見てとった定範は、ここぞとばかりに、長刀を長く持ち替え、相手の兜も割れよ砕けよとばかりに、連打。

山神定範 エェーィッ、エェーィッ!

定範の長刀 ガキーン、ガキーン!

泰氏の兜 ボコッ!

江田泰氏 (内心)しまった!

定範が打ち下ろした長刀は、泰氏の兜に命中、兜は、ずれて泰氏の目の上にかぶさってしまった。

泰氏が、兜を元に戻そうとして、頭を上にもたげたその瞬間、定範は、長刀をカラリとうち棄て、泰氏に走り寄ってムズと組んだ。

山神定範 エェイ・・・締め殺したるわい・・・。

江田泰氏 ウウウ・・・その・・・手を・・・放せ・・・。

山神定範 エェイ・・・。

定範の足の下の地面 ド、ド、ド・・・。

江田泰氏 ウウウ・・・。

泰氏の足の下の地面 ド、ド、ド・・・。

二人が力をこめて踏みしめる足は、大地を揺るがせる。と、その時、

定範の足の下の地面 ドッ、ボスッ!

泰氏の足の下の地面 ドッ、ボスッ!

江田泰氏 あぁぁ!

山神定範 うわぁぁ!

二人が足を踏みしめたその瞬間、足元の土が崩れた。

二人はなおも組合いながら、小笹の茂る数千丈もの高さの斜面を、上になり下になりながら、転げ落ちて行く。斜面の中ほどからようやく二人の体は分かれ、谷底めがけて別々の方向に転落していった。

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延暦寺側の抵抗は続いた。

伝灯(でんとう)称号を与えられた14人の高僧や、法華堂(ほっけどう)を護持する僧侶までもが、袈裟(けさ)の袖を結んで肩にかけ、降魔の利剣(ごうまのりけん)をひっさげて足利軍に立ち向かい、命を風塵(ふうじん)よりも軽んじて決死の防戦を展開、さしもの足利軍も、前進の足がパタリと止まってしまった。

四明嶽(しめいだけ)の山頂および西谷口まであと3町ほど、という地点で、足利軍は止むをえず小休止。軍を率いるリーダーたちに、今後の戦闘指揮についてのためらいの色が見え始めた。

天皇サイドに加わっている宇都宮軍メンバー500余騎は、「篠の峯をかためよ」との指令を受けて、昨日から横川(よかわ)エリアに布陣していた。

宇都宮軍団メンバーM 殿、あれ、聞こえませんか・・・なんだか、大講堂の鐘、ガンガンなってますぜ。

宇都宮軍団メンバーN ほんとだ・・・いったい誰が鳴らしてるのか分からないけど。

宇都宮軍団メンバーO もしかしたら、四明嶽・西谷口方面で、何かまずい事になってるんじゃぁ?

宇都宮公綱(うつのみやきんつな) よし、全員、西谷口へ移動せよ!

宇都宮軍は馬にムチ打ち、アブミを蹴立てながら、西谷口へ急行した。

やがて、坂本に陣取って天皇御座所を守っていた新田義貞も、6,000余騎を率いて四明嶽へかけつけてきた。

義貞は、宇都宮とその家臣団・紀清両党(きせいりょうとう)のメンバーを、虎韜(ことう)陣形を組ませて進ませ、江田(えだ)、大館(おおたち)には魚鱗(ぎょりん)陣形を組ませ、足利軍めがけて、山上から一気に攻め下らせた。

足利軍20万騎もこれにはたまらず、水呑(みずのみ)付近の南北の谷へ追い落とされ、人馬は上下に積み重なり、深い二つの谷は死者が堆積して平地になってしまった。

かくして、この日の戦いは足利側の敗北に終わり、東西呼応しての比叡山一斉攻撃という作戦も頓挫(とんざ)。足利サイドの西側山麓方面軍は、水呑の下方に陣取って、相手のスキをただ窺うばかりの態勢となってしまった。

一方、新田義貞は坂本には戻らずに、そのまま四明嶽に陣取ることにした。

朝から始まったこの戦、両軍ともまる一日必死に戦い続けたのであったが、結局引き分けに終わり、比叡山・西山麓方面の戦線は、膠着状態(こうちゃくじょうたい)に。

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翌日、足利・西側山麓方面軍の大将・高師重は、比叡山の東側山麓に布陣している足利・大手方面軍に使者を送り、次のように伝えた。

 「敵サイド主要勢力はみな、比叡山の四明嶽に移動してきたようです。よって、そちら方面の防備が手薄になっていると思われます。早急に、そちらの東側山麓方面でも戦闘を開始されて、坂本を制圧し、一帯の神社、仏閣、僧坊、民家を一軒残らず焼き払い、敵を山上に追い上げてみてはどうでしょうか。」

 「その後、東塔エリアと西塔エリアの中間地点に進出されて、そこで兵火を起こせば、四明嶽にいる敵の連中らは、前方と後方、双方において、我々サイドに直面することとなりますから、必ずや、進退を失ってしまうでしょう。その時、こちら側からも山上に攻め上がって、一気に勝負をつけてしまいましょう!」

これを聞いた、足利・大手方面軍の、吉良(きら)、石塔(いしどう)、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)のメンバーらは、

リーダーP 昨日は、こちら側からの勧めに従って、あちら側の高家一族率いる勢力が攻撃を仕掛けたんだったよなぁ。

リーダーQ せいいっぱい、できる限りの事を、彼らはしてくれたんだ。

リーダーR 今度は逆に、あちらからこちらへ攻撃を勧めてきたってわけか。

リーダーS 順当に行けば、次はこっちが攻撃をしかける番ってとこでしょうねぇ。

ということで、足利・大手方面軍18万騎の兵力を3つに分け、田中(たなか)、浜道(はまみち)、山傍(やまそえ)から東に向かって、坂本を攻めることにした。敵に夕日のある方角を向かせるようにして、眩しがらせた方が有利になるであろう、というもくろみである。

坂本の城を守る天皇軍の大将は、兄からここを託された脇屋義助(わきやよしすけ)。

義助は、関東地方および中国地方出身の強弓(ごうきゅう)の手練(てだれ)を、城の土壁の矢狭間(やはざま)や櫓の上に配置し、土居(どい)、得能(とくのう)、仁科(にしな)、春日部(かすかべ)、名和長年(なわながとし)らが率いる四国地方および北陸地方からの強兵2万余騎を、白鳥岳(しらとりだけ)に配置。さらに、水上戦になれた諸国の武士に、和仁(わに)、堅田(かたた)の在地武士らを添えた5000余人を、盾を並べた軍船700余隻に乗り込ませ、湖上の沖合いに配置していた。

足利・大手方面軍リーダーP ウーン・・・やっぱし、敵側の構えは厳しいなぁ・・・。

足利・大手方面軍リーダーQ でも、とにかく戦をしないと・・・戦わなきゃ、敵を破れねぇわさ。

足利・大手方面軍80万騎は、3方向から坂本城に接近して、トキの声を上げた。それに応えて、城中の6万余騎も、矢狭間の板を打ち鳴らし、湖上からは、船の舷側を叩いて、トキの声を合わせる。大地も裂け、大山も崩れようかというような大音響。

足利軍メンバーらは、盾を頭上にかざし、城の前まで寄せていった。

足利・大手方面軍リーダーP みんな、草、運べぇ! 堀の中にどんどん運び込んでな、堀を埋めちまうんだぁ。

足利・大手方面軍リーダーQ 堀が埋まったら、城の塀のすぐ横に草を積め。積み上がった草に火をつけて、それを城の櫓に延焼させて、櫓を焼き落とすんだぁ!

足利・大手方面軍リーダーR 行けぇーー!

足利・大手方面軍メンバー一同 ウォーツ!

その時、城中から矢の連射が。

矢 ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ・・・。

城の300余か所の櫓、土塀、出塀(だしべい)の中から、雨が降るような一斉射撃。射放たれた矢は一本のムダも無く、足利軍メンバーの盾の間、旗の下へと飛んでくる。たちまち、足利サイド、死傷者3,000人超。

足利・大手方面軍メンバーT こりゃたまんねぇ・・・わが方は次々とヤラレていってるぞぉ。

足利・大手方面軍メンバーU 盾の陰に身を隠して、ジットしているしか・・・。

城中からこれをじっと見つめる、脇屋義助、

脇屋義助 フッフフゥ・・・あいつら、もう怖じけづいてやがんじゃん。よぉし、みんなぁ、ウって出るぞぉ!

新田軍メンバー一同 オーーゥ!

城の三の木戸がサァッと開き、脇屋、堀口(ほりぐち)、江田、大館ら6,000余騎が、ドッと駆け出た。彼らはまっしぐらに、足利軍に。

それに呼応して、土居、得能、仁科、名和ら2,000余騎も、白鳥岳から駆け下りてきて、足利軍の側面を突く。

湖上に展開している水軍も、船を一松(ひとつまつ)のあたりへ漕ぎよせ、連射、遠矢、斜め矢と、矢を惜しまずに、散々に射まくる。

大兵力の足利・大手方面軍ではあったが、山と湖の双方向から矢を浴びせられ、田中、白鳥方面からも攻めたてられ、「これはとてもかなわぬ」ということで、自陣へ退却していった。

それから後は、双方とも日夜朝暮(にちやちょうぼ)に兵を出しては矢戦を展開するのみとなり、足利・大手方面軍は専ら遠攻めに終始、天皇軍も城を守り抜き、といった状態が続き、こちらの戦線においても、何ら進展無しの様相を呈してきた。

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同月16日、熊野八庄(くまのはっしょう)の庄司(しょうじ)らが、500余騎を率いて京都へ来た。

彼らは、まだ一戦もしていない新参者なので、「おれらも延暦寺攻めに参加して、いっちょ、やらかしたろや」ということで、比叡山西側山麓へやってきた。

彼らは、高師重に目通りを願いでた。

高師重 なに、熊野八庄のメンバーらが、参戦を申し出てきたってぇ? よし、会ってみよう。

高師重の前に、熊野八庄の代表メンバーたちがずらりと並んだ。

高師重 (内心)おぉぉ・・・。

黒糸威の鎧兜、指の先まで防備をかためた籠手(こて)、さらには、脛当(すねあて)、半頬(はんぼう:注8)、膝鎧(ひざよろい:注9)、彼らは身体中一寸の隙も無く、ビッシリと鉄で覆いかためている。

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(訳者注8)頬から下の部分を覆う面。

(訳者注9)鎧の下につけて、草摺(くさずり)のはずれを覆い、股と膝を守る器具。
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高師重 (内心)うーん・・・こいつらは、並みの者ではなさそうだなぁ。使えそうだ。

高師重 参戦の申し出、まことにあっぱれ。おまえらには、大いに期待してるぞぉ。

熊野八庄・代表メンバー一同 ウィー!

高師重 さて、問題は作戦だ。いったいどんな作戦をもって戦うべきか、思う所を残らず、述べてみろ!

熊野・湯川(ゆかわ)の庄司が、前へ進み出ていわく、

湯川庄司 おれら、紀州育ちのもんはなぁ、小さい頃から、険しいとこや岩だらけのとこを駆け回っては、鷹を使い、狩りをしながら、大きいなってきたわいな。馬もよぉ行かんような険しいとこかて、わしらにとっては平地同然や。ましてや、このへんのこんな山なんか、何程の事があるかいなぁ!

高師重 ほほぉ。

湯川庄司 おれらの着てるこの鎧、まぁ見たってぇ。見た目はそないに上等のもんには見えんやろけどな、自ら精根込めた手作りやでぇ! たとえ、源平時代のあの弓の名手、源為朝(みなもとのためとも)がこの世に帰ってきて、この鎧を狙ぉて矢ぁ射ても、そうそう簡単に、射通せるもんやないでぇ!

高師重 ・・・。(ニヤニヤ)

湯川庄司 足利将軍さまにとっては、この戦は、「まさにここ一番!」っちゅうとこやろ?

高師重 その通り!

湯川庄司 そんなら、おれらに任しといてんか! おれらが、あんたらの矢面に立って、敵が射てくる矢を片っ端から、この鎧で受け止めたろやないかい。敵が切り掛ってきたその太刀、長刀に食らいついて、おれらが先頭切って、敵陣にズバズバ、破(わ)って入ってったるわいな。

高師重 ウハハハ・・・。

湯川庄司 新田どんが、いくら強いいうたかてなぁ、おれらがこの戦に参加した以上は、もうあいつもアカンなぁ。おれらにかかったら、新田軍もイチコロやでぇ。

このように、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に大言壮語する彼らを見ては、他のメンバーの面白かろうはずがない。

足利軍リーダーP (内心)チィッ、でけぇ口、タタキやがってぇ。

足利軍リーダーQ (内心)言うだけだったら、ナァントでも、言えますわさ。

高師重 よぉし! 明日の戦、おまえら、熊野八庄のもん(者)らが、先頭に立ってやってみろ!

熊野八庄・代表メンバー一同 ウィー!

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6月17日午前8時、足利・西側山麓方面軍20万騎は、熊野八庄軍500余人を先頭に置き、松尾坂(まつおざか)の尾崎(おざき)から、一斉に山を登りはじめた。

天皇軍10万騎中には、四人の弓の名人がいた。

 綿貫五郎左衛門(わたぬきごろうざえもん)
 池田五郎(いけだごろう)
 本間孫四郎(ほんままごしろう)
 相馬四郎左衛門(そうましろうざえもん)

綿貫と池田は、坂本へ派遣されていて西山麓方面防衛線には不在、本間と相馬だけが、新田義貞の側について、そこにいた。

真っ黒な武装に身をかためて山道を攻め上ってくる熊野八庄軍をはるか下に見下ろし、二人はカラカラと笑って、

相馬四郎左衛門 オォー、今度はスゲェのが、やってきやがったなぁ。

本間孫四郎 なぁ、なぁ、今日の戦、味方の者らに太刀の一本も抜かせずに、片づけちまおうじゃぁねぇの。矢の一本も射させずにな。

相馬四郎左衛門 いったいどうやって?

本間孫四郎 おれたち二人だけで、ヤツラを迎え撃って、肝(きも)つぶしてやんのよぉ。

相馬四郎左衛門 そりゃぁ、おもしれぇ。よぉし。

二人は、静かに席を立ち、強く弓を引くために、鎧を脱いで脇立だけを装着し、兜も脱いだ。

本間孫四郎 さぁてと、今日は、どの弓にすんべぇっかなぁ。

孫四郎は、いつも使っている弓ではなく、丸木づくりの弓を選んだ。一見、サイズは短いように見えるのだが、通常の弓と並べて見ると2尺ほど長い。

彼は、ピンとそり立ったその弓を、大木に押し当ててユラユラと曲げ、弦を張った。そして、多数の矢の在庫の中から白鷹の羽根がついている15束3伏を2本選び、それを弓といっしょに持ち、歌をうたいながら静々と、向かいの尾根に向かう。

本間孫四郎 ウシシ ウシシ ウシシノシィ イェーイ!

相馬四郎左衛門もまた、銀のツクを打った4ないし5人張りの弓(注10)を左の肩にかつぎ、金磁頭(きんじとう)の矢2本を選び取ってノタメ(注11)にはめた。彼は、その矢をためつすがめつしながら、孫四郎の後に続いて行く。

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(訳者注10)「n人張」とは弓の強度の単位である。「n人が力をあわせて弓を曲げ、やっと弦を張れるほどの強さ」という意味。

(訳者注11)矢の曲がっているのを矯正する道具。
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二人は、一群の松林の中に入り、弓づえをついて立ちながら、山の下方を窺った。

本間孫四郎 なぁ、見ろよ、あの先頭をやってくるやつ。

相馬四郎左衛門 ほっほぉ、すげぇ体格だなぁ。

本間孫四郎 きっとあいつが、うわさに聞く「熊野八庄一の大力男」だよ。

ひときわ背の高い男が、熊野八庄軍の先頭に立って山道を登ってくる。

身長は8尺ほどもあろうか、全身に荒々しさがみなぎっている。鎖帷子(くさりかたびら)の上に黒皮の鎧をつけ、5枚シトロの兜の下には朱色に塗った半頬を着けている。9尺ほどの長さの樫の木の棒を左手に握り、猪の目(いのめ:注12)を打ち抜いた刃わたり1尺ほどの鉞(まさかり)を右肩にかつぎ、少しもためらう様子もなく、サッサッと登ってくる。マケイシュラ王(注13)、ヤシャ(注14)、ラセツ(注15)の怒れる姿、かくありなん、といった風である。

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(訳者注12)器物の表面をえぐってつけられた装飾のためのマーク。

(訳者注13)仏教辞典(大文館書店)によれば、
「Maheśvara。大自在天・自在天・威霊帝と訳す。色界(しきかい)の頂上に位する天神の名。」

(訳者注14)仏教辞典(大文館書店)によれば、
「夜叉:Yakṣa。八部衆(天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽)の一、・・・羅刹と共に毘沙門天の眷属となって北方を守護する。之に天夜叉・地夜叉・虚空夜叉の三種がある。天と虚空の二夜叉は飛行するを得るが地夜叉は飛行し得ないといふ。」

(訳者注15)仏教辞典(大文館書店)によれば、
「羅刹:Rākṣasa。・・・悪鬼の名。夜叉と共に毘沙門天の眷族であるとし、或は地獄に於ける鬼類とする。」
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その男との距離が2町ほどにまで縮まった時、孫四郎は松林から出て、例の弓に15束3伏の矢をつがえ、力の限りに引き絞った。

本間孫四郎 ウウウ・・・。

弓 ギリギリギリ・・・。

本間孫四郎 それぇ!

矢 ビューーン!

狙い過たず、彼の放った矢は男の鎧の胴に命中し、鎧の弦走(つるはしり)から総角付(あげまきづけ)の板まで、表裏5重の装甲をわけなく貫通した。その背中から3寸ほど突き出た矢は血潮に染まり、鬼か神かと見えた男の手から鉞は離れ、その巨体が小篠の上にドウと倒れた。

相馬四郎左衛門 本間殿、おみごと! さぁ、次はおれの番だな。

四郎左衛門が目をつけた熊野人は、これもまた立派な体格をしている。先ほどの男よりもさらに一回り、背丈があるだろうか。まるで、作りそこないの仁王像、目尻は上に裂け、髭(ひげ)は左右に分かれ、火威の鎧に龍頭の兜をかぶり、手には6尺3寸の長刀、腰には4尺余の太刀。

男は、左手を前にかざして矢を防ぎながら、後方をキッと見つめ、

熊野八庄の男 みんな、あわてるな! あわてて遠矢、射たらあかんぞ! 矢ぁもったいないからな。

男は、鎧を上下に揺すりはじめた。(注16)

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(訳者注16)このようにすると、鎧に矢が当たっても貫通しにくいらしい。
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四郎左衛門は、5人張(ごにんばり)の弓に14束3伏の金磁頭の矢を、くつ巻を残さずつがえ、その男に狙いを定めながら、弦を引き絞る。

相馬四郎左衛門 ・・・。

弓 ギリギリギリギリ・・・。

相馬四郎左衛門 ヤァッ

矢 ビューーー、ヴァシッ!

熊野八庄の男 アァ!

弦の音に呼応して、男のウメキ声が上がった。矢は、男の兜の真正面に命中、頭を貫通し、矢先は後方のシコロの縫い糸を切って表面まで突き出ていた。

熊野八庄軍メンバー一同 ・・・(ドッキンドッキン)。

先頭に立っていた男二人がたて続けに倒されたのを見て、その後に続く熊野八庄軍500余は、恐怖にとらわれて、前へも進めず後に下がりもせず、前かがみになったまま、全員その場に棒立ちである。

本間孫四郎と相馬四郎左衛門は、そんな彼らを一向に意に介する風もなく、2町ほど向かいの尾根に陣取っている友軍の者らに向かって叫んだ。

本間孫四郎 おぉーい、しばらくなりをひそめていた敵軍が、またまた動きはじめやがったようだぜーぃ。そろそろ戦闘再開ってとこかなぁ。となると、おれたちもここで、ウォーミングアップしとかんといかんからなぁ、そっちの山の上に何か的、立ててくんねぇかぁ。ここから一本づつ、射てみっからよぉ。

向かいの尾根にいる新田軍メンバーV よぉしわかったぁ! これなんかどうだぁい?

向かいの尾根ではさっそく、全面紅のバックに月を描いた扇を矢に挟み、的として高く掲げた。

孫四郎は前に、四郎左衛門は後ろに立って、二人で同時にその扇を射ようという事になったが、

相馬四郎左衛門 な、本間殿、あの扇の月、射抜いちゃったら、天からおとがめ受けるかもよ。

本間孫四郎 なるほど・・・じゃ、こうしよう、月の両側を狙おうじゃねぇの。

相馬四郎左衛門 よし!

孫四郎と四郎左衛門は、同時に矢を射た。2本の矢は二人の狙い通りに、月のマークの部分だけを残し、その左右を射飛ばしてしまった。

その後、二人は、多くの矢が入ったエビラ2個と新しい弓を陣から取り寄せ、矢をつがえないで、弦をビンビンと引いて音をたてながら、

本間孫四郎 わしは、相模(さがみ)国の住人・本間孫四郎忠秀だぁ!

相馬四郎左衛門 わしは、下総(しもうさ)国の住人・相馬四郎左衛門忠重!

本間孫四郎 わしら2人で、ここの陣、かためてるぜぃ。

相馬四郎左衛門 おまえら、わしらの射る矢を少し受けてみてな、自分の鎧の強度チェックでもしてみるかい?

これを聞いて、足利軍20万騎は、追われもしないのに我先に、あわてふためき退却していった。

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高師重 (内心)えぇい、もぉっ・・・イライラするよなぁ、まったくう! 毎日毎日こんな矢戦ばかりしていたんじゃ、何年たっても延暦寺を攻め落とせない!

攻略の糸口もまったく見えないまま、イライラが増す一方の足利サイド。そのような時、延暦寺・金輪院(こんりんいん)の律師(りっし)・光澄(こうちょう)から、今木隆賢(いまぎりゅうげん)という同宿の者を使者として、高師重(こうのもろしげ)のもとに送ってきた。

今木隆賢 光澄さまからのメッセージ、以下の通りです:

新田殿が守っておられる四明嶽の下一帯は、比叡山上で第一の難所ですからな、そこを攻め破るのは、極めて困難ですよ。そやからね、そちらサイドの中の、中国地方出身の勢力の中から、戦い慣れた武士4、500人ほどを選んで、この隆賢に預けてください。隆賢の案内で、無動寺(むどうじ)の方から延暦寺の寺域内に侵入し、文殊楼(もんじゅろう)あるいは四王院(しおういん)のあたりまでその一団を進ませ、そこでトキの声を上げさせたら、私・光澄に心寄せる衆徒たちも、東塔エリア、西塔エリアの方々で旗を掲げトキの声を合わせ・・・そないなふうにしていったら、比叡山全域をあっという間に制圧できますよ。

高師重 (内心)やったぁ! 延暦寺の中に、こちらに寝返ってくるヤツが一人でも現われてくれないかなぁと、ずっと願ってたんだ。そんな所に、この今木とかいうヤツがこっそりやってきて、夜襲の手引きをしよう、なんて言ってくれるとは・・・イヤァ、こりゃぁ、願ったり叶ったりじゃないのぉ。

そこで師重は、播磨(はりま)、美作(みまさか)、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)計4か国の軍勢の中から、夜襲に慣れている武士500余人を選抜し、6月18日の夕闇の中、彼らを隆賢と共に、四明嶽の山頂へ向かわせた。

今木隆賢にとって、そこは長年通いなれた道筋である上に、天皇軍側がかためている所とそうでない所とをつぶさに検分してから、足利サイドに内通してきたのであったから、少しも道に迷うはずがない。

ところが・・・きっと天罰が下ったのであろう、隆賢は急に目がくらんできて、心も迷ってしまい、終夜、四明嶽の麓を、北へ南へとさ迷い歩き続けながら、一行を連れ歩いた。

夜明けと共に、彼らは紀清両党(きせいりょうとう)に発見されて包囲され、隆賢に同行していた武士ら100余人は、討ち取られて谷底へ転落していった。

孤立してしまった隆賢は、重傷数箇所を負った後、腹を切ろうとしたが、鎧の上に絞めた帯を解こうとしているところを組み伏せられて、捕虜になってしまった。

天皇に対する大逆行為の張本人であるから、すぐにも処刑されるべきを、新田義貞は、隆賢が延暦寺衆徒の一員であることに配慮した。義貞は、今木一族のもとへ彼を送り届け、「この男、生かすも殺すも、あなた方のお好きなように」と伝えた。

隆賢の身柄を受け取った今木範顕(いまぎのりあき)は、義貞の使者に対して、かしこまって「承知いたしました」とたった一言答えた後、すぐに使者の見ている前で、隆賢の首をはねて捨てた。

ありがたくも万乗の聖主(ばんじょうのせいしゅ)たる天皇が、比叡山守護神・医王(いおう)・山王(さんのう)の擁護を頼まれて、延暦寺に臨幸あそばされた故に、3千の衆徒はことごとく、仏法(ぶっぽう)王法(おうぼう)共に助け合うべき理(ことわり)をよくわきまえ、二心なく忠戦を致す事となった。

そのような中に、金輪院のみが、延暦寺の一員の身でありながら仲間を背き、武士の家でもないのに足利将軍の下に走り、さらには同宿の弟子を足利陣営に送って延暦寺を滅さんと企てるとは・・・まったくもって、けしからん事を考えついたものである。

故に、その悪逆の果はたちまちに顕われ、足利サイドに内通して手引きをした同宿の者らは、あるいは討たれ、あるいは捕虜となった。光澄もそれから間もなく、最愛の子の手にかかって命を終えた。そして、その子もまた、同母弟に討たれてしまったのである。

このような、世に類(たぐい)無き不可思議な事象を顕現(けんげん)された神罰の程、まことにもって怖るべし。

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そうこうしているうちに、「越前国(えちぜんこく:福井県北部)の守護・斯波高経(しばたかつね)が、北陸道より足利軍を従えて、仰木(おうぎ:滋賀県・大津市)から比叡山に押し寄せ、延暦寺・横川(よかわ)エリアを攻めようとしている」との情報をキャッチした楞厳院(りょうごういん)や九谷(くたに)の衆徒は、要所要所に逆茂木(さかもぎ)を設置し、要害を構えた。

当時、伝教大師・最澄(でんぎょうだいし・さいちょう)の御廟(ごびょう)(注17)の修造の為に、多数の材木を山上に引き上げていたのだが、それを、櫓の柱、矢狭間の板に使おうと、衆徒たちは坂本へ運び始めた。

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(訳者注17)最澄の墓。
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その日、般若院(はんにゃいん)の法印(ほういん)に召し使われている童子が、急に狂ったような状態になり、色々と口走りはじめた。

童子 僕に、この山をご守護されてる八王子権現(はちおうじごんげん)さまが、憑(つ)かはりましたぁ!

童子 なんじら、よっく聞けぃ! これらの材木は、尊き伝教大師様の御廟を造営せんがための材木なるぞ、急ぎ、もとの場所に戻せい!

その場に居合わせた衆徒ら全員 ・・・(ビックリ)

衆徒W うーん・・・八王子権現様がこの子に憑かれたやなんて・・・そないな事を急に言われてもな、信じてえぇんかどうか・・・。

衆徒X 同感、同感。

衆徒Y ほんまに権現様がこの子に憑かはったんやったらね、権現様の本身は仏様やねんから、仏のお心の内は一切分かってはるやろし、仏教の教義の全てにわたっても、知り尽くしてはることやろ。そやからな、みんな、この子にあれやこれやと質問してみたらえぇんちゃう? ここのお寺の碩学(せきがく)の僧侶らが、師から弟子へ伝えてきはった色々な事があるやろ、そういった事について、あれやこれやと質問してみたら、どないや?

衆徒一同 それ、えぇなぁ。

そこで衆徒たちは、天台宗の教義の様々な事柄について、童子に問いただし始めた。すると、童子は、

童子 ワッハッハッハッ・・・。

童子 我は、この世の衆生を救済せんがため、仏身を変じて神体となり、人間世界の中に現われたのであるぞよ。以来、長い歳月の経過の故に、過去・現在・未来の三世を達観する智慧も、少々浅ぉなってきたようじゃ。しかしながら、釈迦如来(しゃかにょらい)が人間世界に姿を現わされ、教えを説かれたその席に、我も連なっておった事ゆえ、そこでお聞きした範囲内であれば、その概略を、なんじらに言って聞かせる事も可能である。

そして、童子は、衆徒らの質問の一つ一つに対して、花のように美しい言葉でもって、玉のように清らかな道理を尽くして回答した。それで、衆徒たちも、童子に八王子権現がたしかに憑いていることを確信できた。

衆徒X 権現さま、一つお尋ねてしても、よろしょまっか?

童子 何なりと、尋ぬるがよい。

衆徒X この先、我らの延暦寺の運命は? この戦の勝敗は? いったいどっちが、勝つんでっしゃろ?

童子 (涙をハラハラと流しながら)内に向かっては天台宗の教法を守らんがため、外に対しては永久に皇室を守護せんがため、延暦寺が開基(かいき)されたその時より、我は、仏の姿を神に変じて、この山に降り立った。以来、延暦寺の繁盛と朝廷の安泰とを、ひたすら心にかけて念じてきたのではあるが・・・。

衆徒一同 ・・・。

童子 まことに遺憾ながら、天皇は、富貴栄華のみを追い求めておられる・・・この国には、理民治世(りみんちせい)の政治が全く行われておらぬ。

童子 また、ここ延暦寺においても、なんじら衆徒たちはみな、驕奢放逸(きょうしゃほういつ)の原因となるような事ばかり、願っておるではないか・・・尊くも、伝教大師がともされた仏法の灯を受け継ぎ、さらに輝かせていかんとの志の一片も無く・・・。

童子 故に、諸天善神(しょてんぜんじん)は擁護の手を休め、日吉山王(ひよしさんのう)の三神も、延暦寺に対して、加護の力をめぐらされぬのじゃ。

童子 あぁ、悲しいかな、これより後は、朝廷は久しく塗炭(とたん)の苦しみの中に落ち、公卿大臣は、武家の者らの召し使いの立場にまで、貶(おとし)められようぞ。国主(こくしゅ)は帝都(ていと)をはるか遠くに離れ、臣下が君主を殺し、子が父を殺すような世の中になっていくであろうて・・・あぁ、なんとあさましき事よのぁ・・・。

童子 しかしながら、大逆の悪業も、積もり積もったその後は、やがてはそれを犯した人間にハネ返っていくのであるからして、逆臣が猛威を振るう事も、そうそういつまでも、続くものではない。

童子 それにしても、あぁ恨めしや、高師重! あやつの振る舞いは、不届き千万! 我が守護するこの延暦寺を攻め落とし、堂舎、仏閣を焼き払わんとの命を下しおったる事、我はしっかと見届けておるぞよ。見よ見よ、なんじら、明日の正午、我は日吉山王七社の一なる早尾大行事(はやおのだいぎょうじ)をさし遣わして、逆徒らを四方に退けん!

童子 かくなる上は、この山に何の怖れがあろうか、その材木、皆、元の所へ運びかえせぃ!

このように託宣(たくせん)を下した後、この童子は大人4、5人でやっと持てるような巨大な材木を一本、ひょいとかついで運び、御廟の前に投げ捨てた。そしてその場に立ち尽くし、手足を縮めて震えている。

衆徒W 「明日の正午に敵を追い払う」と言われたけど・・・いくらなんでも、信じられへんわ。

衆徒X そうやなぁ、「1か月後に」とか言うんやったらまだしも、「明日に」やなんてなぁ。

衆徒Y さっきのあの託宣と、明日起る事とが、少しでも食い違うようやったら、あの子が口走った事はみんなウソやったっちゅう事になるやん。どうや、みんな、ここはもう暫く、様子を見ることにしようやないか。

衆徒Z そうやそうや、明日起る事、よぉ見といてやな、それでさっきの「託宣」とやらと照合してみて、完全に一致しとったら、後日、「実はこんな不思議な事がありましてん」言うて、報告上げたらええやん。

というわけで、その日の出来事を報告することは止めようという事になった。かくして、この神託も衆徒の胸の内に空しく秘められただけに終わり、他の人には知れずじまいになってしまったのである。

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延暦寺においては、「西山麓方面で戦が始まったならば、本院の鐘を突き、坂本方面で戦になった時は、生源寺(しょうげんじ)の鐘を鳴らそう」という取り決めを行っていた。

6月20日早朝、早尾大行事社に、猿が多数、群れをなして出現。猿たちは、生源寺の鐘を激しく撞き鳴らした。鐘の音は、東西両塔エリアに響き渡り、延暦寺全域の天皇軍武士や衆徒らは、

天皇軍メンバー一同 おっ、合図の鐘が鳴ってるぞ、敵が攻めてきた方向へ馳せ向かって、防げ!

と、我先に走り出した。

山の東西の足利軍はこの形成を見て、「山上から逆落としに攻め寄せて来るぞ!」と思い、水呑(みずのみ)、今路(いまみち)、八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、志賀(しが)、唐崎(からさき)、大津(おおつ)、松本(まつもと)に布陣していた足利軍メンバーらは、「盾はどこだ! 鎧はどこだ!」と、あわてふためき始めた。

これに利を得た天皇軍は、山上と坂本の軍勢10万余騎、木戸を開き、逆茂木を取り除き、うって出た。

足利軍リーダーP 敵は小勢だ、退(ひ)くな、退くなぁ! 退いて討たれるなぁ!

足利軍リーダーQ おめぇら、きたねえぞ、返せぇ!

足利軍は暫くは踏みとどまったが、しょせん、いったん退却態勢に入ってしまった軍勢、もはや引き足は一歩も止まらない。

脇屋義助率いる5,000余騎は、志賀の炎魔堂(えんまどう)のあたりの足利側の向かい城に襲いかかり、東西500余箇所に火を放ち、おめき叫んで攻めたてた。

足利サイドの陣はここからも破れはじめ、180万余騎は、険しい今路(いまみち)、古道(ふるみち)、音無の滝(おとなしのたき)、白鳥(しらとり)、三石(みついし)、四明嶽(しめいだけ)から、人間の雪崩(なだれ)を起しながら、逃げ下っていく。

谷は深く、先に行くに従って細くなっている地形の所が多い。馬や人が、上に上にと落ち重なって、死んでいく。伝え聞く治承年間(じしょうねんかん)の昔、平家10万余騎が、源義仲(みなもとのよしなか)の夜襲に追いたてられて、クリカラ谷を死者で埋め尽くしたその様も、これほどの惨状ではなかったろうと思われるほどである。

西側山麓方面軍の大将・高師重は、自分の太刀で自分の大腿部(だいたいぶ)を突き貫いてしまい、進退窮まっていたところを、舟田経政(ふなだつねまさ)の部下らが生け捕りにした。

師重は白昼、坂本に送られ、新田義貞の前に、縄に縛られて引き据えれらた。

延暦寺の衆徒たちは、高師重は仏敵、神敵の最たる者であり、東大寺(とうだいじ)を燃やした平重衡(たいらのしげひら)の例にならって処置すべきである、として、師重の身柄を申し請け、すぐに、唐崎浜で首を刎ねて獄門に処した。

この高師重という人は、足利尊氏の執事(しつじ)・高師直(こうのもろなお)の養子の弟であり、一方面軍の大将に任じられるほどの人物、わが身に代えてでも彼の命を助けよう、というような人間は、足利軍中には幾千万もいたことであろう。

ところが、戦場で進退窮まったその時に、彼の側には若党の一人も居合わさず、むざむざ捕虜になってしまったのである。まことに、延暦寺守護の医王・山王の神罰はてきめん、しかも、昨日の例の「神託」と今日の戦いの経過は寸分違わず一致している・・・神の怒りというものはまことに、身の毛もよだつほど恐ろしいものである。

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