太平記 現代語訳 38-5 畠山国清、死す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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前章に見たごとく、九州においては、吉野朝側の力が大いに高まっていたが、関東においては、以下に述べるような経緯をたどり、静穏なる日々が帰ってきた。

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昨年より、畠山国清(はたけやまくにきよ)とその弟・畠山義深(よしふか)は、伊豆の修禅寺(しゅぜんじ:静岡県・伊豆市)にたてこもって、関東8か国の幕府側軍勢と戦っていた。(注1)

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(訳者注1)畠山兄弟のこの行動については、36-7 を参照。
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しかし、ついに食料が底をつき、逃げのびる先も無くなってしまい、全員、城を枕に討死、という所まで、きてしまった。

ところが、足利幕府・鎌倉府長官・足利基氏(あしかがもとうじ)は、使者を畠山のもとに遣わし、降参するように説得した。

「先非(せんぴ)を悔いて子孫の事を思うならば、首を延べて降参せよ」との基氏の言葉を信じ、国清は、出家して禅宗僧侶となり、義深は、「再び、伊豆国守護職に任命す」との将軍任命書を給わり、9月10日、投降した。

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畠山国清は、伊豆の国府(静岡県・三島市)に移動し、まず義深を、基氏のいる箱根(はこね:神奈川県・足柄下郡・箱根町)の陣へ送った。

旧交ある人々は、国清のもとを次々と訪ねてきた。

幕府側メンバーA いやぁ、畠山殿、おひさしぶりですなぁ。

幕府側メンバーB 万死を出(いで)て、この世で再会できるとは、いやもう、なんと嬉しい事でしょう。

幕府側メンバーC ま、ま、とにかく、酒でも一献(いっこん)・・・。

ついこの間までは、情け容赦なく、畠山を排斥していた人々が、今は、媚びへつらい、言葉賤しく礼を厚くして、しきりに追従してくる。

国清の宿所の門前には、鞍おく馬の立ち止まる隙もなく、座上には、酒肴(さけさかな)を置き連ねない時も無い。

このようにして過ごす中、3、4日後、9月18日の夜、稲生平次(いなふへいじ)が、密かに国清のもとにやってきた。

畠山国清 またいったい、なんでぇ、こんな夜更けによぉ。

稲生平次 実は・・・。

畠山国清 う?

稲生平次 (国清の近くへ膝を寄せ、ヒソヒソ声で)こんなとこにじっとしてちゃ、だめですぜぃ。あんたが降参してきたら赦免してやるってのはねぇ、あれは単なるマヤカシ、ウソですよ、ウソ、基氏さまのウソ!

畠山国清 (ドキッ)・・・。

稲生平次 (ヒソヒソ声で)明日にでも、討手がこちらに差し向けられるってな情報、つかんどりましてね。現に、豊嶋因幡守(としまいなばのかみ)が、急に陣を移動してましてね、どうやら、あんたの逃げ道を塞ごうとしてるみたいですよ。

畠山国清 (ヒソヒソ声で)うーん、そうか。

稲生平次 (ヒソヒソ声で)今夜中に、どっかに逃げなさい。いいですか、今夜中ですよ、今夜中!

すぐに、国清は、弟・義熙(よしひろ)とめくばせし、ちょっと出かけて、すぐに帰ってくる、というような風を装い、中間一人に太刀を持たせ、兄弟二人、徒歩で、宿所を出た。

彼らはまず、藤澤(ふじさわ:神奈川県・藤沢市)にある時宗の寺院・清浄光寺(しょうじょうこうじ)へ向かった。

住職はかいがいしく、彼らの逃避行の準備を整えてくれた。馬2頭を用意し、時宗僧侶2人を随行させた。

彼らは、昼夜を分たず馬に鞭を当てて、京都を目指した。誰も、彼ら兄弟の消息を知る者はなかった。

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畠山義深は、箱根の陣にいたが、翌日の夜、時宗僧侶がやってきて、国清の脱出を告げた。

畠山義深 (内心)こりゃたいへん! おれも、どこかへ逃げなきゃ・・・さて、どこがいいかな?

畠山義深 (内心)逃げるったってなぁ・・・東西南北、みんな道は塞がれちまってる、逃げようがないなぁ・・・こりゃ困った。

思い余った義深は、意を決して、結城直光(ゆうきなおみつ)の陣屋へ転がりこんだ。

畠山義深 頼む、助けてくれ!

結城直光 ・・・。

結城直光 (内心)なんとかしてあげてぇのは、やまやまなんだけんどよぉ・・・この人を隠してここから脱出させるのは、至難のわざだぞぉ・・・うーん、こりゃ、マイッタなぁ。

結城直光 (内心)そうは言っても、おれも、弓矢取る武士のはしくれ、ここまで人に頼られて、「それはできません」とは、言えねぇや。

結城直光 よし、わかった、なんとかしましょう!

畠山義深 ありがたい!(畳の上に伏す)

結城直光 (内心)さぁて、どうしたもんかねぇ・・・。

直光は、一計を案じた。

長い唐櫃(からびつ)の底に穴を開けて、空気が出入りするようにし、その中に義深を寝かせて、蓋を閉めた。

そして、その櫃を、数10個連なった唐櫃の後方に続いて運ばせ、わざと、基氏の近くに供奉しながら、箱根から移動し、なんとか、義深を、藤澤の清浄光寺へ送り届けた。

生命(いのち)というものは、よくよく大切にすべきものである。

その後、畠山義深は、ついに赦免を受け、越前国(福井県東部)の守護に任命された。

義深は、穏かにその任国を治め、かの地の住民たちを安んじさせたので、「鰐(わに)が淵を去り、蝗(いなご)が国境外に去った」という例の中国故事のごとく、越前は禍からまぬがれた。

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遊佐性阿(ゆさせいあ)は、すぐに、主・畠山国清の関東脱出を察知したが、できるだけ時間を稼いで主の脱出を助けようと、いささかもあわて騒ぐ様子も見せずに、囲碁、双六(すごろく)、十種抹茶ブレンドテイスト会(注2)などして遊びながら、何もないような風を装い、笑い戯れていた。

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(訳者注2)原文では、「十服茶」。
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このようなわけで、郎従も外様の人々も皆、畠山の脱出になかなか気がつかなかった。

しかし、ついにそれも露見し、「畠山兄弟が、関東から逃げ出した」との情報が、足利基氏のもとにも達した。

「すぐさま、討手がさしむけられるであろう」と聞き、性阿もじっとしておれず、禅宗僧侶の衣を着してただ一人、京都めざして館を離れた。

なんとかかんとか、湯本(ゆもと:箱根町)まではたどりついたが、自分の口脇にある傷を見られてはならないと、行き会う人と出会う毎に、袖で口を覆ってやりすごしていた。

それが、かえって禍した。

通行人D こいつ、どうも挙動不審だ、あやしいぞ。

通行人E もしかして、全国に指名手配されてるヤツなんじゃ?

通行人F てめぇ、いってぇどこの誰でぇ! とっとと、白状しな!

遊佐性阿 (通行人多数に周囲をとりかこまれながら、袖で顔を隠し)・・・。

通行人G 顔をじっくり見てやろうぜぃ。(性阿の頭から、帽子をひったくる)

通行人H えぇい、その袖、のけろってんだよぉ!(性阿の手を捕える)

通行人I あぁっ、おれ、こいつ知ってるぅ! 畠山んとこの家来だよ、たしか、遊佐とか言うんだ。ほら、口もとに傷あんだろ?

遊佐性阿 ハァッハッハ・・・ついに見破られたか。よし、もはやこれまで!(突然、走り出す)

遊佐性阿の足 ダダダダ・・・。

通行人一同 あ、待て待てぇ!

通行人一同の足 ダダダ・・・。

遊佐性阿 (近くの宿屋の中門の上に駆け上がる)。

遊佐性阿 おれはたしかに、遊佐性阿だ! おれの最後、とっぷり拝むがいいぜ、エェーイ!

彼は、自ら喉笛を掻き放ち、返す刀で腹を切り、袈裟を引き被って死んでいった。

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江戸修理亮(えどしゅりのすけ)は、龍口(たつのくち:神奈川県・鎌倉市)で捕縛され、そこで斬殺された。

その他、こちらに隠れ、あちらに逃亡した畠山家の郎従60余人は、あるいは捜索網にひっかかって斬られ、あるいは追跡を受けて腹を切った。まったくもう、目も当てられない状態である。

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畠山兄弟は、生きてかいのない命をかろうじて繋ぎ、京都七条の時宗寺院・金光寺(こんこうじ)へ、夜半に到着。

寺の住職は2、3日、彼らをいたわった後、道案内の者を数人つけ、旅費なども様々に用意して、彼らを、吉野朝廷側の支配エリア内へ送り届けた。

畠山国清は、しばらくは、宇知郡(うちぐん:奈良県)中のある民家に身を潜めた。

畠山国清 楠正儀(くすのきまさのり)のとこへ行ってな、降参する旨、伝えろ。赦免の綸旨(りんじ)を、いただいてこい。

使者 ハハッ!

しかし、楠正儀は、これに応じなかった。

そうこうするうち、宇知郡に潜んでいる事も、不可能になってきた。

京都へも帰るに帰れず、奈良、あるいは、山城国(やましろこく:京都府南部)中に、流浪の日々を送るような境遇となってしまった。

時には禅宗寺院、時には律宗寺院に、あるいは、山中の樵(きこり)の柴の家、身分低い人のそまつなさびしい家の中に、露おく袂(たもと)を枕に寝る他はない。

泊まる宿もなく、道端に袖を広げる物乞い寸前の状態、その日その日を生き延びる為に、どこかに心有る人はいないものかと、身を苦しめながらさまよい歩くその有様は、聞くも悲しく、見るに堪えない。

やがて、兄弟共に、帰らぬ人に、なってしまった。まことに、哀れな事である。

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「人間の栄耀(えいよう)は、風前(ふうぜん)の塵(ちり)のごとし」と、かの白楽天(はくらくてん)は歌い、「富貴などしょせん、草頭(そうとう)の露のようなもの」と、杜甫(とほ)は詠んだ。これまさしく、人生の真理、と言わざるをえない。

この畠山国清という人、一昨年の春には、実に30万騎もの軍を率いる大将として、吉野朝勢力の討伐へと関東より発向、その徳風は遠方まで扇(あお)ぎ渡り、彼に靡かぬ草木は一本も無し、という勢いであった。

なのに、3年の経過の後に、たちまちにして生き恥を曝し、かつての敵・吉野朝勢力のテリトリー(territory)中に流浪を余儀なしの、境遇となってしまった。

まったくもって、これは、ただの偶然事とは思えない。

「国清によってだましうちにされ、無念の中に死んでいった、かの新田義興(にったよしおき)が、怨霊(おんれい)と化し、吉野にある後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の御廟に参り・・・」といった内容の夢を、ある人が見た。

その夢の中で、新田義興は、次のように高らかに宣言していたという。(注3)

新田義興(怨霊) 陛下、まぁ見ていてください、あのにっくき畠山国清めを、この義興、必ずやこの手にかけ、生きながらにして、軍門に恥を曝(さら)してやりますからね!

このように、事前に人の夢によって、畠山国清の滅亡を天下に宣言してみせたのであったが、その後の経緯が寸分たがわず、その通りになっていった事を、今まさに、我々は思い知るのである。

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(訳者注3)新田義興の最期と、畠山国清のそれへの関わりについては、33-10 を参照。「新田義興・打倒畠山宣言の夢」に関連する話が、34-10 に書かれている。
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