太平記 現代語訳 19-4 恒良親王と成良親王の最期

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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越前よりの使者A 新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)が、杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)からうって出てきよりましてな、斯波高経(しばたかつね)殿と斯波家兼(いえかね)殿は、止むを得ず、越前国府から退避されましたわ。越前国内各所の城も、みんな落ちてしまいよりました。

足利直義 なんと!

足利尊氏 ・・・(右手を握りしめる)。

足利直義 うーん・・・新田め!

足利尊氏 ・・・なにもかもが・・・あの恒良親王(つねよししんのう)のウソから出た事だ。新田兄弟を助けんようとの、「彼らは金崎城で腹を切った」という親王のウソ・・・あれを、我々が真に受けてしまったからだな。

足利直義 親王のあの言葉を信じて、杣山城攻めを後回しにしちゃったんだ・・・今となっては、悔やまれますねぇ。

足利尊氏 恒良親王はそれほどまでに、わが足利家を憎んでおれらたのか・・・。

足利直義 足利家を滅ぼしてしまいたいって、思っておられるんでしょうね。となると、親王をあのままにしておいてはマズイでしょう。この先また、どんな事を企みだすか、わかったもんじゃない。

足利尊氏 そうだなぁ・・・。

足利直義 兄上、何とかしないと!

足利尊氏 そうだなぁ・・・。

足利直義 おぉい、誰か! 栗飯原氏光(あいはらうじみつ)をここへ!

足利側近メンバーB ははっ

間もなく、栗飯原氏光がやってきた。

足利直義 (小声で)いいか氏光、おまえ秘かにな、鴆毒(ちんどく:注1)を盛って恒良親王を、失い奉れ。

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(訳者注1)鴆という鳥の羽から抽出された毒薬。
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栗飯原氏光 (小声で)わぁかりました。

足利尊氏 ・・・。

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皇太子・恒良親王(つねよししんのう)は、以前、足利直義と共に鎌倉へ赴いた後醍醐先帝の第7皇子・成良親王(なりよししんのう)と共に、京都内の某所に幽閉されていた。

そこへ、栗飯原氏光が薬を一包持ってやってきた。

栗飯原氏光 いやねぇ、ははは・・・このようなカンジで、ずっとこもりっきりになっておられたんじゃぁ、もしかして、病気になられるかもしれねえなぁと。で、直義様より、「この薬を、親王様方に進ぜよ」ってわけでして。

恒良親王 ・・・。

栗飯原氏光 ほらね、このお薬なんですよ。毎朝1服づつ、7日間連続で服用してくださいな。(薬包みを親王の前に置く)

栗飯原氏光 では、わしは、これにて失礼。

氏光がそこを立ち去った後、成良親王はその薬を見て、

成良親王 はぁっ 笑わせるやないか。薬ねぇ・・・はぁはぁ、そうですか、そらまたエライご親切な事ですわなぁ。まだ病気の兆候も無いうちに、ボクらの健康を気づこぉてくれるとは、足利直義もなかなかヤサシイ男やねぇ。

成良親王 あんなぁ、ボクらの事をそこまで思うんやったら、いったいなんで、こないな室の中に閉じこめて、ボクらにつらい思いさしてんねん! ふざけるなよ、直義!

成良親王 おまえの魂胆なんか、見え見えや! この薬は病を癒す薬やのぉて、命を縮める毒薬やろが! えぇい、こんなもん、庭へ捨ててもたるわい!

恒良親王 あ、ちょっと待って・・・。

恒良親王は、毒薬を手にとってしげしげと見つめながら、

恒良親王 尊氏と直義がここまで情け容赦ないんやったら、たとえこの薬を飲まへんでがんばってみたところで、結局は、二人ともいつかは、殺されてしまうやん。

成良親王 ・・・。

恒良親王 毒薬か・・・ボクとしては、もとより望むところやわ。ボクはこの毒を飲んで、さっさとこの世を去ってしまいたい。「人間は、一日一夜の間に8億4千の念を起こす」といわれてるやろ、その念の中に悪念が1個含まれてたら、一生、悪い生涯を送らんならん。10個の悪念を起こしたら、10回生まれ変わって、悪い生涯を送らんならん。1,000億の悪念がもしあったならば、1,000億回の・・・。

成良親王 ・・・。

恒良親王 たった1日の間に起こす悪念でも、その報いはまことに大きい。ましてや、一生の間に起こす悪念ときたら、その報いはもう・・・。

恒良親王 悲しいかな、未来永劫にわたって、生まれては死に、また生まれ変わっては、また死に・・・いったいいつになったら、この生死の輪廻(りんね)から脱することができるのか・・・。

恒良親王 富貴栄華の中にある人でさえも、この生死の輪廻の苦しみから遁(のが)れる事ができひんのや。ましてや、今のこのボクの境遇は、大空を恋う籠の中の鳥、水を求める枯池の中の魚。見ること聞くこと何もかも、悲しぃなるような事ばっかし。何の期待も無しに、ただ月日を送っているだけ。ここに来てから今日は何日目か、てな事さえも、もう分からんようになってきてしもぉてる。

恒良親王 こないな日々を送りながら、心中に悶々と湧いてくる悪念に犯されていくよりも、その毒でもってわが命を縮めて、死後に極楽浄土に生まれ変わる望みを遂げる方が、よっぽどええわ。

それからは、恒良親王は毎朝、法華経を1回読んだ後、念仏を唱えながらこの毒薬を飲んだ。

成良親王も、

成良親王 そうやねぇ・・・こないな憂世(うきよ)に未練を持つこともないわなぁ。ボクも死後の世界まで、殿下の御伴をするとしよう。

二人は共に、この毒薬を7日間服用し続けた。

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その翌日から、恒良親王は体調を崩し始め、4月13日の夕方、静かに息を引き取られ、ひっそりと葬儀が行われた。

成良親王の方はその後20日ほど身体に不調は現れなかったが、やがて黄疸(おうだん)が出始め、全身が黄色になってしまい、こちらもついに亡き人となられた。

 哀れなるかな 鳩の止る枝崎の花二輪 一朝の雨に散り
 悲しきかな セキレイたたずむ野に生える同根の草二本 秋の霜に枯る

街の声A 一昨年には、護良親王(もりよししんのう)が鎌倉で殺害され、昨年には、尊良親王(たかよししんのう)が金崎にて自害しはった。こないに、親王様方が次々と死んでいかはるなんて事は、めったに聞かん話やわ。

街の声B ほんになぁ・・・両殿下とも、なんちゅう哀れな運命の星の下に、生まれてきはったんやろか。

街の声C それだけでもタイソウな事やのに、今度は、恒良親王様と成良親王様までも、次々とお亡くなりにならはったやんかぁ。

街の声D 心ある人も、心ない人も、いくらなんでもこれには、哀れを催さずにはおれまへんて。

街の声E それにしてもやでぇ、他ならぬ天皇陛下のお子様である親王殿下に、毒を盛るやなんてなぁ。

街の声F ほんまにもう、エライ事しはるんやなぁ、足利直義はんは。

街の声G あんなエゲツナイ事ばっかししてはったら、これから先の人生、えぇことないんちゃうかなぁ、直義はん。

街の声H ほんまやでぇ、先が思いやられるわ。

はたして、足利直義もまた毒殺されてしまう運命にあったとは・・・人間の一生というものは、分からないものである。(注2)

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(訳者注2)訳者としてはここで一言、足利直義殿のために弁明しておきたい。

これはすでに何度も書いていることであるが、太平記に書いてある事をそのまま史実だと思ってはならない。14世紀の日本に実際に生きていた足利直義(リアル直義氏)が、太平記に描写された足利直義(ヴァーチュアル直義氏)の行為と同様の事を実際に行ったのかどうか、その事実関係は慎重の上にも慎重を期して検証されなくてはならない。

上記に関連して、

 [足利尊氏 高柳光寿 著 春秋社 1955初版 1966改稿]

の 418ページ には次のようにある。

「これは「太平記」によれば、暦応元年(延元3年 1338)のことであり、尊氏が鴆毒を盛り、両親王はそれを知ったが、運命と諦めて、それを服して死なれたといっている。他には何も証拠はないので、真相は全く不明というほかはないけれども、成良親王が康永3年(興国5年 1344)正月にはまだ生きておられ、武家から近衛基嗣に預けられたことが、中原師守の日記によって明らかであるから、少なくとも成良親王毒殺は偽妄である。」

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 [皇子たちの南北朝 森茂暁 著 中公新書886 中央公論社 1988刊]
 
の 76~78ページ には次のようにある。

 「成良が鎌倉に滞在したのは、中先代の乱のあおりを受けて、直義とともに鎌倉を脱出する建武二年七月までの一年七か月の間にすぎない。直義は成良を京都に帰し、みずからは軍を三河にとどめた。」

(途中略)

 「京都にもどった成良は、父後醍醐の側近くに侍ったが、時代の荒波は容赦なく成良を翻弄した。」
「建武二年八月には、征夷大将軍のポストを尊氏に渡さないために、成良がこれに任ぜられたし(「相顕抄」「神皇正統記」)、翌延元元年十一月には後醍醐-光厳両院間の一時的和睦のもとで、成良は光明天皇の皇太子にすえられた。」

 「成良が皇太子に立てられたのは、鎌倉後期以来の両統(持明院統・大覚寺統)迭立の原則が復活したことと、成良自身が「本より尊氏養ひ進せたりけ(「保暦間記」る皇子であったことによる。」

 「成良が尊氏によって養育されたという記事は注目される。しかし、成良が皇太子であったのは、わずかの期間であった。翌十二月には、和睦が破綻、後醍醐は神器を奉じて吉野にのがれているから、成良の皇太子も同時に廃されたと考えられる。」

 「この後の成良の動向はまったくわからない。その没については、「太平記」(巻第十九)が延元二年三月の越前金崎城陥落の際に捕えられて洛中にもどされた兄恒良と「一処に押こめられ」たのち、翌三年四月ともに鴆毒で弑されたと描く。・・・(途中略)・・・」

 「しかし一方、同時代人の日記たる「師守記(もろもりき)」の康永三年(1344)一月六日条に、前左大臣近衛基嗣(このえもとつぐ)に預けおかれていた、「後醍醐院皇子先坊」が没したということが記されている。「先坊」が「前坊」とはちがい、直前の皇太子を意味することは、ほかの事例からも明らかであるので(たとえば「師守記」貞治四年四月十九日条の頭書では、後二条天皇の子邦良を「前坊」と記す)、「先坊」が成良をさすことはまちがいない。従って延元三年に成良が没したとする「太平記」の記述は、荒唐無稽(こうとうむけい)だというほかない。」

 「そのように考えれば、成良の没年は康永三年(南朝興国五年)、享年は十九歳ということになる。延元元年十二月に皇太子を辞した成良は、あるいはそのまま京都にとどまり、近衛基嗣に預けられていたのかもしれない。なお成良の墓所は不明である。」

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